大祭-6 姿を現した晶の守り神は王でなく踊り子の手を取る


花 の 契 り

大祭の間の日。晶の守り神は真っ赤に熟れた生贄の印を見出す。

印を燃え上がらせる者は月の王の末裔の外なく、その姿は始祖王そのものであるという。

花の契りが秘され、人々が祝福の歌を忘れたとしても二つの者は恋をする。

そうして真っ赤なアルマーが燃え尽きるまで幕内は至上の悦びで満たされる。

ただひとつ、晶の守り神は他の神と等しく清らかで無垢なるものを好んだ。

気まぐれな神は純度の高いアルマーを見過ごせずに戯れ掛けるのだった。

ワジュドは水の一族の首領だった。

青鈍の黒い髪にサファイアブルーの瞳。

「ファラフも覚えているだろう?」

その容姿には、水の一族なら誰もが羨む色が強く表れていた。

赤がナジュムンドの始祖王の血脈を表すように、青は水の一族のものだった。

当時、最も強い魔力を持っていた彼は、この時アルマーの番いがいなかった。

人の街からアルマーがやって来ると、必ず花の匂いがする。

ワジュドは長い間、それに惹かれることがなかった。

アルマーの水合わせに応える時も一族の序列は絶対だった。

上位のものが意欲を示せば、下位の者は手が出せない。

本気でも戯れでも、はたまた悪意を持ってさえいても、関係なく効力を発する。

つまり首領の気が乗れば、他は割って入ることができない。

ある満月の夜、それが余すことなく発揮されて水合わせが行われた。

遠くから類稀な花の香りがして欲を煽られた、とワジュドは話してくれた。

「この夜、この情熱の泉で、水合わせの儀を行います。

一片の踊り子を成熟へとお導きください」

月の映じる水面を割って地上へ出ると、アルマーの少年が泉の淵にいるのを見つけた。

この芳しい花の匂いの発信源だった。

ヴァイオレットブルーの瞳に澄んだ三日月が浮かんでいる。

「未成熟な導き手か。未成熟とは嘘のようだ……君の匂いに溺れてしまう」

ワジュドは確信を得て笑い、アルマーには微笑み返すだけの余裕があった。

「私が君の相手になる。君は魔をも惑わず果実になるだろう。さあ、私の前で踊っておくれ」

同族が指をくわえて引き退く中、二人は見つめ合い、熱っぽい行為に及んだ。

その夜、ワジュドはハーディーに自分の印を刻んだ。

無垢の刻印に万重のダリアを咲かせ、満月の夜が来る度に二人は交わった。

「ハーディー、君の匂いはいつまで経っても私の心をくすぐる」

「俺自身にはわからないんだ。でもワジュドがそう思うなら嬉しいよ」

一度、番いの匂いを知ってしまうと、心と体の深いところに刻まれる。

欲しくて欲しくてたまらなくなる。もう忘れることなどできなくなる。

ハーディーはエメラルドカットの宝石が連なった大振りの耳飾りをしていた。

綺麗な衣は袖のない薄物で、体の線を浮かび上がらせるが、

透けるようでいて目を凝らしてもはっきりと見通せない。

宝石をはめ込んだベルトで留め、水の中ではひらひらと揺らめいた。

ひらひらを玩ぶワジュドの隣でハーディーはさまざまな問い掛けをした。

「綺麗な爪だね。こんなに鋭いのに、触れられても痛くないのはどうしてなんだい?」

「その表情、好きだな。すごく美味しそうな顔をするよね。俺の魔力はどんな味がするの?」

「こんな黒髪を見たのはワジュドが初めてだよ。青鈍色っていうのかい?

