兄弟と黒猫-2 烏羽を生やす【黒色】
ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。
今夜は雨となり、烏の黒玉 が入り混じる模様です。夜雨の奇を感じる一夜となるでしょう。
以上、観測局長・キーツがお伝えしました。
[ Vanta Black / ヴァンタブラック ]
最 も 黒 い 物 質
1.2.1
オーピメント。
ドアプレートにはそう書かれていた。
部屋の中へ入ると、シーツやフロアマットが冴え冴えした檸檬色に煌めく。
かつての鉱物顔料である石黄の名前が付けられた部屋だ。
真ん中に大きなベッドが1つ置かれている。
ほとんど敷き詰められるようにしてあるのはどの部屋も同じで、ベッド以外に目を移せば、壁に収納された小型保冷庫やタオル類があることに気づくだろう。
檸檬色の照明によって、それらは同じ色に染められている。
アトリとマーブルはこの部屋を好んで使った。
キフィにこだわりはなく、気づけば同類の部屋すべてを使ったことがあった。
〈学校〉の2階にある特別室の一角には、オーピメントの他にシナバーやウルトラマリン、マラカイト、ロイヤル・パープルといった部屋がある。
保健科目でしか使うことはない。いや、個人的な使用目的がないとは言わないが。
最初にベッドに飛び込んだのはマーブルだ。穏やかに笑いながらアトリを呼ぶ。
二人がベッドに上がったので、俺は照明を落としてお互いの顔が見えるか見えないかの暗さに調整した。
「もっと明るくしてよ」
マーブルは明るい方が好きだと言う。アトリは俺の好きにすればいいと。
俺はどちらでもよかった。
補助役に甘んじるつもりで思いきり照明を明るくした。
そうすると、はしゃいだ笑い声が上がった。
その流れでキスをして触れ合って、互いを受け入れる手順を踏む。
目の前で繰り広げられるものを俺は冷静に見つめた。
先導するのはマーブルだ。
いつだって、好きなものやしたいことがわかっている風だ。
だからといってアトリに意志がないわけでなく、マーブルを受容することを楽しんでいる。
「そろそろさあ、キフィもこっちへ来なよ」
二人に手を引っぱられ、その間に収まる。
他の〈兄弟〉に付き合うのはこれが初めてではなかった。
心は変わらず冷静だったが、これから行うことを思えばどうしたって体は熱っぽくなる。
補助役は飽くまで補助だ。あればいいと思う手足や物足りないところを補う。
主体となる兄弟を喜ばせるためにいるのだが、この二人はどうも俺を喜ばせたいらしい。
マーブルと向かい合えば、アトリに背を向ける格好になった。
体を覆うものは取り払っているので、肌が密着して二人の熱を直接感じた。
マーブルのほっそりした腰に手を添え、すでにほぐされた部分を確かめてから自分のものをあてがう。
それだけで気持ちがよく、俺は目を細めた。
並行して、剥き出しの背中や無防備にさらけ出した部分をアトリが撫でる。
そこを同じようにほぐされる。撫で方がくすぐったく、腰が浮く。
その内にアトリのものが押し込まれた。
マーブルが得意気に笑っているのに気づくと、アトリも同じ表情をしていた。
星を突き、星を突かれる。
甘い刺激が倍になる。いや、それ以上だ。
憎らしいことに、俺が一番しごかれる位置だった。
声を漏らす頃には、前後も熱っぽい吐息に溢れていた。
得意気な様子はもうない。
目がとろんでいるのは酔いしれている証拠だ。
二人は補助役を喜ばせることで刺激剤として俺を利用したのだ。
結果的に補助役を全うできればいい。
そうすれば、アトリがマーブルを飲み干す。
流れに身を任せて俺も心地よくなれるはずが、そのことを考えると集中できなかった。
俺とシアはまだその段階になかった。
初級クラスにいる間はどうすることもできない。
俺は意識せず舌打ちしていた。
1.2.2
シャワー室から出ると、廊下でアトリとマーブルが待っていた。
一足先に出ていた二人が待っていると思わなかった。
