古狸連中-拾 八つ目の湯に巡り合った桐生は螢火と永く花を結ぶ


桐生/

「桐生さん、起きなよ。湯宿の主がお呼びだぜ」

嵐雪の声で夜が明けたことを知った。

「……客人の部屋に勝手に入ってくるなんて、大旦那ならわきまえろよ」

布団の中で伸びをして、素直に起きてやるか考える。

湯宿の主というのはどうせ雪華だ。待たせておけばいい。

「俺はどっちだっていいんだ。客人より主が優先だが、それを差し置いてやりたい心持ちだ。

ここはいいにおいがしてるからな。真っ昼間から夜這いを仕掛けたくなっちまった。

連れが喜ばしいことになってるぜ」

「何の話だ……?」

話の運びが変だ。怪訝に思って俺は身を起こした。被っていた布団も払いのける。

連れの螢火は隣で眠っている。気を失ったと思わせる寝相だ。

ただ、その身体は縮んでいた。そのくせ、可憐さを増し、儚い色気を漂わせている。

目を丸くして螢火の全身を見るが言葉が出ない。

昨晩の記憶を掘り起こしても俺には覚えがなかった。どうしてこんなことになっているんだ。

螢火には散々花を絞られた跡があった。己でするには難しい箇所にも手が届いている。

さっきの言い方じゃあ嵐雪でもないのだろう。

「あらま……桐生さんの趣味は承知してたが、こうやって拝むのは初めてだぜ。

昨晩は思い切りお愉しみで何よりだ」

露わになった俺の肌には隠しようのない傷が残っていた。

嵐雪の目には酷く生々しく映ったことだろう。

無数のそれを両手で覆うが、すでに意味のないことだった。

乱 痴 気 騒 ぎ の 末

  ラ ン チ キ サ ワ ギ ノ ス エ

嵐雪に案内され、螢火とともに春湯へ向かった。

螢火の浮つきようは心配になるほどで、酒もないのに酔っ払ったみたいだ。

それに、廊下が一方通行であるのに、前に見た景色とはっきり違っていた。

表裏の湯。そんな噂を思い出した。

ああ、そうだった。目に映る変化はそれを確信に変えていく。

扉口に掛かった札は泥灰になっているわ、部屋に脱ぎ捨てられた衣が散らかっているわ。

それに湯船には古狸が二匹いた。見覚えのある奴らだ。

「桐生、来るのが遅いぞ。稚狸は早く起きるのが道理だろうに」

「遅え遅え。お前のせいで美肌狸になっちまったぜ」

「泥の湯は潤いを保つ効果があって美肌になるのだよ。その可愛らしい姿でともに浸かろう」

「ははっ……本当に可愛らしいことだ。実物は一層笑えるぜ」

雪華と白橡は、熱泥が沸騰する湯に浸かっていた。灰色の湯面が珠の形に膨らんで弾ける。

屋根のない完全な露天風呂だ。丸みのある岩が並べられ、派手な桜が咲いている。

稚狸姿の俺を笑うが、怒る気にもなれない。様変わりがはなはだしい。

「大旦那として助言するなら、桐生さんは入らない方がいいんじゃねぇか。

少なくとも今はやめとけよ。

