春先-拾 野良猫をやめた黒糖は紺と新しい生活を始めた


雪華/

春の盛りだ。花々も猫どもも。

庭の桜は両腕を大きく広げ、軒先に届くほど手指を伸ばしてきた。

開け放した縁側までも花片で同じ色に染まる。

今日も昨日も一昨日も、その様が繰り返された。

その内に、例の賭事の勝敗を披露する宴席を設けるとの知らせがもたらされた。

それからすぐして、壱鹿が屋敷へ迎えにやって来た。

「やれやれ、ようやく決着がついたか」

関わりのある連中を集めてのお披露目会だ。

せっかくなので壱鹿に身支度を手伝ってもらい、帯を締める。

最後に肩に羽織を掛けたところで爪先立って唇を重ねる。

このまま絡まり合いたいものだが、着物が崩れると目の前の赤猫がうるさいので思い留まる。

「春うらら、皮衣の受け渡しにもってこいの日和だね」

悪ふざけに女物の衣を選んだ。丸みのある笠も被る。

ついでに女狸の面を袖に忍ばせれば、用意はできた。

「さあ、行こうか。雪花の悔しがる顔をとくと拝んでやろう」

猫 の 恋 と も

  ネ コ ノ コ イ ト モ

黒糖/

制服というものに袖を通す。まだ慣れやしない。

紺や雪花の洋装を見たことがあっても、まさか俺が着ることになるとは。

たまになら桃花も着るのだと火狐から聞いた。

ピンヒールだとかいう靴がそそるとか踏み付けられたいとか言っていた。

洋装は窮屈だと思っていたが、見た目より動きやすくできていた。

とにかく着替えて勤め先へ向かう。帽子を忘れかけた。

雪華に紹介してもらった口だ。

勤め先を決めて、新しいねぐらも見繕ってもらい居を移した。

居、住む処、棲家……俺にとっては紺と暮らし始めたねぐらだ。

そう考えると、頭の中を掻きむしりたくなる。

紺と一緒になって愉しそうに選んでいた雪華が忌々しい。

忘れそうになった帽子は、紺が気づいて俺の頭に被せた。

その帽子を深く被り、思い出して赤くなった顔を隠す。

紺の奴め……春猫だからって調子に乗りやがって。

いいにおいをさせて夜も朝もなく誘ってくる。

負けを認めたせいで誘いを断ることもできず、他に世話を任せる訳にもいかない。

だから俺は紺にやられっぱなしだ。

勤め先へ着いて早くも仕事に取りかかる。

俺の仕事は、頼まれた荷物を指定の場所へ届けることだ。

わかりやすくていい。体力なら自信がある。

雪華/

「黒木。それで、黒糖と紺は今どんな具合なんだい?」

「二人ともいい気なもので、ねぐらでずいぶん愉しんでる模様です。

そうですね、世間一般に見ても熱々と言っても差し支えないでしょう。

とは言え、あなたの方がよくご存知でしょうに。色々と世話を焼いているのを知っていますよ」

「ああ、知っているとも。しかし、ここに集まった狐どもに聞かせなければならないからね。

あの黒糖が、誰かを選んだと思うと可笑しくて仕方がない」

笑いながら、周りに座す面を被った者どもを見渡した。

隣に壱鹿を侍らせ、対局に白狐と黒狐の面が席を並べる。

間に、傍聴扱いの黒烏と青魚の面。私も女狸をつけている。

皮衣の脱ぎ方も忘れた猫に面は不要なので、壱鹿も黒木も面無しだった。

首謀者の嵐雪はまたしても捕まらなかった。まあ、よしとする。

「しかし羨ましいものだね。その目で色事を見てきたのだろう。お前は交じらなかったのかい」

「いくら私でも、番いの邪魔をするような無粋な真似は致しませんよ。

紺くんが春猫になっても、黒糖くんが受け手であることに変わりないようです」

「そうか。春猫の相手といえば、壱鹿の時もよかった。

またなってごらんよ、可愛がってあげよう」

「なったら世話になってやるよ。それより、いい加減にそのふざけた面を取ったらどうだ?

