古狸連中-捌 雪華の当て馬にされた桐生は湯宿で怪異に遭遇する


雪華/

あれからすぐして桐生が押しかけてきた。

因縁をつけに来ると見込んで、一足先に白橡も居ついてくつろいでいる。

例によって、忍冬は次の買い付けのためにすでに外海へ出た。

「せっかくの竹鬼の宴で俺を起こしもしないってさ、信じられねぇよ。

寝てたら当然起こすだろ? 俺が喰いたいって思うに決まっているよな?

俺だけ……俺だけ、銀匂を喰い損ねた。三匹そろって酷い奴らだよ。

雨夜に雪華に味方したっていうのにさ、話が違うじゃないか」

「ふふ、銀匂の宴に巡り合っておいて、眠り込んで終わった狸はいないだろう」

「ああ、可笑しくて仕方がねぇぜ。お前が竹鬼に目移りしねぇのが知れたからいいじゃねぇか」

「いい訳ないだろ。白橡はいいよな? 後で気の済むまで壱鹿をなぶったんだろ。

俺は? 銀匂に触れる機会はもうないっていうのにさ」

「そうだよ。事の重大さならよくわかっているようだ。

あの晩のような機会は二度と訪れやしない」

「竹銀匂の酒より、うんと惜しいものを逃したんだぜ」

「そんなことはわかっているさ。だから、」

不平を並べ立てる桐生の顎に手を添え、引き寄せて口を塞ぐ。

そうしながらやわらかな赤毛を包み込み、音を立てて舌を絡ませる。

「雪華、そんなんじゃあ誤魔化されないぜ。ただでは帰らないからな」

「そうだろうとも。仕方がないから、可哀想な桐生にいいことを教えてあげよう」

言って、白橡が持ってきた腹案に色を足し、桐生を翻弄する案を示した。

湯 宿 ・ 八 化 け

  ユ ヤ ド ・ ハ チ バ ケ

「鯨屋の下り階段があるだろう?

あそこの先に、昨今繋いだ湯宿がある。行き路を教えてあげてもいい」

「湯宿か。それはいいな。

銀匂に匹敵しようもないが、雪華が紹介する宿なら期待できるってもんだ」

「桐生には不釣り合いにいい宿だよ。

目をつけていたところ、売りに出されたから買い取ったのだ」

「御座敷の狸に向かって不釣り合いもあるかよ。雪華が悔やむくらい存分に愉しんでやるさ」

「そうかい。であれば路を開こう。式神の手を入れているから身の回りの世話もしてくれよう。

忍冬とでも行ってはどうだい。貸し切って使うといい」

笑って皮肉のひとつを投げつける。

「忍冬が捕まらないことは知っているだろ。帰ってくるまで待てるかよ。

ちょうどいい、螢火を誘うさ。町の中も御座敷も、戯れ処に飽きていたところだ」

「おや、まだ螢火と続いているのかい。

せっかく私の湯宿を貸すのだ。喧嘩別れだけはやめておくれよ」

「残念だが心配には及ばないさ。変わりなく過ごしている」

そうして桐生とすり合わせて、湯宿を案内する日を段取りした。

桐生は清々しく帰っていったので、こちらも気分がよくなり笑みが零れる。

連れなど忍冬であっても螢火であってもよかった。

「随分気前がいいじゃねぇか。買い取った湯宿?

俺はとりあえずの高級宿と言ったが、自腹を切れとは言ってねぇぞ。どうも疑わしいぜ」

「見物するには己の縄張りが好都合だろう?

