兄弟と黒猫-5の1 碧涙を流す【深紅色】
ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。
今夜は月がなく、肉眼での赤星観測が可能です。絶好の星堕とし日和となるでしょう。
以上、観測局員・ルイスがお伝えしました。
[ Crimson Star / クリムゾンスター ]
不 気 味 な 赤 い 星
1.5.1
キフィの退所から日が経ち、僕らはアパートメントでの元の生活に戻ろうとしていた。
最初の夜はひとつのベッドでただ眠った。
シーツの中でキフィの背中を見ていることしかできず、寂しさが胸を占める。
手を伸ばせば届くところにいるのに触れてはいけない気がするのだ。
不在の夜よりも寂しい気持ちになるとは思いもしなかった。
けれどそれも次第に眠気に覆われつつある。
その時、身じろぎが伝わったかと思えば、キフィの声が聞こえた。
「シア、まだ起きているか?」
僕は薄く瞼を開き、言葉を絞り出した。
「……うん」
「そうか」
顔を向けるでもないが、こちらを窺う気配を感じる。
「……キフィ……どうしたの?」
「お前さ、寝言で。いや、」
「……うん?」
「別に、大したことじゃないんだ。
寝言でラルフって奴を呼んでいるのに気づいているのか?」
「……え……そうなの」
まだ眠りに落ちたつもりはなかった。寝言なんて言っただろうか。
夢の中の羊も僕の元から立ち去っている。
意識は途切れがちだったので、何かの拍子に口から零れたのかもしれない。
「そいつ、誰なんだ?」
「……パートナーだよ。療養所の頃、に……」
再び眠気の波が押し寄せ、瞼が重くなる。
「……一緒だった、牡羊……今は、浜辺の診療所で……」
最後まで言葉が続かない。
僕は眠気に耐えきれず、完全に瞼を閉じてしまった。
「……俺よりそいつのことが……」
声が聞こえているけれど、その意味を理解する前に通り過ぎていく。
次の日を迎えた時には、キフィは何事もなかったかのように僕に触れ、星をやさしくした。
間が空いたせいか、もたらされたものは覚えていた以上の快感だった。
自分を形づくるものの輪郭が失われ、甘く熟して溶けゆく感覚。
とろとろとした感覚に包まれると、何も考えられなくなる。
思えば、寝言とはいつのことを訊いたのだろう。
答えそびれた質問をキフィが繰り返すことはなかった。
この幸福感もキフィの得るものとは違うのだ。
同じように感じているとばかり思っていたものが、間違いだと知ってしまった。
キフィはサフォークじゃなかった。
〈兄〉ではあるが、コリデール型の兄だったのだ。
不満を口にしなくとも、満足できていないに決まっていた。
僕は愕然とした。
兄弟の判定が振るわない理由もこのことが要因でなくて何だと言うのだろう。
生徒手帳に記載された記録がサフォークになっていることを訊くと、初級カリキュラムの修了まで――――つまり、コリデールへの理解を深めるまで未修了者にはマスキングデータが表示されると教えられた。
今回は緊急事態であったため例外的に知らされたに過ぎない。
不安の中で微睡み、朝方にはシーツに包まりエンナのレポートを聞いた。
レポートにあった『碧眼の牡羊』というのがヒューであることは疑いようもない。
彼のマラカイト・グリーンの瞳を思い出す。
とびきり綺麗な牡羊だ。
ヒューがキフィの兄だったなんて。
その事実は、どうしても自分とヒューを比べさせた。
容姿もクラスもそうだし、何より二人は対等にぶつかり合うことのできる相手なんだ。
加えて、学校が決めた物事にヒューは抵抗し、キフィは本心を抑えている気がした。
今、キフィは僕と一緒にいるけれど、それもいつまで続くかわからなかった。
学校の指示以外に兄弟でいる理由を僕は見つけられないでいる。
気持ちは晴れず、連日連夜もやもやした思いを抱えた。
そのせいでアパートメントでの生活に戻っても、すべて元通りとは言えなかった。
観測局が発信する速報用レポートの受信方法は、キフィが教えてくれた。
ヒューのことなど何でもないとでも言うかのように。
とにかく、僕が偶然拾った電波は予報で、速報用レポートを聞けば、事の成り行きを知ることができるという。
全貌を記した事後レポートは、ヴァンタブラック観測局の事務所で見ることもできるらしい。
観測局かあ。
僕は、キフィが時折纏う光る粒子の意味を知ることになった。
