兄弟と黒猫-8の1 鯨油を塗る【青色】


ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。

今夜は大鯨オオクジラの気が非常に不安定です。水上竜巻が現れやすいため海には近づかないでください。

以上、観測局員・ジェラルドがお伝えしました。

[ Lapis Powder / ラピスパウダー ]
青 石 の 粉 末

1.8.1

ホリゾン・ブルーの瞳を大きく開き、マーブルは防波堤から穏やかな海を見つめていた。

時折、熱い風が吹き付け、両耳にぶら下がった細長い角柱のピアスが煽られる。

耳元が露わになると、この海を凝縮して丸めたようなオパール玉が左耳で光った。

眼下には碧色へきしょくの海が広がっている。

白い水底が見通せるほどに透明で、光の網が張り巡らされたような波間模様が浮かぶ。

行き交う船も戯れる生き物の姿もなく、ただただ波が揺らぐ。

顔を上げて遠くまで見渡せば、対岸の陸地までもが揺らぎ、外天でもないのに不可思議がすぐそこにあるようだ。

「マーブル、見惚れてる。いつまでもそうしてるとよくない。バテるぞ」

後方からアトリの声が聞こえた。

振り仰ぐと、小高い灯台の扉口に佇む姿が見えた。

「つい。北区の海はいつ見ても綺麗だね」

「ちょっと綺麗すぎて俺は見てられない。ほら、ジェラルドが待ってる」

アトリは眩しさを遮るように手をかざした。

「うん、行くよ」

そう言って、島の最も北に建つ真白ましろい灯台を見上げた。 

遠くからだとチェス駒に見えた塔状の建造物は、最上部が巨大な光源になっている。

夜間には明滅するはずのそれは、居場所を示す光の標識となる。

やや下へ視線を移せば、青空と一体化した透明な硝子覆いと手すり付きの張り出し部があり、さらに下方には円い窓がひとつ。

僕は灯台に続くゆるやかな階段を上り、タブレットチョコレートに似たパステルブルーの扉をくぐった。

外の暑さが嘘みたいに内部は涼しく快適だ。

扉を閉めると、僕達の声が聞こえていたのかジェラルドが口を開いた。

「灯台の保守点検は久しぶりだろう。いつもの調子でいると、先に体がやられてしまうよ」

と笑う。

「わかってるよ。でも、全部が眩しくて見入ってしまうんだ」

「まったくさ。熱風も強いし、海からの照り返しも酷いっていうのに」

「ここの海の透明度は抜きん出ているからな。まあ、他にも思うところがあるかもしれないが。

窓越しじゃあつまらないか。最上階なら幾らかいいだろう」

僕達はジェラルドの手伝いで『北端』へやって来た。

早速、ロマノフは半地下になった保管室で作業を始めた。

異変がないか目視し、タンク付きの青い装置と繋がったパネルにセキュリティキーを入力する。

表示が切り変わり、単純な質問に従って入力していく。

必要量を設定して抽出を開始すると、完了予定時刻が表示された。

「抽出まで3時間か。それまでに点検を済ませてしまおう」

保守点検は長らくキフィが手伝っていた。

僕達も経験があるにはあるが、ずいぶん前のことなので細かいことまで覚えていなかった。

ジェラルドの後について点検箇所を回る。

灯台内部は1階がキッチンなどの居住スペース、2階が機器類が設置された作業スペースになっている。機器類の反対側はカーテンで仕切られ、横へずらせば半円形のベッドが現れる。