「キフィ、保健科目に付き合ってくれてありがとう。助かったよ」
マーブルは人懐っこく、涙袋のある華やかな目を微笑ませた。
ホリゾン・ブルーの瞳は淡く穏やかな色をしている。
「別に構わないさ。補助が落第したんだろう。次もあれば声を掛けてくれ。
できるだけ補助に入るよう言われているんだ」
「そうか。でも、急に〈弟〉との時間を取って悪かったな。まだ初級クラスだろ。
実技科目は順調なのか?」
アトリは愛想がないのに、泣き黒子が印象的な色気のある顔で言った。
ミスト・ホワイトの切れ長な目がこちらを窺う。
「何だ、そのことか。心配ない。関係は良好。上手くいってるよ」
「本当かなあ? 最近のキフィはずっと苛立ってるよね。
不満が溜まるのはわかるけど、さっきだって、時々別のことを考えてさあ」
「あれだけしておいて文句はないだろ。気にもしてないくせに」
「僕らはね。そうじゃなくて、僕らや先生の点数稼ぎより弟のご機嫌を取りなよ」
マーブルは穏やかさが過ぎておっとりしているが、その雰囲気のままで言いたいことを言う。
うるさいという文字を顔に貼り付けてアトリに助けを求めたが、即刻裏切られた。
「バイトのことも黙ってる。誘うつもりはないのか?」
「今日はアトリまで味方じゃないのか。どっちもうるさいな」
「弟が可愛いのは今の内だ。バイトもすぐばれる」
そう言ってアトリは笑った。
「待って、今のどういう意味? 僕のことじゃあないよね?」
「別に。心当たりがあるのか?」
涼しい顔のアトリに対し、マーブルが頬を膨らませる。
本気でも冗談でも、言い争う姿はいちゃついているようにしか見えなかった。
「あー、うるさいうるさい」
俺は羽虫でも追い払う真似をして、この兄弟をあしらうことにした。
二人は級友だ。少し前まで学習形態はこの二人と何ら変わりなかった。
〈兄〉のアトリと〈弟〉のマーブルは一見対照的だが、そのバランスがちょうどよかった。
今は口うるさくても、生徒であれば誰もがこの関係を羨ましいと思う。
二人は安定した良好判定がなされていた。すでに優良の域にある。
俺とシアが上手くいっているのは嘘じゃない。少なくとも、判定は可以上だ。
一定の基準に達しているが、さらなる関係性の向上に努めること、というわけ。
自慢できる判定じゃないことはわかっている。
だが、それはいい。シアとの関係は始まったばかりだ。
苛立ちの原因はシアのことではあるが、シアのせいだけとは言えなかった。
俺はため息をついた。
バイトのこともいつまでも黙っていられない。
「そうだ、忘れていた」
思い出したようにアトリが呟いた。
保健科目で得たものをシャワー室近くに設置された専用の容器に放り入れる。
午後の科目が今日のような保健分野の時に薄雲を提出する決まりだ。
それをもやもやした気持ちで見つめながら、バイト前にシアの様子を見るため一度帰宅しようと思った。
1.2.3
4、5日前に遡る。
あの日も午後の科目をキャンセルしたんだった。
俺が帰宅した時、シアはアパートメントにいなかった。
こんなことは初めてだ。すぐにオパール玉に発信したが反応はなかった。
シアの性格上、何かあれば連絡くらい寄越しそうなものだ。
一方で、うっかりしたところがあるし、時間に関する約束事も交わしていなかった。
いつどこへ出掛けようと自由だった。
だから、漠とした不安を抑え、アパートメントで待つことにした。
時間は鈍く過ぎた。
夕闇が迫る時刻になってようやく、黒猫に抱えられたシアが帰宅した。
「キフィ君、あなたにお届けものですよ」
黒猫の通称で呼ばれるバロという男は、いつもと同じようにおどけた口調で言った。
「どうして一緒なんだ」
「珍しいことがありましてね。
こちらの可愛らしい新顔が、綿雪羊の群れに襲われるところでしたので助けてあげました」
「助けた? こんな風になっていて信じられるか」
バロの腕の中でシアは眠っていた。その姿を目に映せば、頭の芯が痺れた。
シアの頭髪には光る粒子が付着していた。バロにもだ。
