大祭-8 宝石の娘は神秘を知り魅惑の香りものを生み出した


13 番 の 秘 密

大祭の終わりの日。晶華の王と晶の守り神は恋に落ち、花の契りは成就を迎える。

転変を経た神前に、月の子らの魔法によって姿を変えた数々の捧げ物が供えられる。

街の広場では、役目を終えた花燈やカンテラをすべて集め、夜天を焦がす大きな焚火とする。

焚火に劣らず、水の魔族に抱かれたアルマーはラピスブルーの幕内で燃え上がった。

そして、夜の闇の中でリボンは再び結ばれ、ヴィオラの香る宝石は輝き始める。

神秘を知った宝石の娘は、魅惑の香りものを生み出すのだった。

アッシュブロンドの頭が顔を上げると、ライラは吸い込まれるような青紫の瞳とぶつかった。

不思議な瞳の男はライラをみとめると微笑んだ。その瞳はどこかジャウハラに似ていた。

何だか、久しぶりに微笑みというものを向けられた気がする。

そんなことをふと思った。男は口を開く。

「君がライラだね。番いを探しているって聞いたよ」

「そうよ……だから何だって言うのよ」

「サマルの妹って聞いていたからどんなに不愛想なシャッルかと思えば、

ずいぶん威勢がいいね」

「ふふ、そうだろ。わがまま放題のはねっ返りさ」

「まずは自己紹介だ。俺の名はハーディー。強くて綺麗な女は好みだよ」

男は最後の言葉を愛おしむようにして言った。

アルマーがそうであるように、この男からも芳しい花の匂いがした。

なのに、この男がアルマーかどうかはっきりしない。どうしてだか一族と似た気配がしている。

この種の誘い掛けも久しくなかったことで、ライラは驚きと心地よさに怒りを忘れた。

魔力の交歓をする時も誘惑するのはいつもわたしだ。

精気を根こそぎ吸い取るためにしているのだ。相手に誘惑の余地を与えない。

オパールレインボーの王の使者から受けた誘いは例外で、

あの交歓は共犯の印を刻む行為だった。

約束を違えぬよう互いに呪いで縛るの。

それに、お兄様がこの得体の知れない者と言葉を交わして笑っていた。

番いでもない男と。こんなこと今までなかった。

「ねえ、ライラ。君に俺のことを知ってほしい。その口に合うといいのだけれど」

この男には、間違いなく美味しいと思わせる匂いが漂っていた。

魔も神も等しく惑わず果実だ。でも、かぶりついていいものかしら。

「どう? そそられたかな」

「ふぅん、度胸は買ってあげるわ。わたしの食事に耐えられるかしら」

「俺はそう簡単に死ぬような器じゃないよ。

何より、君にとても興味があるんだ。アリージュを番いに選んだシャッルだから」

その名にわたしは耳を疑った。長い間、聞くことのなかった名だ。

「俺はね、アリージュからライラの話を聞くのが好きだった。

強気のシャッルが甘えると、その分可愛いらしいね。何でも許してしまうそうだ」

「……あなた、アリージュを知ってるの?」

「ああ、知ってるよ。アリージュとは、同じ師の下で共同生活をしていたんだ。

彼女が先輩だ。アルマーの決まり事や師の手伝い、他にも色んなことを教えてもらった。

特別に思い出すのは花模様だ。鎖骨を飾る花模様は本当に綺麗だった。

クレマチスの花刻は君のだろう」

こんな風にかつての番いのことを聞くと、アリージュの姿がありありと目に浮かぶ。

ライラは言葉に詰まった。

「誰よりも濃密で艶めいた匂いだった。

それなのに、第一級アルマーになった途端、あんなことになってしまった。

あの時、俺たちはひっそり彼女を弔った。

骸もなかったけれど、小舟を花でいっぱいにして偲んだ。

ライラ、彼女の死をもみ消した王の使者と組んでまで晶の守り神の邪魔がしたかったのか?」

「……違うの! 王の使者も嫌いよ。どっちも嫌い。でも晶の守り神は絶対に許せなかった」

「そう、わからないでもないんだ。

俺だって、娘が食い尽くされたら晶の守り神を許せやしないだろう」

この時、サマルはジャウハラが夢現つから覚めようとしていることに気づいた。

早く目覚めて僕を見てくれないだろうか。もうずいぶん待ったんだよ。

「ジャウハラは自慢の娘だ。身内の贔屓目じゃないことは君らが一番知っているだろ」

てらいもなくハーディーは言う。

「ライラ、聞いてくれ。イルファーンは悪だくみを自分で降りた。

だから、自己に課した呪縛も無効だ。でも、このままじゃあ君は破滅から逃れられないよ。

弱った状態でどれだけ治癒できるって言うんだ。今ならまだ間に合う」

ライラに向けて手を差し出した。

「おいで、俺ので君の回復を手伝ってあげる。深くまで気持ちよくなろう……」

ハーディーはとてもいい匂いをさせて妹を誘惑している。上手だなあ。

見惚れたライラを見れば、結果はとうに知れていた。

ジャウハラの匂いに出会っていなければ、僕も惹かれるくらい芳しい匂いだ。

「精気を吸い尽くされて泡になっても知らないんだから……」

ついに、ライラは落ちた。

「大丈夫さ。君は加減をちゃんと知っている。いつまでもこの匂いで満たしてあげるよ」

ライラはハーディーの手を取った。

「ジャウハラ、君の父親はすごいよ」

耳元でささやくと、小作りな耳が酷く美味しそうなことに気づいた。

その耳の穴に舌を入れ、舐め回す。

ジャウハラは体を弾かせ、そこで完全に目を覚ました。

こちらを見上げて驚く様子はどうしようもなく可愛い。

「あっちを見てごらん」

ハーディーを指差した。指差された男は、娘が覚醒したことに気づいて言った。

「小さなお姫さまがお目覚めだ。いや、女王様だろうか。ジャウハラ、大きくなったね……

やっと父さんが守ってあげられるよ。でもね、まだゆっくりできないようなんだ。

今から父さんのすることを見ちゃいけない。こういうことはだめだろ?