夜天とインクを掛け合わせたような色だ」

魔力を吸うのはこちらだというのに、

ハーディーは主導権をとってワジュドを味わうこともあった。

「俺だって君を気持ちよくしたいんだ。

いくらアルマーが奪われる側だからって、絶対だめって訳じゃあないだろ?」

「ワジュド……いつもより興奮してるね。俺もおかしくなりそうだよ……とろけてしまう」

「俺の方をちゃんと見て……うん……一緒に、ね。君の感じてる顔をもっと見せてよ」

匂いは極上。

それ以外でもハーディーは格別だった。

だから、ワジュドはハーディーの命以上の恵みをナジュムンドにもたらし、

何一つ惜しまなかった。

水合わせの夜から一年ほど経った頃だった。

アルマーの師の下での暮らしにも慣れ、合間を縫ってハーディーは街へ繰り出すようになった。

宝石治療院はもとより雑多で人の多い市場を歩き回り、頻繁に工房へも顔を出す。

また、薬草摘みにラバーブを付き合わせることもあった。

「聞いたぜ。シャッルの首領が第一級アルマーに惚れて脇目も振らないってさ」

ラバーブはハーディーを揶揄って言った。

暁の薬草摘みの帰りだった。

「そうさ。相思相愛ってやつは羨ましいだろ。ラバーブと違って俺らは蜜月関係だからね」

「蜜月の季節はとっくに過ぎただろ」

「それくらい熱愛してるのさ。でも俺だけじゃない。

シャッルはみんな番いのアルマーに心底惚れるんだ」

「他のアルマーならともかく、お前の熱愛は疑わしいな。香水屋のマタルとは長いんだろ。

マタルが露店売りの頃からか? 最近は扉のある店を構えるようになったらしいな」

「マタルの香水はこれからますます人気になるよ」

「ふぅん。そいつもだが、シャッルの連中が噂してるぜ。

ワジュドの惚れ方は行き過ぎだってな」

「シャッルたちの嫉妬だよ。ラバーブもそう思うのかい?

もしそうなら、本気で恋をしないからさ」

「本気なんて煩わしいだろ」

「そう? 遊びでシャッルを相手にするより簡単さ。シャーズィヤの方はどうなんだい」

「シャーズィヤ? シャーズィヤは仕事仲間だ」

「嘘だね。仕事と私的の区別のないラバーブのくせに」

「何人と本気で恋をしてるのかわからない奴に言われても痛くもないぜ」

「そうかな」

「まあ、いいさ。それより小屋が見えてきたぜ。ついでに水浴びもしていけよ」

「いいね。ちょうどさっぱりしたかったんだ。熱が溜まっていけない」

「俺に欲情でもしたのか?」

「そうかもね。院長にねだってもいいが、たまにはラバーブを相手にしてもいい」

「生意気だな。街へ戻ったら宝石治療院に行くのか?