「体や服に付着した外天の空気はこっちの空気にさらされると微かに発光する。
綿雪羊の群れから抜け出したシアにも付いていた。
数時間で消えてしまうが綺麗な現象だ。害もない」
つまり、光る粒子は外天へ行ったことを示唆するのだ。
そして、エンナが口にした『バイトの牡羊』という言葉。
「外天へ行くのはバイトなんだ。インクの材料になる外天の産物を手に入れる仕事だ。
このことを話そうと思っていた」
キフィは自身が学校に通い始めたばかりの頃に声を掛けられたという。
「学校が紹介している副業がある。観測局のバイトはそのひとつだ。
成績を落とさないのが条件で、研究の一環だから評価に繋がる。模範生マークはその結果だ。
兄弟の総合評価になるからシアは気にするな。わざわざ二人でしなくたっていいんだ」
キフィの言葉は、僕がバイトをすることを牽制する印象だった。
でも、どうして?
僕が間抜けだから、外天から戻れなくなることを心配しているんだろうか。
それに評価を上げたいのはなぜだろう。以前から、ということはヒューに関係している?
ヒューが観測局でバイトをしているから? 彼といたいの? それは今も?
さまざまな疑問が頭に浮かぶが、口にする勇気はなかった。
そんな風にして数日が過ぎると、初級クラスのカリキュラム修了を知らせる電子便が届いた。
併せて、進級についても記されていた。
初級クラスは通信による講義形式が中心だったけれど、今後は実習授業があるため、月の半分は学校へ行かなければならないという。
「シア、迷うといけないから初日は一緒に行こう。構内も案内するよ」
進級のことを伝えると、キフィはそう言って額にキスをした。
1.5.2
学校は、アパートメントやマーケットスクエアと同じ南区にある。
町の中央に程近く、ガイダンスで見た上空からの景色によると、正方形の四角い枠に十字をはめ込んだ形状の建物がそうだ。
十字に見えるものは、中庭を東西南北に区切る外廊下だった。
建物は4階建てで、正面エントランスは階段となだらかなスロープが組み合わされている。
シアは初めて目の前にする白亜の建物を見上げた。
「ICカードのこの部分が出入口のキーになっている。カードはいつも持っておけよ」
首にかけた革紐に無色透明のICカードがぶら下がっている。
僕が生徒であることを証明するものだ。
重さを感じないそれと同じものをキフィが読取機にかざすと、ピッという電子音がした。
身振りで真似しろと言うので、僕もICカードをかざす。
電子音が鳴り、解錠されたドアから建物の内部へと入った。
ロビー正面には大きさの異なるエレベーターが2つ。
右手に階段もあり、その奥の硝子張りの部屋には人の姿が見えた。
「あれはメディアルームだ。
機能的には学習室と同じだが、ライブラリーのあらゆる書籍データにアクセスできる。
それに学校所有の研究資料にも。許可されている権限が大きいんだ。
学校が開いている時間なら自由に使えるよ。その奥が売店。そっちから回ろう」
次に生活科目で使うクッキングルームがあり、キフィは簡単な説明をつけ加えていった。
多目的スペース、食堂、医務室、事務室を通り過ぎれば、さっきのロビーに戻っていた。
「中庭は温室になっていて、先生が花や薬草を育てている。変わった作物もある。
俺達も授業で使うし、あの一角は休憩所になっている」
廊下を一周し終えると、建物の真ん中にある中庭のことを言った。
長い赤毛をひとつ結びにした教師と思われる人物が水遣りをしている。
白い布地が光を反射し、目に眩しく映った。
途中に幾つか通用口もあり、正面エントランスと同じ仕組みで出入りできるらしい。
「上へ行こう。次は3階だ。講義室が2階だから、最後でいいだろ」
折返し階段を上り、3階まで行くと、1階同様に反時計回りに歩く。
「このフロアは先生達の研究室が集まっている。
4階にも研究室があって、クラス担任の研究室だ。残りの大部分は所長室。
所長はここで暮らしているし、先生も多くは研究室で寝泊まりしている」
「ふうん」
うんだとかへえだとか、知らないことばかりでそんな返事しかできなかった。
けれど、キフィが話してくれるのが嬉しくて、こんな風に歩き回るのはうきうきする。
「第7研究室はヒーリングルームだ。大抵開放しているから、自由に利用できる」
キフィはフロア最後の研究室の中を覗いた。