だから、サマルと一緒に向こうへ行っておいてくれ。

後でうんざりするくらい抱き締めるからね」

ライラは晶の守り神が残していった幕内でハーディーと番っている。

ワジュドと一つになったハーディーは簡単には死なない。

今度はきっと満足するだろう。ライラの大食の歯止めになる。

晶の守り神は新たな幕内を生み出した。

そこへ招き入れた始祖王の末裔と愉しいことを始めている。

記憶がどれだけ薄くても、神の本質は変わらない。

僕だって負けられないなあ。

「ジャウハラ、寝覚めはどうだい」

抱きかかえたジャウハラに問う。

「サマル……」

「魔力を吸い尽くされなくてよかった。

晶の守り神は、君のすべてを食べてしまうところだった。後には何も残らない。

今、ようやく生贄から解放された。もう大丈夫だ。僕の腕の中にいる」

ヴィオラの瞳に僕の姿が映っていることが嬉しい。

ジャウハラは開きかけた口をつぐんだ。僕が堪らず口づけを降らせてしまったからだ。

反応する様子が愛おしく、やめられなくなってしまう。

「あ……あっ……はあ……っ」

降らすだけでは飽き足らず、唇を激しく求めてしまった。

「はあ……ごめんよ。待ち切れなかったんだ」

ため息混じりに言うと、ジャウハラは僕に口づけを返した。

ジャウハラは僕を受けとめるのが上手い。

「お父さんが、生きていた……夢なの? それに晶の守り神様は……?」

頬を染めながら、信じられない、と言う。

「うん、君の父親は生きていた。現つの出来事だよ。

ハーディーのおかげで君を失わないで済んだ。

もう、間違っても柘榴の実なんか食べちゃだめだよ。僕にはどうすることもできないんだ」

ぎゅっと抱き締めて言葉を続ける。

「ライラやファラフ……一族の破滅も免れた。感謝したってしきれない。

僕も危なかったんだよ。喜びで、ああ、我慢できない。ジャウハラ、リボンを結び直すよ」

サマルが言うと、ジャウハラは額に口づけを受け、一際心地よい波が押し寄せるのを感じた。

「僕はライラの半分の力で晶の守り神の幕内へ渡った。ファラフが手伝ってくれたからだ」

ファラフとは師の番いの名だった。ジャウハラは肌を撫でられながら思った。

「それでも……酷く疲労してしまった……ジャウハラ、僕を……元気にしてよ……」

途切れがちになった声は色めき、吐息はますます熱くなった。

サマルと肌を合わせると、いつもたゆたうような感覚に包まれる。

浴室で戯れる気分になるから、私はリーハをバスハーブにしたのだった。

「ああ……だめ……」

「逃げないで。そのまま……ジャウハラ、気持ちいいよ……」

腰を捕らえられ、サマルのものに中を押し上げられる。

「……あん……あっ」

気持ちよさに耐えられなくなり、とめどなく声が溢れてしまう。

逃げ場のないものを感じ、目の前の逞しい体にしがみつく。

熱に全身がとろける――――

そうして快い刺激が駆け巡った後、微かに開かれたジャウハラの瞳にリボンが映った。

サマルの首にリボンが巻き付いていた。

「リボン……? ヴィオラ色の、リボンだわ……」

いつの間に巻き付いたのだろう。

リボンの先を辿ってゆくと、下へ垂れ、たゆみ、再び上り、その先はわたしの手の内にあった。

はっとして、リボンを握った。一体、いつからあったのだろう。

「気づいた? リボンが見えるようになったんだね。

これは、僕と君を繋ぐリボンだよ。契約のリボンは言葉の綾じゃあないんだ。素敵だろ」

そう言って、サマルは両手で私の手を包んだ。リボンを握っている方の手を。

「大切なリボンだ。見た目のままに儚く、始祖王の末裔にだって切られてしまう。

もちろん僕が切ろうと思えば、こんなものたちまち断ち切ることができるんだよ。

君に身を任せたいから、わざと捕まってあげてるんだ。

ジャウハラ、僕を捕まえておいてくれるかい」

サマルの魅力が溢れて胸の鼓動が収まらない。

