兄弟と黒猫-7の1 紫貝を剥ぐ【菫色】
ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。
今夜は燐光体の匂菫がよく香るでしょう。芳香浴の後には紫貽貝のワイン蒸しがお勧めです。
以上、観測局員・エンナがお伝えしました。
[ Violet Mania / バイオレットマニア ]
菫 色 嗜 好
1.7.1
黒い封筒をたずさえ、バロは研究所の事務室前に立っていた。
事務室の壁は上部が硝子張り、下部は外壁と同質の白亜だ。
その白は、炎天からやって来た者の目に涼やかに映った。
壁上下の境は両側に張り出し、受付台の役目を果たしている。
そこに接する硝子壁に設けられた小窓から差し入れた封筒は、見慣れた事務員へと渡った。
事務員は平織りのスーツ姿で、癖のない髪をきっちり真ん中で分けている。
厳格な顔に並んだ鮮やかな青が宛名をなぞっている。
それから封筒を裏返し、速やかに差出人を確かめた。
所長宛の封筒には、菫色のシーリングワックスで封じ目がされていた。
模式化された印は匂菫だ。
受取人が封を切る際には、左右相称の五弁花から甘く爽やかな香りが立つことだろう。
通信の発達した当節、こんな面倒な方法をあえて選ぶのは局長の嗜好だ。
電子便で済むだろうに、手間を掛けて楽しんでいる。
自然と観測局の面々が思い浮かべば、彼らの共通点でもあると思った。
「こちらはお預かりいたします。
それと、先日のアルバイト許可願ですが、承認が下りましたのでご確認をお願いいたします」
「ありがとうございます。所長にもよろしくお伝えください。
あと、いつものように売店に寄りますので、そちらも許可いただけますか?」
「かしこまりました。滞在時間も変わりありませんか?
では、30分以内ということでよろしいですね。お帰りの際にこちらをご返却ください」
最後に事務員が微笑むと、青い瞳は美しい紫色を帯びた。
高貴な宝石だ。
どの研究員も所長のお眼鏡に適ったロマノフだが、彼の瞳は特別深く澄んで気品がある。
瞳で選んでいるわけでもないだろう。
しかし、研究所の性質上、容姿や身だしなみに一定の条件を課していると感じる。
渡されたものは名刺ほどの許可証だった。
首に提げるための紐が付いている。
即席の許可証は、1階フロアを歩き回ることができる『部外者』の印だ。
数分後に通信機に許可通知が届くので本来的には不要なのだが、生徒に一目でわかるようにする必要があった。
「さてと」
伝令の行き先は他にもあるが通常業務に切り替える。
施設中央に配された中庭に沿って反時計回りに歩けば、売店が見えてくる。
KIOSK型のこじんまりした売店では猫背のロマノフが店番をしていた。
チョコレートブラウンのふんわりした毛色に淡い菫色のリネンのシャツが爽やかだ。
今は配達員と会話を弾ませ、口元に笑みを浮かべている。
「やあ、黒猫さん。ご無沙汰しているね」
近づくと、すぐにも私に気づいて声を掛ける。
くだけた態度もそうだが、さっきの彼とは対照的だ。
スーツでも白衣でもない格好がどちらにも属さない彼の在り様を示している。
「どうも、お邪魔しますね。お届け物の連絡がありましたので」
「ああ、あれだね。預かっているよ。すぐ出そう」
そう言って屈み、こちらから見えない内側でリストでも確認する気配だ。
「よお、バロ」
「ええ、こんにちは。そちらは繁盛していますか」
「相変わらずだよ。観測局ほど流行っちゃいねえさ」
話し相手は知り合いのロマノフだった。
授業で使う食材を届けに来たという。
彼の首にも紐付きの許可証がぶら下がっている。
クッキングルームが廊下を挟んだ隣にあり、手ぶらなのは配達帰りだからだろう。
