宝石の娘-8 癒しが約束された暁には魅惑の手引きが始まる
後 日 譚 ・ 魅 惑 の 手 引 き
サマルと正式な契約を結んだ日のことだ。
明くる朝は、腰が立たなくなったジャウハラをウルードが抱えて駱駝にまたがった。
水の一族との舞いが一晩中続いた結果だ。
魔力がほとんど空になったジャウハラは私の腕の中でくたりとしている。
舞いを終えてもその可憐さは失われず、満ち足りた寝顔をみせる。
しげしげと見やりながら、こんな姿を同じ弟子であっても人前に晒す訳にはいかないと思った。
経験者として言うなら、目覚めても夜まで体が思い通りにならないはずだ。
余韻のせいで体の奥がいつまでもうずくのだ。
それも、サマルという水の一族は妹のライラ以上に我が強いようだ。
色んな味を知るといいと言っていたが、あれは独占欲の塊だった。
ジャウハラに浴びせたサマルの体液を思い出す。
すると、変なため息が出た。
「はあ……っ」
私は水合わせの翌朝にアズハールが目を付けたと同じ状態になっていた。
煙草を噛みながら気を紛らわせる。
このままジャウハラを連れ帰って、アズハールやナルジスが自制できるかどうか。
「サーリーに至っては……」
ウルードは後方を振り返った。
一人乗りの駱駝にはサーリーが乗っている。
心ここにあらずだ。
万一のこともあるため駱駝同士を縄で繋いでいる。これなら離れ離れになることはないだろう。
しかし、サマルの凄みはそれは迫力があった。
恋敵と言えばいいのか、それとも捕食争いと言えばいいのか。
ともかく、獲物に手を出す者にジャウハラは自分のものだと示した。
当然のことだが、サーリーは宝石治療院へ戻れば記録をする。
気の毒にも、ジャウハラとサマルの夜の出来事を綴るのだ。
忘れられもしないだろうが、気が狂うのではないか?
まあ、サーリーはいい。腐っても院長だ。
バラカの面倒をみていることも考慮する。
狂っても正気に戻るだろう。
ジャウハラについては、この日を自室で過ごさせ、食事の時間もそこから出ることはなかった。
次の日には例の感覚は収まったようだが、用心して当番を割り振るのはやめた。
さらに次の日の今日、ジャウハラは香りもの作りに取り掛かった。
私のリーハは匂い煙草だ。
アズハールはアロマワックス、ナルジスはリボン。
アルマーはリーハ作りで13番を覚えてようやく一人前となる。
そのことは、弟子になった時から言い聞かせてきたことだ。
リーハをどんなものにするかは自分で決める。
そこからアルマーの物作りが始まる。
昨日までのうずきが収まると、ジャウハラはようやく自室から出ることが許された。
それまで、サマルが触れ撫でたところがじんわり痺れ、時折高ぶった。
ただ熱っぽいの異なり、優しく包まれるようだった。
シーツにくるまったジャウハラは一日中その波に翻弄された。
波が収まってから一日休み、その翌朝に師の話を聞くことになった。
朝食後のお茶の時間。
アズハールとナルジスも一緒だ。
「知っての通り、リーハとは香りを愉しむための商品だ」
師は、これまで教えてきたことを整理するために言い聞かせるようだった。
「アルマーに限らず、物作りは13が基本となる。
決められた12種の香りものに外れ物を足して13種。外れ物には、
遊び心や極上品が含まれるために『魅惑のダース』とも『魔のダース』とも言われる。
例えば、」
そう言って、いつもは陳列棚の中にある金属ケースを取り出してテーブルに置いた。
月白のシガレットペーパーには1から13の番号が刻まれている。
薔薇シリーズの煙草はすべて薔薇の香りであるが、
厳密な違いがあり、それぞれに意味が込められている。
匂い煙草はそのまま指に挟んで吸うのが一般的だ。