お茶の時間に行けば面白いものが見られるぜ」

「へぇ、何かあるのかい?」

「珍しい客人がご滞在らしい。末のお姫様だよ」

「お姫様?」

「行ってみればわかるさ」

ラバーブはそれ以上言わず、ぞんざいな口調に反してハーディーの体を器用に扱った。

言われた通り、ハーディーはお茶の時間に合わせて宝石治療院を訪れた。

上手に熱を発散できたおかげで身も心も軽い。

こだわりも惑いも少ないラバーブは、院長とワジュドに続く申し分のない相手だ。

恋人はよく足を踏み外す。

マタルの場合、その加減が愛おしくもあった。彼は礼儀正しくあろうとする。

宝石治療院の扉を叩くと、院長は気まぐれな訪問にも快く応じ、中庭へ招いてくれた。

そこには、日覆いの下で白チーズをはさんだペストリーを美味しそうに食べる少女がいた。

ルビーレッドの瞳がこちらへ向けられる。

互いにアンニザームを祈るが、ハーディーにとってまさに花珠の出会いとなる。

少女はヤーサミーンと名乗った。

その名は『神からの贈り物』を意味する特別な花から付けられたものだ。

彼女を見て、俺は言葉以上のことを思った。

末のお姫様とは、年の離れた王の妹だった。王弟である院長にとっても妹にあたる。

王族以外の肩書きを持たない彼女は、慈しみを込めて『お姫様』と呼ばれている。

そして、宿主を体現するような清楚で凛とした白い香りがする。

だが、その香りは体の内から溢れるものではなく香料によるものだった。

香料、香水、刺激を運ぶもの。

香料も香水も、刺激を運ぶものの類似品に他ならない。

アルマーの誘引物は、いわば誘惑の匂いだ。

ヤーサミーンは体内から香る俺に不思議だと言った。

賛美するでもなく、うっとりするでもなく、目をきらきらさせて話す。

その様子に俺は今までと違う興味と心地よさを覚えた。

例え、院長の思惑を抱えた出会いであっても関係なかった。

少女はこれから院長の手伝いをするの、と言った。

肩書きのない王族が宝石治療院で手伝いをすることがあると知ってはいた。

だが、アルマーとの関わりが避けられないここへやってくる王族は稀だ。

御手を受け継ぐことはできないのだから、師弟関係も始まらない。

複雑な出自のため、扱いに困った果て、あるいは、後ろ暗い企てのために。

だいたいそんな理由が考えられた。

また別の日に、ハーディーはヤーサミーンに宝石治療院の庭園へ連れ出された。

街は酷く暑いのに庭園はいつも以上に涼やかだった。

噴水の水音が響く。風が抜ける。花が香る。

ガゼボで日差しを避けるが、おしゃべりをする気にはなれなかった。

自暴自棄になった俺は、院長の癒しを乞うためにここへ来たはずだった。

だのに、出迎えたヤーサミーンの顔を見て、

無意識に求めていたものは院長ではないことに気づいてしまった。

汗が伝い落ちた。体には悪い熱が残留している。息が苦しかった。胸が空虚で潰れそうになる。

ヤーサミーンは何も聞かず寄り添って俺の頭を撫でた。

子どものくせに、ヤーサミーンはすべてを包み込むようなふるまいをすることがあった。

子どものくせに、なんて風な口をきいたら、

もうすぐ成人だわと腹を立てながら微笑むのだろう。

彼女はあまりにも優しかった。

だからなのか、俺は自暴自棄の理由を吐き出した。

ヤーサミーンはハーディーの手を握っていた。

そうでないと消えてしまうような気がして、ぎゅっと。

「俺はアルマーなんだ。『アルマーは不幸を呼ぶ』、本当にそうだ。

不幸な出来事は全部……全部、記録書に書いてあるんだ。一体どんな気持ちで記録なんか。

抱えきれない……でも今は……君に、聞いてほしい」

彼の記録書は、その誕生から始まっているという。

「一度、読んだことがあるんだ。院長に隠れてこっそりね」

悪戯っぽく笑うが、浮かべた笑顔はくたびれていた。

そして、ハーディーは自身のことを語った――――

ラービア農園で働いていた若い女が身籠り、星を握った男児を産んだ。

一夜をともにした男は旅人で、産声を聞いた時にはすでに遠くへと旅立っていた。

産屋に現れた王の使者によって祝いの言葉が贈られ、やがて刻印が首筋にあることが記された。

男児は魔法に溢れた。

だが、成長しても細工師と調合師のどちらにもならなかった。

彼にはさまざまなものを強く引き寄せる力があったという。

それを『誘惑』と言う者も少なくなかった。

アルマーであることが記録されたのは、彼の母が心身を蝕まれて死んだ時だった。

彼らは近しい者を傷つける宿命にあり、避けられない出来事とされる。

