大祭-7 珊瑚の角を現した水の魔族が晶の守り神と対峙する
水 の 流 れ
大祭の終わりが訪れようとしていた。この日、神は生まれ変わるという。
最後の一夜に始祖王の末裔と晶の守り神は綺羅の内で目を合わす。
水の匂いがするのは水鏡の下に眠る者たちの気配であり、死と同等のものであった。
死と生は互いに入り混じり、飢えた体は満たされ、恵みの雨が降り注ぐ。
水の流れのままに身を任せたならば、月光が星を生むことだろう。
されど、晶の守り神に転変が訪れなければ、すべては失われるのだった。
◆
透明な眩しさを感じた。
目を開けていられないほどの輝きに包まれたかと思うと、額にひんやりとした口づけを受けた。
下腹部に感じていた衝動が薄らぎ、肌に触れていた体温は遠のいてゆく。
「もう大丈夫よ。いい子だから目を開けてちょうだい」
穏やかな声に導かれてジャウハラは瞼を開けた。
辺りはまだ眩しかったが、次第に光の度合は和らいでいった。
透き通った無色のベールが幾重にもなり、その向こうに夜が居座っていた。
大祭の儀式が始まってからずっと時間の感覚がおぼつかなかった。
夜であることを知り、不思議にもジャウハラは落ち着きを取り戻した。
けれど落ち着きと驚きは別物だった。
目の前には綺麗な女性がいた。
透明感のある肌はきらめき、玲瓏な声が心を惹きつける。
強い光を持った瞳は清涼な炎を燃やし、水色の長い髪は優美な硝子細工だ。
豊満な体はなめらかな絹のドレスに包まれ、
肌の露出した部分に細やかに輝く鎖が交差して絡まる。
ただ綺麗という訳ではない。
その美しさはあまりに強烈で、彼女が人成らざる存在であると告げていた。
ジャウハラはそれが何者であるかを悟った。
晶の守り神様――――
「なんて芳しい匂いなのかしら」
晶の守り神はジャウハラを抱擁し、愛おしさが溢れんばかりの視線を注ぐ。
深く惹き込まれたせいで、ジャウハラは唇を重ねられたことに気づくのが遅れた。
体温と異なる温もりがあり、触れた部分が心地いい。
口づけに気づいたとしても、その心地よさのために突き放すことができない。
心地よさは唇から首筋、さらに下へと広がった。
心も体もうっとりとして、何も考えられない。
「こんな風に大好物がそろうのは久方ぶりだわ。ああ、嬉しくて眩暈がする。
この子が水の魔族に喜びを与えたのね。だから、星宿る石があれほどまでに生まれた」
晶の守り神はすべてを魅了する微笑みを浮かべて言った。
「素敵だわ。その子が私の腕の中にいるのね……じっくりと味わってあげる。
あなたのすべてをいただくわ」
触れた部分が熱を生む。
ヴィオラの瞳に三日月が浮かべば、新鮮な魔力が溢れ出す。
熱を生む行為を続けると、高ぶった晶の守り神は酩酊したようになった。
晶の守り神の幕内に招かれたジャウハラは、こうして魔力を吸われ始めた。
しかし、自我を手放したジャウハラがそのことに気づくことはなかった。
「晶の守り神は生贄の生死なんて気にしない。魔力を食う以外に興味がないのさ」
ハーディーは言い放った。
アシュラフが覚えているハーディーは澄んだヴァイオレットブルーの瞳をしていた。
覚えているといっても10か11歳の記憶だ。
しかし、肩越しに見る瞳はヴァイオレットブルーとサファイアブルーが入り混じった
瑪瑙の様相を呈していた。
同心円の精緻な縞模様が光る。
記憶が薄れていてもこんな瞳をしていたら覚えているに決まっている。
吸い込まれそうだ。
「はは、見惚れたか? おかしな目だろ」
言いながら、ハーディーは手のひらへ零れたものを雨滴でも払うかのようにした。
俺から溢れた液は鈍い光の粒となって弾けた。