ふわふわとした気持ちでジャウハラは頷いた。

すぐさまその顎に手が添えられ、やんわりと上を向かされた。

「安心できないなあ。もしかすると、晶の守り神は始祖王の末裔に飽きてしまうかもしれない。

美味しい君を再び探すかも。無防備ではいけないよ。

ジャウハラは稀にみる美味しさなんだから。

でも、晶の守り神には渡さない。

僕とうんと仲良くしていれば、誰も手を出せないことはわかってる。

だから、祭りが終わるまで離してあげない。祭りが終わっても、離すつもりはないけどね」

至近距離で見つめ合い、呼吸を奪われる。

どこもかしこもとろけて頭がぼうっとする。

「ジャウハラ、意識を手放さないで。事の間に気を失ったら許さないよ。

僕と交わることをしっかり覚えておくんだ。例え、記憶が欠けても体が覚えているくらい。

色んな奴に手を出されていやな気分だった。全部ぬり替えるから。戯れはお終いだ」

サマルは本格的にジャウハラを抱いた。

「全身を僕で染めてあげる」

他の者が残した種を一滴残らず洗い流すつもりで、

サマルの体液は可愛い獲物を濡らし、溺れさせた。

そして、存分に濡れ合い、水中へ舞い戻っても飽かず続けられた。

晶の大祭で催される最後の舞が演じられる。

同刻、広間には役目を終えた花燈が集められ、焚火の準備が始められた。

古くなったものや壊れてしまったカンテラも火にくべ、夜天に届くほど赤々と燃やすのだ。

その頃には、儀式の間に新たな捧げ物が並べられていた。

晶の守り神様の幕内からナジュムンド王が戻れば、見送ったアルマーが出迎える決まりだ。

ここで初めて、王は神前に供えられた捧げ物を目にする。

まず目を引くものは星宿りの石でできた棺だ。

これは新しい王が大祭を務める最初の年に贈られる。

晶の守り神様を象徴する星宿りの石が張られており、水色に透き通った壁面に星が輝く。

やがては王が眠る寝台は、晶の守り神様にその身を捧げる証だ。

次には煌めく宝石箱が目に付く。

際立った細工師の魔法に祈りを乗せて作り出される。

完成した宝石箱は4つあり、そのどれもにナジュムンドで産出する宝石が煌めく。

晶の守り神様がもたらす数々の宝石は恩恵の源であり、感謝と喜びを表す。

次に目に留まるものは秘方の薬だ。

最高の調合師が配合し、薬学院が認めた有用な秘薬が並ぶ。

天然の薬草庫に由来する素材により配合され、特効薬の名でも知られる。

その中には恋の成就を叶える媚薬も含まれ、情熱と欲望を生むそれは繁栄に通ず。

この他に、香水や香料、月や星を象った菓子に食べ物が並んでいる。

そして、アルマーだ。

とびきりのアルマーが大理石の祭壇に眠っていた。

ウルードは、大理石のベッドに仰向けになって瞼を閉じていた。

そうしていなければならないので閉じていたのだが、意識は冴え、

アシュラフが幕内から戻った気配にすぐ気づいた。

それに、王は祝福の歌を口ずさんでいた。

「眠ったふりはもういいぞ」

合図の声がしたのでようやく目を開け、祭壇から降りた。

そばにあった特注のボトルを掴んで歩いていくと、身に着けた薄布が翻る。

アシュラフは祭壇から離れた場所にぽつんと置かれていた派手な細工の椅子に座っていた。

脚を組んで座る様は、例の一室で繋がった時より堂々としていた。

一瞬、アシュラフとサーリーの感覚が蘇り、反射的に下腹部がうずいた。

あの時より疲れが見えるが、遥かに色めき、華やいだ表情をしている。

そう思わせるのは、晶の守り神様がお気に召した証拠だった。

「目付役が驚くだろうな。ここで抱いたアルマーと別の者が出迎えているのだから」

「そうでしょう。選ばれたのはジャウハラだったが……事の次第は王が存じていれば十分です。御足を」

畏まってアシュラフの前に跪き、突き出された御足にボトルの中身を垂らした。

特別なリズク酒のいい香りがする。とぽとぽと立てる音すら心地よい。