「中は全部鍵付きの個室だ。
今は授業前だから誰もいないな。利用するのはだいたい授業の後」
真似をして僕も覗いてみる。
狭い通路と無機質なドアが並んでいるが、窮屈さもよそよそしさも感じなかった。
芳しい花の香りがするせいだろうか。
「自然音や香りを体験しながら、マッサージやストレッチをしたり、何もしないこともある。
先生と個別のレクリエーションのために使う。手法は肌か機械だ。
利用するなら最初はクラス担任にしておけよ。やり過ぎないだろうから」
「個別のレクリエーション? それってどういうことをするの?」
疑問を口にした僕をキフィは見つめ返した。間を置いて、目を逸らす。
「先生の手で……」
急に小声になったため最後の言葉が聞き取れなかった。
「え? なんて言ったの」
「その内わかる」
キフィはそう言いきり、すたすたと歩き出したので慌ててついていく。
聞き取れなかった僕も僕なので、重ねて聞き出そうとも思わなかった。
キフィに追いつき、3階エレベーターの前に来た時、あることに気づいた。
そこはちょうど正面エントランスの上階にあたり、ソファや椅子が置かれたスペースだった。
南に面した大きな窓から町の景色が見える。
「あ! 見て、キフィ。アパートメントが見えるよ」
「ああ」
白壁に茶褐色の木を用いた3階建ての建物だ。
窓やベランダへ通じるテラスドアの青い硝子が並んでいる。
「ここからじゃあ僕らの部屋は見えないね」
「そうだな」
言い方はそっけないけれど、キフィの目は微笑んでいる。
少しの間くつろいで、知っている建物を指差せば、キフィは相槌を打った。
授業前の案内だった。
残り時間も少なくなり、飛ばした2階へ向かった。
階段近くから始め、隣り合った講義室、トレーニングルーム、プレイルーム、シャワー室と巡れば、最後に実習室がまとまってあった。
――――その途中、プレイルームの前でキフィは言った。
「保健科目で使う小部屋だ。第9番まであるが、第1番だけ他より広い」
前を進むキフィが立ち止まったので、後ろの僕も足を止める。
「この部屋は初級クラスでも説明があっただろ。実技を試すところだ」
半歩振り返ったキフィが、大事なことだから、と耳元でささやく。
「プレイルームは生徒同士で利用する。ヒーリングルームは先生の手を借りたい時に」
何だかキフィの視線が熱っぽい。
その視線は、僕にプレイルームの役割を意識させた。
「小部屋ごとにテーマカラーがある。アメニティグッズも少しずつ違うんだ。
ホワイト・レド、シルバー、カーボン・ブラック、サーモン・ピンク……シアは何色がいい?」
問いかける声は甘く、全身が期待に震えた。
ゆっくりと着実に、僕の心臓の音が速くなっていく。
「午後は保健科目だったよな? 落第にならないようにたくさん、しような」
「うん……」
ますます心音が速まって、色を選ぶ余裕なんてなかった。
「どの部屋でもいいよ。キフィが選んで……」
キフィは考えるしぐさで言った。自身の唇に触れながら。
「そうか。じゃあ、サーモン・ピンクにしよう。第4番の。ネクタリンの果肉みたいだろ」
言うと、その唇は僕の左右の首筋に吸いついた。
少し痛いそれは気持ちがよくて、キフィに食べられたいという思いに駆られた。
その時には気づかなかったけれど、僕の首筋には右に左に薄赤い痕が残った。
1.5.3
講義室まで戻ると、後でと言い合ってキフィと別れた。
僕は中級クラスの講義室へ、キフィは上級クラスへ。
ランク分けの結果、僕は中級にクラッシングされた。
中級を経ず上級判定となる者がいれば、生徒でいる間に中級から上級へ変わる者もいる。
キフィは前者だ。
反対に落第――――上級から中級へ階級落ち、あるいは中級から脱落する者までいるという。
もちろん、中級のまま変わらない者もいる。
僕にとって中級クラスが意味するものは、キフィと離ればなれという事実だ。
キフィが隣にいないのに、他の牡羊の中に交じるのは奇妙な感覚だった。
それに、初めての講義室は落ち着かなかった。
緊張のせいでそう思うのか、なぜか見られている気がした。
他の生徒の視線を全身に感じる。
きっと、ただの自意識過剰だ。
気にしないようにして似た毛色の牡羊を探していると、『キスマーク』という言葉が聞こえた。
ひそめた声だったけれど、耳は言葉を拾い、一瞬体が固まった。
キスマーク?