その上、シアの体は高熱の後に体温が冷えて平温に戻った状態にあった。
その、匂いがする。
もっとも、バイオテレメーターの記録を見れば確実だったが、確認したくもない。
「信じられませんか。でも本当のことです。
早めに介抱しましたので、羊角は根元から落とすことができました。痕は残らないでしょう。
ですが、しばらくの間、憑いた者の夢へ綿雪羊が遊び訪れるといいます」
バロはシアに愛おしむような視線を遣りながら話した。
その視線も介抱という言葉も気に食わない。
「羊角? こいつに憑いたっていうのか」
「ええ、もちろんそうです。綿雪羊はお気に召した者に悪戯をするのが好きですから、
マーキングが消えるまでそれはそれは甘やかな夢を見ることでしょう。それと、」
もったいぶって言葉を切り、興味深げにこちらを見据える。
「羊の皮を被った者の中に狼が紛れているとお見受けしました。
彼に誘導されて外天へ迷い込んだのです」
「そんなこと、誰が」
「ヒュー君ですよ」
「……っ」
思いも寄らない名前に言葉がつかえた。
「彼がこのメリノを惑わした狼です。例の謹慎も解けたのですね」
「……謹慎なら、とうの昔に解けてる」
「そうでしたか」
知らないふりをしています、と受け取れる含み笑いで相槌を打つ。
いけ好かない忠告と親切心だ。
二人して黙るが、次第に夜が勢力を増す中でバロは目を光らせている。
もしも、これ以上のことを知りたいのであればいつでもどうぞ、とその目が言う。
ただし見返りも求めます、とも。
「では、観測局でまたお会いしましょう」
シアをこちらに引き渡すと、さっと身を翻して夜に消えた。
口にしたのはその一言だけだった。
問題は夜に始まった。
バロの言ったように、その夜からシアはそのとおりの夢を見るようになった。
シア自身は無自覚だが寝姿は一目瞭然。
眠りに落ちると、頬を染め、眉を垂らし、悩ましい息遣いをする。
間違いなく、夢の中でもてあそばれている。
シーツの上からでもそれがありありと伝わった。
最悪なのは寝言だ。これが堪えていた。
1.2.4
「……ラルフ……はあ、気持ちいい……そこ……もっと……」
そして今、帰宅した俺の前で聞き飽きた寝言をシアは口にした。
しかも、また『ラルフ』だ。
いやになる。
リビングで寝落ちでもしたのか、シアは座った格好を崩してソファからずり落ちそうになっている。
そばのテーブルには空の皿が1枚あり、点々と汁がついていた。
ふっと甘い匂いもする。
「綿雪羊じゃなかったのかよ」
小声で黒猫に毒づく。
夢に綿雪羊が現れるのが本当なら、実在する奴と紐付いたのかもしれない。
俺にはラルフが誰なのかわからなかった。
クラスメイトの中にはいなかった。別の学習階級にも。
マーケットスクエアの連中とも思えない。
他に考えられるとしたら、シアが以前過ごしていた療養所だ。
それ以上は調べる気になれず、本人に訊くのも調べたことを知られるのも憚られた。
シアはまた寝言を言った。
授業や教師の手伝い、バイトの合間に、マーキングを消す方法や狼のことも気にしなければならない。
体質が変わり、成績がリセットされたため模範生マークも取り消される心配もある。
マーブルの言うとおりだった。苛立ちもするさ。
その代わりではないが、肩を揺さぶって無理矢理にシアの眠りを破った。
「ん……キフィ……おかえ、あっ」
「ただいま」
「ちょっと、キフィ……!」
言うが早いか、履いているものを取り払い、片脚を掲げて大きく脚を開かせた。
指を入れて星を探れば、体中どこもかしこもやわやわだ。
俺の気も知らないで、一体いつから眠っていたんだ。
「あ……んっ、どうし……やめっ……キフィ!」
目が覚めた途端に俺の名前を呼ぶのも苛ついた。本音は誰がいいんだか。
そんなことを訊くつもりは欠片もなく、俺は無言で指の数を増やした。
最初から乱れていた息がますます乱れた。
シアは力なく握った手で口を隠すようにし、小柄な体をさらに小さくして身を震わせた。
「いやならやめる。どうする?」