いつまでそうやっているつもりだ。化けもしないくせに」

「壱鹿はこういう薄気味悪いものを嫌うからね。

酒を呑むには邪魔になるし、視界も狭い。そろそろ外してもよいだろう」

私は女狸の面を外してくすくす笑った。

黒糖/

最初の荷物は月喰の先生のところだった。

軽い包みに脚も軽い。だが貴重な品だとかで本人に直接渡せという。

当てずっぽうで先生を探し回った時と違ってすんなり見つかる。

発情期が終わったことを伝えると、労いの言葉をくれる。

医家も薬師も大して変わらないと思っていたが、蜘蛛を知ってしまえば天と地ほどの差だ。

幸いにして、今のところ蜘蛛の屋敷に届け物はなかった。あの猫と顔を合わせることもない。

次の大荷物は星渦堂だった。

大荷物の中身はすべて書物だ。ずっしり重い。

「荷物が届くと雪華さんから聞いています。蒐集家を口説いてようやく手に入れたそうですよ」

雇われ舗主は怪しげな書物を気後れもせず受け取った。

舗の奥まで運び入れ、棚入れもする。

ただ運ぶだけでなく、こういう頼まれ事も多く引き受ける。

それで、今日の俺は星渦堂の書物に終始した。

雪華に雇われた春と銀が茶を入れてくれた。いい奴らだ。三色団子も馳走になる。

陽も暮れ、これで今日は上がりだ。その脚で紺を迎えに行く。

迎えと言っても、摩夷夏に呼び付けられていた。だから単に出向くという話だ。

帳場の裏手にある戸口に近づくと、紺が出入りの猫の応対をしていた。

その姿を見てちっと舌打ちする。ありゃどう見たってなあ。

「おい、俺の猫に言い寄ってんじゃねぇ。諦めが悪ぃぞ」

研ぎ師の雨塚だ。こちらを睥睨する。喧嘩ならと構えるが、俺と口を利こうともしない。

何も聞かなかった風で紺に向き直る。

「あいつに飽きたらいつでも俺のところに来いよ。浮気でも気の迷いでも歓迎しているぜ」

そう言うと、不意を突いて紺の首筋に唇を押し当ててから立ち去る。ふざけんなよ。

姿が見えなくなるまで睨んだ後、振り返ると紺が悶絶していた。

はあ? まさか雨塚に悶絶してんじゃねぇよな。

雪華/

「この度の賭事一件は、祝杯も褒美もすべて私が頂戴するよ。最後に勝った者こそ真の勝者だ」

「一体、どうやって決着をつけたんだ? 春先はまだ嵐雪に傾いていただろうに」

黒烏の面を外した藍が問う。大きな盃で酒をあおっている。

「何、大したことはしていないよ。花合わせでけしかけたのだ。

そもそも、嵐雪の風来坊に置いてけぼりを食った時点で決まっていたことだ。

黒糖が素直になれば、いづれは紺になびくことなどわかりきったことではないか」

「流石は古参の狸殿で……紺は言うに及ばず、花合わせは黒糖にも効果覿面」

敗者の席に座る雪花が口惜しいげに言う。白狐の面を取り払って膝の隣に置く。

「ふふ。そうだろう、そうだろう」

「参りましたよ。嵐雪くんがそちらについたんでしょう? それじゃあお手上げだ」

雪花に比べ、敗者のくせに痛くも痒くもない黒鶫が笑う。黒狐の面を片手で玩ぶ。

「どうやら、黒糖は籠ノ目ののれんをくぐれやしなかったようだな。ぼろ儲け屋も舗じまいだ」

白橡が青魚の面を放り投げる。細い竹筒に巻いて焼いたすり身に噛みつく。

「本当に惜しいよ」

「そんな言い方ではそれほど惜しいように見えませんよ。

もっと悔しがる振りをしてみせなければ」

黒木の言葉に黒鶫がまぁね、と含んだ笑いをする。

「惜しいと思わぬ者に嘘をつかせても意味がない。