「もうすっかり大人だな。少しくらい動じてくれてもいいだろうに」
粗雑でありながら優しげな動作はハーディーの魅力だ。相変わらず、と言う外ない。
「動じていないように見えるか? 驚いているよ」
「それならやって来た甲斐がある。アシュラフの気持ちよさそうな顔……嬉しいな」
ハーディーは濡れた自分の手を鼻に近づけ、やらしい匂いだと口にした。
たまらなくなって、アシュラフは自分のものが再び膨らむのを感じた。
「まだ飽き足りない? もう一回やってみようか」
そう言って再び手が伸ばされた。
「……やめろ。擦るな……だめだ……ハーディー!」
「冗談だよ。これ以上触らないって。アシュラフ、本当はあまり時間がないんだ」
「時間がないならば、こんなことをしていないで……ないなりの行動を示せ」
「嫌だな。初めてを教えてあげた俺にそんな言い方はないだろ。
君との触れ合いはどうしても外せないんだ。ねえ、俺の話を聞いてくれる?」
「そんな昔の話を持ち出すな。聞いてくれも何も……」
長い間消息を絶っていたハーディーは、父王の妹であるヤーサミーンの夫だ。
ハーディーとヤーサミーン。この二人とまだ交流があった頃の話になる。
サーリーがヤーサミーンに恋心を抱いたように、
俺はハーディーの底知れない魅力に引かれ懐いた。
『初めて』というのは、さっきと同じやり方で絶頂を味わった体験を言っているのだ。
時がくれば、嫌でもその方面の教育がされるとはいえ、好奇心旺盛の俺は手本をねだった。
純真無垢の聖性を侵すのは、熟練者でなければならない。
ハーディーはそのことをよく心得ていた。
手本を見せ終えたハーディーは、その濡れた手で俺の体に快感を覚えさせた。
興奮が蘇る。
だが、味わったばかりの快感はあの時以上のものだった。
「何も?」
「……さっさと話せばいいだろう。聞いてやるよ!」
「そう、アシュラフが聞いてくれるなんてすごく嬉しいよ。待たせてる奴らもいることだしね」
ハーディーは正面に視線を向けた。
「本当だよ。やっと済んだの?」
「もう待てないよ。俺たちだって話を聞かせてもらわないといけないんだから」
視線の先であくびをする水の一族はどちらもとぼけている。
「今までどうしてたか気になるだろ? この目の理由も話してあげるよ。
俺らはしばらく海辺の街にいたんだ。そして」
アシュラフはハーディーの強引さに呆れた。
しかし、語り手の声はあらがうには心地よさが過ぎ、自然と耳を傾けていた。
ハーディーは語った。
「最愛の娘がアルマーと知った時、俺は子離れすると決めたんだ」
ジャウハラが7、8歳の誕生日を迎える頃にはきっとそばにはいられない。
近しい者を傷つける宿命が訪れるか、アルマー同士による無効化が起きるか。
確かなことはわからない。どちらにしろ、成長期に匂いを漂わせるようになる。
それは爆発的に起きる。周囲を巻き込み、他者を溺れ酔わすだろう。
俺と娘の間だけじゃない。ヤーサミーンと娘の間であっても起こり得る。
ヤーサミーンの内にある王族の血はどれほど対抗できるだろうか。
いつまでもそばで見守っていたいという気持ちは娘を苦しめる。
俺が味わったような苦悩はさせたくはなかった。
だから俺はヤーサミーンとともにナジュムンドを出た。
国を出ると打ち明けた時、ヤーサミーンは海辺の街がいいわ、と言った。
海の見える街で暮らしましょう。海をね、一度でいいから見てみたかったの。
子どもの頃の願いが叶うわ。アクアマリンのように美しいって本当かしら。
ヤーサミーンは、すべてうまくいくわ、と陽気に笑った。
どうしても国を出なければならないの? 別々に暮らすだけではいけないの?
