春先-参 古書舗・星渦堂の春は銀を放置したまま舗を開ける


春/

鳥の鳴き声がして目を覚ますと書物の山に埋もれていた。

中華猫の故郷では春眠何とやらというけれど、やたらと風流なこの建物にはお似合いの歌だ。

昨日の晩は嵐だったし、庭の木々がずっと騒いでいた。

寒さがゆるんでも布団の中には入っていたい。ごろごろしながら丸くなる。

また書物を読みながら眠ってしまったらしい。

読みかけの書物が枕元で開いたままになっていた。

夢中になるとすぐこれだ。我ながら困ったものだが、直せるものでもなかった。

しばらくごろごろした後、眼鏡を手に取って羽織を肩にかける。

そろそろ舗を開ける支度をしないと。

二階から階段を降りて、同居している狼の名前を呼ぶ。

「銀。ぎーんー。いないのかなぁ」

狼の銀は交尾期に入ってからずっと、僕が起きる前にどこかへ出掛けてしまう。

交尾期の自分を同年代の者に見せたくないのは、僕だって同じだ。

だから、しばらく冬休み扱いにしていた。

星 渦 堂

  セ イ カ ド ウ

仕方ないので同居人の姿が見えないまま舗を開けた。

僕は雇われ舗主で、この古書舗の建物も書物も全部雪華さんのものだった。

一度会ったきりの雪華さんは狸の親分みたいなもので、余所から来た僕たちの雇い主だ。

嬉しいことに、棲み込みで舗番をすれば、

ここにある書物を好きなだけ読んでいいと言ってくれた。

本好きの僕たちにはこの上もない提案だった。紹介してくれたのは忍冬さんだ。

狸であること以上に共通点もないのに、なぜか忍冬さんは僕たちによく目を掛けてくれる。

うん。有難いことではあるのだけど……色猫遊びや狸の会合に誘われるので正直困っている。

ため息をついて、銀のことを考えた。

銀は、後先考えず行動する。本当に直情的だ。

感情豊かなのは羨ましいけれど、厄介事に巻き込まれやしないかはらはらする。

五番街の藍と繋がりができたのも銀のせいだった。

食べ物をもらって懐くなんて、直情的というより本能的すぎるよ。

はたきで棚や積み重なった書物の上の埃を落としていく。

物音がして振り返ると、すぐそばに雪のように白い毛色の狐が立っていた。

「……いらっしゃいませ」

かろうじて言った。舗に入ったことも気づかなかったので驚いた。

五番街の藍の相方だった。白という狐だ。毛色のままの名前だ。

長い髪をそのまま垂らし、気だるそうな雰囲気を纏っている。

くわえ煙草で空気みたいに静かに棚を見て回る。

「煙草は……」

言い終わらない内に、ふらふらおばけのように別の棚に向かっていったので言いそびれた。

その後、彼は数冊の書物を帳場に持ってきた。煙草はもうくわえていなかった。

「舗の中で煙草を吸って悪かったね。火事になったらここはよく燃えそうだ」

そう言って微かに笑う。何だ、藍よりずっと性質は穏やかそうだ。

僕も笑顔で返すけれど、帳場に出した書物は記憶を食う烏のことが書かれたものだった。

雪華さんの書物にはこういうのが少なからずあり、

禁書に当たるそれは目につかないように置いてあったのに探し出したようだ。

やっぱり藍の相方だった。印象に違えて物騒なものを買っていく。

掃除が終わった頃にやってきたのは、僕と同い年くらいの夏猫の二人組だった。

「これとこれと……これをお願いします」

背の高い方の猫が積み上がった書物を帳場の台に乗せた。

その後で、小さい方が積み足す。

先日やってきた時に歓楽街の娼館で働いていると聞いた。

領収書に舗の名前を書いてください、と指定があったから覚えていた。

しかも、忍冬さんの通っている舗だった。ここで『猫』を買っているのだ。

僕には冬の最中の四ノ猫を勧められた。なので目の前の二人ではないだろう。

ちなみに、夏猫というのもその時に知った。

珍しいらしいが、その珍しい猫が目の前に二匹もいる。

毛並みが薄くて寒そうだったが、よい衣を着てあたたかくしている。

書物で調べたら、夏猫は短命とあった。どちらも儚さを感じるのはそのせいなのだろうか。