頼る者を失った彼は王の使者の神殿で保護された後、アルマーの師の下で暮らすようになった。

「俺は母を……信じられない? あの時は衝動が溢れて俺自身を止められなかった。

酷いことをした。俺が悪いのにさ、母はそのことで心を壊した……それはそうだよな。

でもそれだけじゃない、数日前に父を見つけた……今更どうして現れたんだ」

乾いた声で笑う。

前髪で隠れて目元は見えないが、ハーディーの頬は濡れていた。

いつも笑顔を浮かべ、怖いものなんてない風を装っていても、

今は彼が負った無数の傷が晒されていた。

「農園に旅の男が訪ねてきた……」

昔こんな名前の女がいなかったか、と。晴れやかに、他愛のない昔話をするように。

それがハーディーの耳に入った。

「もちろん俺は男の顔を拝みに行った」

会って何かが変わるとは思っていなかった。何者であるかを告げたところで何になる。

あまりにも時間が経っていた。母はもういないというのに。

それに、俺の苦しみに男は関係なかった。

アルマーはアルマーの親から生まれる訳ではない。気まぐれな神の采配によって生まれる。

正体を口にせず、男に話し掛けると笑顔を向けられた。その笑顔は自分自身によく似ていた。

心の底が冷たくなる。

酷く空しい思いに駆られ、その場を離れた。できるだけ遠くへ行こうと思った。

しかし、それが叶う前に空虚な心は暴走した。

その間の記憶はない。

次にハーディーが王の使者の神殿で目覚めると、魔力を食われた体は空になっていた。

体力も気力も失い、ふらつく足でここへやってきた。

「空っぽになったはずなのに……悪酔いから醒めない。消してくれ。

この不快感もこの気持ちも、俺も……消して……」

ヤーサミーンはハーディーを抱き締め、大丈夫よ、と繰り返し言った。

腕の中に収まりきれない男の呟きが途切れ、疲れて眠りに落ちるまでそうしていた。

この時すでに、ヤーサミーンはハーディーのことが好きになっていた。

ただ、兄や姉、友人を想う時に感じるものと異なることに気づいたのはこの時だったのかも

しれなかった。

こんなに近くに感じるのも初めてだった。

ハーディーが目覚めている間は気遣うことで精一杯だったが、

眠ってしまえば胸の高鳴りがうるさかった。

だめだわ、と心の中で思う。

ハーディーを起こさないように、溢れた涙と伝う汗を拭き取っていると、

首筋の花模様が目に入った。

うなじにあるそれは普段は見えないが、肌に刻まれた様は柔らかな彫刻のようだ。

肌そのものの色であるのに、透き通ったヴァイオレットブルーを連想した。

同時に、爽やかで深く甘い香りをずっと近くに感じた。

兄の話によると、人はこれに酔うらしい。溺れるほどに。

病気がちな私であってもこの種のものに抵抗力があるらしいが、本当かどうかわからなかった。

だって、今まさに私は――――

まもなくヤーサミーンは成人を迎え、ハーディーと夫婦になった。

花珠の出会いはハーディーだけのものではなかった。

しかして院長の思惑は叶い、月の王の血脈とアルマーを掛け合わせた子が生まれた。

生まれた子がアルマーであるとわかった時、ハーディーは心を決めた。

「大祭に選ばれたアルマーが死んだらしい」

いや、確かに小さな事故はあったが死者は出ていない。

いなくなった者なんて存在しないだろう。

ごらん、大祭は滞りなく行われ、ナジュムンドには実りと豊かさがもたらされている、と。

そのようにして噂は王の使者によってもみ消された。

いつの時代もアルマーの存在を知る者は限られた。

初めから認識されていない者を人々が知りようもない。

しかし、その年にアルマーの枠組みの中にいた者はその噂が本当であることを知ってしまった。

生贄とは香りであり魔力だ。器は死にはしない。

そうであるのに、第一級の彼女がなぜ。

疑念と恐れが消えない中、次の年が訪れ、ハーディーが第一級の生贄に選ばれた。

もちろんハーディーは生きて降壇した。その次の年も、また次の年も。

「俺たちは理由を知っているけど、ワジュドの番いは彼女の記録書を読んで気づいたらしい」

「そうなの? 晶の守り神はアルマーの女が大好物って知らないのか。

前に選ばれたのはいつだっけ」

「そんなこと覚えてないよ。でも、好きなものを我慢できないのは俺にも身に覚えがあるよ」

「みんなそうだ。だからって、吸い尽くしてしまうのは愚かだ。

死んでしまうことがわからないのか? それより、番いを横取りするなんて許せないね」

「俺もそう思うよ。ファラフは気づいているのかい?