そんな風に問われてもおかしくなかった。
それに、この旅はヤーサミーンの体には負担だ。
元々体が弱く病気がちな彼女は、ワジュドの祝福を分け与えて命を延ばした。
離れて暮らすのはジャウハラが成人を迎えるまでだ。
アルマー特有の匂いはシャッルと番えば、たちまち落ち着く。
時が来たら必ずナジュムンドへ戻ろう。
だが、時は訪れることなく、ヤーサミーンは夜の腕に抱かれた。
その日、ヤーサミーンを失った俺の元にワジュドは現れた。
国を出る時、シャッルの棲家で採れた水入り水晶を耳飾りに加えた。
俺の耳飾りの宝石には、その一つ一つに祈りと約束が込められている。
祈りと約束が増えるたびに宝石は長く連なっていく。
水入り水晶は約束の証だ。水晶の中に内包された水は、ワジュドと通じる路だった。
「やあ、久しいね。ワジュド……君は変わらないね」
泣き枯らした自分の声は酷かった。きっと顔も酷い様だ。
「ハーディー、約束の時が来たようだ。
私が呼び出されたということはヤーサミーンが逝ったのだな。私の祝福もこれまでだったか」
「……ああ、そうだよ。医者の見立てよりずいぶん生きたが、いなくなってしまえば悲しい」
「夜とはそういうものだ。月の子らは息を止め、静かな闇にその姿は覆われる。
星になれば、ヤーサミーンは君を見守る者となるだろう。
ハーディー、そう教えてくれたのは君だ」
「……そう、そうだった。そんなことも忘れていたよ。
なぜだろう、ナジュムンドが遠いせいだろうか。思い出させてくれて感謝する……
ヤーサミーンは、俺を、ジャウハラを見守ってくれるだろうか。
ああ、ヤーサミーン、寂しいよ。星との距離はナジュムンドよりずっと遠い」
「そうでもない。夜と朝が惹かれ合う限り、夜は必ず訪れ、星は夜天で美しく輝く」
「……ワジュド、励ましてくれるのか。胸に沁みるよ……約束は、少し待ってくれ」
「構わない。今はヤーサミーンのために悲しみにくれるがいい」
再び嗚咽して涙を流す俺をワジュドは抱き締めた。
そうして涙が尽きた時、俺は約束を果たすことになる。
ヤーサミーンに祝福を分け与える代わりに、俺はワジュドと一つになるという約束をした。
「一つになってしまえば、こうして触れ合うことができなくなってしまうよ。
それでもいいのか?」
「ああ。君の相手がどんなにたくさんいたとしても、その誰もが一つにはなれはしない。
ヤーサミーンであっても同じだ。私だけができる」
「彼女にこだわるね」
「当然だ。君の最愛は娘とヤーサミーンだ。私はこう見えて嫉妬深いのだよ」
「俺は順番なんて付けてないよ。証拠に俺は君と運命をともにする。好きだよ、ワジュド」
「ハーディー、その言葉を忘れてはいけない。約束だ」
そんなやりとりをした。
『一つになる』とは比喩でも何でもない。
もちろん俗な触れ合いをしてから、俺とワジュドは文字どおり一つになった。同一に。
最後の交わりは熱く、あまりの熱さに互いの境目がわからなくなった。
体もろとも魔力を貪られるのは悪いもんじゃない。むしろ快感だった。
器はワジュドのものになるだろう。
娘の成長はワジュドの目が映してくれる。ただそれだけでよかった。
そして、俺の意識は白く消えた。
「ワジュドと同一になった時、俺らの目はこんな風になった。髪色だって変えられるんだよ。
ほら」
ハーディーが自分の頭に手をかざすと、アッシュブロンドの髪は青鈍の黒い髪に塗り変わった。
「本当だ。その色は俺たちのものだ。その体は一族のものなのか、アルマーなのか。
一つになりたいって気持ちはわかるよ。はあ……いつだって番いが欲しくてたまらない」
サマルはため息をついた。今すぐにジャウハラの熱を感じたかった。
互いの境目がわからなくなるまで溶け合ったら、どんなに気持ちがいいのだろう。
「この体はね、ワジュドでありハーディーでもある。
つまり、水の魔族でありアルマーでもあるんだ。同時にどちらでもない。どちらも不完全だ。
意識でいうなら俺だ。ワジュドは俺に体を明け渡してくれた。
約束の後で意識を取り戻した時、アルマーの女を救う方法を探れ、という声がした」
君の娘は第一級に近づくだろう。晶の守り神の大好物はアルマーの女だ。
ジャウハラが第一級になれば、魔力も命も吸い尽くされて死ぬだろう。
ここまで生かした娘をみすみす晶の守り神に捧げるのか?
