春先-壱 雪華が気に入りの壱鹿を蝶とともに花莚に翻弄する


壱鹿/

春の気配が近づいていた。

ちょうど節句の季節に思い立って、狸のご隠居のところへ顔を出すことにした。

ご隠居は俺らの色猫の師匠だ。俺はもう色猫をしてないが、今でも可愛がってもらっている。

屋敷へ着いて人を呼ぶ。

もう何回か呼びかけてようやく、桜模様の衣を着た綺麗な稚狸が顔を出した。

髪や着物に本物の桜の花片はなびらがついている。庭に桜なんて咲いていたか?

稚狸に案内されて後をついていくが、こいつは真実狸なのか式神なのかと正体を思案する。

ご隠居は式神に幼い狸の姿をさせて身の回りの世話を焼かせているのだ。

そうこうする内にいつもの奥の座敷へ通された。

庭に面した座敷の戸を開け放ち、その向こうには芽吹いたばかりの梅の木があった。

桜の木も植えてあるが、咲くにはまだ早い時期だ。外はやっと春を迎え入れたばかり。

だが、座敷の内はすでに春の盛りの様相を呈していた。

桜の花片で散らかったその中で雪華は死んだように眠っていた。

呼吸をしているか怪しい。だが、生きている証拠に頬が桜色に染まっていた。

花 莚 に 乱 れ る

  ハ ナ ム シ ロ ニ ミ ダ レ ル

雪華/

冬があんまり長く続くものだから、春を感じたくて堪らなくなった。

狸連中の伝手を使って桜の花片をかき集めた。

寒桜か早咲きか、はたまた狂い咲きか、そういう桜の花片を。

それが今朝方届いた。

屋敷で一番広い座敷で可愛らしい式神らに手伝わせ、気の済むまで花片をまき散らした。

届けにきた桐生は粋なことに蝶まで寄越して気分がよかった。

代わりにお勧めの色猫を紹介してくれと言うから、今度雪花にきいてみるか。

それにしても、蝶が翅を見せびらかして優雅に舞う様は綺麗だった。

こいつらは己が綺麗で称賛の目を集めることを知っている。

花片と白酒、霰菓子、稚狸姿の式神とで散々騒いだ後、

疲労を覚えてそのまま花の莚となった座敷で眠った。

来客の呼びかけにはすぐに気がついた。

しかし、春の眠気に気持ちよく浸っていた身体を起こすのは億劫でならない。

眠いのだ。目蓋を開けることも煩わしい。

ここへ訪ねてくる輩は知れている。

私の気まぐれに付き合う狂った奴らよ。そうして私の好いた者らでもある。

花莚の心地よさに浸っていたいから、桜の花片を乗せて式神を放った。

壱鹿/

眠っている雪華の顔を覗き込む。

夢の中にいる屋敷の主は、式神を寄越す手間は掛けるくせに客を出迎えた試しがない。

いつものことではあるが、何だかな。

屋敷の主は眠りこけているし、案内の稚狸は音もなく姿を消していた。

やっぱり式神だったのか。

目の前を蝶が通り過ぎる。ぼんやりと目で追う。

どうやって取り寄せたんだか、座敷にはこれでもかと花片が散らされている。

町外れのこんな屋敷にせっかく足を運んだというのに、一向に起きる気配がない。

立ったまま上から眺めていると、雪華の頬に花片が一枚落ちていることに気づいた。

むずいだろうと思って花片を取ってやる。

屈んですぐ手を引っ込めようとしたが、あることに気づいて生唾を飲んだ。

よくよく見ると着物が妙な具合に乱れている。

雪華には露出のきらいがあるので、酒が入れば脱ぐに決まっている。

だが、やや開かれた足の近くやその辺りに点々と蜜溜りができていた。

その蜜溜りに蝶が数頭集まっている。

そして、衣で隠れたところにも、蝶が寄って蜜を吸っていた。

色情を煽られ身を乗り出した時、引っ込め損ねた手をつかまれた。

雪華/

壱鹿の手が目の前にあった。

美味しい料理を生み出す手であり、その手は逞しく旨い身体に繋がっている。

反射的に壱鹿の手を引っ張ると、その指先は花片を摘まんでいた。

悪戯心を起こして花片を舌で器用に舐め取る。

舌先に、確かに薄っぺらいものが貼り付いているのを感じる。

噛むと、綺麗な花片に不似合いの苦い汁が出た。

「ああ、苦い。塩漬けの桜とはまったく異なるようだ」

手を引っ張られた弾みで畳に膝をついた壱鹿はぼうっとしてこちらを見ている。

「そんな顔をしてどうした? 壱鹿も食べてみるかい」

茫然とした壱鹿の顎を引き寄せ、舌先に貼り付いた花片をその舌に移した。

花片は唾液を含んでさっきより薄っぺらく透けてしまっていた。

苦い汁はもう出ないかもしれない。

そんなことを思いながらも、恍惚とする壱鹿は私に見惚れているのだと思い至る。

昔からそういうことがよくあった。

だから、己を看板に据えて、あとは扱いやすい猫を拾い集めて娼館を開いたのだ。

例外の紅白狐と、中華猫、紺猫に三毛猫。そして赤猫。

目の前の赤猫は今でもずっとお気に入りだ。図体はでかいのに世話好きで可愛いのだ。

あの頃の金儲けは愉しかったがもう十分だ。しかし、色遊びはやめられっこない。

唇を重ねて、やわらかい部分を感じ合う。

たっぷりと時間を掛けて、舌を絡め花片を奪い返した。

壱鹿/