ボトルを空にすると、濡れた御足に口づけ、舐めていき、爪先を最後に吸うようにして離れた。

それを引き留めるようにアシュラフは身を乗り出し、ウルードの唇に自分のものを重ねた。

儀式は終わり、両者は別々に舞台を降りた。

その途中でウルードは思った。

王は魅力に溢れた。院長であるサーリーの御手と対となるほどに。

それに、捧げ物に興味深いものが並んでいた。

香油だ。あれは間違いなくアスラール製オイルだった。

アスラールは「秘密」を意味し、ハーディーが市場へ出す際に使っていた仮名だ。

捧げ物として並べるとは先回りがいいことだ。

ウルードは皮肉を感じながらもハーディーの復活を嬉しく思った。

その後、ウルードは宝石治療院へと運ばれたのだった。

それは王の使者によって行われたが、カッパーブラウンの髪の女が付き添っていた。

宝石治療院ではサーリーとバラカが出迎え、

院長は治療を行う広間へ生身の水の一族を召喚した。

ここで、切断された水の一族とアルマーを繋ぐリボンが再び結ばれる。

召喚に応じたファラフはウルードをうっとりと見つめた。

「ウルード、もう会えないと思ったよ。

君はオパールレインボーの王の使者に狙われているんだから、

もっと警戒してくれなくちゃあいけない。また会えてよかった」

「ファラフ、悪かった。まさか水の一族でない者がリボンを結ぼうと考えるとは思わなかった。

君を危険に晒してしまってすまない」

「それはいいんだ。ウルードが無事であれば、いいんだよ……はあ、美味しい匂いだ」

口づけを受けたウルードは、心配事を押し隠してファラフが触れるのを待った。

しかし、次に聞こえたのはくすくす笑いだった。

「待って……この瞬間はいつもたまらないけれど、

そんな気持ちのままじゃあ集中できっこないよ。

君の心配事を消してみせよう。我が首領から言付けがある。

ヴィオラの弟子は僕らの泉で預かっている。

サマルは満月が欠けても番いを手放せないようなんだ。

気が済んだら返すよ。ハーディーに迎えを任せているから安心してくれ。

ただ、そのせいで一族はみんな欲望を刺激されちゃって、ずっとそわそわしてる。

ちょっとね、大変なことになってる……僕もだ」

そう言って、ファラフはウルードに手足を絡ませた。体が密着する。

「ほら、このとおり。見て……感じてよ……」

「……っ。ファラフ、いつもよりすごいな」

「すごいだろう。ふふん、ウルードの気分も楽になったね。同じ気持ちで嬉しいよ」

「私もだ。だから中を、早く……ここも……」

「性急な君もたまにはいいね、そそられるよ。待たせたね。さあ、気持ちよくなろう……」

ファラフがウルードの中を満たす前にも快感が押し寄せていた。

アルマーは、相手の水の一族の性に関わらず、受けとめる側と決まっていた。

反り返る背。乱れる呼吸。二人は夢中になった。

こうしてアクアマリンのリボンが結ばれ、ファラフの腹も満たされた。

数日経ち、ナジュムンドの人々は極限に達した暑さが下降へ向う兆しを感じた。

街は大祭前の喧騒へと戻ったが、一つの節目を迎え、清々しい空気が流れた。

そんな中、夕刻になってもヒバのチャイハナは閉店していた。酒を示す旗もない。

表を閉めた店の中には、店主のヒバの他に4つの人影があった。

ソファに3人、カウンターに1人、その奥でヒバは新しいお茶の準備をしていた。

淹れたての薬花茶がふるまわれ、店内にくつろいだ雰囲気が漂う。

「なあ、わからないんだが。ジャウハラも月の王の血を引いているんだろ。

晶の守り神様が始祖王と見做すことは考えられなかったのか?」

ラバーブは目の前の薬花茶にナヴォットを入れてかき混ぜる。

ナヴォットという砂糖の結晶はゆっくりと熱湯に溶け出した。

「始祖王の血には厳格な差があるんだ。直系に数えられるのは王の子までだよ。