君のリボンが断ち切られたということは、」

「急激に糧の供給が途絶えて死ぬ、か。どちらも嫌だね。君は?」

「番いを返さないなんて気に入らない。だからさ、手を貸してくれよ」

「君がここへ来た時からそう言うと思っていたよ。でもねえ、気になることがある」

ファラフは間を置いて言った。

「ライラはどうするつもりだい。君の言うことを聞かないの?」

「まだ問い質していない。だって愉しそうなんだ。

俺の番いがどうしたって気になって遊びたいらしい」

「君が水合わせを奪ったんだろ?」

「まさか。あの子は何でもいいのさ。何でも……すぐに死なないアルマーかどうか試せればね。

そんなアルマーはいないと気づいているだろうに。でも、ライラのことなら決めてある」

「そう、ならいいだろう。そうだ」

「また質問かい。君は質問ばかりだ」

「少しくらい我が首領を煩わせたっていいだろう? 戯れが僕らの愉しみだ。

ねえ、サマル。僕は君の話が本当だってわかるよ。

でもね、なぜファラフの番いのことまで知っているんだい」

「なんだ、そんなことか。なぜって当の本人から聞いたんだ」

「当の本人?」

「そうだよ。ああ、ワジュドの消えた理由がまだだったね。

彼は自らの意思で番いと一緒になったんだ。番いに身を捧げちゃったんだ。

だから、この話も全部ハーディーから聞いたんだよ。

妙な奴が二人いるってよく気づいたね。一人はイルファーン、もう一人はハーディーだ」

王の使者が立ち去った後、儀式の場には香煙が焚かれた。

清浄な香りが満ちれば、空気は新しいものへと入れ替わった。

ジャウハラは夢現つに誰かが自分の頭を撫でていることに気づいた。

少し眠ってしまったようだ。

頭の上で気配がした。こんな風に触れるのは師に違いなかった。

「……先生。どうして先生のダマスクローズが枯れてしまったのですか?

あの瞬間、ううん……何だか今も少し怖くて。ナランキュラスは何ともなかったのに、

サマルが遠い気がするの」

「それはそうだ。あれは水の一族との契約の証なんだろう?

花模様が消滅すれば水の一族との契約は反故になる。サマルというのは君の番いの名かな?