だって、ねぇ。痛手を負うのは雪花なのだから。お前の大事なものを早くお出しよ」

雪花に視線を遣ると、ふんと鼻を鳴らして言う。

「遅れてくる者を待てはしないようですね。それでは、皮衣のお披露目に移りましょう」

別室に用意していたであろう皮衣を持ってきて、円座の真ん中に広げ置く。

「われわれ狐狸の大事な宝だ。そうそうお目にできるものではないからね、とくとご覧あれ。

まずは私の皮衣を返してもらうとしよう」

広げられた皮衣は私の所有物だ。褒美とはこれだ。前回の勝負時に雪花に渡っていた。

ほろ酔いの身体で立ち上がると、肩に掛けていた羽織が滑り落ちた。

着ていたのはそれだけだ。壱鹿に言わせてみれば、それは着ているに入らないそうだ。

もの持ちのよい身体を見せびらかせて真ん中へ行き、極上の皮衣を手に取る。

ふわりと着こなし、肌になじませるようにする。そうすると、潤いと色づきが増す。

「ようやく私のところへ戻ってきた。やはり、纏うと纏わぬでは心地が違う」

ひとしきり自慢する。気力も精力も高まる気分だ。

「美しい皮衣ですね。滅多に巡り合える代物ではありませんよ」

「こんな大層なものを賭けるとは、いかれている」

「粋だと言って欲しいものだね。何、預け合うだけだよ。

ぬくもりを感じて妄想に浸るもよし。纏えるものならば、化け事に使ってよしだ」

獣どもはみな皮衣を持っている。

猫も持っているには持っているが、化け術が下手だから脱ぎ方を知らない。興味もない。

しかし、私の身体には興味があるようだ。赤猫の目線が一番熱っぽい。

だから壱鹿の口いっぱいに花を押し込み、妙技を堪能するままに蜜を飲ませた。

そうやってみなの前でちょっと戯れた後で、今回の褒美をいただく。

雪花だ。

「お前の皮衣をおくれ。いやいや、預かるだけだったか。

この手に腕に、触り心地を確かめたい」

雪花は派手に見えて密やかさを好む。

そのためか、みなの前で姿をさらすことに高揚するというよりは、屈辱を覚える性質だ。

嫌だろうに。だから、私にとっては面白いのだ。辱めは愉快な道楽だ。

雪花は黙って前へ進み出て、それを脱いだ。

越冬した狐の皮衣だ。上等な質感で保温に優れる。翻って、高度な化け術を完璧にするものだ。

「……素晴らしい。白銀の光沢に絹の質感。毛足がやや長いのは雪花の特徴だね」

手に入れたばかりの皮衣に早くも袖を通すと、雪花に抱かれる心地がする。

その格好で天女の真似事をしてみせる。

「こいつはずいぶん手入れが行き届いている。まめな奴め」

「雪花さんはこういうことに怠りがないね」

「ただの暇人だろうに。だが玄人並みだ。手入れのコツを聞きたいもんだ」

「高級な皮衣もよいですが、丸裸の雪花さんも最高の眺めですね」

雪花に手を伸ばす黒木に目を向けたところで、下座の襖が開かれた。

黒糖/

襖を開けると、この有り様だ。

雪華と雪花が真っ裸で宴席の真ん中にいる。

色欲狸はいつものことだが、雪花まで何やってんだか。

世話係の壱鹿、悪巧み仲間に加わったであろう籠ノ目の他に藍もいる。

白橡がはやし立て、黒木が裸の獲物を狙っている。

この面子なら嵐雪がいてもいいだろうに、その姿はなかった。

「黒糖に紺、遅いじゃないか。待ちわびたよ。こちらにおいで」

雪華が手招きする。裸体に皮衣を被っている。

狸のくせに狐の皮衣だ。惨敗の表情を浮かべる雪花からして、狐の皮衣を盗られたのだろう。