血池の湯から作った軟膏があるから、それを塗った方が賢いぜ」

「……そうするさ。雪華も白橡もうるさいばかりで付き合っていられるか」

「ならば螢火がおいで。しかし、美人湯がいらぬほどきめ細やかで瑞々しい肌をしている」

「桐生の役立たずより螢火がずっといい。

昨晩は雪花で欲を満たしただろうが、古狸を労ってくれ」

何が雪花だ。

言い間違えに胸糞悪くなるし、わざわざなので否定しない螢火も何だかなあ。

そんな具合で、泥湯に引きずり込まれた螢火は二匹の餌食になった。

俺にはそう見えたが、実のところ螢火がどういう腹づもりか知れない。

枯れたかと思われた花は早くも生き返っている。

今の螢火は、細身の雪華が持ち上げられるほどに華奢だ。

背面から抱え上げられ、両脚を折り曲げた状態で開脚し、白橡の真上で激しくされている。

いつもなら意気揚々と混じるものだが、俺は疲労を覚えた。

溜め息をついて屋根の内で横になり、嵐雪に軟膏を塗られてやる。

「ここもそこも、どこもかしこも赤黒くなって痛々しいな。

どうしたらこんな風になるのか、花も縛るのかよ。いや、知りたくもねぇ」

口の悪さに反し、嵐雪は丁寧に軟膏を塗り込んでいく。

そういえば、揉み療治の手技を体得したと聞いたことがあった。

「教えてやるものか。そうだ、忍冬はどこに隠れているのさ?

一昨晩に姿を見せてから一行に出てこない」

どんなに丁寧にされても時折ひりっとした痛みが走る。顔をしかめるが悪くない刺激だ。

「忍冬は外海だぜ。寝惚けたこと言って、幻でも見たんだろ」

「幻な訳あるか、生身の忍冬だったさ。どれだけ花を絞られたと思っているんだ……んっ」

思わず、咽喉から甘ったるい声が漏れた。

嵐雪の前で見栄もない。自然に出てくる声を漏れるままにする。

「まあ、何だっていい……嵐雪、焦らしてないで早く安らかにしてくれ」

「おいおい、按摩を勘違いされちゃ困るぜ。

だが桐生さんが願うなら、花なしに安らかにしてやる」

手の動きが切り換わり、たちまち気持ちよくなった。瞼が重くなる。

閉じかけた瞼の向こうで、雪華がくるりと回って稚狸に変化したのが見えた。

白橡も跳躍して似たような背格好になる。化け物どもめ。

「望みが叶うなら靄にやり込められたい。しかし、私の前へは姿を見せてくれないであろう。

それならば、自ら小さくなって巴蛇の遊びに興を乗せよう」

雪華はよくわからないことを言って、天童を思わせる麗しさで微笑んだ。

すっかり気分がよくなり、みなで昼餉にする。

本日も蒸し料理だが、酒と軟泥干潟で捕れるという珍味の藁素坊が並んでいる。

丸揚げ、丸干し、炭火あぶり。

春には刺身も愉しめると聞くが秋の食い物を春には変えられないらしい。

酒で舌がほぐれるのを待つでもなく、雪華は湯と怪異の話を始めた。

「桐生、ようやく思い出したかい?