器に火を点けた煙草を置き、立ち昇る香りを愉しむという方法もある。
今までジャウハラは器を使った方法で師の香りを探ってきた。
その答えをウルードは順に語った。
1番は、繊細で透明感のある『可憐』の香り。
2番は、深い安らぎを覚える『癒し』の香り。
3番は、柔らかく華やかな『優美』の香り。
4番は、艶やかで洗練された『魅惑』の香り。
5番は、軽やかでいて上品な『聡明』の香り。
6番は、懐深くまろやかな『寛容』の香り。
7番は、爽快で開放感溢れる『自由』の香り。
8番は、ほろ苦くも忘れ難い『哀愁』の香り。
9番は、甘く濃厚で独特な『自己愛』の香り。
10番は、野生味のある複雑な『孤独』の香り。
11番は、親しみ深く豊かな『追憶』の香り。
12番は、余韻の残る刺激的な『偽り』の香り。
そして、13番は、特別な快感を呼び起こす『神秘』の香り。
言い終えた後、ウルードは金属ケースの薔薇煙草の内、13番を選んでジャウハラに渡した。
ポケットからは沙時計を取り出し、逆さにした。
さらさらと沙が滑り落ちてゆく。
「30秒だけ吸いなさい」
ジャウハラは煙草番の作業でも13番に触れたことがなかった。
「先生、いいのですか?」
「ああ、吸いなさいと言っただろう。早くしないと、煙を愉しむ時間がなくなってしまうよ」
火の点いたキャンドルを差し出すので、ジャウハラは煙草の先を焼いた。
吸い始めてすぐ、口内はほのかに甘くなり、いい匂いに満たされる。
次いで、体のどこかもどかしい部分が刺激された。
その淡い感覚を残して喫煙は終わった。
「次はこっちだ」
ウルードは沙時計と別のポケットからシガレットケースを出して煙草を1本取った。
ジャウハラに渡した後、再び沙時計をひっくり返す。
番号を目で確認すると、今度の煙草にも13番が刻まれている。
「さあ」
師の声は誘惑のそれと同じに心地よく、煙草の煙はいい匂いだ。
口内の薔薇の甘さはさっきと変わらなかった。
しかし、次に感じた喜びにジャウハラは体を震わせることになった。
この感覚は何だろう……肌にたくさんの口づけを感じる。
敏感な部分を愛撫されている気がする。
触れてもいない師の体温を感じ、とろける気分だ。
気づくと、ジャウハラは自分自身を片手で抱き締めていた。
思わず閉じていた瞼を開けると、師は何事もない様子でこちらを見ていた。
平静な様子にジャウハラは一層体が火照るのを感じた。
沙時計の沙はすべて落ち切っていた。
「ジャウハラ。どちらが遊び心で、どちらが極上品か、わかっただろう?」
ふわりとした微笑みが向けられた。
よく見ると、本当に珍しいことだけれど、師は得意気な顔をかみ殺しているようだった。
それに、この芳しい煙は周りにも影響を及ぼしていた。
アズハールとナルジスは瞼を重たくし、とろとろと瞳を潤ませていた。
ジャウハラが初めてウルードの13番を味わった日。
アズハールとナルジスにも同じものが1本ずつ与えられた。
極上の13番を少しだけ吸って、アズハールは吸いかけをシガレットケースに収めた。
ウルードのリーハはすごくいい。
特別な快感を呼び起こす神秘の香りなんだもんな。
だが、作り手自身が一番いいに決まってる、とアズハールは改めて思った。
ジャウハラは水の一族と正式に契約を結んだ。
その帰途、ウルードは平常心を保ったが、いつかと同じように興奮を持て余した。
「今度はサーリーの手を借りるほどじゃあない。だから、アズハール。いいか?」
ため息を含んだささやきはいつも以上に甘やかだった。
答えは考えるまでもなく、結果として俺はしばらくご機嫌だった。
アズハールは無意識に口を拭う仕草をした。匂いが残っている気がしたせいだ。
この場合に限って、師は弟子の中で果ててもいいのだ。