「嘘つけって。待てなかったからこんなことになってんだろ」

「ふふ、わかってるじゃあないか。待つことなしに始めてしまったよ。

しかし悪く思わないでおくれ。勝ちをいただくまでに、大層待たされたのは私なのだから。

ともあれ、呑め呑め」

了解もなしに、顔より大きな盃で呑ませてくる。

何か仕掛ける気配を感じるが、別に何もなかった。

紺にも同じようにすると、口端から桃色の濁り酒が滴った。

「紺、行儀が悪いよ」

雪華が紺の肩を引き寄せ、滴り落ちる酒を舐め取る。

身体を震わせる紺は接吻まで食らっている。

この調子だと、紺が狸に慣れるのに時間が掛かりそうだ。

「面白い遊びを差し出してくれた黒糖と紺にもご褒美だ。

あの晩は酒風呂に入り損ねただろう。今宵はお前たちで愉しむがいい」

差し出したつもりはない。

と毒づく間もなく、目の前から雪華が消えた。

他の連中も消え去った。宴の痕跡もない。まさに狸に化かされた気分だ。

ただ、さっきまで円座になっていた真ん中に升が残されていた。

浮かれ猫、と升に書いてある。これ見よがしだ。

一口呑んですぐに何の酒だかわかった。

紺が忘れてしまった、あの晩の利き酒遊びを思い出してしまう。

「ひとまず湯殿に行ってみるか」

そうですね、と紺が請け負って、部屋付きの内風呂へ案内する。

確かに酒風呂が用意されていた。

椿と桔梗の花首に蕾が浮かび、赤と青紫の花片が散らされている。ここで間違いないだろう。

「檜の中に酒の香りがしますね。芳しくていい香りです」

紺がのんきなことを言う。愉しそうで呆れる。

簀の子状の椅子に盆が置かれ、こっちの酒の支度までしてある。

「黒糖さん、背中を流してあげますよ。せっかくだから愉しみましょう」

早速、手に石鹸を泡立て、身をすり寄せてくる。

「雪華の手の内だってのに」

「黒糖さんと一緒なら、そんなこと構いませんよ」

背に紺の胸や花を感じながら、一方的に感じやすい部分を揉むようにされる。

二人して泡だらけになる。

洗われているのか、洗う道具にされているのか知れないが……気持ちはいい。

湯船に浸かると、湯は浅く、ぬるめだ。戯れつつ酒を呑む。

「さっき、雨塚に妬いたでしょう。俺の猫って……嬉しいです」

「……俺の猫は、俺の猫だろ。何にしろ、隙がありすぎなんだよ」

「春猫なんですからどうしようもないんです。

黒糖さんの時よりマシですよ。続き……壁に手をついてみてください」

両手を壁につくと、腰をつがえて後ろから花で突いてくる。

「黒糖さん……信じられないくらい素直で、可愛い」

こっちが大人しくしてりゃあ。やられっぱなしも悔しくなって紺の首筋を咬む。

「こうやって呑ませてやったのも覚えてないんだろ……中で思い出せ」

口移しで酒を呑ませ、舌で口の中を探る。

その後で、湯に浸かった状態で四つん這いにさせ、花でもう一つの中を侵す。

「この程度では思い出せませんよ……私が思い出すまで、投げ出さないでくださいよ」

「その前に酔っ払って潰れたら承知しねぇぞ。酒に弱いくせに」

升に入った酒も、身を浸す酒も、口移しの酒も同じものだった。

この酒は、猫の恋だ。

恋なんて嫌になっちまうが、紺とならそうでもないようだ。

そうして、夜が果てるまで二匹で甘く戯れた。

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