八化けは表裏の湯で知られている。湯宿の気分で路が変化するのだ。

桐生と螢火は海桜に行き合ったが、春湯は私が訪れると必ず泥灰の札になる。

これ以上、美肌になってどうしようというのか。

そうだ、せっかくだから闇雲に浮かぶ大鬼蓮に睡蓮を眺めながらの酒盛りとしよう」

言って、飾ってあった屏風に向けて片手を振ってみせる。

すると屏風から墨のような黒色の湯が溢れ出した。不穏な色だ。

湯は座敷を水浸しにし、艶やかな浮葉と明るい睡蓮の花が生じた。

夕刻に咲く大鬼蓮と早朝の睡蓮がどちらも花開いている。

雪華が見せる幻影には嘘があり、だからこそ幻影だとも言えた。

大鬼蓮の浮葉は大きな円を描き、でかい盆か座布団のようだ。

いつの間にかちょうどいい具合の浮葉が腰に据えられていた。

それに乗って酒盛りをしようと言うのだ。

浮葉のすぐ外はぶくぶくと湯が息巻いている。沸騰し、とても湯浴み向きでない。

経を入れても静まらない湯とはこれを言っていたのだろう。

幻影とはいえ、浮葉から落ちてしまうのではないかと恐れを感じる。

そんな恐れを一つも思い浮かべない雪華は、一番大きな浮葉に乗っていた。

どうしてだか螢火と一緒に乗っている。

「暇だろうから、表裏すべてを拝めるか試すといい。

桐生ならできるかもしれないよ……怪異と出会えたのだから」

雪華は目を輝かせてこちらを見る。眩しくて、うっかり恋でもしそうになる。

「怪異? ああ、このことか。稚狸になる」

「結果はそうだがそれではない。一昨晩は海桜で忍冬の幻が、昨晩は血池で雪花の幻が出た」

「幻? 嵐雪もそんなことを言っていたな。真実、忍冬はここにいないのか?」

嵐雪をちらと見るが、白橡が答える。

「そうと言っているだろ。お前は忍冬と戯れた気になっているが、ただ靄に巻かれただけだぜ」

「嘘だろ」

それに、雪華と白橡の話ぶりは事を見ていたことを物語っている。

「螢火はどうだった? 雪花の姿で味わったのだろう……」

縛られていい気分で寝入った俺のそばで、螢火は雪花と戯れたのだ。

酒をあおってもあおっても気が沈む。

雪華は己も螢火も脱がし始め、見ている前で脚同士を交差させた。

初夏に目撃した螢火の媚態を思い出す。松葉崩しの再演だ。

その内に、身体がよろけて雪華は笑いながら湯の中へ落ちた。

それでようやく闇雲の湯が引いていった。

「もうすぐ饅頭が蒸し上がる頃だ。取ってくるから腹を空けとけよ。

餡は椎茸に唐辛子、それに乾燥鬼灯を入れてある。壱鹿手製のやつだ。旨辛くていいぜ」

「そりゃあいい。極楽饅頭だ」

「饅頭か、愉しみだよ。嵐雪も鬼灯入りを食うのかい?」

「俺のはちゃんと鬼灯なしを確保してある」

「何だ。つまんねぇことをするぜ」

「あれは猫にとって毒だぜ。いくら俺でも食えるかって」

ケラケラ笑う嵐雪を見て雪華が言う。

「ねぇ、次の甘味の注文もできるかい? 嵐雪の杏仁豆腐が食いたいのだ。

氷室はないが、鰐骨に降る雪を使ってどうにかできないものか」

「試してやるよ。ご隠居の頼みなら仕方ねぇからな。だがひとまず饅頭だ。いってくるぜ」

そう言ったきり、半刻しても嵐雪の奴は戻って来ない。

「いつまで待たせる気だ。油を売る相手もいねぇくせに」

「桐生、見てきておくれよ。

嵐雪が行っているのだから、秋湯の打釜への路が開かれているはずだ。

あそこに地獄釜があるのだ。打釜の噴気で飯を炊いている。

飲泉もできるぞ。五臓六腑に効くから、今行かなければきっと後悔するよ」

後悔するとは微塵も思えないが、雪華のふわふわした口車に乗ることにする。

螢火は酔い潰れてしまったし、どうせならすべての湯を見てやろうと思った。

「仕方ないな。見てきてやるから饅頭は俺が一番にいただくさ」

雪華と白橡は、致し方なしだとか悔しいだとか口々に言うが、真実そうは思ってはいない。

頭も脚もふらふらさせながら秋湯へ向かう。酔客には骨折りだ。

廊下が長く感じ、とても辿り着ける気がしない。あの二匹が行きたがらない訳だ。

それでもどうにか打釜の札が見えるところまでやって来た。

ぶつぶつ文句を言っていると、中から声が聞こえた。

「……これが怪異か?