晶の守り神を招く間は、君の番いにもお預けを食らってもらうよ」

ジャウハラは驚いて目を見開いた。

「さっきの花枯れだが、体から離れた花模様が枯れる様子を見ていい気はしないだろう。

心が揺さぶられて当然だ」

返事は予想したものと違っていた。

答えた相手は師ではなかった。

「先生か。ヒバめ、やはりウルード煙草の者じゃないか」

上から覗き込む男はごく小さな声で呟いてにっこり笑った。

「目が覚めたね」

ジャウハラは眠る前のことを思い出した。この男とともに快感を味わったことを。

途端に体がもどかしくなり、思わず手に触れた布地を引っ張った。

「ああ、先生ならここにはいない。儀式は続いているんだ。

次は直に……晶の守り神が嫉妬するくらいの悦びを」

言いながらジャウハラの唇を奪った。ゆっくり唇が離れる。

「はぁ……っ」

「……っ。君はずいぶん可憐だね。それに驚くくらい初々しい。

第一級のアルマーに選ばれるのも初めてだろう」

「どうして、私が選ばれるなんて……先生の方がずっと」

師の全身が淡い薔薇色に染まり、解き放たれた香りを思い出した。

自分があの時の香りより優れていると思えなかった。

「どうして? 俺にはさっぱりわからないな。

あの男も余程だが、君の香りは間違いなく特別だ」

アシュラフはジャウハラを抱え上げた。

「もっと奥へ移る。ここにも泉が湧く場所があるんだよ。案内しよう。

アルマーを摘み取り、王の庭へ迎え入れ、神の招きを待つ。そのために……」

アシュラフの足取りはゆったりとして、不安な状況下であるのに揺り籠を連想した。

心地よい揺れに再び瞼が重くなる。聞こえのよい声が語り掛ける。

「……これから向かうところは神迎えの庭だ……晶の守り神を待ち受けて……

彼女の幕内へ渡る…」

緑の香りがして、外へ向かっていると思った。

硬質な足音は柔らかなものを踏みしめる音へと変わっていた。

途切れ途切れに届く声を聞きながら、ジャウハラは夢と現つの間を行ったり来たりした。

どれくらいの時間が経ったのか。

歩みが止まったことに気づくと、額に再び他者の体温を感じた。

「ここで互いが溶け合うまで神に香りを捧げれば、俺達は真っ赤に熟れて晶の守り神を呼ぶ」

水音がしている。

重い瞼をわずかに開けると、辺りは月の光に明るく照らされ、

屋根の取り払われた幕が視界に入った。

アシュラフはジャウハラを抱えたまま幕の内へ踏み入り、

先ほどの祭壇に似た白い台座を見つめた。

ぼんやりとした娘をその台座へ寝かせる。

「ここは始祖王が最初に咽喉を潤した場所だ。

ついに命も尽きるかと思われた時、月の光が差し、泉を示したという。

晶の守り神の祝福はここに始まり、始祖王は守り神と契りを交わして命を長らえた。

これを花の契りといい、今では祭りの中で演じられる」

幕で囲って収まるほどの小さな泉であったが清らかな水が湧き出ている。

泉の水を手ですくって口に含み、冷たいそれをジャウハラの口へ移した。

「晶の守り神はこういうのが好きだからな」

つぶやいて、ジャウハラの耳に言葉と息を吹き込む。

「彼女好みにふるまうんだよ……」

そうして四つん這いになるよう言った。

従順な生贄を獣のように後ろから突き、奥深くまで感じる。

すべすべとした柔らかな肌に触れ、噴き出した華やかな香りをまともに浴びた。

感覚のせいなのか香りのせいなのか、儀式を愉しむつもりが欲望が抑えきれなくなる。

欲望に枷掛けをしたつもりはなかった。

なのに、なぜだか飢えを感じる。満たされない。

ジャウハラは自身の腕を支えきれなくなり、体勢を崩して頭からくたりとなった。

細い腰が持ち上がった状態で続け、それを待つ。

込み上げるものが訪れると思ったその時、月光とは異なる光の塊が現れた。

光の塊は人の輪郭線をなぞり、内部で幾つもの光が反射して強く輝いている。

光はジャウハラの額に口づけ、はっきりしない顔が確かに微笑んだ。

ああ、どうせなら込み上げるものが訪れた後にして欲しかった。

アシュラフは薄れゆく意識の中でそう思った。

晶の守り神はどんな姿をしているのだろうか。

晶は星の具象だ。地上の星。澄んだ綺麗な光を放つ者。

彼女はどんなにか美しいだろう。

聞くところによると、透き通った水色の豊かな髪と豊満な胸を持つらしい。