ビリジャンの眼光は鋭く、制服に包まれた体は配達員らしく逞しい。
「じゃあ俺は失礼するぜ」
ロマノフは手を伸ばしてリネンの袖口から先を軽く振り、配達員は颯爽と立ち去った。
「どうぞ、第6研究室からだね」
片手でつかめるほどの箱を取り出し、カウンターに乗せて言う。
白と灰が入り混じる大理石模様の片隅にチェリーピンクのバーコードが印字されている。
「ふふ、そうです。これはサンプルなんですよ。近々、お披露目の場を考えていましてね」
「もったいぶらなくていいってば。第6なら中身はだいたいわかるよ」
と、けらけら笑う。
「ええ。性能を試すために用意していただいたんです」
「先生のなら間違いないよ。きっと満足いく」
「評判は存じています。おそらく、このままお買い上げでしょうね」
売店の内側には私書箱に似た棚が並び、所長直下の事務室に預けられない物を一時的に保管してくれる。
お気楽に見えるロマノフだが、相手に調子を合わせ、自分から必要以上のことを聞かないのは徹底している。
まあ、ここに限らず、ル研究地区では不用意な人物はどの研究機関からも遠ざけられる。
だからこそ配達員も早々に立ち去ったのだ。
さあ、長居は無用だ。
別れを告げ、許可証を返却するため事務室へ足を向けた。
「黒猫だ」
ぶっきらぼうな声がした。
その後に明るい相槌の声が続く。
骨格のしっかりした牡羊と、なで肩の華奢な牡羊の兄弟が目に止まる。
「こんにちは。ちょうどよいところに。君達に会ったらと、言伝を頼まれています」
「なあに。次の企画? 学校で見掛けると変な気分だよね」
「ほんと。今度は何だ……マーブル、見てみろよ。第6の」
私の抱えた箱にアトリ君が気づけば、マーブル君が小気味よく頷いている。
バーコードカラーは研究室ごとに決まっているため、見る者が見ればわかってしまう。
「言伝はこの件ですよ。今夜試すそうですから、二人で事務所へいらっしゃい」
兄弟の間を通り抜ける際に声を落としてささやく。
「弟が、喜ぶものです」
瞬間的にほの甘い空気が膨らんだ。
学校の方針では、施設内で生徒と部外者が長く接触することをよしとしない。
彼らの成績に悪影響がないよう、甘い空気の行方もそのままに私は研究所を後にした。
1.7.2
最初に来訪した一群は中央病院の関係者だった。
受付で眼鏡の司書が応対し、招待状にスタンプを押している。
ドットの集合体に見える刻印は、一見では何を模しているかわからない。
受付の横に控えていると、ジェラルドがやって来て院長に歓待の言葉を掛けた。
伝令時の記憶を辿り、招待状に記された名前を思い起こす。
そうする内にジェラルドも招待客も姿を消していた。
先ほど、ジェラルドはフォルムのやわらかな白麻のスーツを着ていた。
同じものに袖を通しているが、彼が着ると品の良さが際立つものだ。
事前にみなにも配られたそれは、フォーマルな会が開かれることを意味した。
ともあれだ。
また別の一群が現れたが私の出番は回ってこないでいる。
招待状の枚数に比べて来訪者が多いのは、ご指名の客に数名の同行者が許されるためだ。
観測局のメンバーは招待客の一群ごとに案内を任されている。
受け持ちの者らを引き連れ、みなすぐそこの扉へと吸い込まれていった。
本日、東区の私設図書館は閉館日だ。
太陽が沈み、青灰色の館が夜闇に浮かべば、いつもは隠している別の面を覗かせる。
その3人組が現れた時、不意に華やかな気配が漂った。
彼らを視界に収めると、真ん中のロマノフがにこやかに招待状を差し出した。
淡金の髪をなびかせ、柔らかくあるが引き締まったボディラインを見せつける。
とりわけ人目を引くロマノフだ。
