年末-漆 媚薬の報告に蜘蛛を訪ねた黒木は烏をつまみ喰いする
黒木/
町外れに少々趣きの異なる屋敷がある。
造りは豪奢だが辺りに漂う静けさは不気味で、
反面ねとつくような空気で他を寄せ付けないものを放っている。
そこに棲むものは猫や狐狸とは異質な存在だった。
もちろん、そこを訪れる私もまた同様。猫ではあるが黒い影でもある。
屋敷の門をくぐり、断りもなく敷居をまたいで進入した。
異 風 の 薬 師
イ フ ウ ノ ク ス シ
蜘蛛/
「例の薬の効き目は素敵なものでしたよ」
目の前の黒猫は無駄に笑みを浮かべて話を切り出した。
「おや、不機嫌なお顔ですね。たまの会話くらい愉しんではどうですか。
これ以上偏屈になりようもないものを、さらに偏屈になるおつもりですか」
話の内容は元より、笑みも口調も相手のすべてが気に障る。
「無駄話はいい、早く資料を出してもらおうか」
「わかってますよ。あなたは……ああ、はいはいちゃんと用意してますって。
そんな恐い顔をされてはせっかくの美しい顔が台無しですよ」
黒猫はそう言うが、もったいぶってすぐには渡さない。
その手に持つものをようやく寄越すが、いちいち時間が掛かって煩わしい。
黒木/
「猫のにおいがしますね。それも発情期の」
屋敷の主の歓待などないことは明らかなので勝手にくつろぐことにした。
資料に目を通し、いくつかの質問を受けた後だった。
「嫌に鼻がいいことだ」
資料から目を離さず答える。
「黒糖くんと似通ったにおいですね。
鼻も花も私の自慢の器官ですから、まず間違いないでしょう」
「……」
「そういえば、例の薬は前々に実証実験があったとか。
被検体の用意までするとは嵐雪くんは抜かりがありませんね。
そちらの方が過激だと、小耳にはさんでいますよ。
黒糖くんもそりゃもうよかったですが……おや、前の方が上だというなら、それはそれは」
蜘蛛/
「こちらのやる事に口出しは無用だ。
お前は色惚けした猫の記録さえ取っていればいい」
「ええ、心得ていますよ。記録を取ることもそれなりに愉しいですし」
「結構な事だ。それなりに、とはとても信じがたい言葉だが。
さあ、用は済んだ。さっさと消えてしまえ。しっしっ」
「冷たいですねぇ。とはいえ、まったくおっしゃる通り。
用がなくなってしまえば仕方がありません。そろそろお暇と致しましょうか」
軽く伸びをして黒猫は答えた。
黒木/
歓迎がないのだから見送りがないのも当然。
蜘蛛の部屋を出た後、玄関へ向かうふりをして屋敷を探ることにした。
薬を、黒糖くんの発情期を引き出す薬を作った張本人は色に執着しない性質の毒蟲だ。
それが被検体とはいえ、猫を屋敷に棲まわすとは愉快な話だ。
どんな芸を仕込んでいるのか思案すると胸が弾む。
長い間うろつくのは危険だが、猫のいる部屋に当たれば儲けもの。
蜘蛛に見つかれば適当にとぼければいい。
蟲種とは違い、猫は同種のにおいを嗅ぎ分ける本能が備わっている。
一際においの強い場所で足を止めた。
烏/
猫は静かに眠っていた。
火鉢もない部屋で寒くないのか、乱れた格好で寝入っている。
部屋は白檀のにおいで満たされ、猫自身は白濁した液にまみれていた。
液は冷え切っていたが、それほど時間が経っているとは思えなかった。
おそらく、客が訪れる直前まで抱かれていたのだろう。
猫が薄目を開けた。
その身体をなで、やわらかく感じやすいところを探る。
熱く吐息して目を覚ましたところで、黒猫はその唇を吸った。
二股に分かれた尻尾が根元からびくっと震えた。
「お目覚めですね。君はあの蜘蛛にどんな風に抱かれるのですか。
その身体で教えていただきましょうか」
黒木/
蜘蛛は美しい造りをしている。
顔の造形はもちろんのこと、身体やふるまいが。何よりあの手が美しい。
長い髪は雪のように白く、先に向かうほどに水色を帯びる。
青白いほどの病的な肌も加わって儚いようだが、
その在り様と意識の鋭利さにより決してそうは思わせない。
けれども喰わせてくれないのはいただけない。
籠ノ目の主人とは酒呑み仲間と聞いているが、加わらせてくれないだろうし。
手に触れる者の、やわらかな部分をなでながら蜘蛛のことを考えた。
腕の中で喘ぐ猫はすこぶる感度がよく、それに起因するこちらへの刺激もよいものだった。
その快感に浸っていると、不意に首筋に鋭い痛みが走った。
蜘蛛/
「大層可愛がってくれたようだな。
消えろと言った意味が、理解できなかったとみえる」
背後に立ったまま黒猫の首をつかみ、口を開かせて咽喉の奥まで黒い丸薬を落とした。
先に猫の優先順位を決める部分を支配してやった。
血の出るほど刺したのだ。
しばらくは種の本能に従うことだろう。
私の言うことに逆らえないはずだ。さて、どうしてくれようか。
「少々泳がせてやったが、時間を与え過ぎたようだ」
この図々しい黒猫が、屋敷で気を引かれたものを捜すことは目に見えていた。
黒木/
不覚にも首筋を刺された。
情などひと欠片もなく、氷の冷やかさを感じた。
「……油断、しました」
瞬く間の出来事で、得体の知れない薬を飲まされた。
この様子だと血も出ているはずだ。
蜘蛛に刺されたらどうなるのだろう。強力な牙に毒がなければいいが。
弛緩した身体は床に放り出され、腕に抱いた猫は奪われた。
感覚が急速に失われ、身体を支えることができずにうずくまるしかない。
少し距離を置いた場所で色めいた呻き声がしたかと思うと、無理矢理に顎をつかまれた。
「丸薬は飲み込んだようだな。すぐさま身体に異変が生じよう」
蜘蛛は酷薄な笑みをこちらに向けた。
瞼を開けているのもやっとの状態だったが、目に映った姿もまた美しいと思った。
蜘蛛/
「何だ、もう動けるのか」
余所事に思いながら、猫を相手にぬちゃぬちゃと音を響かせた。
半刻が経ったとき、黒猫は幽霊のように立ち上がった。
一瞬ふらついたが、持ち直したようだった。思いの外、回復は早かった。
感覚を奪った後、筋力の回復に相反し、言いようもない苦痛が全身に広がっただろうに。
「美味な猫ですね。あなたが抱かれるのであれば、ご相伴に預かりたいものです」
「お前に喰わせてやる訳がないだろう」
「ふふ、そうですか。また遊びに参りましょう」
「遊びではなく報告だ。そういうつもりなら来るな」
黒猫は最後に笑みを作って、暗がりに吸い込まれるように影と消えた。
「黒猫め、回復が早すぎる。苦しむ様子をもうしばし見ていたかったがつまらんな」
蜘蛛はつぶやいて、腕の中の猫の意識が飛ぶまで弄んだ。
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