設備や家具類はすべて、円を描く壁面にぴたりと嵌まっているのが面白い。

内部の空調は正常に働き、少し乾燥しているが許容範囲内だ。

事前の遠隔操作で到着時刻に合わせて温度調整をした。

換気や清掃は自動設定されているが、それらの確認も点検項目に含まれているのだ。

常駐する者はいない。設備は大部分が自動化されている。

次に管制器や灯火の点灯状態をみていく。

灯台の外観は到着時に確認して問題なかった――――残るはゲートだ。

2階でモニターに向かうジェラルドの後頭部が横顔に替わる前に3階へ到達する。

扉と同じパステルブルーの階段はややねじれた梯子で、3階より上は螺旋を巻いた階段が空間のほとんどを占める。

ジェラルドがゲートの開閉操作をする間、僕達は灯台の最上階を目指した。

急勾配の螺旋階段は、巻貝の最奥へ進む冒険家になった気分にさせる。

途中途中に、巻貝や二枚貝、変わった貝のスケッチが飾られているせいもある。

クリーム色の台紙に黒鉛で描かれ、誤って絵具を落としたような色にじみがある。

薄青く透き通ったにじみだ。

階段を上り切り、外から見た張り出し部に出ると、突然に視界が開けた。

すぐの頭上には巨大なレンズの設置された灯室。

硝子で覆われたドームスペースは全方向を望む全面窓。

見渡す限りの海が不変の顔をして横たわっている。

迷惑なほど晴れ渡った空は、海を一段と輝かせ、美しく見せる。

その時、目の端が銀色の光を捉えた。

そこに無視できないものがある。

灯台を出て防波堤沿いに西へ進むと、銀色のゲートに行き当たる。

どこか温もりのある石造りの建造物の世界で金属特有の冷たい輝きは場違いに感じる。

眺めていると、ゆるやかな流れと同じ速度で両端に柵状ゲートが収納されていく。

開かれた先には、この町と対岸を繋ぐ橋が架かる。

あの長い長い橋の先に僕達の生まれ故郷があるのだ。

橋自体はずいぶん前から使われておらず、実際に向こうへ渡るには海底トンネルを通る。

もう、こちらは移り住んだ羊達でいっぱいだ。

モービルに乗ってゲートを抜けた日の記憶は今では薄れつつある。

僕達が『北端』と呼ぶここは、まさに北区の最北端。

北区へ進入するのは学校で禁止されているが、監視の目がないのを生徒達は知っている。

今日は正式な許可が下りているので気にしなくていい。

ただ、わざわざこんなところまでやって来る物好きな生徒は聞いたことがなかった。

周囲の海水は酸を多く含み、この辺りの空気だって安全は保障されない。

生徒でなくても誰も来るわけがなかった。

物好きの観測局が定期作業をしているのを考えると、無闇に恐れることもないのだけれど。

「最後に水質の確認を頼む。数値上の問題はないようだ」

その声はオパール玉から発信された。

気づけば、ゲートは元の位置に戻っていた。

窓から視線を外したアトリが僕の脇に触れる。

絡んだミスト・ホワイトの瞳がすぐにもこの場を離れたがっている。

思わず微笑むと、怪訝な顔が向けられた。

「どうした?」

「アトリは北端が好きじゃないみたいだ」

「こんな場所、誰だってそうだろ。マーブルだって感傷的になってる」

アトリはにやついて言った。

「うん。どうしてだか気が沈むね……降りようか」

「ああ、海なんかより冷たい水で体を潤そうぜ」

巻貝の先に出口はなかった。

階段を引き返し、シャツを脱いで1階のシャワー室で水加減を確かめ合う。

冷水とアトリが熱気と感傷に当てられた僕を潤してくれる。

「シャワーの水に異臭も濁りもなかった。肌あたりもやわらかいくらいだったよ」

壁際のタオルスタンドに湿ったバスタオルを干すアトリがジェラルドに報告する。

「ねえ、ジェラルドも浴びるんだよね。あんまりゆっくりしちゃだめだよ」

ベッドに寝転がると、体に紐が食い込む感覚がした。

アトリは隣に腰掛け、食い込みの原因に指を差し入れてゆるませる。

反動で別の箇所がますます食い込む。

「んっ」

「いい反応……裸より変にそそるよな」

背中にやさしいキスの雨を受ける。

その様子を唇に一本指をやったジェラルドが見つめる。

「よく似合っている。キーツに頼んだろう」

「うん、局長はわかってるね。いいところがこすれるんだ」

「そんな格好で待てるのかい?」

「僕、待つなんて言ってないよ。待てないに決まってるもの。だから、早くね」

あの日から数えて9日目。

一角獣の甘く食んだ部分は敏感になったままだった。

1.8.2

上がこすれても下がこすれても感じてしまう。

このことをキーツに訴えると、専用のインナーを手配してくれた。

試着はしていたが、人目に晒すのは初めてだ。

「二人で遊んでいていい。始末は最後だ」