体が火照る気がした。
でも、僕のことを言っていると決まったわけじゃない。
「ほんとだ! キフィってそういう奴だっけ? あんなに独占欲を剥き出しにしてさ」
能天気な明るい声が講義室に響く。
僕は羞恥にさっと顔を赤くした。
さっきの、嘘!
反射的に首筋を手で隠し、声のした方に驚きの目を向けた。
すると、ばちっと視線が合ってしまった。
相手は好奇心旺盛なネオン・ピンクの瞳を一段と輝かせた。
「隠さなくていいじゃん! もっと見せびらかせよ! あのキフィだろ? 自慢できるぜ」
そう言って笑うのは、目鼻立ちのはっきりした黒毛の牡羊だった。
黒髪の表面にも鮮明なピンクの艶があり、幾らか長めの髪を頭の後ろで結んで残りは垂らしているので、残り髪や後れ毛が無造作にはねている。
耳には流線を描いて揺れるピアスに、高温の青い炎を宿した "Cantera Opal-type" の通信機。
黒いフードパーカーから覗く鎖骨にネックレス、手首にバングルを重ねて騒がしい。
「あー、もう。シガラったらさ、なんて言い方をするんだよ」
呆れながら咎めるのは、爽やかな白毛の牡羊だった。
緑がかった青色の瞳は澄み、理知的な面は穏やかだ。
やや固めの癖のある髪を短く切り、白地に青磁色の艶が光る。
宝石が1粒のシンプルなピアスに、半透明の淡い色合いの "Green Opal-type" の通信機。
清潔な白い上着は腰を隠す長さで、スリットから細身のパンツが見えている。
短い眉を下げるので一見困り顔だが、瞳の奥や声には幾分の揶揄いがひそんでいる。
「俺がシガラな。よろしく。お前、名前は?」
黒毛の快活な牡羊が駆け寄った。
好奇心に輝く瞳がすぐ目の前だ。
「僕はハウエルだ。よろしく。こいつ、遠慮ないから気を悪くしてない?」
白毛の落ち着いた牡羊がゆっくり後から近づいてきてとりなす。
浮かぶ笑みは親しみやすい。
「僕はシア。全然気にしてないよ。でも、あの……えー、と」
「キスマークが気になんの?」
シガラの直接的な言葉に面食らい、僕はさらに体温が上昇するのを感じた。
「はは! また赤くなった! ちょっと待ってろって」
そう言って軽快に講義室を出て行く。
ハウエルに戸惑いの視線を向けると、待てばいいよと返された。
数分もせず戻ってきたシガラは手に白いタオルを持っていた。
「シャワー室から拝借してきた。使えよ」
「……ありがとう」
タオルはふわふわで雲でできてるみたいだ。
シガラは思ったより気の利くいい奴なのかもしれない。
「ありがとうなんて言っていいの? 困らせてるのはシガラだよ。
でもまあ、それなら隠せるね」
ハウエルはくつくつ笑って言った。
「だろ。ていうか、首まで赤いぜ。そんなに真っ赤ならもう気にしなくてよくね?」
シガラの発言に調子が狂わされる。
そのため、いつまで経っても赤みは引いてくれなかった。
ひとまずタオルを首に巻き、僕らは近くの椅子に座って教師が来るまで話をした。
「二人は兄弟なの? どっちがどっち」
「決まってんだろ」
「そりゃまあ」
親しいふるまいは仲のよさの表れだ。
聞いてみると、シガラが兄で、ハウエルが弟らしい。
「こんなのご披露してさ、キフィはどういうつもりなんだろうな」
「クラスが別々の兄弟は珍しいだろう。キフィだって思うことがあるんだよ」
「別々なんて前代未聞だろ。手を出すなって言ってんのか? 本気で? 煽ってんだろ」
「それは一理あるね。でも効果はある。他はだいたい逃げちゃうよ」
キスマークの話題はやめてほしい。恥ずかしくて消えたくなる。