しかしながら、対する司書は決まりきった言葉を返すだけだった。
彼らが私の仰せつかった一群であるので、すかさず声を掛ける。
「所長、ご案内いたします。こちらへどうぞ」
「ありがとう」
案内の者が誰であるか気づくと、ふっと挑戦的な笑みを浮かべた。
「あら、今晩は。あなたがエスコートしてくださるのね。
今夜はうちの優秀な研究員を連れてきたの。どうぞよろしく」
3人に頭を下げ、ご足労を掛けたことを詫びる。
「そんなことは構わないわ。
招待状が届いて此の方、これから始まるパーティが楽しみでならなかったのよ」
そう言って、酷く艶っぽい表情をみせる。
色気が際立つのは、唇にひいたチェリーレッドと流し目のせいだろうか。
私は微笑みで返し、この美しいロマノフを賛美する。
同行者2名は、例の――――シア君達の通う〈学校〉に属す〈教師〉のことだ。
ひとりは、柔和な笑みを浮かべたチェリーピンクの瞳を持つ優男。
片目に眼帯をしているが損なうものはなく、実に優雅な物腰をしている。
もうひとりは、マロー色の瞳を睨ませ、威圧的な印象を漂わせる長身の男。
造形は美しいがにこりともせず、凄まれでもしたならひとたまりもないだろう。
だが、いずれも色男に違いなく、所長を含めての玄人ぞろいだ。
「地下へまいります。少々暗くなりますので、足元にお気をつけください」
ようやく、みなが吸い込まれていった扉をくぐる番が回ってきた。
ドアノブを握り扉を開ければ、弧を描いた下り階段が現れる。
ここを降りていく。
下方に向かって、壁伝いに灯ったランプが等間隔に菫色の鈍い光を放っている。
先は見えないが、野にあるような花の匂いが鼻腔をくすぐった。
ふと、外天の原にでも向かっている気になった。
妖しい雰囲気がどことなく、外天へ通じる道を思わせる。
この館は見た目以上に年代物だ。
図書館として機能するフロアは低温低湿に保たれ、現代的な什器も置かれているためそうと感じないが、地下に至るこの暗がりと湿り気は過ぎ去った時間をにじませている。
階段室通路はロマノフ2人が並んで歩けるほどの余裕があり、窮屈さはない。
コツ、コツ、と後ろで音がするのは所長のヒールのせいだろう。
器用に歩くと思って肩越しに見遣ると、意外なものが目に入った。
なんとまあ、そちらがお好みでしたか。
笑顔の所長は不愛想なロマノフの腕を取っていた。
意図的に、その体にもたれ掛かりながら歩いているように見える。
お相手はといえば、機嫌がよいようにはとても見えないが拒否するでもない。
はて、牡羊らの色恋は猫にはわからないものだ。
胸の内で騙された気分を味わっていると、地下フロアへ辿り着いた。
靴裏が床石を踏む。
そのまま歩みを止めず、壁際に1つ残された手持ちランプをつかんだ。
室内は明るいためランプを点けるまでもなく、コントラストの強い照明によって仕切りのないラウンジが浮かび上がっている。
クロスの掛けられた丸テーブルを囲むようにして、一人掛けソファが数脚ずつ並ぶかたまりが幾つもある。中には寝椅子も混じる。
規則性は読み取れないが、複雑なテーブル配置は客人同士の視線が絡まないための工夫だった。
そもそも、明暗の過ぎる照明が幾重もの影を生み、見えているものの正体を不確かにした。
すでにプロモーションを始めている観測局のメンバーを横目に、おしゃべりの間をすり抜ける。
あらかじめ決められた座席へ所長らを案内し、テーブルの真ん中に先ほどのランプを置いた。
そうすると、ランプは卓上のサービスプレートに三方を塞がれた形になった。
客人用の黒い布地のソファは見るからにふかふかで、タッセル飾りのある菫色のクッションが添えられている。
そうでないアイアン製のスツールは我々の席だ。