つまり、引き継がれたのはヤーサミーンまでなのさ。第一、ジャウハラは瞳の色が違うだろ。

王の力の表れである瞳のルビーレッドは直系にしか宿らない。王と見做すことはあり得ない」

「じゃあ、王でないと知った上で、晶の守り神様はジャウハラを幕内へ呼んだのか。

信じられねぇな」

「神はみな勝手なのさ。儀式であろうとなかろうと、本能の赴くままに行動する」

ハーディーは一人掛けのソファに座って答えた。

左右の手指を交互に絡め、組んだ足の上に乗せている。

「その前にだ。なぜウルードが選ばれなかった? おかげで俺の信用が下がっちまっただろ」

「そのことならウルードに聞くといい。ほら、イルファーンに何か食わされただろ?」

テーブルを挟んでラバーブと向き合う男に視線を遣る。

「ああ、王の使者の神殿で柘榴のデザートとやらを食わされた。7日間、毎日。

ハーディー、その口ぶりならこのからくりを知っていたな」

「まあね。柘榴は花だっただろ? 晶の守り神はあの花が嫌いなのさ。

だが、君の証言だけでも俺の理論だけでも、イルファーンに罰を与えられなかった。

サーリーの支持がなくてもだ。どれかが欠けることがあれば、誰も納得しなかっただろう」

「それは認めよう」

はっ、とウルードは笑った。

イルファーンの規則違反に対して行われた処罰の事実に、ウルードは機嫌をよくしていた。

幸運の虹を持つ者を抑制することができた。

「安心しろよ、信用を落としたのはイルファーンだけさ。

今回ばかりは見逃す訳にはいかなかった。あいつもしばらく大人しくしているだろう。

だが、ウルード。油断はできない。イルファーンはすぐお前の尻を追い回すんだから」

ハーディーは笑みを浮かべた。

「笑うんじゃない、他人事と思って……ファラフにも叱られて散々だ。ラバーブも笑いすぎだ」

「悪い悪い、事実なんだから可笑しいだろ。はは、お前らの方が災難だったな。

俺はいいものが拝めたが」

「ふぅん、シャーズィヤのことだね。

シャーズィヤにも心配を掛けてしまったが、

会いに行ったら行ったでジャウハラを早く連れて来いってさ。

それにしても、僕だって見たことのない男体で交わったって? 羨ましいなあ」

「いいだろ。一夜っきりだったがな。男体の具合もよかったぜ」

ラバーブはにやつきながら言った。

「でも、驚いちゃった。アシュラフが選んだのはジャウハラでしょ。

アシュラフもあの子も神迎えの庭からいなくなっちゃうし、

その上、儀式の間に最初に戻ったのはあなた」

カウンター席に座っていたハフサはウルードに向けて言った。

「まあ、アシュラフがほっとかないのはわかるわ。

私の主人も大概だけど、この国は綺麗な男が多いわね」

「さあ、どうだか。あなたにはお世話になった。私が運ばれるのを見届け、ジャウハラも……

ジャウハラがそろわなければ、大祭そのものが破綻していただろう」

「私はジャウハラを運んだだけよ。アシュラフとバラカに感謝することね」

ウルードは礼をして、控えめにアクアマリンの瞳を伏せた。

この綺麗な男は自己愛が強いでもなく、自惚れもない。

傲慢さもなく、アシュラフとは大違いだ。

こんなに美しいくせに、自己の程度を理解していない。

それはジャウハラにも言えることだとハフサは思った。

「ウルードばかり相手にしてないでさあ。こっちの『綺麗な男』どもにも聞いてくれよ」

ラバーブが茶化し、ハーディーも笑った。ひとしきり言い合って、ヒバが聞いた。

「ねえ、捧げ物の話を聞かせてくれよ。ドゥアーの宝石箱が選ばれたんだろう」

ヒバはにこやかに情報収集を始めた。

この顔ぶれが気兼ねなく話す場を提供することは大きい。

「そうだ。ついにドゥアーが選ばれるようになった。選考の奴らも腰が重いよな。

これからドゥアーはますます忙しくなるだろう。依頼ひとつにしたって難しくなる。

そうだ、ウルード。例の宝石箱の修繕はドゥアーに頼んだって?