……いや、違うな。俺はお前なんかに……いねぇから本物なんだろ……」

「……そう断言されては……なってしまいますねぇ。

せっかく……いい思いを……というのに……」

切れ切れにしか聞こえない。だが、独り言とは思えず、誰か別の声もする。

扉口へ近づけば、いくらかはっきり聞こえた。

「そっちの白髪にか? 得意の影にしては気配が強すぎるぜ。

身体が二つあるなら、間でなぶられてぇな」

「お安い御用ですよ。あなたが狸でないとはいえ、獲物から外れた訳ではありませんので」

何だ、油を売る相手が何匹もいるんじゃないか。

思いながら扉に手を掛けた。わずかに開いたところで酔いが回る。

立っていられない。助けを呼んでも言葉にならなかった。その場にうずくまる。

隙間から嵐雪が見える。だが、変だ。しかしどう変なのか。頭が回らない。

「逃げた影が悪さを? ははん、なるほどな。それで精気を集めてやがったのか。

どっちが本体だか知らねぇが、影が強まって本体を圧してるようだ。

呪いを己のものにしたって、たまに暴れて宿主を困らせるもんだな」

「まあ、そんなところです。これでも実体を留められるようになった方なのですよ。

本体がどちらかなんて、すぐに身をもって知ることです」

声は二つだが身体が三つある。なぜだか、その内の二つは輪郭がぼやけて見える。

そんなに酔ったつもりはなかったが、脚を取られているのだからやはり呑み過ぎたか。

「ふん、こうやって誘惑するのか。天邪鬼じゃなければ籠絡するしかねぇな。

リーネ、会いたかったぜ。こんなに長く離れていたら気が狂いそうだ。

この柔肌はやっぱりいい……

仮初でも、黒糖、お前と今一度触れ合えるなんて……夢心地だ……ああ……

こんなんじゃ昇天しちまう……」

硫黄に混じって雪柳のにおいがする。そして、ほのかな茉莉花のにおい。

嵐雪はリーネと黒糖の名を口にした。

だが、そこにいるのは長い黒髪の猫と、まったく同じ背格好の白艶の猫だ。

間にはさまれた嵐雪が色めき立ち、声と蜜を濡らすたび、

二匹の猫の輪郭は明らかになっていった。

結果として、嵐雪は昔に可愛がった姿そのものになった。

実に生意気そうだ、とまあ小さくなったのだ。

「おや、誰かと思えば桐生くんではありませんか」

たった今気づいたとばかりの芝居をして黒木は言った。今度はこちらが覗かれる番だ。

「盗み見とはよい趣味をお持ちで。もう酔いは醒めましたか?