ジェラルドが階下へ行くと、僕は起き上がってアトリの耳に口を近づけた。

互いの太腿を密着させてささやく。

返事の代わりに、うなじに掛かるホルターネックが指で弾かれた。

再び体が熱くなるのを感じる。

ほとんど紐でしかないインナーだ。

極小ながら保護する布地があるが、いたずらに絵筆で一本線を引いたようなデザイン。

上下とも同じ仕様で、肌に浮かぶ白い直線が質感を際立たせ、気分を高める。

僕より骨張った手が首筋から背筋をなぞって下る。

星への入口に達すれば、それを阻む紐を爪弾き、指の腹でやさしく撫でる。

僕の期待が目に見えて膨らんでいるのを知ったのだろう。

アトリはベッドに仰向けになった。

跨れば、指が撫でた部分を今度は小さな熱源が這い、淵ばかりをちろちろする。

涼しい顔に腰を据える戯れが最近の僕の楽しみだ。

心地よさに跳ね上がる腰が鷲掴まれ、熱は深く浅くを繰り返す。

「……気持ちいい……ああっ」

期待は今にも弾けそうだ。

星よりここがいいだなんてことはまだ秘密にしている。

見下ろすアトリの期待も張り詰めているので嬉しくなる。

その部分に手を伸ばし、上へ下へを繰り返した。

――――3日間、一角獣はこちらに居座った。

その3倍の日数をかけて、ロマノフは僕に処置を施す。

最終日である今日を外せないため、ジェラルドに付き合って北端まで来ることになった。

一角獣は僕の『気持ちいいところ』を変えてしまった。

処置が半端だと、一生このままらしい。

「……こんな風になるなんて聞いてないよ。一角獣のせいだ……あ、あんっ」

半月ベッドの端に両膝を突けば、相対あいたいするアトリの熱が胸の先端へ移った。

シャワー室から戻ったジェラルドに余地はなく、床に立って僕の星を乱す。

「やだあ……気持ちよくて変になる……」

爽やかな甘い香りに背後から押される。

「今日で最後だ。癖が残る可能性もあるが、衝動は確実に収まっているだろう?」

「可能性って、確実に残るやつだろ。これじゃあ補助の回数を増やさないといけないな」

「それがいい。学校は3兄弟の研究に注目している。おそらく加点項目だ」

「だんだん収まっていくのはわかるよ……何だか惜しい気がする……」

「欲張りなメリノだな」

ため息とともに色を帯びたアトリの声が吐かれた。

熱っぽさに浸りながら、先夜のジェラルドの唇を思い出す。

熱い舌ですら穏やかで、あの目まぐるしい夜を終わらせた。

処置が済めば、ジェラルドと過ごした9日間は甘美な思い出に変わる予感がした。

研究熱心なロマノフは、ベッドの上でも同じ熱心さで快感を追い求める。

僕にとってアトリは特別だけれど、ジェラルドもすごくいいんだ。

今まさにそう感じている。

外天帰りでしか為されない刺激を享受すれば、最初の風船が破裂した。

連鎖的な痺れが体中を走り、炎天に晒したアイスクリームのように脳みそまでもが溶けていく。

甘ったるい声が口から零れた。

思考は溶け、恍惚に身を任せた僕は足りないものを求めて頭を低くした。

すでに限界に達しているそれを捕え、くわえようとした時、やさしい声に止められた。

「マーブル君、だめだと言っただろう」

「どうしても? だめ?」

「今はだめだ。これで我慢するんだ」

元の高さまで引き戻され、顔を後ろへ促される。

唇に熱が触れたと思えば、薄く開いた隙間からやわらかなものが押し入る。

絡め合うと気持ちよく、新しい風船が膨らみ始めた。

夢中になっていると、ジェラルドは緩急をつけて星を圧迫してきた。

「……っ」

その時、僕の手の中でアトリが限界を迎えた。

ジェラルドの動きに合わせて握り込んでいたのが弾けたのだ。

間もなくして、僕の星もびしょ濡れになった。

下腹部の圧迫が消え、星に与えられた余韻を味わう。

息を切らした僕達はベッドに体を投げ出した。

幾らか呼吸が落ち着くと、僕はアトリに触れたくて堪らなくなった。

見れば、隣の牡羊も同じ気持ちとわかってキスをする。

制約の下で僕達は何度も唇を重ねる。

飲みたい気持ちと、飲ませたい気持ちを抑えて。

その間、事後を舐め上げたロマノフは作業用の椅子に体を預け、僕達をしげしげと眺めた。

「君達、今学級は最上位なんだろう。ずいぶん成績を伸ばしたな」

そう問うので、動きを止めて答える。

「現時点の、だよ。僕達の相性は抜群だもん。当然の結果」

「成績を落とす真似をしなければいい。気にも留めない兄弟もいるが」

アトリのいう兄弟の顔が頭に浮かぶ。

きっとネオン・ピンクとルアン・グリーンの牡羊だろう。

二人は中級クラスで伸びのびしてさえいる。そして、

「キフィにもそれくらいの気持ちがあればな」

真に考えを巡らせる牡羊はキフィだ。