こんなに体を熱くしても夢では達することができないと、ここ数日で知り得ていた。
「ん? どっちだ」
「……いやじゃ、ない……から……やめなくて、いい……」
手で顔を覆い、消え入りそうな声で言う。
言わせておいて何だが、耳まで赤くしているシアを愛しく思う。
頭を撫でてキスをすると、シアの体がびくんと跳ねた。
涙目になって俺を見るシアはどうしようもなく可愛い。
もう一度キスをしようとして、別のことを思いついた。
耳に言葉を吹き込めば、シアは目を見開いた。
甘い匂いのせいでそうしたいと強く思った。
容認されていることなのだから、我慢しなくてもいいのだ。
俺は手の動きをゆるめず、屈み込んで目の前にあるものに舌をつけた。
「え! う、嘘」
こんな風にするのが初めてだったせいか、シアはいつも以上の動揺をみせた。
だが、動揺の理由が驚きだけではないと知っている。
「シア、本当はまだ足りないだろう? 言ってみろよ」
「何のこと……あ……僕、あっ……わから、ないよ……」
舌を引っ込め、シアを見上げる。
「わからないのか? ふうん、そうだな。急かされるような気持ちにならないか」
「どうして……知って、」
「知っているさ」
俺だってそう感じていたのだから。
シアは短い逡巡をみせた後、こくんと頷いた。
言葉にできないのは本当なのだろう。
「それはそれで困ったな」
口ではそう言いつつも期待で胸が躍った。
指の腹で星を撫で、薄雲を使わない代わりに――――まもなく、それはやって来た。
直後、顔を真っ赤にしたシアは弱々しく言った。
「……全部、飲んだ……の。だめだよ……今日の、分……」
シアは恥ずかしさと困惑が入り混じった顔をした。
だが、それ以上に満たされた顔をしている。
その感覚はかつての俺が知るものだった。
「心配しなくていい。夜に提出すれば間に合うだろ」
「……そう、だけど……キフィは……」
続く言葉を口にすると、答えを得たシアはソファにくたりとした。
涙と汗が頬を伝っている。
涙だ。
最近は目を潤ませる程度だったが、ついに涙を零した。
シアは安心すると反射性の涙を流しやすい体質らしい。
兄弟の組み合わせが決まった時、説明された診断書にそう記されていた。
安心すると? 反射性の涙? どういう意味だ、と思った。
腑に落ちないまま初対面の日を迎え、その意味を目の当たりにした。
触れ合ってすぐだ。
泣く程のことだろうかと呆れる反面、妙に肌がざわつき、底知れない優越感を得た。
そのことを思い出し、俺は自嘲ぎみに鼻を鳴らした。
口の周りに付着したものを片手で拭い、もう片方の手でサン・オレンジの髪を撫でる。
涙を舐め取ると、シアは熱っぽく体を震わせた。
バイトから帰ったら今度は俺も、と心に決めて舌を絡める。
それにしてもシアの口は甘かった。
きっとネクタリンを食べたんだろう。
神々の酒に由来する、あの紅赤色の果実は蜜より芳しい。
最近のシアはそればかり食べている。
何だっていい。夢の中の奴なんて忘れて待ってろ。
1.2.5
夜の気配が漂い始める頃にぱらぱらと雨が降り出した。
俺は耳元の "Water Opal-Type" の通信機に手を添え、今朝の外天情報を思い出していた。
通信機の本体は澄明な海を思わせる水色。
その海面に虹が煌めき、決まり文句を受信した。
「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」
雨に似た雑音は極力抑えられ、謎めいた声が鼓膜を震わせた。
「今夜は雨となり、烏の黒玉が入り混じる模様です。夜雨の奇を感じる一夜となるでしょう」
観測技師が黒玉を気にしていたのは知っていた。
だが、声は予想した技師のものではなかった。
「以上、観測局長・キーツがお伝えしました……」
頭の中に声の持ち主の顔が浮かぶ。
形のよい顎、弧を描く口元、自信に満ちた暗赤色の瞳、濡れたように光る黒髪。
いつも高級そうなオーダースーツにジレを着て、シャツ襟にリボンを結んでいる。
立ち居振る舞いは、本物の資産家にも大嘘を並べる詐欺師にも見える。