ああ、稚狸姿は本当に可愛らしいですねぇ。

さぁ、これからがお愉しみのお時間ですよ。身体も花も、立たせてご覧なさい」

「精気を得て実体を為す、か」

「言ってしまえば、黒木の生態そのものではないか。仙狸の遠縁にでもなるのかい?」

「血の繋がりこそありませんが、そうですねぇ……親戚といっても過言はないでしょう」

「適当なことを言う。ああ、化け物がまた一匹増えたぜ」

「桐生くん、術を使う獣は化け物と言われて一人前なのですよ。光栄です」

黒木はそう言って笑った。

一本路の鰐骨へ行き、思い思いに湯の中へ身体を浸していた。

松が溶けでもしたのか、緑がかった透明な湯だ。その底に骨が敷き詰められているのが見える。

鰐の骨と聞いて不気味に思えたがよくよく見ると清潔な色をしている。

辺りは雪が降り積もり、松は白い綿の塊を被っている。

桶に徳利と猪口を乗せての雪見酒だ。もちろん饅頭はすでに腹の内だった。

湯煙に加えて雪景色、酒。

あとは狸だか猫だかの旨い花があればいい。

あれから、というのは、立ちくらんだ後のことだが、

花を尽くしてしまったので旨いものが目の前にあったとしても食指が鈍くなる。

うずくまった身体を軽々と持ち上げられ、打釜へ引き込まれた。

幻影はもう訪れず、黒毛と白毛の猫にはさみ撃ちに合った。

ただの黒木と、色を失った白い姿をした黒木に、だ。

恍惚とした嵐雪が壁にもたれかかっていた。

そのそばで横向けにされた俺は口も脚も開けられた。

口に黒毛の花が押し入り、脚に白毛の脚が卍に交わる。花を握られ、後孔を突かれもした。

そうして猫の身体によって何度も絶頂を味わった。

思えば、海桜でのそれと同じ感覚だった。

途中で黒木は柄杓から直に何かを飲ませてきた。ほのかに塩の味がしたと記憶する。

飲泉ができると言っていたから、打釜の湯かもしれなかった。

白艶をした猫は、満足して黒木の中へ取り込まれて消えた。満足したなら結構だ。

雪華もそうだが黒木の身体は中毒性がある。思い出せば、まだ奥がひくつく。

「ねぇ、そろそろ事情を話す気になったかい? このままではのぼせてしまうよ」

「事情ですか。雪華さん……いいえ、今は雪華くんとお呼びするのが相応しいのでしょう。

あなたはすべてご承知なのではありませんか?」

「私は、ね。訳のわからぬ者がいるから、黒木が語ってくれなければならない。

さあさあ、話しておくれ。答え合わせだ」

「そういうことでしたら、少々あなたの口に……手をつけてからに致しましょう」

黒木は雪華に口づけ、花を満たしながら語った。

「事は、八化けに迷い込んだことから始まります。

表玄関でなく、裏門から踏み入ってしまったのです。

いい湯を見つけたのでそこで身を休めたところ、湯宿に憑いた女狸に毛嫌いされまして」

湯の表裏を左右する気まぐれ屋はその女狸だという。

招かれていない者に対し、女狸は手厳しかった。湯から追い出し、精気を抜かれた。

「魂を抜かれなかっただけ儲けというもの。しかし、術を制御する力が弱まったのだね」

相槌を打つ雪華はしたり顔だ。

路のことはさっぱりだが、黒木が湯宿の機嫌を損ねたことはわかった。

それがきっかけで留めていた影が放たれた。

影は悪さをする。客を弄ぶ。弄ぶだけなら悦ばれるものを餓鬼に変えるから始末に負えない。

その上、湯煙に紛れて気配を消す。

なかなか捕まえられずにいると、その内に怪異と呼ばれ始め、客足を遠ざけた。

採算の合わなくなった湯宿は売りに出され、雪華が所有を得た。

「その影っていうのは何だ? いや、知っているぜ。呪いなんだろ。

茶化してんのか、真実なのか」

白橡が疑問を口にする。

「呪いは真実、呪いです。昔、天上の石を手に入れた際に持ち主の恨みを買いまして。

一度は影を盗られましたが取り戻し、今はこうして己のものにして使っていました。

しかし、自惚れていたようです」

「どういう意味だ。俺にもわかるように話してくれ」

白橡は腑に落ちた顔をしているが、俺は要領を得ない。

螢火も聞き耳を立てている。わかっているのか?