「あの二人は極端でしょ」

僕は笑って言った。

「『よく馴らされた羊は、得るものの為に喜んで鈴を鳴らす』だったか。

キフィ君はベルウェザー認定を重視しているからな。模範生であろうとする。

君達にも目的があるだろう。認定に興味はないのか?」

「所長の言葉は聞き飽きたってば。今更そんな気は起きないよ。ね?」

「ああ、義務が延長するだけ。優秀判定の兄弟が獲るものを狙っても仕方ないだろ」

「それだって、クラッシングの時に決まってるらしいよね。

みんな、ベルウェザーの資格が平等にあると思ってない」

ジェラルドは表情を変えずに相槌を打つ。

「急にどうしたの?」

「君達がどう考えているか気になったんだ。

義務は権利の裏返しだ。学校を出たら優位に働くだろうに」

「キフィが本気で狙ってるのに競争相手になれっていうの? 敵わないよ」

「生徒は全員そう思ってる。キフィの牽制が効いているんだ。

先生もキフィが一番いい牡羊と知ってる。ひっくり返せるのはヒューくらいだ」

「ヒューにその気はないし。あったとしても、兄か弟かって話でしょ」

ベルウェザー認定者のキフィは定期検査の後しばらく学校で見ていない。

それで僕達に手伝い役が回ってきたと内心思っていた。

ラルフとかいう金羊種を思い出す。

彼の存在が魅力的であればあるだけ、キフィにとっては脅威だ。

相手は生徒でもないのに。いや、生徒でないからこそ未知数で厄介か。

フラストレーションから抜け出せないキフィが心配だった。

シアに独占欲を抱き、目に見えて余裕のなくなったキフィだ。

よく馴らされた羊だって落第の例がある。

不意にやわらかなメロディが聞こえた。

階下から聞こえるのは、抽出終了を知らせる電子音だった。

1.8.3

めまいがして、キフィはベッドに体を横たえた。

シアとヒューを送り出したアパートメントは酷く静かで、普段は意識しない微かな機械音が聞こえてくる。

そうかと思えば、再び耳鳴りがした。

最近はずっとこうだ。倦怠感も拭えない。

しばらく目を閉じていると耳鳴りは治まり、不快な感覚も消えていった。

薄く瞼を開くと、窓から朝の光が差している。

眠気を覚え、うつらとして目を覚ます。

また、意識が途切れたかと思えばはっとする。

それを繰り返した。

時刻を確認すると1時間程経っていたが、少しも眠れた気がしない。

不調は認めざるを得なかった。

定期検査の結果に表れたせいで自宅療養という不名誉な処置まで付いた。

ヒューの渋面を思い出し、俺は目を閉じたまま少し笑った。

「お前を一人にして学校へ行けっていうのか? 授業なら学習室で受ければ十分だ」

「高が自宅療養だ。不調が続いてるだけで、病気でもなければ、発熱の予兆もない。

数時間後に教師の訪問もある。一人で平気だと言っているだろ」

「そんな風に強がるから信用ならないんだ。回線は切るなよ。切るなら学校へは行かないからな」

学校へ行かせるのにこんなやりとりをする羽目になった。

大袈裟だが、ヒューの頭には、俺が中央病院に搬送された出来事があるのだろう。

あの一件はすまなかったと心から思っている。

高熱を出し、連絡が取れないまま中央病院に隔離された挙句の突然変異だ。

ようやく許された面会で見たヒューの蒼白な顔が忘れられない。

謝ったところで収まるものじゃなかった。

一方のシアは、乾いた瞳で口をつぐんでいる。

「はあ」

さまざまなことが思い出され、いたたまれずため息を吐く。

俺は両手で自らの視界を覆い、弁明のない虚しさを押し込めようとした。

ラルフの隣に並んだシアはいかにも仲睦まじく、信じられないことに目元を濡らしていた。

それを見て怒り散らしたのはどうかしていたと冷えた頭で思う。

シアが誰と親しかろうといいんだ。

問題となるのは、俺とシアの関係だ。

自分の言動のまずさを思い、またため息が出た。

〈兄〉を全うするなんてとてもできそうにない。

覆いにしていた手を浮かすと、肌荒れが目についた。

全体的にも肌は冴えず、ケアしているが改善されないのも気を滅入らせた。

ちょうどその時、オパール玉に通知が届いた。

眼前に半透明のスクリーンが現れ、入室の承認を促すので許可する。

派遣された教師がすぐにもこの部屋へやって来るだろう。

予想どおり、数分以内に玄関ドアが開閉し、ベッドルームに人影が立った。

現れた教師は光沢のある黒髪をなびかせ、暗赤色の瞳を笑みの形にした。

いつもと変わらず肌艶のいいキーツは白衣姿だ。

身を起そうとすると、そのままでいいと身振りで示すのでその言葉に甘える。

「キフィ君、おはよう。具合はどうかな?  出張サービスだよ」

「……訪問治療ですよね? 入室の承認申請は必要でしたか?