でもそれ以上に、前代未聞という言葉が胸を刺す。
「僕達ね、ついこの間までキフィと同じクラスだったんだよ」
「たまに補助も入ったよな。お互いに。ま、今はこのとおり落第組だ。
ん? 心配すんなよ。中級クラスの連中がみんなそうってわけじゃないぜ」
「いわゆる階級落ちってやつ。別にいいんだ、上級でも中級でも変わらない。平気さ」
「そうだよな。やってることは今までと変わんねえし」
キフィがこれを聞いたらなんていうだろう。
ただ、二人一緒だから大丈夫、と思い合っているのが言葉の端々から伝わり、僕は心から羨ましく思った。
テンポのよい会話は一向に途切れることがなかった。
教師がやって来て、最初の講義が1コマ、次に実習が1コマ。
そうして、学校の授業は昼に一旦終了となった。
実習を行った教師は出て行く前に僕に声を掛けた。
「シア君、少し話があるから研究室までついて来るように。君の兄も呼ばれている」
僕は目を瞬かせた。
シガラとハウエルが目配せして、行って来いよと明るく言う。
一方、僕の胸には講義室へ入った時の落ち着かない気持ちが蘇った。
向かった先は4階フロアにある第9研究室だった。
上級クラスは先に授業を終えていたため、すでにキフィは研究室の中だった。
研究室内には他の牡羊もいた。
まず、大きい羊が2人。
ひとりは中級クラスを受け持つ担任教師だ。
もうひとりはわからないが、白衣を着ているからやっぱり教師なんだろう。
次に、小さい羊が2人。
もちろん、その内のひとりはキフィだ。
そして最後の羊は見知った牡羊だ。
マラカイト・グリーンの瞳と目が合うと心臓が跳ねた――――牡羊は、ヒューだった。
わからない方の大きい羊が上級クラスの担任教師と名乗り、同席者を順に紹介していった。
その後で、教師は『TBP』という計画について僕らに話して聞かせた。
これから始動する研究実験。
3人の兄弟を掛け合わせる新しい試み。
「というわけで、君達はアパートメントで一緒に暮らすことが決まった」
「保健科目については柔軟にするよう調整してある。今後は上級クラスに合わせて行うように」
「午後にある実技科目はプレイルームを使わなくていい。今日のところは隣室を使いなさい」
「忘れず、3人分提出して帰るように」
僕の頭に残った教師の指示はこれくらいだった。
1.5.4
第9研究室の隣室で起きた出来事はよく思い出せなかった。
ともかく、ヒューが仕切った。
振り返ってみれば、落ち着き払っていたのはヒューだけで、キフィでさえ動揺していたことに思い至る。
「そいつ、怯えているから時間が掛かりそうだ。先にほぐした方がいい。
準備できたら今度はキフィだ。お前のならすぐだろ。見ていてやるから」
言われるままに、キフィは酷くぼんやりした顔で僕に触れた。
ヒューは少し離れた壁に背を預け、こちらのすることを眺めている。
一体、何が起きているんだろう。
クラッシングの結果は兄弟の解消を恐れさせるものだったけれど、そんな話にはならなかった。
この事態に理由があるとしても僕にはよく理解できなかった。
わからなくても、体はキフィの体温に素直に反応した。
やがて、時間を掛けて僕は熱く熟れ、触れる手が離れた時にはキフィもすっかり熟していた。
ヒューは壁から背を離し、欲した者の首筋を甘く噛んでキスをした。
手の届く星を十分ほぐせば、自らも抜き差しして呼吸を荒くする。
キフィの熱が最高潮に達した頃、教師の指示どおり3人分の薄雲を提出し、僕らは帰路に就いた。
そのはずだ。
というのも、どうやって帰ったのか全然思い出せないんだ。