「黒木は光りものが好きだからねぇ。天に浮かぶ星を騙し取ったのであろう。

持ち主というのは天人天女、流石に天帝ではないだろうが、いずれにせよ呪術をたしなむ者だ。

向こうもただで逃がす訳にいかないから影自身に意思を持たせる呪いをかけた。

一時、影は宿主から逃げ出したが、黒木はそれを取り戻し、自在に動く影を得た。

しかし、宿主に隙が生じれば、影自身は逃げるか暴れるかする。

が、精気を好む性質はどちらも持ち合わせている」

黒木はにたりと笑った。

全体、つかみどころのない話だ。

「何にしろこれで怪異は治まった。天晴だよ。あとは湯宿の気分次第といえよう……ああんっ」

話の締めに、雪華は一際艶やかに鳴いた。

鰐骨の湯では雪華の独り舞台だった。

他方、湯から上がれば、こうなると決まっているも同然。

狸に猫が入りまじり、羽目を外し、乱れて騒ぎ立てた。

鰐骨の座敷はそれをするに十分広く、嵐雪も宴に加わって式神が給仕する。

酒と食い物を持ち込み、旨いものを呑み食い、旨い身体を喰い合う。

餓鬼の背丈は巴蛇の遊びに都合がいい。成体の俺と螢火は丈が違い過ぎるからさ。

巴蛇の遊びに興を乗せるとはこういう訳だった。

だが、俺は螢火だけでよかった。雪花のせいで嫉妬の炎が燃え盛り、他に興味が持てやしない。

その雪花に化けた黒木は恨めしく、そうでない者も近くに寄らせたくない。

忍冬の幻を愉しんだ件は棚に上げ、そんな風に思った。

「螢火、俺はお前がいればいいさ。さっさとここを抜け出そう」

「僕も……そうしたい。早く、出ましょう」

嫌に熱っぽい目を向けてくる。嬉しくなって俺は螢火の手を握った。

心持ち急ぎ足で冬湯を後にする。だが、いつまで経っても廊下の先が見えてこない。

「どうなっている。いくらなんでも長い、長過ぎる」

「桐生さん、見て。後ろ」

螢火の声に振り返ると、すぐ後ろに扉があった。

鰐骨の札が掛かっている。顔のない扉が嘲笑うようだ。

全然進んでいないというのか? 今までの歩みが無駄骨だったことに愕然とする。

「そこの狸ども。お前たちは、何者にも邪魔されないところへ行きたいのであろう?」

身体の向きを戻すと、俺は息を飲んだ。螢火は隣で硬直した。

扉の反対側に恐ろしく綺麗な女狸が佇んでいた。

透き通る金色の髪は扇状に広がり、雪白の肌がほのかに色を帯びて自ら光輝く。

灰桜色の目が強い光を宿している。そのために、幼い姿に反し、美しさがこちらを威圧する。

御座敷にもこういう気位の高い雌がいる。いや、雄だって威圧する奴はいくらでもいる。

だが、綺麗だ。背筋が凍るくらいに神々しい美しさだ。

式神か? いや、この威圧感は式神にはない。しかも雌だ。本能が告げる。

しかし、あまりにも雪華に似ている。

「……ああ、そうだ。都合のいい閨でも用意してくれるのか?」

怖気づいてはいけないと思い、いつもの口調で返す。

「閨? 八つ目の湯を浴びに来たのであろう。ああ、忌々しい。黒猫のせいで路狂いが生じた。

早く、あの子に受け渡したいと思うのに、それもできない。

こうなっては運試しよ。お前たちに運が舞い降りれば、閨も湯も開かれよう」

「おいおい、何を試すって?」

女狸は手に八勺枡を持っていた。賽子が二つ入っている。

「機会は一度切り、そぉれ」

「突然現れて勝手にしゃべる。聞いちゃいない……」

紙風船を空へ放つようにして賽子を投げ上げた。

賽子を追って、ふわりと薄紅色の花片が巻き上がる。

優雅に花片が舞ったかと思えば、視界を埋め尽くす花の嵐に変わった。

その様はつい先日吹き荒れた秋葉の嵐に似ていた。

思っていると、さく、さくと音が二つした。

賽子が地面を覆う雪の上に落ちた。花片は一つもない。

すでに廊下は消え失せ、代わりに飛び石が現れた。

その向こうに湯煙が立ち昇っているのが見える。

「運も怪も呼び寄せる狸よ。

赤毛は勝ちを呼び寄せるというだけあって、勝負事に強いこと……」

声は遠のいていき、俺と螢火は顔を見合わせた。

女狸は消えたが、その残像は大人の狸だった。結局、何だったのか。

飛び石を渡っていくと、かつては神が座したであろう巨大な切り株があった。

さて、式神何匹が手を繋げばその大きさを測れるだろう。

元は巨木だ。樹齢は千を超えただろう。切り株をくり抜いて湯船に設えている。

雪中に乳桜色の湯が湛えられ、夜天に浮かぶ無数の星が湯面に映える。