短命というのがどれほどの長さをいうのかはっきり書かれていなかったが、

衣食住が整った舗らしいので長生きして欲しいと心の中で祈る。

二人はその舗で働く者たちに頼まれてまとめ買いをしている。

さっきまで書付を持って、手分けして書物を探していた。

料理書などの実学のものから、地誌、歴史書、御伽草子、戯画までさまざまだ。

春画の頼まれものも多い。というか、ここに置いてある春画が多いことに苦笑する。

僕の所有物ではないけれど、雇われとはいえ舗主である。

最初の頃は何だかとても、その何というか……

色々と思うこともあり顔を赤くして勘定をしていた。

今は慣れてしまって平常だ。それはそれでどうなのかと思わないでもないけれど。

夏猫たちは前回買って用の済んだものも持ってきていた。

こちらで引き取って差額を出した上で支払ってもらう。

二人分の手があるといっても、たくさんの書物を抱える姿が心配で舗先まで見送った。

並んで帰る姿は仲がよさげだ。少し羨ましい気持ちになって銀のことを連想した。

昼時に戻ってもいいのに、銀はまだ姿を見せないでいた。

正午が過ぎてから、魚の客が訪れた。人魚だ。

帳場で書物をめくっていたら、ふわふわした空気を漂わせて彼女が入ってきた。

思わず顔を上げて見入ってしまう。まるで陽だまりで眠りを誘う妖精を思わせた。

波打つような白金の髪が華やかで、桜貝色の眼がとても可愛い。

僕の視線に気づいて、彼女はこちらに満面の笑みを向けた。

心の底を見透かされたように感じて動悸が早くなる。

少し居心地が悪いが、不快に思われなかったみたいでほっとした。

初めてお目に掛かるけれど、こんな猫の多い町にいて大丈夫なのだろうか。

すると、きらきらしたものが目に入り、手首に青色の腕輪をしているのに気づく。

何の宝石でできてるのだろう。

聞いてみると、竜神様の宝珠から作ったものだという。竹取の姫の話が思い浮かぶ。

何はともあれ、豊かな白金の髪によく似合って綺麗だった。

「ねぇ、舗主さん。ここで少し読んで行ってもいいかしら」

青色にきらきらする手で読本を持ち上げてみせる。

立ち読みは構わないと言われていた。

「大丈夫ですよ。何かあったらお声掛けください」

彼女は恋愛ものの読本をぱらぱらめくった後で、舶来の童話集を熱心に読んでいた。

肌の感じが違うので、もしかしたら僕たちが舶来と思っている町の出身なのかもしれない。

数刻が経った頃、軽薄な雰囲気の中華猫が彼女を迎えに来た。

中華猫の眼は水色で、色調は異なるのにどことなく腕輪から感じる色みと似通っていた。

待たせたな、と言って彼女を抱き寄せて接吻する。

「……」

帳場から丸見えだった。

読んでいた書物で顔を隠すが、聞いてはいけない囁き声がしている。

しかも思いの外、長めの抱擁と接吻で……花を刺激するので場所をわきまえて欲しい。

「坊主、彼女が長居して悪かった。今度はちゃんと書物を買いに来るよ」

立ち去り際に、中華猫は小慣れた様子で帳場にいる僕に声を掛けた。

その隣で美人の人魚はじゃあね、と言って笑顔で手を振る。

「あとな、一度くらい色猫遊びに付き合ってやれよ。

あれで友だちになりたいと思っているんだ。

支払いは忍冬にさせればいい。喜んで払うだろうし、他人の金で遊ぶのはいいもんだぜ。

色に興味がないと聞いていたが、そうでもねぇな」

「忍冬さんのお知り合いでしたか……」

中華猫は、にっと笑って人魚を連れて颯爽といなくなった。

揶揄われたのだ。

黄昏時に不気味な格好の客が現れた。

顔面に狸と書かれた和紙を貼って、背に大きな木箱を背負っている。

今も来訪に驚いてしまうけれど、同種の狸でここの常連だ。

和紙をめくって書物を探すので僕は彼の素顔を知っていた。

草花の図鑑や山歩きの書物を読んで、読めない字があると遠慮がちに聞いてくる。

最初の印象を大きく裏切って、可憐な顔で鈴のような声で話す。

一度、ガタゴトと奇妙な音を立てる木箱の中身を見せてもらったことがある。

中には、野山で採集したという植物や鉱物、絵筆など描くために必要な道具が入っていた。