「ワジュドは俺に次の目的を与えてくれた」
その後、ハーディーは海辺の街を出て、方法を探るために放浪したという。
「で、アルマーの女を救うというやつは見つかったのか?」
頭に浮かんだ疑問を始祖王の末裔が口にした。
「当然さ。間に合って本当によかったよ。イルファーンとライラには世話が焼けるね。
アシュラフ。バラカの一件を覚えているかい? あれも無関係じゃない」
「あの一件を知っているのか?」
「それはそうさ。王の使者は自分らが自由にできる王が欲しいんだ。
王座に就く者の身代わりであっても享受するものは同じだからね」
二人の会話を聞いていると、サマルは水の匂いを感じた。
泉の匂いとまったく異質な死の匂い。
俺は知っていた。始祖王の末裔は水の墓に葬られる。
水の墓は地底湖にあり、外界から隔絶され、時の止まった場所だ。
鏡と見間違えるほどの水面からは、浅い底に沈む棺が見えるだろう。
棺には星宿りの石が張られ、そこに眠るのは歴代の王だ。
地底湖は点在し、点と点を結べば、水路をなぞるように陣が描かれていると知る。
陣はこの地を癒し、水の循環を生む。
骸となった者はそうしてナジュムンドを守り、巡りめぐって俺たちの泉を清浄にする。
俺たちはただ漫然とここを棲家にしてる訳じゃない。
目の前の男もやがて水中に眠る。
「星宿りの石で棺を作り、清らかな水で内を満たして始祖王の末裔を据える。
眠っているだけでも死んでいてもいい。水の墓に沈む王を模せば、魔力が溢れる。
王の使者はそれを永遠に食うつもりだ。
イルファーンのすることは過激だが、
穏やかに目的を遂げようとする他の使者と本質は変わらない」
「ふん、異分子のイルファーンも正真正銘の王の使者という訳か。
ぞくぞくする……どれだけ王の血筋が好きなんだ」
「愛するほどに、だよ。
ある意味では、それが叶ってしまえば、アルマーから手を引くことも考えられる」
始祖王の末裔ははっとした表情を浮かべ、対するハーディーは悪戯者の笑みで返す。
「でも、俺はそんな方法は好きじゃない。
それに、今回の企みはウルード欲しさの逸脱行為だろう。
ただ、ライラがイルファーンの悪だくみに乗っているのがわからない。
イルファーンの望みが叶ったとして、ライラに得るものがあるのか?」
「――――という訳で、君らには目一杯働いてもらうよ。
月夜に愛された者と闇夜に愛された者を捕まえたら、晶の守り神だって文句はないだろ」
ハーディーは笑って言った。
水の一族の幕内から放り出された先は王宮の一室だった。
それも王の使者の領分にある部屋だ。
白壁と、赤と白と銀のタイル張りの床が目につく。
赤は葡萄色に近く、王の色に憧れるも、その色を侵さないために選ばれた色だ。
小ぶりのシャンデリアが反射して光るのは、ベッド近くのカンテラに火が灯っているためだ。
天蓋付きのベッドには男が二人横たわっていた。
声も動きも湿り気を帯び、そこで行われていることが何であるかを否応なしに伝えた。
突然現れた3人に、覆い被さった者はこちらへ顔を向け、
その下に置かれた者は身動きができず瞳のみを光らせた。
アシュラフは前に立つハーディーを恨めしく思った。
王は王の使者の領分へ足を踏み入れてもよいという特例があるが、
王であろうとなかろうと、事の最中を邪魔する者には罰則だろう。
そう思う内にも、こちらを向いたイルファーンはハーディーの手刀に倒れた。
魔法が込められた手刀だ。
倒れ込んだイルファーンは信じられないという目で睨む。
「……ターリクを迎え入れたつもりはないぜ。珍しい顔がおそろいで何の真似だ」
「やあ、イルファーン。元気そうでよかった。状況把握がお早いことだ」
「ちっ。お前のせいで萎えたぜ、ハーディー。死んだはずの奴が息をしている……
なぜここにいる」
「そうだね、首より下を動けないようにしたんだから萎えもするだろう。
君の邪魔をするのが愉しみで俺は生き返ったんだ」
「おい、縛らなくていいのか?」
口を挟んだのはサーリーだ。イルファーンが苦い顔をする。
「言っただろ、大丈夫さ。だが、念のため縛っておこうか。いい、君らは手を出さないで」
ハーディーはイルファーンの手足をシーツで縛りながらそう言った。
「ふざけやがって。死んでなかったのか……王様に院長様をそろえて何をしようって?」
「ふざけているのはどっちかな。
娘に柘榴の実を食わせ、アシュラフと晶の守り神を騙し、
ウルードと水の魔族とのリボンを切った。