輝く肌は眩しく、姿を目に映すことも容易でないという。

花の契りとはよく言ったもので、俺はその甘やかな響きに心を躍らせた。

アシュラフはそんなことを考えていたが、煩わしい声が思考の邪魔をする。

「あれ? どうしてだろう」

「もう。一体、何をしてるんだい。上手くいかなかったの?」

「そんなはずはない。招きの刻に間に合わなかったのかなあ」

「しっかりしてくれよ。集中力が足りないんじゃないのかい」

「こういうことをするのは初めてなんだ。絶対というものはないだろう。

ねえ、君もさあ、目が覚めてるのなら起きなよ」

瞼を開けたアシュラフは思いもよらない場所にいることを知った。

守り神はおらず、一枚布を纏っただけの者が二人してこちらを覗いている。

見るからに男だ。髪の短いのと長いのと。

ただ、どちらも髪の色は青みがかった黒髪をしていた。

青白い顔は美しく、均整のとれた体は色気が漂う。

シャッルだ。

「招いたつもりもないが現れたのなら仕方ないよね。初めまして、始祖王の末裔。

俺の幕内へようこそ」

「俺たちの、だろう。一人じゃ心細いから僕が手伝ってるっていうのに」

「心細いなんて言ってないだろ。疲れちゃうんだ」

短い方が言って、拗ねたように長い方が小突く。

「こちらも水の一族の幕内へ呼ばれる謂れはない。

だが、もてなすつもりがあるのならば応じよう。

俺の名はアシュラフ」

「そう。なら、もてなしてあげるよ。俺はサマルだ」

別の口から聞いたばかりの名だった。こいつがジャウハラの番いか。

もう一人は名乗らなかった。気取った視線をこちらへ向けて黙っている。

月の王の血を継ぐ者と水を操る者はまず出会うことはない。

守り神と交わるはずが、何だって水の一族に呼ばれたのか。

突然、サマルは俺の鼻先まで顔を近づけた。これは口づけの距離感だ。

「君はすごく複雑な匂いがするね。まだ子どもだっていうのに洗練されている」

「子ども? 成人くらいとっくにしている」

「俺たちから見れば人はみんな子どもだ。

君は狩りをよく知っているようだし、別の末裔は俺の番いに心を囚われた。

無垢が過ぎるのも考えものだよ。こういうことがそろうと、晶の守り神はよそ見をする。

彼女が望んだとおり、いつまでも始祖王と恋をしていればいいのにさ。

晶の守り神はジャウハラに惹かれたんだろう。俺はジャウハラをここへ呼ぶつもりだった」

「俺に魅力がないような言い方はよしてくれ」

「魅力がない? そうは言ってないだろう。美味は美味でも何にもならない」

サマルは片手で下腹部を押さえ、腹が満たされないと言った。

「本当にそうだよ」

長い方も同じように言うものだから、気の抜けた空気が流れた。

「ああ……アルマーの魔力は水の一族の糧だったか。お気の毒だな」

「そうだろう? 君は僕らの口には合わない」

美食家の言い様に飽きれた。俺にも高貴な魔力があるのに好みでないらしい。

だが、気がゆるんだのはほんの短い間だった。

「同情してる場合じゃないだろ。サマルはまだ飢えてはいない。

気の毒なのはアシュラフ、君の方だろ」

突然別の声がして、アシュラフは鳥肌立った。気配にまったく気づかず背中を取られた。

「こんな状態で放っておかれて可哀想にさ」

「……!」

背後から腹より下をつかまれた。ここへ来る前からそそり立っていたものを。

「君はもう少し危機感を持たないといけない。

王が晶の守り神と巡り合えないとどうなると思う?

君を知らなければ、神は生まれ変わることができないっていうのに。

君が求められるのは別の幕内だ」

爽やかな花の匂いが迸った。

一気に呼吸を乱され、鳥肌以上の快感が走り抜ける。

思わず顔は上向き、背を男に預ける格好になった。

そう、男だ。多少容姿の変化があっても、声の響きはひとつも変わらなかった。

極上といわれた匂いは際限なく、誰よりも研ぎ澄まされていた。

死んだと思われた彼はどうやら生きていたらしい。

「ハーディー……どうしてここに」

「決まってるだろ。娘に危険が迫ってるんだ。晶の守り神に娘を食い殺されてたまるか」

ハーディーは不敵に笑った。

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