俺の許可がなくても入れるでしょうに」

「いくらオーナーだからってそんなことしないよ。順序は大切にすべきだ。

所長がうるさいというのもある。彼は領分の牡羊をよく見ている」

そう言って微笑む。

「とくに、君との関係は明白にしておく必要がある。特等の牡羊なのだから」

「まさか。マーブルの方が『最も支持されている』とか……」

「広く、という意味において彼は最も支持されている。君が望む支持とは性質が異なるよ。

報告会で、療養所が君を見込んでいるのがわかったろう」

招待状を受け取った療養所の医師はともかく、あのテーブルは最悪の巡り合わせだった。

「それもわからないようなら、それこそ参っている証拠だ。

欲求不満をこじらせた牡羊に救いの手を差し伸べよう」

「……救いの手、ですか。自宅療養を進言したお方のおかげで学校へも行けない」

「誠実な見解を述べたまでだ。

観測局でアルバイトを受け入れる以上、君の監督責任が私にはある。それなのに、」

目尻を細めてこちらを見る。

「ヒーリングくらい別の先生を指名してもよかったんだよ」

「俺があなた以外を指名するとでも? そんな風に思われるのは心外です」

尖った言い方になった。

「そんなことはいいんだ……報告会の説明を求めます」

あの夜以来、キーツと初めて顔を合わせているのだ。

「ふふ、聞き捨てるには惜しい言葉だ。私がいいんだ。嬉しいね」

ひとつも動じないのでいい加減、馬鹿馬鹿しくなる。

「先にヒーリングにするよ。早く結果を出したいだろう。話はその後で構わないね」

俺が頷くと、革製のトランクから携帯用スプレーボトルを取り出し、ベッド周りに数回噴射した。

煙っぽい樹木の香りが満ち、檸檬を思わせる爽やかな香りが漂う。

「君にはやはりこの香りだろう。ローションもフランキンセンスを用意している」

さらに、サイドテーブルに見覚えのある小ぶりの木箱を置けば、支度は整ったようだ。

「体に触れるよ。目隠しはいるかい?」

「いりません。このままで……」

これから為されるのはアロマローションを使ったマッサージだ。

俺は、キーツに触れられるのが好きだった。

回復効果は他の教師の比でなく、吸い付くような手のひらの質感と触感を知れば、誰だって彼が優れた羊とわかる。

全身をほぐされ、程よく弛緩した体は先の先まで温かくなっていく。

心地よさにたゆたうと、当然、星を突く部分が主張を始めた。

そこに触れる素振りがないので、このまま眠りの海へ沈められるものと思った。

ところが、薄く開いた瞼の向こうで、快眠を誘うロマノフの手が木箱から白い布を取り出していた。

たっぷりとローションを含んだガーゼに、俺はしばしうっとりした。

「〈兄〉の君にはこれでよくしてあげよう」

まるで薄雲でも被せる気安さだ。押し付けながら左右に滑らせる。

「体を固くしてはいけないよ。息を吐いて、肩の力を抜いて。リラックスするんだよ」

強い快感を受け流せという。こんな時でも難しいことを要求する。

「〈弟〉の君にはここをよくしてあげよう」

指の腹で星を撫でる。焦らしに焦らしを重ねる緩慢さで。

「私といる間は何もかも忘れるといい。頭を空にするのは難しいかい?