かつて、色仕事をしていた時分に大いにもてはやされただけあって、

いつまで経っても色香の衰えない狸だ。

色香もそうなのだが、精力も衰えることがないのでこちらが面食らう。

「春の節句だからちらし寿司と蛤の吸い物を持って来たんだ。

吸い物はまだあたたかいから、すぐ食べようと思ったんだが……」

断りもなく着衣を脱がし始めた雪華の手を押し留める。

何でやめようとするのか理解できないという顔をこちらに向ける。

「仕方がないが、それは後にしてこっちの喰事に付き合ってくれてもいいだろう。

たった独りでこの屋敷にいるともの寂しい」

仕方がないのは俺の台詞だ。だが、そんなことを言う雪華は蠱惑的で堪らない。

蛤は美徳と貞節を意味するというが、この色欲狸には意味のないことだった。

「嘘つけ。式神と存分に愉しんだんだろ。それとも独り遊びか?」

蜜溜まりを指で示し、言い逃れができないようにする。

雪華は知らぬ顔でそれを見やるが、少しの間を置いて答えた。

「壱鹿は意地悪だね。何をしていたか答えさせようというのかい。

独りで遊んでいたがつまらなくてね、式神に手伝ってもらったのだよ。

ねぇ、そんなことより、壱鹿を先に喰ってもよいだろう。喰いたいんだ。今すぐ」

妖艶な決め顔を作って俺にしがみつく。

身体をすり寄せるので花の状態がありありと伝わる。

綺麗な顔に似合わず、色欲の絶えない雪華は喰うことしか興味がないのだ。

昼間の生活と閨の生活に境などなく、本能に忠実に行動する。

外は明るく、夜が訪れるのはまだ先だ。

こちらもそのつもりで来たのだが……明るい日が差し込む座敷が無闇に罪の意識を生む。

とはいえ、雪華に弱い俺はとてもじゃないが、あらがうことができない。

悔しいことだが、雪華はそういうところをよく心得ている。

花もいいにおいをさせているし、俺だって旨いとわかっているものは喰いたい。

雪華/

壱鹿の舌づかいはすこぶるよい。他の猫と比べようもなかった。

昔、何の気なしにひらめいて、舌づかいを教えてやろうと花を舐めさせた。

しかし、教える前に熟達していた。それからずっと病みつきだ。

私のお勧めは断然赤猫だが、桐生に教えてやるものか。

色猫ではないのだから約束は違えていないだろう。

壱鹿に花を舐めさせていると、

私の蜜溜まりに群がっていた蝶が新しい蜜を感知してひらひらと集まってきた。

その気なく蝶を追い払うが、壱鹿の腰に近づく蝶があることに気づいて悪戯心を起こした。

一匹の蝶を捕らえて、式神にするように命を下した。

蝶は狂ったように舞った後すぐして稚狸姿に変化した。

そして、僕となったそれは命令に忠実に従った。

「壱鹿はこういうのも嫌いではないだろう」

「……っ! だ、なんだこいつ。式神か、よ……あ……っ! どこ触って……!

おい、やめさせろっ!」

「そんな邪険に扱われると傷つくね。その式神、昔の私によく似ているだろう」

途端に壱鹿はたじろいた。ああ、本当に可愛い奴だ。

「式神に気を取られてないで、私に構っておくれ。続けて……」

両手で顔を包んでこちらを向かせ、壱鹿の唇に唇を重ねる。

壱鹿は、背後の式神を気にしながらも再び私の花に集中しようとした。

しかし、さっきまでと異なり、舌先が小刻みに震えている。

「集中できていないよ」

私に似せた蝶の式神は、後ろから壱鹿の花を探っている。

その様子が見えない私は気もそぞろになったので、ひとまず邪魔な衣を脱がせた。

それから、花に限らず壱鹿の弱点を突くよう式神に指示した。

壱鹿の狼狽を愉しみながら、私は高みから見物する。

壱鹿/

式神にいいようにされてしまっている。雪華の幼い頃の面影を映した蝶の式神だ。

今以上に繊細で可愛らしい……餓鬼に興味はないが雪華にしか見えなくて困惑する。

わかっていても頭がついていかない。内心腹立たしいやら悔しいやら。

すっかり集中できなくなり、前からも後からもいいようにされる。

二人だか三人だかで同時に達し、花筵に体を投げ出した。

いつの間にか式神は消え、本体の雪華だけが残っている。

その雪華は、まるで蝶がするように俺の花から蜜を吸っていた。

まだ果てないのか。古狸と呼ばれているくせに……

「さっきは壱鹿の手料理を断って悪かったね。

壱鹿の料理も旨いが、花の方がずっといいからね。早く喰べたくて急いていたんだよ」

もう一度、悪かったねと言うと、雪華は邪気もなく微笑んだ。堪らない。

「もう満腹だが、ご飯にするかい?」

花莚に新たな蜜溜まりができていた。飽きもせず、そこにも蝶が集まっている。

さっきの蝶の式神も元に戻ったんだろうか。それならあの中に混じっていてもおかしくない。

蟲も悪くない。そう思うと妙な気を起こしそうだった。

ふと雪華の顔を見ると、満腹などという言葉は嘘だとわかった。

そんな訳で、厚く散り敷かれた花筵の上で再び乱れることになった。

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