「綺麗な絵ね。不可思議を絵に描いたよう」
所長は皿に描かれた絵のことを言った。
皿の上では、光沢を帯びた菫の原が蝶の群れへと姿を変えている。
「菫が蝶へと変化したのか、それとも、菫の正体が蝶であったのか」
眼帯の男が歌う調子で謎掛けるが、不愛想は口を結んでいる。
所長は思わせぶりな視線をこちらへ寄越し、唇に指を当てた。
謎々を楽しんでいる最中に答えを明かしてはだめよ、とでも言いたげだ。
ちょうど、小さな羊がこちらのテーブルへ向かっていた。
彼の歩幅を目測しつつ、私は立ち姿勢のまま口を開いた。
「まずは、皆様の咽喉の渇きを癒すことをお許しください。
こちらにビオリン・シークレットをご用意しております」
言って、隣で足を止めたシア君の肩にそっと手を置いた。
シア君は人数分のゴブレットをトレイに乗せていた。
彫刻の施された硝子のゴブレットを満たすのは澄んだ菫色の液体だ。
微かな波紋を作る水面に、尖った透明な塊が氷山のごとく浮かんでいる。
氷の表面で弾かれた光が客人の瞳に映れば、散開する星団の様相を呈す。
ただ、それらの目を楽しませるのは光による輝きだけではない。
手のひらに、仕立てたばかりのやわらかな布地を感じていた。
シア君は水兵服に似た半袖姿だった。
逆三角形の大きな白襟に黒いライン。タイのように留めた胸のリボン。
ショートパンツのフリルの広がりから伸びる細い両脚。
正統的でありながらひらついた衣装は、キーツとジェラルドの好みを反映している。
この場で立ち回る小さな羊は全員が同じ衣装に身を包み、滑らかな肌をいっそう輝かせた。
眼前の純情な牡羊が、それを自覚しているとは思えないが。
多少の緊張を感じさせながらも丁寧にゴブレットをテーブルに運ぶ姿を見守る。
「改めまして、ヴァンタブラック観測局の局員をしております黒猫のバロと申します。
この度は、コレクターズ・インクの中間報告会にお越しいただき、心より感謝いたします。
今夜、外天由来の珍しいインクをご紹介いたします。ぜひ、その効能をご堪能くださいませ」
1.7.3
氷が揺らめき、カランと音を立てた。
「さて、お飲みいただく前にビオリン・シークレットのお話を少々。
この菫のリキュールは、スイート・バイオレットの中でも夜間のみ花開くものを手摘みし、集めた花びらを浸して作っております。
『ビオリン』は毒成分の名称ですので、不安を抱かれた方もいらっしゃるかもしれません。
ですが、ご安心いただきますよう。
毒性を持つ部位もございますが、花に毒はなく、舌に甘い痺れをもたらすことでしょう」
「まあ、残念」
惜しいとばかりの声は所長だ。
「なるほど、甘い痺れを毒に例えているのね。多少の毒を含んでいても構わないのに」
「今の言葉に語弊を感じるのは私だけかな。君は毒物に目がないだろう。
そちらの研究はやめたのではなかったのかい?」
眼帯の男が問う。
「そんなわけないでしょう。毒も薬もダイヤモンド」
「ふふ、そうだね。両義性――――薬の研究も毒に通ず、というわけか」
と片目を細めて笑う。
「ご期待に沿えず申し訳ございません。その手のものは個人向けにご用意いたしましょう」
「そうしてちょうだい。観測局がどんなものを用意するか、楽しみだわ」
「その会はご遠慮するよ」
「まさか冗談でしょう。あなただって、興味がないとは言わせないわ」
そこで黙っていた者が鼻で笑った。
彼の意図は知れないが、三者が三様に笑う中で私は続きを口にする。
「どうぞ、まずはゴブレットから立ち昇る香りをお楽しみください。
スイート・バイオレットの花姿は蝶に似て、ラッパ状の突起物に花蜜を貯めております。
この芳醇な香りは、わたくしどもをフェロモンに誘い出される蝶に変えてしまいますね。