『五一』

根元に木札が立て掛けられていた。

さっきの賽子のせいで数字を見れば博打を連想する。

「これが隠し湯なんだろうな。湯の名が五一? 賽の目か。

五一ときたら続くのは三六……ああ、それで」

三と六は、雪の上に落ちた賽の目と同じ数だった。

「五一三六は取り柄も値打ちもないってな。

どういうつもりで名付けたんだか。謙遜するというよりは傲慢が透ける」

湯に手を差し入れ、ひとすくいする。桜もないのにそれが香る。

五一だとか、この湯は大層価値がある。

「隠し湯はそうやって名を伏せ、密やかに扱うと聞きました……

その、泥灰で雪華さんに聞いて。

それに、この湯は縁結びの御利益もあるそうです。桐生さんと……」

「そう言われて嬉しいさ。なあ、螢火。俺と雪花、真実どっちがいいんだ?」

「僕は……」

瞳を揺らす螢火を見ていられない。迷うのか。口を開きかけたところを遮り、湯に誘う。

やわらかな乳桜色の湯が肌を包む。特等の湯に身を浸せば、俗世を忘れて癒される。

螢火の心内はどうあれ、手遊びほどに戯れる。だが、次第に荒々しい気が蘇った。

「雪花に心酔しているくせに……はぁっ……はぁっ……何が縁結びだ」

風呂の縁に両手をつかせ、後ろを取った。

雪花に心から惚れているのだ。俺だって忍冬に心底惚れている。

「心酔とは違うけれど……あん……僕はもっと桐生さんと、

気持ちがよくなる遊びが……やっ……もっと、したい」

螢火の身体が大きく震えるたびに、乳桜色の湯がざばんと溢れる。

むせ返る香りにくらくらする。

湯は、減ったと実感する間もなく再び満たされる。出し切っても尽きない狸の蜜のようだ。

幻の忍冬にされたことを螢火にして、心ゆくまで鳴かせる。

虐められたいのは俺の方なのに、螢火を虐め尽くしてしまった。

八化けの滞在はそうして終わった。

「はて、珍しいことがあるもので桐生が花を結んだ。桐生のくせに」

鋭い歯でゆで玉子をかじりながら雪華は鼻を鳴らした。

「くせに? 俺は相手に事欠かないぜ、知っているだろうに。忍冬にはなびいてもらえないが」

俺も竹竿に引っ掛けた籠の中からゆで玉子を見繕い、外海から帰った忍冬に水を向ける。

「いつまでも未練を残す奴だ。螢火、こいつのどこがいいのか。私にはわからない」

そう貶されても、ご無沙汰していた忍冬の冷やかさに惹かれてやまない。

「そうだ、惚れる理由がねぇ。

だのに螢火を御座敷に呼んで暮らしているなんざ、ふざけている。

毛並みも色艶もよくなりやがって」

白橡は殻付きの玉子をお手玉にして宙へ投げる。五つを器用に回す。

ふざけているのはどっちだか。

「僕は桐生さんがいいんです」

恥じらいなく螢火ははっきり言った。

凛とした目でこちらを見るので、肩を引き寄せて接吻する。

口数少ない分、螢火の内から発する感情は強く激しい。目の奥に切に想う心が表れる。

目が語るのだ。堪らないと何度思ったことか。

八化けでの一件から日が経ち、枯れ葉も失せる冬が到来した。

本日は御座敷に招待して古狸連の会合にした。

玉子は湯宿の熱湯で茹でたものを雪華が持ってきた。

みなの盃に注がれた濃紫色の液は、忍冬が土産に持参した葡萄の酒だった。

改めて連中に螢火をなで回す様を披露する。接吻で留めることができるか自信はない。

身体は稚狸から成体へと戻った。やはりなじんだものが一番いい。

「螢火は上手に桐生を弄んだようだ。相手はどうあれ優等な狸だ。縄の扱いもすぐ上達する」

忍冬が間に割って入り、螢火の顎を引き寄せて強引に口づける。

唇に歯を立てるものだから血が一筋流れた。その血が忍冬の口に移る。

俺の惚れた二匹がこんな風にするものだから、花が反応するのは当然だろ?

悦に入るが、忍冬の興味はすでに別にあった。いずまいを正して雪華に投げかける。

「それで、湯宿に憑いた女狸は何者だ」

「相変わらず、忍冬は聞くべきことがわかっている」

「違いねぇ」

「それこそ桐生など、どうとでもなればいい。湯宿そのものの話が聞きたい」

「おい、もっと俺に興味を持ってくれよ。俺と螢火のそれからを聞きたくないのか?」

「遠慮する。惚気話をお前の口から聞いても耳が腐るだけだ。雪華、続けてくれ」

「桐生などものの数に入らぬようだ。あれは……言ってしまえば、あの女狸は私の母御なのだ」

「母御?」

「俺もお目に掛かりたかったぜ。綺麗だっただろ?