よく俺の意を酌んでくれた。嬉しいよ」

ハーディーはにっこり笑った。他はどうだった、と催促する。

「なぜかアスラール製オイルまで並んでいた。一体、いつからここへ戻って来ていたんだ。

大祭まで隠れてないで、ジャウハラに会いに来ればよかったんじゃないのか?」

呆れた口調でウルードは言った。

「一番会いたかったのは誰だと思ってる。それを我慢して、この機を待ったんだ。

それしかなかった」

ハーディーは眉を垂らし、困った顔をした。

この二人はわかって言っている、と思いながらラバーブは場をとりなす。

「まあいいだろ。捧げ物の中にはマタルの香水もあっただろ? こっちは常連だな。

マタルにはもう会いに行ったのか? あっちも会いたがってるだろ」

「そりゃあね。マタルはすっかり人気の調合師かあ。ルゥルアも元気そうでよかった」

ハーディーは昔の恋人の話題をさらりと流すが、

その目には懐かしさと愛おしさが浮かんでいた。

「いつか、ジャウハラが捧げ物の作り手になれば、父としてこれ以上ない喜びだ。

アルマーとしてじゃあなくて、だよ。ウルード、娘のリーハ作りはどんな調子だい?」

「それなら上手くいっている。

大祭の前までは今一つだったが、水の一族との繋がりが見えるようになって変わった。

その望みもやがて叶うだろう」

「そう、ウルードの見立てなら安心だ」

言ってハーディーは微笑んだ。

微笑みに香りがあるとしたら、ハーディーのそれはロータスの香りだった。

ウルードは久しく忘れていたその香りをそばに感じた。

水中のサマルが番いを解放した朝。

この日、ジャウハラはハーディーと対面し、父は宣言通り娘を抱き締めた。

「母さんと一緒に戻れなくてすまない。こんなに長い間、一人にして本当に悪かった。

ああ、ヤーサミーンに似て美人になったね。

一緒に過ごせなかった時がこんなにも惜しいなんて。

こうしてまたジャウハラを抱き締められて嬉しいよ。嘘みたいだ。まだ信じられないよ」

ハーディーは幾度も喜びの言葉を口にした。

驚きと戸惑いで占められていたジャウハラの心は、ほどなくして解けた。

頃合いを見て、ハーディーはこれまでの出来事を語った。

マタルに預けた経緯、ヤーサミーンの最期、自身の変化、イルファーンの企み、

サマルとの接触。

尽きぬ話を切り上げ、

最後にハーディーは13番のラベルが貼られたアスラール製オイルをジャウハラに渡した。

「今日のところはここまでだ。ジャウハラを独り占めするとウルードに悪いからね。

リーハ作りもあるだろう。これは父さんの13番だ。手掛かりにするといい。

ただし、ジャウハラ一人で試すのはどうも気恥ずかしいからウルードの指南を受けるように。

いいね」

それは、マタルからもウルードからも伝えられなかったリーハだった。

体が火照るのを感じる。

気恥ずかしい、という言葉の意味がわからないジャウハラではない。

「ジャウハラはすでに13番の秘密を知っている。

自分の胸に、いや、サマルに語り掛けるつもりで考えてごらん。

そうすれば、自ずと為すべきことがわかる」

ハーディーは花模様を避けて可愛らしい額に口づけた。

後日、父の言葉を思い出しながら、ジャウハラは13種そろったオイルボトルを眺めた。

作業室には師だけでなくアズハールとナルジスもいる。

「これまで、アスラール製オイルはハーディーが消息を絶つ前に人の手に渡っていたものしか

存在しなかった。

増えることのないそれは数を減らし、