ええ、強く芳しい香りは『飲む香水』と称されるほど。
古来、恋の媚薬として用いたと聞き及びますが、その効果は怪しいものです。
しかしながら、アルコールの度数が高いのは確かですから、口に含めば体は熱くなり、高まるものはますます高まっていくことでしょう。どうぞ、お召し上がりください」
ゴブレットをかざせば、美しい液体は光の粒を散らして煌めいた。
条件反射的に、試飲時の感覚が蘇る。
鼻から咽喉へと抜ける華やかな香り、舌に広がる爽快な味わい。
上品でありながら感ずる部分を呼び覚まし、どこか揺らめいた余韻を残す。
ただの酩酊ではない。
菫の泉に体を浸すことで、外天を知らない者をもその淵へ立たせることができる。
そんな支度のいらない私は、中身の異なるグラスを手に取った。
色のない液体はミネラルウォーターだ。菫の花びらとキューブ型の氷が混ざっている。
ほんのり香りづけされた水で舌を湿らせる。
「では、お待ちかねのコレクターズ・インクのご報告に入ります」
テーブルクロスの下に準備していたトレイを卓上に出すと、客人らの視線を集めた。
エメラルド・カットの輪郭線を持つアンティークトレイには、拳大のマス目で仕切られた蓋のない標本箱が乗っている。
トレイと標本箱の質感が似ているのは同じオークだからだ。
標本箱は全部で10マスあり、マスごとに白いラシャ紙が敷かれている。
客人から見て、手前の5マスにシャーレ、奥の5マスに試薬壜が並ぶ。
ざっと眺め終えた頃には、向けられた眼差しは研究者のそれへと変わっていた。
「コレクターズ・インクと申しましても、本日お見せできるものはインクの材料であります。
手前のシャーレと奥の試薬壜が一組。ですので、全部で5種ございます。
左より白色、黒色、青緑色、深紅色、虹色。ひとつずつ見てまいりましょう」
はっとした気配がした。
それは、隣に戻ってきたシア君のものだった。
シャーレには原型の一部を、その粉末を試薬壜に入れている。
容器となる硝子製品は、ラボのものより透明度が高く、実用的でありながら展示向きでもある。
「まずは白色をご覧ください。
シャーレの中身は、綿雪羊の群れが通過した夜に入手した羊角の欠片です。
この羊角は外天に迷い込んだ小さな羊の頭上に発生しました。
シア君の、ちょうどこの辺り。実に見事な渦巻きでした」
指で示せば、見定める目は隣へ移った。
手慰みにふわりとしたサン・オレンジの髪を梳いて耳を露わにすると、片耳に乳白色の通信機が見出された。
今度は、羊角が生えていたならば、根元に当たる部分に手を添える。
すると、シア君は微かに体を震わせた。
むず痒さを堪えるような表情が官能を刺激する。
何が彼をそうさせるのか承知しているが、先もあることなので話を進める。
「こうすると、断面がやわらかな白色に輝くのがおわかりになりますか?」
白手袋をはめた手で羊角の欠片をつまみ、指先で傾けてみせる。
「元々このような煌めきを備えていますが、微粉末状にした羊角と真珠母雲を混合すると、
白色でありながら多色の美しさを見ることができます。
これに、牡羊が怯える暗闇一片を加え、綿実油で整えますと "White Noise-Ink" の完成です。
外天由来のものは貴重なものばかりでありますが、その最たるものが白なのですよ。
インクのラベルにつきましては、羊角の別名であるつむじ風を予定しております」
続けて、ヴァンタブラックの黒玉、ピーコックグリーンの黒蝶真珠、クリムゾンスターの碧涙、アイリスクオーツの虹渦に言及する。
その間に一旦テーブルを離れた牡羊が戻り、前菜やスープを給仕する。
「ある意味ではこれらは毒のご紹介ともいえます。