雪華より先に湯の番をかすめ取ったが、拝めずに終わったことのみが悔やまれる」

「参ったよ。私が順序だろうに白橡に先を越されるとはね」

俺らの次に隠し湯で癒されたのは白橡だった。雪華は嵐雪と黒木に捕まったのだ。

白橡の差し金だ。捕まって、猫どもに耽溺した。まあ、いつものことだ。

焼き銀杏に手をつけながら俺は聞く側に回ることにする。

「皮膚病を患った狸娘というのは母御のことでね。八化けは彼女のために造られたものなのだ。

爺様は良いものをこしらえた。肌は改善し、あそこで湯の支度を仰せつかった父御と結ばれた。

縁結びの由来はそこからきている」

「しかし、見た目は式神ほどの稚狸だったぜ」

「ああ、祈願成就の暁に湯宿を払い下げたのだが、守護のために魂の一部を置いていったのだ。

それが稚狸なものだから大層な気性を持っていて、あの通りだ。

だが、あれの許しがないと隠し湯に入れない。

桐生は遊んでばかりいるように見えて、なかなかに仕事をする」

当然だ。雪華の言葉に俺は気をよくした。

「雪華の企みに乗せられて桐生はよく踊るもんだ。考えのない当て馬はよっぽど運があるぜ」

白橡が皮肉を言っても大して気にならない。

螢火を奪い返し、接吻以上のことに手をつける。忍冬が無感動にこちらを見る。

「螢火。俺と雪花、どっちが欲しいって? なあ、言ってみろよ」

「どっちも……」

古狸どもに聞かせるために、螢火が出した答えを再び口にさせる。

あれから、とは俺と螢火の『それから』の続きだ。

「……僕は桐生さんも雪花さんも好きだ。どっちも……どっちかなんて無理だ。

桐生さんだって、忍冬さんと僕を選べないでしょう。

僕は選んで欲しいなんて、願いはしない……」

言葉をしぼる声は震え、必死で、顔を紅潮させて苦悶した。

「おそろいなんだ……桐生さんと僕は。だからこのままで……」

次第にうわ言の様相を呈し、身悶え、色めき立つ。まるで閨での姿態だった。

その後、緊縛の愉楽がもたらされた。

忍冬の冷やかさにはない、いじらしさが身を震えさせる。

ぞくぞくしたものが這い上がり、感情が高ぶってどうしようもない。

「俺は雪花が好きになれない。だが、螢火がそういう腹づもりなら別段構いはしない」

螢火が縛るのは俺だ。この遊びを覚えて、他の輩にするのは許せないが。

思いながら螢火を弄ぶ。他の奴を縛ってはいけない、と耳にささやく。

「……代わりに、桐生さんを縛ったところを画にしたい。了解してください……」

「もちろんさ。さあ、もっと、うんと気持ちよくなる遊びをしようぜ」

そして、俺の望むことをさせ、二匹で酔いしれたならもう離れられなくなった。

『それから』の話は以上だ。

今、古狸の面々を前に縄は持たせないが松葉崩しを見せつける。

一目見たならば、忘れられないやつを一発。

雪華の屋敷で見た螢火の艶めかしさが瞼に焼き付いて消えてくれない。

その心を見透かしているとばかりに雪華は笑う。

白橡が手を叩いてやんややんやとはやし立てては毒を吐く。

冷やかな眼差しの忍冬は今もって俺に興味を持ってくれない。

古狸連中の宴は始まったばかりというのに、すでに最高潮に達しようとしていた。

そうでなくても、俺から溢れた桐の花のにおいが満ち満ちて、自らを酔わせた。

こうして艶を増した毛並みで冬を迎え、春になり、螢火は今も御座敷に出入りしている。

そこに棲む遊び狸の色恋沙汰が収まったのは、化け物絵師のせいと噂されたとか。

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