贅沢な処だから、きっと白橡も覗きたくなるに違いない。

ただねぇ、ちょっとした怪異が出るから、ついでに桐生に見てもらおうと思っているのだよ」

「それみろ」

「湯宿に怪異は付きものだ」

「まぁな。で、怪異ってどういう奴だ? 妖魔、幽霊、獣の類か」

「さぁて、それがわからないのだよ。

何か出ると言って手放されたというのに、こちらが待っていては出てはくれないのだ」

「桐生に一役買ってもらおうって魂胆だな。一役は言い過ぎか、当て馬ってところか」

「桐生は引きがいいからね。あれはあれできっといい馬になってくれよう。

必ず、待ちに待った怪異に出くわすだろう」

「大旦那役はどうするんだ? 流石に式神だけって訳にはいかねぇだろ」

「そちらの手筈は整えてある。猫に依頼しようと思っているよ」

「ああ、猫な。どの猫だか知らねぇが、宿自体はどういう具合なんだ?」

「狐七化け、狸は八化け。宿の名はその『八化け』だよ。

貸し切ってやるのだから、桐生は名の意味するものに気づくだろう」

「買い取ったっていうのはあの湯宿か。なるほどなあ」

家々の軒先や庭、町の向こうに見える野山が赤や黄色へ変化している。

秋の夜長にその深まりを感じつつ、

集めてきた楓や銀杏の葉で式神が遊んでいるのを眺めていた。

胡坐をかいた白橡の膝の間に式神が座り、葉を舞わせている。

可愛らしい式神が秋にふさわしい装いをしているので、愛でれば喜んで無邪気に笑う。

白橡は飽きもせず、手も出さず、左目を細めて見ている。

眼帯下の眼球は今もそこにあり、すなわち銀匂を繋ぎ止めていることが知れる。

小鬼らの不在を言い訳にやってきた白橡だったが、もうしばらく留まるよう勧めた。

企てには見物人がいた方が面白いからだ。

今まさに、桐生は螢火とともに鯨屋を過ぎ、角を曲がったところだった。

桐生に目印として伝えた鯨屋は酒屋だ。

正面に青いのれん、両脇に青い提灯が舗先で光っている。

そこでは高級酒から上澄みのような怪しげなものまで扱っている。

舗の主は鯨飲の輩で、文字どおり鯨が大量の水を飲むように酒を呑むのだ。

卸先のひとつに摩夷夏があり、私のしていた娼館から引き継がれたものだった。

手に入れたい酒があれば、昔のよしみで多少面倒な注文にも応じてくれる。

私らには青く照らされた桐生を見ることができていた。

少々細工して、大きな丸い鏡に桐生の周りを映すように術をかけた。

千里眼により近い術を使ってもよかったが、見物人がいるので鏡がいいのだ。

白橡も覗き込んで咽喉の奥で笑う。

「こいつら、思った以上につるんでいるな。連れ立って、番ってよぉ」

「ぴたりとはまらずとも居心地がいいとみえる。

近頃の螢火は私の誘いに乗らずにそそくさと帰ってしまうし、桐生もやるものだ」

「どうだか。なあ、気づいたか? 銀匂の宴で忍冬が螢火に竹の鞭を贈ったんだぜ。

螢火は驚いてさ。桐生の被虐趣味を知らなかったらしい。笑えるだろ? 贈る忍冬も忍冬だが」

「そうなのかい。どうかすると、この度の閨事でそれが解禁されるかもしれないね」

階段を下る様子を見て思案する。

螢火はいつもどおりの格好なので、当然木箱を背負っている。

あの引出のどれかに忍冬からの贈り物を忍ばせているのだろうか。

そう考えながら、二匹が階段の半ばに差しかかった時、路を開いて湯宿へと誘った。

階段の終いまで行かせてもよかったが、背ばかりでこちらが見飽きてしまった。

合図に指を高く鳴らした。

すると、鏡の向こうで赤や黄色の葉が吹き荒れた。

渦を巻く華やかさは我ながら見事だ。

私は満足して微笑み、桐生と螢火の視界をしばし奪って葉を夜天へ巻き上げた。

その後に湯宿へ続く上り階段が姿を現わした。

上り詰めれば、門扉を枠に真白いのれんがはためいているのが見えるだろう。

のれんには湯宿の屋号が書かれている。

吊り下がった提灯や置き行灯が妖しく文字を浮かび上がらせる。

荒々しさが魅力の螢火の筆とは、また別の引力を持つ筆跡だ。