ならば、白い羊の群れを想像してごらん。コットンキャンディでも構わない」

頭がぼうっとしていた。

ふんわりした綿雲の連なりが脳裏に浮かぶ。

列を成してささやき、軽やかに笑う。

そんな光景がごく自然と頭に浮かんだ。

「……あいつらは、悩みがなさそうで……羨ましい、な……っ」

いまやガーゼに接する部分がひりつき、星はぐずぐずになっていた。

せり上がる感覚に身を委ねると、風船が弾けた。

ようやく焦燥感から逃れたかと思えば、続く愛撫に再びせり上がる。

「自制心は捨てるんだよ。心配することはひとつもない」

今度は風船が弾ける前触れと異なるものが迫り――――霧状の何かが噴き出した。

シーツの上に降り注ぐ。目の前のロマノフにも。

「本当に君は素質があるね。水分はきちんと摂れているようだ。じきに君の不調はよくなるよ。

さあ、飲みなさい」

余韻に浸る俺は、声の主から溢れ出るものを直に口に含んだ。

訓練された羊とわかっていても、キーツがそうなれば、嬉しいと思う。

生徒は、それぞれに適した薬剤を体内で精製する義務を負う。

個人的理由での取り出しは厳禁だが、保持を目的としない場合に限り、兄弟間の交換は容認されている。

普段から交わる兄弟に禁ずる意味は無きに等しく、親密度の向上が認められるため目を瞑った形だ。

特別研究員は、元は生徒だ。

中でも、ベルウェザー認定者のままで学校を修了した牡羊は、体内精製を続ける権利を有し、薬剤を提供する代わりに社会的優遇措置を受けられる。

研究員の登録が必須で、弱った生徒の疲労回復を担う。

ヒーリングは導入技法であり、その研鑽自体が研究となる。

幾つもの不動産を持つのも優遇措置らしかった。

ベルウェザー認定者は、終わりのない従順を示す優秀な牡羊だ。

キーツはそういう位置付けの羊なのだ。

そして、俺にとっての目標。

「……俺は、どうしてこんなに不安定……なんだろう……あなたのように、なれない……」

「私と同じでなくていい。ベルウェザーにもさまざまな奴がいるよ」

「……これじゃあ、いつまでも保たない……あなたは、飲んでも、くれないし」

「すまないが、それはできない決まりだからね。ヒーリングの効果はすぐ出るだろう。

君の心配もやがて解決する」

慰めが心地いい。

声がしみわたり、眠りの海へと沈んでいく。

目的を打ち明けたあの日、あの言葉が記憶に刻まれている。

「療養所の勤務が望みというのは少々変わっているね。

いずれにせよ、望みがあるのならベルウェザーを目指すといい。

卒業まで保持するんだよ。優れた牡羊にはご褒美がある」

問題は、なぜ療養所なのか肝心の部分を俺自身が思い出せないことだった。

突然変異を境に記憶から抜け落ちてしまった。

大事なことであったはずなのに。

だから、俺は諦めることもできずに悪循環に陥っていた。

1.8.4

白衣のロマノフによって、銀色の注射針がキフィの左腕に当てられた。

注射器にはネクタリンの果肉と同じ色の薬液が満ちている。

その薬液が甘いことを俺は知っていた。

太い針の先端は何の抵抗もなく皮膚に吸い込まれ、口腔内に蜜の甘さが広がった。

これは、何だったろうか。

耐性テストの数日後に中央病院で……そうだ、例の薬を初めて接種した時の光景だ。

一度訪れた中央病院は、白く清潔で整然としているのに、似たような部屋に通路ばかりで、現在地を惑わす迷路のような構造をしていた。

記憶が蘇ると同時に、正面から温い液体を浴びせられた。

ペンキ缶からスローモーションで躍動する溶液を捉えたが、瞼を閉じることも避けることもできなかった。

青色のペンキを浴び、視界が青一色に染まる。

着ていた白い病衣を染め上げるので染料の類と思い直す。

病衣だけでなく、自分の腕や爪先までもが青く染まる。床も壁も、天井もだ。

ペンキでも染料でもなく、セロファンだったのか。

青い膜を重ねた世界は時間が止まったかのようだ。

思考も停止しかけたが、突然の鋭い痛みによって全身が張り詰めた。