目を細めて笑う様は蠱惑的だ。
頭の中の彼が笑うと、ピオニーの上品な香りが蘇った。
ちょうどその時、俺は目的の通りに出た。
いつも思うことだが、街灯が少ないわけでもないのにこの通りは不思議と暗く沈んでいる。
これから向かう建物を見遣れば、入口の壁に正方形の黒い看板が取り付けられていた。
黒地に縞状の白線が歪な輪を描くデザインは瑪瑙を連想させる。
そこには特殊なインクを混ぜ込み、黒とほとんど判別できない色で『観測局』と書いてあるらしい。
が、読めた試しがない。
看板を横目に短い廊下を抜け、ある地点を通過すると、瞬き1回分の奇妙な感覚に襲われた。
上昇と下降。腹の中身を盗まれたような据わりの悪さ。めまい。
それが去ると、突き当たりに『ヴァンタブラック観測局 事務所』と掲示されたドアが目に入った。
ドアを開ければ、無垢の木材を組んだ床板を踏むことになる。
一定の間隔で黒いオクタグラムが嵌め込まれ、局長の洒落た趣味を垣間見る。
天井からは丸みを帯びたランプが吊り下がり、波打つような歪み硝子を通した光は情緒を誘う。
事務机は向かい合わせに4つ。
一番奥に他より大きめの机が置かれているのは局長席だ。
すべての席が埋まることはまずなく、今も事務所にいたのは2人だけだった。
今晩は、と声を掛ける。
「キフィ君、今晩は。おや、顔色が冴えませんね。あれから君のメリノはお元気ですか?」
今夜の当番は黒猫だった。返事をしたのもバロで、開口一番にそれだ。
「心配いらないくらい元気です。もう迷惑を掛けることもないさ」
思わず、棘のある言葉になった。
「そうですか」
柳に風で浮かべる笑顔が煩わしいが、バロはそれだけで口を閉じた。
いつもならもっと言うだろうに。
その視線は上座へ向けられた。
1.2.6
そう、珍しいことに局長その人が事務所にいたのだ。
キーツ観測局長。
彼がバイトの雇い主であり、バロにとっては上司でもあった。
「今晩は、キフィ君。
ねえ、猫が牡羊のルールを解さないといっても、今の口の利き方はいけないよ」
「……すみません」
「局長、いいんですよ。私も、揶揄いが過ぎましたので」
「二人とも素直でよろしい。この特別な夜に小言はもう十分だ。
今夜は黒玉の雨が降るだろう。こんな素敵なことはそうない。私達は幸運を引き当てるのだよ。
すぐにでも出発したいが、タイミングというものがある。それまでこちらへお座り」
あの蠱惑の笑みで局長は手近な椅子を勧めた。
やわらかな雰囲気の奥に謎めいた魅力がある。それは底知れなさに通じるものだ。
そんな彼が傍から見ても胸を弾ませていた。
局長は黒い物質に目がない。
黒玉の予報がきっとそうさせるのだ。
お礼を言って座った椅子は局長と黒猫の間に置かれていた。
「少しおしゃべりをしよう。君のメリノがバロは気になるようだ。私も大いに興味があるよ」
座るなりそんなことを言う。
ああ、今日のおしゃべりはいやな予感がする。
「羊角インクのことは聞いただろうか。早速、ジェラルドが製作に取り掛かっているよ。
綿雪羊の連中が気に入ったなら間違いなしによい素材だからね。
インクの完成が楽しみでならない。ところで、弟君の名前はなんて言うんだい?」
『素材』という言葉が引っ掛かった。
羊角のことを言っていると願いながら答える。
「シアです。シアの花が咲いた日に生まれたとかで」
バロの耳に入れたくなかったが、局長の前で答えないわけにはいかない。
「ふうん、神秘の木のことだね」
「当人はずいぶん可愛らしくて、ちょっかいを掛けたくなるタイプとでもいうのでしょうか。
あの感触ならいい働きをしますよ。
似たタイプもいませんし、ぜひ観測局の一員に迎えたいものです」
シアが外天から連れ戻された後、俺はバロのレポートを聞いた。
当然、羊角の一件はとっくに局長へ報告されている。
今の黒猫の話しぶりから報告の内容がわかるというものだが、本当のところ局長はどう思っているのだろう。
シアをバイトに引き入れたいだろうか?