自由自在な影を思わせ、揺らぐように相手を引き寄せる。

そちらへ近づく気配に気づいて鳴りを潜めた後、ひらりと布端をそよがせる。

「湯宿・八化け、か。どこかで聞いた屋号だ。何だったか。

雪華が目をつけていたのなら俺の耳に入っていてもおかしくないさ」

勝手に理由づけているが、よくもそんな理由で納得できるものだ。

対する螢火は怪訝な顔をしている。こちらが正解だ。

「聞いたことがあるのに忘れるとは、桐生の頭は一級品だ」

「学習しねぇ奴だ。螢火の方がずっと勘がいい」

「まさに。とはいえ、鳥頭が吉と出ることもある。まあ、見物人にとっての話だ」

のれんをくぐった二匹は軽妙な声に出迎えられた。

「この度は、当館へお越しいただき誠にありがとうございます。

先ほど楓に銀杏が吹き荒れたようですが嵐に目を回しておりませんでしょうか。

こちらに眩暈薬がひとつございますので、いかがですか……ってな」

もてなしの口上はそう長くは続かなかった。

百草霜色に染めた着物。半纏も同じに染めて、屋号と狸の尾が白抜きされている。

よく見る荒っぽい格好と異なり、品よく着込んだ衣装も似合い、なかなかの男ぶりだ。

生意気で可愛かった猫は成長して、いい雄猫になったと感心する。

「何だよ、誰かと思えば嵐雪か。久しいな。今回は忍冬と一緒じゃあなかったのか」

「やぁ、桐生さん。ご無沙汰だぜ。たまにはご隠居の気まぐれに付き合ってご機嫌取りさ。

湯宿は俺が任されてやるから心ゆくまで愉しめること請け負いだ」

流れの猫はそう言って、ひとをたぶらかす笑みを浮かべた。

働き者の式神が二匹並び、桐生と螢火の手荷物を預かっている。

桐生はめかし込んで、羽織の裏地に桐、竹、鳳凰が描かれた淡い紫を着流している。

羽織紐には瑠璃玉を使い、格式ばった文様や高級品を無造作に扱う。

手ぶらのくせに桐生は一体何を預けるのやら。

一方の螢火は、木箱を預けることを一度断ったものの断り切れず、

式神に押し通されてしまった。

「支度はできておりますので、お部屋へご案内いたします。

って言いてぇところだが……密事の前に小手調べだ」

鏡の向こうで嵐雪は言い、両手を叩き合わせた。

「どこかで見たことのある仕草だね。嵐雪は年々白橡に似てくるように思える」

「猫って嵐雪だったのかよ。俺の知らねぇ悪巧みを前々からこしらえてやがるな。

何にしても自慢の猫だ。愛らしいだろ? 早速、玄関先でご奉仕してくれるみてぇだ」

「それは悦ばしいことだ。そろそろ飽きて、欠伸が止まらなくなるところだったよ」

欠伸は嘘だがそれらしく口を手で覆ってみせる。

戯れがひとつもないので飽き始めていたのは本当だ、と思いながら鏡へ視線を戻す。

嵐雪の言葉を聞いて、桐生は乗り気になったが、

螢火は戸惑って、それこそ目を回してしまうのではないかと思うほどになった。

玄関先であるにも関わらず、嵐雪は螢火を抱き寄せ、

深く深く口づけるのだから仕方ないというもの。

ああ、呼吸をすべて奪ってしまいそうだ。

唇が離れたかと思うと、手早く衣をめくり、花に舌をつける。

「桐に留まる鳳凰は甘い泉の水のみを飲むらしい。桐生さんの可愛がっている鳳凰も甘いのか?

ご隠居が人相書ならぬ花相書を作って寄こすもんだから、本物かどうか改めさせてもらう」

あっという間に螢火を骨抜きにするが、中途で投げ出す。

「色猫どもの色札判じはこんな風にするんだろ? 黒糖の花を寸前で止めたってな。

そんな真似よくできるぜ。最後まで喰えばいいのにさ。

なあ、判じ手自身がされた気分はどうだ?」

床に転がり、脚を広げたまま螢火は喘いでいる。

答えられない者を待つつもりもなく桐生に向き直る。

桐生は顎をさすって悦に入っていた。代わりに答える。

「螢火の気分はよさそうだ。俺もいいものを拝めて満足だよ。さ、部屋へ案内してくれよ」

「桐生さん、あんたもだぜ」

「は?」

「あんたの花相書もあるんだ。どうして螢火だけって思ったんだ?