手に入ったものであっても時の経過に伴う変質は免れない。

本来の香りのする新鮮なリーハはそうして失われた。

入手困難なリーハは他にもあるが、アスラールは特に惜しまれ、

ラービア農園でも語り継がれている。

香水屋のマタルにはハーディーのオイルレシピが伝えられたが、再現には限界がある。

アルマーのリーハは作り手が異なれば、まったくの別物となるからだ。

ジャウハラ。そして、アズハール、ナルジス。これは貴重なオイルだ。

この機会に触れるといい」

この時初めて、ジャウハラは父のオイルがアスラールと呼ばれていることを知った。

確かに、ジャウハラですらアスラールの噂を耳にしたことがあった。

「ジャウハラ、サマルのことを思い浮かべてごらん。強く、鮮明に彼を感じるんだ。

アズハールはムニーラを、ナルジスはガーダを。

もちろん、私はファラフのことを思い浮かべるから。準備はいいか?」

13番のオイルボトルの蓋を取ると、たちまち芳しい香りが漂った。

その香りは、清らかさと艶やかさを同時に思い起こさせた。

番いをそばに感じ、その場にいた者はみな頬を染めて恍惚となった。

「はあ……これを肌に揉み込むと、今以上の楽園が約束される。

だが、使い方を誤れば危険なリーハだ。ハーディーのリーハはそういうものだ」

もしも、たっぷりと肌に揉み込んだらどんな風に感じるのだろう。

ジャウハラはそれを考え、今すぐ生身のサマルに触れたいと思ってしまった。

濡れた気分になるが、いくら13番であっても本物ではないのだ。

それからまた日が経った頃、ジャウハラはリーハに使う13種の草木花を決めた。

順に、ワイルドローズ、ラベンダー、ユーカリ、パチュリ、ゼラニウム、サンダルウッド、

イランイラン、メリッサ、ペパーミント、カメリア、コットン、ジャスミン。

そして、ネロリだ。

1番から順に作成し、集大成として13番へ至るのが定石だ。

しかし、ジャウハラは13番のネロリを最初に完成させた。

稀にこのようなことを起こすアルマーが存在する。

ジャウハラの13番は、果実の爽やかさがありながら柔らかく花匂う。

ガーゼに包まれたバスハーブを浴槽の湯に浸せば、香りが立ち込め、快感を呼ぶ。

試作品の暴力的な陶酔感は払われ、再生をも感じさせる快楽の境地に達する。

それは、ただただ楽園に遊ぶ心地という。

作り手自身はヴィオラが香り、神秘のマントに身を包み隠した。

ジャウハラのバスハーブは魅惑の香りものとなり、父や師を上回る極上品となった。

なぜ、第八番月が節制の月と呼ばれるのだろうか。

これはアルマーに課されたことが始まりだった。

アルマーが交わると、花の香りが立ち昇る。

それを頼りに、晶の守り神は好みのアルマーを選び、幕内へ招いた。

節制とは真逆のことが為され、官能的な欲望は混乱を引き起こした。

そのために柘榴の実を食す決まりが定められたが、それでも幾つかの障りが生じた。

その後、女のアルマーはこの月に柘榴の花の蜜漬けを食べ続ける決まりが加えられた。

宝石の娘もそれを守ったため晶の守り神が大好物を得ることはなくなったが、

それも些事と言えた。

アルマーは大祭の夜に神と舞い、満月の夜に魔と戯れ、時に新月の夜に御手に癒された。

ナジュムンドの美しいアルマーは、いつまでも花の匂いを漂わせ踊るのだった。

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