外天の夢をみせるインクを体に取り込めば、こちらの世界に身を置く者には害となります。
中には食すことのできるインクもございますが、時期と時間帯を選ぶものです。
マジックアワー・カクテルをご存じでしょうか……」
メインディッシュの前にキーツがやって来た。
各テーブルを回って賓客に挨拶をするのだ。しばしの歓談となる。
「楽しんでくれているかい」
「ええ、十分に」
「それならよかった。煙草をどうぞ、今夜はいいCu.を用意しているよ」
「ありがとう。まあ、ずいぶん可愛いものを選んだのね。積雲だなんて」
キーツは所長の傍へ行き、省略記号の刻まれた煙草を差し出した。
所長の口元が明るくなると、菫色の煙が上がり、層を成して雲と漂う。
やがて層は乱れ始め、小さな綿のような断片がはぐれて2つ浮かんだ。
それは、ゆるやかに羽を広げた蝶の姿をしていた。
1.7.4
「先生方もお煙草はいかがですか? 強心剤代わりですので、アレルギーがなければぜひに」
キーツの言葉の後には紫雲の蝶が数頭たゆたった。
局長の受け持つテーブルは彼が戻るまでの間、キフィ君が引き継いでいたはずだ。
入手済みインクのくだりは、キフィ君になら任せられる内容だった。
まあ、どんな気持ちで白インクの話に触れたか、興味のそそられるところである。
あちらは診療所の一群だった。
院長と医療スタッフと思われる姿を見たが、今は暗くかすんではっきりしない。
具合よく客人らの頬は桃色に染まり、会場はくつろいだ空気に包まれている。
実際、完全に輪郭を崩した紫煙が漂うせいで空気の色まで変わっていた。
「みな、ランプに灯を」
通信機から音声が流れた。
ジェラルドの明瞭な声を合図に、私はテーブルに置いたランプのスイッチを入れた。
紫光が宿れば、周囲にも同じ球形がぽう、ぽう、と浮かぶ。
この時初めて、誰かが周りの暗さを口にした。
果たして、夕陽が沈むように落とされた照明の変化に気づいた者がどれほどいただろうか。
こういう風に気づけば闇に陥ることもある。
単純な演出だが、妖しさを生むに一役買っている。
この日のために用意された特別なラウンジだ。報告会の見せ場はまもなく。
「皆様、通信機の準備はよろしいでしょうか。
これより外天予報が流れますので、通信状態のご確認をお願いいたします」
他のテーブルでも同じことが伝えられる。
「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」
すぐして、心地よい声が会場にいる者の鼓膜を震わせた。
「今夜は燐光体の匂菫がよく香るでしょう。芳香浴の後には紫貽貝のワイン蒸しがお勧めです」
メニューでも読み上げる風だが、ラグジュアリーと称されるだけあって、その声には贅沢さが、吐息にはベルベットのなめらかさがある。
「以上、観測局員・エンナがお伝えしました……」
彼の短い言葉が、この場を引き締めるとともにある種の高揚感を生み出す。
それで、客人らはクライマックスが近いことを知った。
「このように、日に何度か、わたくしどもは決まった時刻に外天情報を流しております」
言うと、シア君が一人ずつ通信状態を訊いて回った。
牡羊は不自然に頬を染め、動作は先刻以上にぎこちない。
私はそれを見て見ぬふりをし、スツールに腰を落ち着けた。
ところが、ここへ来て、同じふりをした者が他にもいることに気づいた。
さり気なくもチェリーピンクの瞳がある部分を観察している。
なるほど、その目はシア君が現れた時から光っていた。
「ささやかではありますが、皆様にも外天の事象観測を体感していただきたく存じます。
デモンストレーションですので、小さな羊に触れることは禁止いたします。
ご理解くださいますよう。