そんな訳にはいかねぇよな」

そうして嵐雪は桐生を寸止めにした状態で、螢火ともども部屋へ押し込んだ。

「あんまりお部屋を汚しちゃあいけないぜ。では、ごゆっくりお過ごしいただきますよう……」

鏡越しに声を出して笑っていた。

「桐生の間抜け面を見たかい。しかし、あんな風に官能的な顔もするようになったか」

「嵐雪も、遊び狸とはいえ古狸を弄ぶとは腕を上げたみてぇだ。

あーあ、それにしたって二匹とも辛そうだぜ……」

「本当にそうだねぇ。嵐雪自身の花の始末もそそられるが、まずはこちらだ」

嵐雪がいなくなるなり、桐生は螢火に乗りかかった。

「我慢できない……」

奥に布団の用意もしてあるのに、桐生は構わずそこで始めた。

まあ、気づく余裕もないだろう。

花も後孔も限界なのが見て取れる。

贅沢な部屋の設えに目もくれず、うつ伏せの螢火の腰を持ち上げ、花を入れる。

野生味を剥き出しにした桐生はもの珍しい。

これに興奮を覚え、白橡を誘惑する。

「何だ、桐生なんかに情欲を掻き立てられたのか。行儀よく見ていられねぇの」

「ああ、そうだ。白橡の癖を尊重したいところだが、見ているだけでは満足できない」

「自由勝手だ……」

「承知だろうに……」

間に式神が座っていたが、その頭上で接吻する。

式神は透明な目でこちらを見上げるので、かえって煽られる気分になる。

気が高ぶり、押し倒した拍子に式神の姿まで保っていられなくなった。

稚狸一匹分の葉山に変わり、白橡の腰の上で雪崩れる。

その中に銀杏の実が埋もれていた。それが正体だった。

今度、壱鹿に頼んで焼き銀杏にでもしてもらおうと思い、懐に入れる。

ただ、すぐに衣を脱いでしまったので、転がり落ちてしまいそうで心配だ。

そんなことを考えながら前も後ろもやり合って気持ちよくなっている内に、

鏡の向こうの者らも一段落したらしい。

少し休んで、桐生はようやく部屋付きの風呂に気づいた。

半露天になっており、ごつごつした岩が湯を囲い、ほんのり硫黄のにおいが漂う。

湯の色は海碧。

青に淡くにごった湯は実に神秘的だ。

それにも増して美しいのは、視界を彩る霞がかった桜だった。

控えめでありながらしとやかに咲いている。

はらはらと湯面に花片を散らせば、風情をかもす。

流石の桐生らの情欲も静まり、しばし心を奪われた。

私らも同様に、秋に咲く幻影の桜にうっとりとした。

湯宿の部屋部屋には名が付けられている。

『海桜』

嵐雪が手始めに案内した部屋は海に桜と書いて、カイオウと呼ばれていた。

青湯と桜。

目の覚めるほどの海碧と淡紅が美しい対比を生んでいる。

いかにも華やかなものもよいが、こういうものも魅力だ。

秋の季節であるのに春の桜を咲かせるあたり、この湯宿の気まぐれさが表れている。

そう思いながら心地よい疲労に身をゆだねていた。

伸ばした二の腕に頭を乗せて寝そべり、だらしなく鏡を覗く。

あれから、桐生と螢火は湯に浸かって慎ましやかに戯れた。

今は二匹で布団に丸くなっている。

先ほどまで起きていた白橡も己の癖に合わないと言って寝入ってしまった。

独りになったので酒を供にして書物をめくっていると、桐生が目を覚ました。

起き上がって風呂の方へ行く。

螢火が深く眠っているためにひとり湯を決め込むつもりだ。

しばらく澄まして湯に浸かっていたが、次第に口の端をゆるめ始めた。

まったく、お幸せな頭は螢火との湯浴みでも思い返しているのであろう。

いつもどおりの桐生だ。

そんな風なものだから欠伸が続けて出た。

寸暇、目を離した隙だった。

湯煙だろうか……言い表しがたくも、ねっとりした靄が桐生に纏わりついていた。

気のせいだろうか。

「……いつ戻ってきたんだ。外海へ出たんじゃなかったのか……」

ぼそぼそと口にするので聞き取りづらい。

「……何だ。別々のように言って、嵐雪と一緒だったんだろ……」

言葉の端々から忍冬と話している風に見える。

だが誰の姿もない。一体何が起きているのだ。

「……恨むぜ。竹鬼の宴で仲間外れだ……ああ……っ……ん……」

気づけば、桐生は岩肌に両手をついて、後ろを取られた格好になっていた。

首を伸ばし、顎を上向かせて鳴く。そこには湯煙しかないというのに。

「……忍冬だって、本当はこれがいいんだろ……あああ……はぁっ……はぁ……」

幻覚に犯されたかのように、桐生のそそり立ったものは限界を迎えた。

そのはずだ。

迷惑なことだが、濃い靄がいいところをちょうど覆い隠しているので明確にはわからなかった。

「靄、か。ふふ……」

どうも不自然な気配を感じる。

「湯宿ののれんに漂うものと気配が似ている。桜が美しいから花妖だろうか」

束の間、桐生は余韻に浸ることを許されて呼吸を整えている。

しかし、整う前に再び身体を奮わせ始めた。

そうして数度、あられのない姿を鏡面に晒した。

いいところは隠されたままであるのが惜しい。

「やはり妙だ」

桐生には薬もまじないも玩弄物も使われていなかった。

元々目をつけていた湯宿の気まぐれとも別物だ。

では、これが怪異だ。

ようやく巡り合えた幸運と当て馬のツキのよさに満足した私は眠気を覚えた。

そのため、桐生が布団に辿り着くまで眺めていることができず、瞼を閉じてしまった。

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