この後も幾つか質問を受けたが、局長がシアを勧誘する言葉を発することはなかった。
「まもなく出発の時間だ。
傘はあれを使う。キフィ君は傘の代わりにレインコートを着るように。
そこに掛かっている黒いレインコートだよ」
今回はレインコートか。
バイトの時はさまざまな指定を受ける。
その時々で言い方は変わるが、そういうものを局長達は小道具だとか好物だとかいう。
それらについて、説明されることもあればないこともある。
ないことの方が多い。だいたいは事後に知る。だから今は黙って聞くだけだ。
俺は半透明の黒いレインコートに腕を通した。
「さあ、今夜もひと仕事しようか」
言って、局長は勝気に微笑んだ。
事務所を出る時には雨は本降りになっていた。
前を行く二人の声は、打ち付ける雨の音とレインコートに遮られ、ようやく聞こえる程度だ。
これから通り道となる場所へ向かう。
「あらかじめ、心当たりのある場所へ餌を撒いている。
警戒せずに舞い降りてくれるといいが、上手くいくだろうか」
局長は口ではそう言うが、俺には不安などひとつもないように見えた。
「十分な撒き餌を準備しているのですから心配ありませんよ。
話をすれば、ほら。場所が特定されたのですね」
「ああ、そのようだ」
局長は笑みを浮かべて、ランプが点灯した通信機に耳を澄ませた。
「北区の廃工場らしい」
「あそこはいいところですね。烏の好みそうな場所です」
烏――――雨音の間隙に、傘を持った二人が交わす言葉を拾う。
確かに『烏』と言った。
「では急ごうか。キフィ君、走るよ」
「遅れないように。手を引いてあげても構いませんが、いかがいたします?」
「そんなものはいらない。子どもじゃないんだ」
俺は二人を追い越して廃工場へと走った。
早めた足音が後から追ってくる。
1.2.7
イエローロープが張られた廃工場は立ち入り禁止の区域だ。
人気が消えて久しいこの場所に打ち捨てられた工場が寂しく建っていた。
周りはどこも水浸しだが雑草ひとつ見当たらず、建造物や廃材の無機質な残骸が積み重なっている。
北区はだいたいがこんな具合だった。
浸食された海を擁すのだから一番影響を受ける。
敷地内へ侵入し、建物の中へ踏み込むと、その場の空気が変化したのを肌で感じた。
これが『通り道』だ。
肌をざわつかせ、空気をぴりつかせる。
そうして不安を煽る。
外天への入口。あるいは狭間。インク蒐集癖を持つ者達にとって垂涎の場所。
辺りは真っ暗だった。
気づけば暗闇に落ち込む仕組みはいつも共通している。
工場の天井が抜けていても雨天の夜なのだ。
元々空自体暗いが、ここは密度が高くて息が詰まった。
照明類は持っていたとしても役に立たないことが多く、複数でいても必ずはぐれる。
それに、局長や黒猫のような年上連中はここへ辿り着くことができなかった。
そのために俺達のような若いバイトを雇っていた。
しばらくすると、水音が聞こえた。
雨の降る音でなく、滴り落ちる音だ。
同時に肌に張りつく不快感があり、体のあちこちに微かな衝撃があった。
今も、まただ。
羽音も聞こえた。
それに、周りに黒いものがちらつくのが気になった。
瞬間的にしか姿を見せない何かがいる。
鳥でもいるのだろうか。そうか、烏か。
周囲がぼんやりと明るくなり、次第に視野が戻ってきた。
そこで烏に体をついばまれていることに気づいた。
レインコートの紐や裾を引っ張っている。
気忙しいが、問題はそこではなかった。
雨で濡れそぼった半透明のレインコートは、一番上のスナップボタンを残してすべて外れていた。
面食らったことに、中に着ていた服が消え、体が剥き出しだった。
露出した胸や開いた脚の間を嘴がつつき、甘く噛む。
痛みはなく、体の至るところがむず痒い。
一方で、弾けるにはあまりに緩慢でただ焦らされる。