その上、シャッルでもない君がウルードとリボンを結ぼうとしている」
「くそ、お前は騙せないな。嫌な奴が戻ってきたぜ」
「褒めてくれて嬉しいよ。ま、いいさ。
ねえ、ウルードを罠にはめることならこれから何度でもできるだろ。
王様にはすぐにでもあっちへ行かなければならないんだ。
だから、ちょっとした見せ物を愉しまないか?」
「は? どういう意味だ」
「見たくない? ウルードが、この二人と熱を交わすところをさ」
なんて言い方をするのか。
隣り合った者同士、いくらか変な空気が流れる。サーリーは眉間に手を当てている。
「イルファーン、こんなこともう起きっこないよ。頭のよく回るお前ならわかるだろ。な?」
言うことの意味を理解したイルファーンは生唾を飲んだ。咽喉が鳴る。
「ほら、ね。見たいだろ?」
「……ああ、見たい」
「イルファーン! 君は本当にウルードが大好きだね。お前の一途さを見習いたいよ。
ご褒美にいいところに繋いであげよう」
頭を撫でられたイルファーンは罵りの言葉を口にしたが、語気は弱まっていた。
アシュラフにはハーディーがどういうつもりかわからなかった。
為すことはわかるのだが、ハーディーの腹が完全には読めない。
ベッド全体を視界に収める位置にイルファーンを縛り付けた後すぐ、
仰向けのウルードにささやく。
「遅くなって悪かった。
魔力も精力も使い果たしてしまったんじゃないかって心配したが、媚薬の効果か。
幸い、質のいい媚薬だ」
「……っ……幸いもない……」
「そうだね、可哀想に。ウルード、もうひと踏ん張りしてもらうよ。先にサーリーが触れよう。
サーリーなら全円の虹も消すことができる。花刻の代わりか……嫌な印だ。
まだ定着していないから安心するといい」
言ってハーディーはサーリーを手招いた。
この兄はジャウハラが第一級に選ばれた知らせをハーディーから聞いたという。
その後の手筈も。
戸惑っていながら、ウルードに口づける様は慣れたものだった。
ウルードもそれを求める。
サーリーが宝石治療院の院長としてふるまう姿を目にするのは初めてだ。
部屋には新しい匂いが溢れた。絢爛なダマスクローズ。
しばらくして今度は俺を手招く。アシュラフの手足は微かに震えた。
ハーディーの向こう、サーリーと繋がった男の瞳はアクアマリン。
かすむようでいて鮮やかな瞳に見上げられ、体が熱くなった。
「お前はこれでも噛んでろ。ラバーブの雲煙草だ。せっかくだから火は点けないよ」
縛られたままのイルファーンはハーディーに煙草を突っ込まれた。
半ば唇を開けていたせいだった。
イルファーンは瞬きを忘れ、眼前で行われていることに見入った。
特別な二人によって、求めてやまないウルードが前からも後ろからも気持ちよくされている。
ウルードの匂いに、深い癒しの香りと贅沢で華やかな香りが混ざり合う。
俺の前では見せない表情や安らかさに身を任せる様子に苛立ちを覚えるが、
このむせ返る匂いが感情も思考も奪い去る。
「王の使者の領分でこんなことをして……」
許されると思うなよ、とイルファーンは心の内で言った。
匂いはいつまでも残るだろう。
同胞どもが残り香で何をしようと、こいつらに文句を言う資格はないぜ。
きらきらと眩しさに包まれた幕内で、晶の守り神は動きを止めた。
組み敷いた生贄のくびれを撫で、へその辺りをなぞり、首を傾ける。
「なぜかしら? さっきから真っ赤な印が頭に浮かぶ。それにおかしいわ。
いつまで経っても変化の兆しがない……こんなにも新鮮な魔力で満たされているというのに」
「ばかね」
守り神の生み出した幕内に、主人の感知せぬ声がした。
生贄の儚く可愛らしい吐息と異なり、敵意を含んだ挑発的な声だった。
「私の幕内へ入り込んだあなたは誰?」
「誰ですって? 覚えがないなんて信じられないわ。本当にもの覚えが悪いのね。
こう言えばわかるかしら。一体、何度わたしのお気に入りを奪えば気が済むの?」
「どこから入り込んだのかしら。珊瑚の角に青い瞳、青みを帯びた黒い髪。
あなたは水の魔族ね」
晶の守り神は質問と違う返事をし、頭に浮かんだ正体を口にする。
「もう! 質問に答えなさいよ。そうよ、水の魔族っていうのは正解。
とにかく食事の時間は終わり。ジャウハラを食べるのはここでおしまいにしてちょうだい」
「それは承知できないことね。花の契りがまだ成立していないもの」
「笑っちゃう。まだわからない?