俺は、氷の壁に両手を突いていた。

あまりの冷たさに慌てて手を離す。

氷? さっきから何がなんだかさっぱりわからない。

一瞬の後に、皮膚と壁面が凍着していたらと考えてぞっとした。

最初の驚きが過ぎると、ある視線を感じた。

ごく薄い氷の壁は向こうまで透かし見せ、それ越しに珍しい生き物に見つめられていた。

2人の一角獣だ。

どちらもあどけなさの残る顔で青い瞳を輝かせて俺を見ている。

珠のような白肌と菫色の髪の彼を思い出すが、薄氷はくひょう越しの者達は肌の色も髪の色も青くて不気味だった。

だが、自分も同じ色に染まっていることを思い出した。

向こうから見れば、俺も不気味な牡羊でしかないだろう。

すでに俺への興味を失ったらしく、ベッドの上で絡まり合って笑っている。

彼らの行為行動はつまびらかで、観察用の硝子ケースに閉じ込められているようだった。

療養所のパートナー。

不意に頭に浮かんだ言葉に穏やかならぬ心地がした。

再び目の合った一角獣は挑戦的な言葉を投げ掛ける。

「角のない羊がいるよ。独りで可哀そうだ。僕達が羨ましい?」

「話し掛けたらだめだよ。あいつらとは通じ合えやしない。最初から角がないんだから」

「でも、魅力的な匂いがする」

「ネクタリンがそう錯覚させるんだ。お前も、見てないで相手なら余所で探しなよ」

目を瞠る間にも2人は透けたシャワー室に駆け込んだ。

隠すものがないためすべてが明るみだが、水浴びをする様子は見られず、体をこすり合わせるので光るものがぱらぱらと剥がれ落ちている。

見間違いだろうか。

雪片のように光るあれは何だろう。

「あれは鱗だ。見るのは初めてじゃないだろ? ああやって古い鱗を取り除いているんだ。

気持ちよさそうな顔をするよな……実際、いいらしいぜ。

さあ、先へ進むんだ。後ろがつかえている」

背後から強制力のある声がして、勝手に自分の足が動き出した。

振り返ろうとしても体が言うことをきかない。

心の中で慄くが、薄氷に映る俺は平然として足取りもゆったりと観覧する者のそれだ。

そこには自分の姿しか映ってはいない。

冷汗が出る一方で、病衣はさらりと乾いている。

感覚のずれが引き起こす不快さが腹の底に溜まり、淀む。

酷い気分だ。

一角獣の次には蛇の棲む硝子部屋が現れた。

蠍、孔雀、蜥蜴、烏と続くが、みな思い思いに肌を合わせ、こちらを気にする者などいなかった。

鱗が、剥離するたび煌めいて床へ落ちる。

羊の部屋の前で俺の足が止まった。

羊は片割れだった。

こちらに気づいて満面の笑みを向ける。

どこか遠くでドアの開く音がした。

「やあ、遅かったね。待っていたんだよ」

この部屋だけこちらとあちらを隔てる壁がなかった。

「角を預ける時間もなくて寂しかった。だからだろうか、別々に落ちてしまうなんて。

手を離してしまったのもよくなかった。調子はどう? 困らせたと思うんだ」

胸がざわめく。

なぜ、ここにいるんだ。

「――シア」

「よかった、僕の名前を覚えてた。嬉しい」

微笑む羊はシアだった。

彼だけが青い視界の中で白い姿をしていた。

髪の根元は白く、毛先へいくほど金色に輝く。

そのせいか顔がぼやけて見える。単なる他人の空似かもしれない。

でも、名前を認めたじゃないか。

シアだと確信が持てないのは、自信に溢れたその声と表情だ。

顔つきは幼く、体もひと回り小さい。

声だけでなく、しぐさにも自信がにじみ出る。

サン・オレンジの瞳に宿る明るい光。果実の瑞々しさに俺は見惚れた。

違和感があってもシアでしかなかった。

「どうなの? ほら、やっぱりそうだ。早く会いに来てくれないからだ」

眉を下げて拗ねる様子が、不安げにこちらを窺ういつものシアと重なる。

思わず、愛おしさを覚えた。

「君も、いけない羊だね。こんなに溜め込んでる。遠くからでも甘い匂いがするんだもん」

ちらと舌を出し、少しだけ恥じたように視線をくれる。

「飲んでもいい?」

爛々とした瞳で報告会の夜に拒んだ行為をねだる。

あのシアが?