耳を噛まれると、びくっとして反射的に顔が上向いた。
この時になって初めて、誰かに後ろから抱えられていることに気づいた。
両腕を後ろに押さえ込まれた体勢で、体格のいい男の脚の上に座っていたのだ。
男の肌は浅黒い。
黒髪が見えたが、顔まではよくわからなかった。
「あ……っ」
耳の中を舐められ、声を漏らしてしまった。
「やっと声が出た。ここが弱いのか? もっと鳴いていいんだよ。
鳴き声はコミュニケーションだ。互いを知るために大切なことだろう」
かすれた低音が耳元でささやかれ、背後から両翼に包まれる。
聞こえていた羽音はこの音だ。黒い羽先がそよぐ。
鋭い爪で胸をこねられ、嘴と思っていたのは爪先だと知る。
器用そうな手が、摘まんだり弾いたりして遊んでいる。
為されていることの意味を頭が理解してしまうと、むず痒さは別の衝動を生んだ。
「変わった羽だ。こんなものでは飛べないだろうに」
レインコート越しに撫でる手は、うなじから肩甲骨、背骨を通って尾てい骨のさらに先へ向かった。
午後の科目でほぐされた部分に手が伸ばされたなら、容易く受け入れてしまう。
次には星をリズムよくつつかれた。
びく、びく、と体が震えた。
「牡羊はこうではなかったろうか。ここが一番使い込んである」
気持ちはいいが、そこだけでは足りないと体が訴える。
もっと別の部分にも触れてほしい、と。
「烏の王様、こいつは変異したばかりの牡羊なんだ」
耳になじんだ声が聞こえた。
「メリノならそれで正解だが、変異体のコリデールはあんたのそれを擦りつけた方が喜ぶのさ。
両方を刺激してやるのが基本だ。でないと発散できない」
いつも近くで聞いていた声が言う。久しく聞いていなかった声でもあった。
その声は自分へと向けられた。
「酷っでえ格好。いくら烏羽の模倣だからってお粗末だ」
「模倣、なのか。同じ格好を、した奴が……何言っている」
「まあな。でも、俺はそこまでさらしてないだろ。王様も、とんだ趣味してるよな。
それ、すごくそそるぜ」
言って、触れてほしいと願った部分に易々と触れ、握り込んだ。
「……っ」
焦がれたものを握られ、意識が飛ぶかと思った。
それも、握るだけでなく適度な加減で前後に動かしもてあそぶ。
星への余韻までもがぶり返し、我慢のしようがなくなった。
とうとう、俺は弾けた。
かろうじて、再び意識が飛ぶのをぐっと堪えた。
ああ、本当に……堪えたものは意識だけだろうか。
弟という心地よい居場所、快感と呼ぶにはかけ離れてしまった鈍い感覚、消滅した関係。
それらの思いが痛みを伴って生々しく蘇る。
どうしてこんなところにいるんだ。
どうして、シアを襲わせるような真似をした。
狼の真似事などしてほしくなかった。
目の前に現れたのは誰であろう、ヒューだった。
1.2.8
二度目の我慢はそう長く保ちそうになかった。
「向きを変えるんだ。ほら、こっちの方がすごくいいだろ」
対面した烏は予想以上にいい体をしていた。
力加減が安定しているのは、脚が3本あるせいかもしれなかった。
3本脚の種なんて見たことがない。
だが、こちらの認識を崩すのが外天だ。
何にしても、擦り合わせると気持ちよく、腰の動きが止まらなくなった。
「はあ……はあ……っ」
その上、後ろからヒューが攻め立てる。
ヒューは上級者マークを保持しているし、俺の体を知り尽くしていた。
甘い刺激を得る場所が変わったとしても、その手に掛かれば快感がもたらされる。
何度も、何度も。
本能に刻まれていた鈍った感覚が嘘みたいに冴え渡る。
だが、早くも瞼が重くなり、思考は奪われようとしている。
「眠るのはなしだぜ。ここで食われたいのか。まだ、まだだ……はあ……っ」
その時、不意に熱いものが飛び散った。