用途の不明な道具もあったが、それは閨で直に肌に絵を描く時に使うと答えた。

どういう意味なのか重ねて聞くと、

頬を染めて恥ずかしそうにするので聞けなくなってしまった。

別の日に忍冬さんが色々と教えてくれた。けれど、聞かなければよかったと思った……

相手が答えたがらないものを知るのは、それなりの心構えが要るのだと知るはめになった。

それはそれとして、螢火は町の薬園へ出入りできる特別な許可符も持っている。

その許可符や採集の参考にしているという本草の書物、

自分で描いたという写生帳も見せてくれた。

相手の中身がわかると恐怖は姿を消すものであるが、

螢火が和紙を戻し、再び木箱を背負うと、やはり異質なものを感じて身震いする。

真っ新の冊子を数冊買って螢火は立ち去った。

舗には早春の野山の香りが残され、思いも寄らず心地よい気分になった。

日も沈む頃、藍が舗に立ち寄った。

今から籠ノ目の用心棒をするとかで、その前に訪れたと言う。

独りだった。なぜかそれに違和感を覚えた。

仕事のために動きやすい袴を履いている。襟巻をして、その端がひらひらしている。

襟巻は邪魔にならないのだろうかとぼんやり思った。

「白酒と霰菓子を余分にもらったからおすそ分けだ。お前らにちょうどいいだろ」

「節句の。ありがとうございます」

「酒精は入ってないから安心しろ。だからって呑みすぎるなよ」

そう言って舗の中をきょろきょろ見回す。

「いないか……銀は落ち着いたのか?」

「え」

なぜ、そんな質問をするのかわからない。

気のせいでなく、藍は目を伏せて僕と視線を合わせようとしない。

やましいからだろう。

銀が出掛ける先というのはいつも藍のところだった。

交尾期なのだ。することは決まっている。

どこかへ、なんて曖昧な表現は自分の心に目隠しをするためだった。

「今日は顔を見てないが大丈夫なのか?」

「……あ、はい。銀ならもう大丈夫です。色々とお世話になったみたいで」

「……ああ」

変な空気になり、僕は天井近くに吊り下がっている星図盤を見上げた。

同調したように藍も見上げるが、すぐにじゃあなと言って立ち去った。

雪華さんは、僕にだけ内緒の座敷を教えてくれていた。

舗主の特権だよ、と秘密めかして言った。

座敷の存在を銀は昨日まで知らなかったし、鍵を持っているのは僕だった。

本当にやましいのは僕の方かもしれなかった。

交尾期だからって藍とずっと一緒にいるのが許せなかった。

だから僕は銀を座敷に閉じ込めた。

鍵の掛かる座敷は快適でありながらも檻の役割を持っていた。いわゆる座敷牢だ。

格子になった厳重な仕切りが、どんなに快適に造っても不穏さを生んでいる。

「銀……一日中ほったらかしにしちゃって、ごめんね。大丈夫?」

高いところに取りつけられた窓から夕陽が差し込んでいる。

格子を影にして、畳の上に黒と淡い橙色の模様を作り出す。

ああ、僕は大事なことをすっかり忘れていた。

格子の向こうで荒い息づかいが聞こえる。花のにおいが溢れている。

鍵を開けて銀の尻尾をつかむと、弾けるような震えが伝わった。

いつもなら自力で逃げ出すのに。

さすがにここから逃げ出すのは無理か……花も、こんなになってしまって。

昨日の晩、遅くになって銀が戻ってきた。

外は嵐だ。僕の心の中も嵐だった。

これからは僕が世話を焼くと言って、銀と花を交えた。

舗番の間は相手ができないから、裸で、縄で拘束して、恥ずかしい格好をさせて、道具で。

だって、相手できない分、その方がいいだろうって思ったんだ。

座敷には色んな玩弄物があった。

その中には螢火が恥ずかしがって答えてくれなかったものと似た物もあった。

雪華さんは、ここにある物も好きなだけ使っていいと言った。

「大丈夫じゃなさそうだから楽にしてあげる。最初に僕を頼ってくれないからいけないんだよ。

しばらくはここから出してあげられない」

銀の大事なところが鋭敏になっている。それに触れて銀を鳴かせた。

「僕と一緒にいてよ。もう途中で君のことを忘れたりしないから」

 3-3