騙されている、と本能が警鐘を鳴らす。

そのせいで鈍い痛みまで感じ始めた。

鈍くて、これが本当に痛みかどうか自信もない。

俺はとうにシアの熱情に当てられていた。

うるさいのは胸の高鳴りだ。早鐘が打ち鳴らされる。

気持ちが逸る。

気づいた時には、薄氷の壁に後ろ背を付けていた。

隔てる壁はなかったのでなく、知らず部屋の内側にいたのだ。

シアは爪先立って俺の唇を吸った。

体を押し付け、こすり合わせる動作をする。

「間違えちゃった。つい、鱗を剥がしたい気分になる。こっちだね」

そう言うと、熱くなった部分へと片手を伸ばし、撫でる。

しかも、もう片方の手では自分の星を慣らし始めた。

そこから目が離せない俺にシアが言った。

「気になる? ここはまだなんだ。使い慣れてなくて」

抑えた声が腹の奥に響く。

「もういいよね。キフィがはち切れそうだもん……」

ついに、期待に満ち満ちたそれが小さな口に咥えられた。

「……〈学校〉の被験者が迷い込んでいる。早く来てくれ……」

「……警備をどうやって……こんな入口もない部屋に……」

緊迫したロマノフ達の声がする。

彼らは俺の邪魔をするに違いなかった。

「……まだかい? 回線を繋いでいたのは君だよ……」

「……遅れたつもりはないぜ……よくなるんだろうな……」

聞き覚えのある声が飛び交う。

何だ、二人がいるのなら、どうにか切り抜けられるだろう。

「もう時間が来ちゃった。こっちの羊はみんな気が短いね。キフィ、また今度。

すぐ会えるよね。それまでに体を作り変えておくよ。君の肌とよく馴染むように。

シープ・スキンっていうんだってね。満足するものにするから」

焦点が定まらず、目の前の景色が大きく揺れ動いていた。

今、たった今、シアはおかしなことを口にした。

「……はあ……はあ……っ」

体が熱く、外天から戻った直後のように昂っていた。

一方で不思議にも胸が満たされていた。息苦しさに多幸感が覆い被さる。

「局長に遊ばれてどんな夢をみたんだ……こういうの、体に毒だぜ」

目覚めたことをようやく頭が理解すると、ヒューの声が聞こえた。

こちらを覗き込むのは間違いなくヒューだ。

「……はあ、はあ……何で、いるんだ。学校、は……?」

「回線を切らなきゃいいってもんじゃないぜ。丸聞こえだっての」

「……帰ってきた、のか……単位が、足りなくなったら、どうするつもりだ……」

「その時は別の方法を考えるさ。お前の体調が戻るのが最優先なんだよ。

飲ませる相手がいるだろ」

ぞんざいな口調に反し、その表情は甘くやさしい。

荒い呼吸に唇が被さる。

体の最も熱い部分に指先が触れる。シアが咥えた部分に。

「あ……っ」

「にしても、先走りがすごいな。さっき、潮まで吹いたんだよな?」

問われて甘美さが蘇り、くすっとした笑い声が続いた。

「ヒュー君、よくそこまで読み取ったね」

「はっ、局長はキフィを乗せるのが得意だもんな。インクのまやかしも手伝ってんのか」

「ご賞賛は有難いが、おしゃべりはその辺にしてはどうかな。

これでは遅刻でないという証明にはならないよ」

「とっとと解放しろって? 早まったのは誰だよ。未達成のくせに『Treated』はないだろ」

ヒューは俺の左手首に視線を遣った。

反射的に目で追うと、左手首に白地のペーパーリボンが巻かれていた。

青色インクで『Treated』とある。

「生意気を言うね。君が回線を繋いだ時点で達成は約束されたようなものだよ。

ともかく、『体に毒』なんだろう? キフィ君を看てあげなさい」

「ちっ、仕方ないな。前も後ろもとろとろだもんな」

二人とも俺の下腹部の熱さを承知していたらしかった。

何も身に着けていないのだから一目瞭然だった。

ヒューが俺を咥え、最後の一滴まで搾り取るのにそう時間は掛からなかった。

「あ、あっ……はあんっ」

声を抑える気にもならない。

指で星を同時的に撫でるのでいつまでも刺激が続く。

まるで、ただの弟に戻ったみたいだ。

兄に翻弄されて気持ちいいと体が全身で喜んでいる。

これでいいんだ。

シアに飲ませたいという衝動が叶えられなくてもフラストレーションの対処になる。

キーツはというと、他者の手によって『Treated』が達成されるのをじっくりと待った。

彼が説明を始めた時には、俺の体は空っぽで、口は蜜の甘さで満たされていた。

ヒューも同じ有様だ。

「キフィ君、君はまだ冷静さを保っている」

そう切り出した。

「君の価値も、思うほどには変動していないんだよ。

コリデールは大した影響にはならない。研究者の間では発現の原因も特定されている。

深刻に考えるものではないんだ。受け入れ難いかい? まあ、そうだろう。

では報告会の話に入ろうか。ヒュー君がいても構わないね?」

俺は頭を縦に振った。どうせ、3兄弟なんだ。

「綿雪羊にシア君を当てたくらいだ。ヒュー君は初めから気づいていたね。

外天生物は珍しいと言っても、彼らがこちらへ落ちることはままあることなんだよ。

療養所は彼らの保護施設だ。意識や体器官がこちらに順応するまでそこで生活する。

シア君とラルフ君が過ごした施設。この意味をわざわざ言葉にする必要はないだろう。

ただ、支援員が行動に出たのは予想外だったよ。一角獣と顔を合わせたこともね。

一角獣は嘘が言えない。シア君の正体はもうわかったろう」

「そう、なのか」

綿雪羊が金羊種であり、ラルフはシアのパートナーだった。

薄氷に囲まれた部屋が脳裏を過る。

体を紅潮させ、鱗を剥がし合う一角獣があの二人の姿と重なる。

「ところで、キフィ君。

君は、白インクの材料調達のために綿雪羊の群れに遭遇しているんだよ。

どうも忘れているようだね。

あの時は回収活動に失敗し、強制的にこちらへ引き戻す結果となった。

ああ見えて、綿雪羊は好き嫌いが激しく、一度でも群れに弾かれたら諦めるしかない。

弾かれた君は雲間に落ちるところだった。雲の下は乳の海だ。

落ちてしまえば無傷では帰れない。あの時のような冷や汗は二度と御免だよ。

しかし、どういう訳か海への落下は避けられた。

綿雪羊自身もこちらへ落下したことを考えると、君に一目惚れをしたのは確実だ。

なぜ別々にこちらへ現れたかそれは今でもわからない。

帰還後の君は混乱していてね。事情を聞き出せないまま突然変異が起きた。

だから、私が君に伝えられることはそう多くないんだ。

間違いないのは、外天で君に出会った綿雪羊がシア君ということだよ」

シアの正体が綿雪羊だった。

つまりは外天生物。元は金羊種で、今は学校に通うメリノ型の牡羊。

3兄弟――――一体、この計画は何だ?

解消が前提にあると教師は言った。

俺は、持て余したこの感情をどうしたらいいのだろう。

解消されるのは、どの牡羊だ。

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