顔に掛かったそれは白く透明で、少し粘り気があった。
腹や胸にも飛び散っている。
肩越しに見ると、汗ばんだヒューの顔にも付着していた。
その表情を見れば咽喉が鳴った。
浮かんだ感情を振り切ろうと顔を逸らしたところ、頭を押さえられた。
そして、飲み込まれるほどの勢いで俺の唇を貪って離さない。
ヒューは夢中になって、それ以外考えられないみたいだった。
窒息する、そう思った。
なのに気づいたら俺も同じことをしていた。
これじゃあ二人して窒息する――――だが、そうはならなかった。
ふつ、と目の前が暗くなったのだ。
時間が途切れたように感じた。
途端に烏の存在感は消え、背中が硬いことに気づく。
どこかに寝転んでいるのはわかるが、瞼が重く、とてもじゃないが開けられない。
それだけのエネルギーを消費したのだから当然だった。
閉じた瞼の向こうで男達の話し声がしている。
「一体、どうなっているんだい?」
「二人ともあれを浴びてしまったようですね。ヒュー君の方が幾らかマシです。
最初から一緒だったと思えませんが、烏の遊戯行動の途中にでも飛び込んだのでしょうか。
合流の手は、まあ、ヒュー君なら教わる相手がいますし」
「そんなところか。バロ、直接触れてはいけないよ。
いや、君がそうしたいのなら止めはしないが」
くすくす笑うのは局長だ。
俺達は外天から戻ってきたんだ。
「ええ、もちろん了解しています。うっかりキスでもしなければ大丈夫ですよ」
このおどけた声は黒猫だ。うっとおしいのも健在だ。
「烏の体液には催淫効果があるからね。
これでは我々の手に負えないよ。診療所に連絡を入れておこう」
「そうですね。応急処置がせいぜい。後のことはあの者らに任せるといたしましょう」
一旦、話が途切れると、顔を布地で拭われる感覚がした。
二人を前に、どんな無様な格好をしているか考えたくはなかった。
「本物の烏羽だよ。美しい黒だ。二人ともお似合いだねえ」
「片翼ずつとは、何とも詩的な」
その言葉の意味が俺にはよく理解できなかった。
黒玉を手に入れる方法は多少なりとも知っていたし、わかった上で俺は通り道をくぐり、烏の巣穴へ自ら落ちた。
烏と交わり、翼を手に入れる。
やがて濡れた翼は炭化し、磨くことで闇夜に烏の深みのある艶やかな黒玉と化す。
ただ、こんな風に『片翼ずつ』手に入れるつもりはなかった。
ベッドの上で目を覚ました時、体を起こした俺はバランスを崩して上手く立ち上がることができなかった。
俺とヒューは2人合わせて一対の翼を背に生やしていた。
この夜、診療所へ運ばれた俺がシアの待つアパートメントへ戻ることはなかった。
1.2.9
――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。
雨の降り始めから深夜にかけて、牡羊2名の協力を得て烏羽の入手に成功しました。
本件の烏羽は、美しい黒髪を思わせる見事さで、深みのある艶やかな黒色が特徴です。
これを清らかな泉水に浸し、炭化と研磨を経た黒玉は "Vanta Black-Ink" の材料となります。
インクのラベルには闇夜に烏が描かれる模様です。
黒は最も本質的な色と古くからいわれ、恐怖や死の象徴でもあります。
時に、夜間降る雨独特の風情ある刻限、烏の巣穴に陥るといいます。
浮かれて騒ぐ烏も多くありますが、みな知能は高く、狡猾で雑食であることは周知の事実です。
食糧と見做され兼ねませんので、迂闊に烏の巣穴へ近づきませんようお願い致します。
なお、本報告は観測局長・キーツのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――
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