これより語りますのは、先夜の外天での出来事でございます」
ランプの照らす範囲は互いの口元までで、あるはずの眼は辺りの闇に溶け込んでいる。
外天を物語るに申し分ない雰囲気だ。
一群に届く程度に声を抑え、示し合わせた口上を述べる。
「その日、ある牡羊が秘密の通い路を抜け、菫の原へと向かっていました。
牡羊の名はマーブル。
情緒型を代表するに相応しく、涙袋のある美しいホリゾン・ブルーの瞳の持ち主です。
ご承知のとおり、今最も支持されている〈兄弟〉の〈弟〉に当たります。
深夜過ぎに出発したマーブル君が辿り着いた場所は、林の中に自然形成された空き地でした。
彼の瞳には、一面に広がる淡い紫色の燐光体が映ったことでしょう。
その正体は可憐な五弁花。そう、可愛らしい匂菫が絨毯のように咲いていました」
再びジェラルドの指示があり、口を閉じると同時にランプのスイッチを切った。
闇が深まり、幾人かが息をのむ。
胸の内で数秒待ち、今度は別のスイッチを入れて点灯する。
「一瞬の暗転の後に視界が開けたならば、そこはもう外天です。
むせ返る菫の香りに煽られた彼は、乱れた息を整えることもできず、菫の絨毯に体を投げ出しました。仰向けに、瞼を閉じ――――」
ふっと強い香りが立った。
ランプの熱が一定の温度に達し、匂菫の抽出液が拡散し始めたのだ。
「皆様も、彼のように瞼を閉じてみてはいかがでしょう。
体を深く沈め、芳しい香りに意識を浸せば、菫の原で夜天を仰ぐよう」
少しの間を置いて口を開く。
「彼の身なりの詳細がまだでしたね。今夜と同じく、牡羊は白い水兵服姿でした」
佇むシア君を差し示す。
「おおよそ外天では衣服が消えてしまうものですが、この時は違いました。
とはいえ、仰向けの上部ははだけ、何やらコードが覗いています。このようなコードが」
手を伸ばして牡羊を引き寄せると、前開き部分をいい加減に剥がした。
左上半身とへそまでが露わになる。
火照りのせいで全体的に赤みがかっているが、滑らかな肌に吸い寄せられる。
何より目を引くのは、胸の先端に張り付いたムール貝型のシリコンだ。
黒褐色のシリコンは紫とも紺ともいえない光沢がある。
片胸から延びたコードは二手に分かれ、一方は見えない片胸へ、もう一方はへそを下っていく。
私はその無機物に指を這わせ、布地で隠された上面をなぞる。
目を伏せるシア君は体を固くした。
「胸のここと、ここは、言わずもがな」
へそを過ぎたところで指を止める。
障害物が立ちはだかるため先へ行けない。
「この先には2つ。
シリコンの裏面は厚みと弾力を備え、そのうねりは舌で転がされる心地だそうです。
また、足糸を模した粘着部のおかげでうっかり外れることもございません。
電源スイッチはわたくしの手の内に。もちろん、今は起動した状態にあります」
震えの理由を明かし、可愛らしい吐息に耳を澄ませる有余を与える。
「ところで、先生」
そう問い掛ける。
「設計を熟知せぬ者が、このまま続けてもよろしいでしょうか?」
このテーブルは、他と決定的に異なる点があった。
「そんなに謙遜することはない」
口元を微笑ませる男が答えた。
チェリーピンクの瞳も眼帯も闇に溶け、その微笑みはどこか妖しげだ。
「それとも、自信家なのだろうか。これほど明快に述べる者が未熟者とは、とても。
このまま続けてくれたまえ。私自身も、きっと彼らも、君が語ることを望んでいる」
「ご寛大なお言葉を頂戴し、恐縮でございます」
一礼して顔を上げる。
視線の先で、実技玩具の開発者である彼が満足気に指をこすり合わせた。
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