ただ、元のアパートメントの生活に戻りようがないことだけはわかった。
朝目覚めれば隣にキフィがいて、リビングへ行けばソファにヒューがいる。
そんな風にして3兄弟の共同生活が始まった――――
初日の夜、ヒューはリビングで寝るからベッドルームは使わないと言い出した。
突然の事態についていけない僕にとって、この申し出はほっとするものだった。
一方で、もはやアパートメントは安全な場所ではなくなってしまった。
僕はヒューを恐れている。
何でもない顔をして外天で迷子にさせられたが、強い感情はキフィへ向けられている。
考えも行動も読めない。ましてや本心なんて。
次の日の朝がやって来ると、ドア越しの二人の会話で目が覚めた。
「……キフィ、キフィ。こっち……」
「……聞こえているって。何度も呼ぶなよ……」
「……あの孔雀のせいで……軟膏を……くれ……」
「……自分のことは自分で……」
「……知ってんだろ? しばらくエンナに……」
「……はあ、何だって俺が……こんな姿……ない……」
キフィは朝食の用意のためキッチンに立っていたのだろうか。
文句を言いながらもヒューの求めに応じたようだった。
その後の会話はなく、息を殺した気配を感じたので、
訝しく思って僕はベッドを抜け出し、リビングへ続くドアを開けた。
ヒューはキフィに軟膏を塗るよう頼んでいたのだ。
僕の目には、ソファにうつ伏せになったヒューと、それを星へ塗り込むキフィが映った。
学校の方針が変わった今、キフィにヒューを拒む理由はない。
キフィの態度は診療所でのそれと比べ、明らかに和らいでいる。
ヒューは以前と変わらず〈兄〉だ。
それなのに、ヒューは自身を〈弟〉のように扱わせていた。
その姿に気が滅入った。
兄弟の両方を演じることができるのなら、〈弟〉でしかない僕に何の価値があるのだろう。
ベッドに戻るも、眠れないまま朝食の時間に再び起き出した。
頭が働かない。ぼんやりした気分で朝食にし、学校へ行った。
3人、一緒に。
変な感じだ。
「またな」
そう言って、ヒューはさっと上級クラスの講義室へ入っていく。
「シア、またあとで。昼に迎えに行くから」
「……うん」
キフィはこちらに視線をくれて、僕が返事をするのを待ってから中へ入った。
隣り合った講義室を隔てる壁一枚が大きい。
中級クラスへ行ったら行ったで、気が晴れることはなかった。
「3人で住むようになったって、本気で?」
「キフィはどっちも必要だから、そっか」
頓着しないシガラや気遣うハウエルはまだよかった。
保健科目に調整事項があったことで、生徒に僕らの共同生活がすっかり知れ渡っていた。
好奇の視線にさらされている気がして落ち着かない。
「だいたいキフィは弟を心得てんだろ。兄まで心得てさ、刺激が強いって」
「3人の兄弟なんて前例がない。補助とはわけが違うし、あの『ヒューとキフィ』だ」
「ヒューは他と慣れ合わねえし、逆にキフィは誰でも相手にする。以前からそうだぜ」
「それに優秀判定の兄弟だったんだ。優良と違って、優秀はいつも1組しか選ばれない」
「だから他の奴らがそわそわしてんの」
「羨望の的でもあったんだ。でも、もう過去の話だよ。シア、大丈夫?」
みんなが関心を持つ理由を二人は話した。
それを聞いて、僕はキフィのことをほとんど知らないことを再認識する羽目になった。
午前の授業が終わった時、上級クラスの授業はまだ終わっていなかった。
気づけば、僕は学校を飛び出していた。
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