あなたが相手にしてるのは、晶華の始祖王でも月の王の末裔でもないのよ。
この子を食べ続けたってあなたは生まれ変われないの!
花の契りは成立しないって言ってるの!」
突き付けられた言葉に晶の守り神は黙り、清々したライラは声を上げて笑った。
幕内へ招き入れられたジャウハラと異なり、ライラは自力でここへ入り込んだ。
そのために魔力の消費が激しく、感情も高ぶっていた。
こうなってしまうと、水の一族は青く染まった角を現わす。
爪を研ぐだけでは抑えられず、今やライラの頭には磨いた青珊瑚に似た2本の角を生やし、
目の周りや頬にも青黒い文様が浮かんでいた。これが水の魔族そのものの姿だった。
沈黙が続くのをいいことにライラは追い打ちを浴びせた。
晶の守り神は目を見開いて固まっていたが、体を小刻みに震わせ始めた。
同時に透明なベールが一枚、また一枚と剥がれていく。
「いい気味だわ。食べても食べても満たされない思いをあなたも知るといいの。
そして堕ちてしまいなさい。花の契りは成立しない。ジャウハラはわたしのものよ」
神の再生を邪魔する。
そうすれば、晶の守り神は生まれ変わることができず衰える。
真っ盛りの花が不意に花びらを散らすように、すべてのベールが剥がれ落ちたと思われた。
ライラは事の成り行きに上機嫌だった。
これから起こることに胸を躍らせるが、
ベールがすべて剥がれても幕内がひとつも壊れていないことに違和感を覚えた。
「変ね。いつ壊れてもおかしくないはずよ……これじゃあわたしが閉じ込められたみたい」
「悪いね、ライラ」
よく知った声が言う。のんびりと気だるげな気配が忍び寄る。
途端に晶の守り神を象っていたものに亀裂が入り、高音を立てて弾けた。
気づけば、そばにいたはずのジャウハラも消えていた。
「晶の守り神がどんな風に堕ちるか興味はあるけれど、再生を邪魔してどうする」
「……何よ」
「晶の守り神には本来の生贄を与えた。新たな幕内で王と惹かれ合い、まもなく恋が始まる。
一つの生を終えれば、死が訪れ、死は再び生へと転じる。
晶の守り神の記憶は上澄みでしかない」
消えたジャウハラは現れた男に抱えられていた。これじゃあもう手が出せないわ。
出せっこないの。本当に、どうして。
「……お兄様、どうして邪魔するの?
守り神の邪魔はしていけないのに、わたしの邪魔はしていいの?」
悔しくて涙が溢れた。お兄様が邪魔しなければ、うまくいっていたのに。
「ライラ、泣かないでおくれ。たくさん魔力を使って疲れただろう。
このままじゃあお前も戻れなくなる。妹の破滅を見るのはごめんだよ」
「いやよ……わたしの番いを食い尽くした晶の守り神が嫌いなの。消したいのよ!
それに、わたしは破滅なんてしないわ。すぐ力を取り戻すもの!」
「嘘はよくないなあ。とくに、強がりの嘘はね。だいたい、ジャウハラは俺のものだ」
サマルは腕の中のジャウハラを引き寄せると額や頬に口づけ、顔をほころばせた。
「……んっ」
こんな状況でも、大好きなお兄様とお気に入りのアルマーが触れ合う様子に目が離せなかった。
「……あ、あ……っ」
体力を奪われたジャウハラはお兄様の思うままで、夢を見ながら吐息を漏らす。
その様子に見入り、溜まっていた涙が頬を伝うも新しい涙は生まれなかった。
「はあ……ジャウハラは、可愛いだろう。ライラが手を出すのも仕方ないよ」
しかし、その一瞬後に見せた冷やかな眼差しに、ライラは本能的に背筋を震わせた。
「……め、命令は、いやよ……! 首領の力はずるいんだから、卑怯なことはやめて……」
「怖がらないでいい。力は使わないよ。ライラは俺にジャウハラを会わせてくれたよね。
それなのに、俺は贈り物をしなかった。だから、いいものを用意したんだよ。ほら」
再び元の気だるげな雰囲気に戻ると、サマルは空を押す素振りをした。
それは背を押す動作に見えた。
「おっと」
まさに背を押された格好で一人の男が空中から現れた。
勢い余ってつんのめるがすぐ立て直し、こちらを正面から見据えた。
ヴァイオレットブルーとサファイアブルーが入り混じった綺麗な目だった。
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