これもアルマーの決まり事の一つだった。
師弟を結ぶ前は気にしないでよかったっていうのに、アルマーには決まり事が多いんだよな。
俺はウルードが相手ならいつだってどんなことだって、いいんだけどな。
とにかく、こういう特別なことがないと、ウルードは俺たちに13番をくれない。
1本の煙草を何度も吸うのは褒められたことじゃなかった。
極上の13番を見つけたらそれなりに愉しみ、吸いかけを13本集めて高く売るような輩もいる。
売りつける訳じゃないからいいだろ、と思う一方で、
後ろめたさはあるので吸いかけを刻むように吸っていることはウルードには隠している。
今、ウルードは屋内の作業室にいて、ジャウハラにリーハ作りの手ほどきをしているところだ。
ナルジスは街の工房へお使いに出ているからここにはいなかった。
俺は煙草番の仕事を終えて中庭にいた。
湧き水の周りに積んだ煉瓦の縁に座って煙草を愉しんでいる最中だ。
正確には、煙を愉しむのは終わったが余韻に浸っている。
13番の内容は習得者以外に話してはいけない決まりがある。
だから、ジャウハラには話してないことだが、
俺のリーハはウルードの香りを下地に、連想する色を乗っけて作成している。
アロマワックスを1番から順に思い浮かべた。
ベビーピンク、アプリコットピンク、フラワーピンク、エロスピンク、シルバーピンク、
コーラルピンク、フレッシュピンク、ラズベリーピンク、チェリーピンク、ルビーピンク、
ミルキーピンク、ローズピンク。
それから、13番がピーチピンクだ。
全部にピンク色の薔薇の花びらを閉じ込めているからピンクだ。
ウルードの神秘の匂い煙草ほど、俺のピーチピンクのアロマワックスは出回っていない。
まだ遊びの13番しか作れないんだ。
ウルードにしたって、極上品はそうそう市場へは出さない。
アズハールはそんなことを考えながら落ち着かなく過ごした。
頭にはナルジスのことがあった。ナルジスがすぐに帰って来ないことがわかっていた。
お使い先はドゥアーの工房なのだ。
ちょうどその頃、工房の扉を叩く音がした。
ドゥアーは作業の手を止め、幾らか時間が掛かってから扉を開けた。
そこには象牙色のマントを着て、フードを深く被った者が立っていた。
背丈は同じくらいで、手袋をした手が口覆いを少し下ろして言った。
「サダルメリクが宿りますように」
フードから顔を半分覗かせ、エメラルドグリーンの瞳が微笑む。
形のいい唇に一瞬見惚れた。
訪れたのはナルジスだった。ドゥアーは急に脈が速くなった気がした。
「サダルメリクを。入れ……」
俺はナルジスをじっと見ていられない。
すぐ目を逸らしてしまうし、どうしてもそっけなくしてしまう。
「今日の用件は、アクアマリンのチョーカーのことなんだ。
ひびが入ってしまって、ひと回り小さくしてカフス釦にしてほしい。
元々は先生のものだからカフス釦にして使うのは先生なんだ」
「チョーカーにひび? 見せてみろ」
話しながら、商談に使うテーブルとソファを通り過ぎ、作業場に埋もれている丸椅子へ促した。
かつて弟弟子だったナルジスにソファを勧めたのは違和感を覚えたからそうしたのだが、
いざ丸椅子に座ってみると、思った以上に互いの距離が近くなってしまった。
フードを取って座ったナルジスは、何の気なしに、
一つに束ねたベージュブラウンの髪をマントから出した。
その時、ズズランに似た爽やかな香りがした。
ドゥアーは心の中でしまったと思ったが、平気なふりしてチョーカーを預かる。
チョーカーには、ローズカットのアクアマリンが取り付けられていた。
薔薇の蕾を思わせるドーム型で、幾つもの三角形の面で構成されたものだ。
優美にきらめくはずのそれは、
正面に大きなひびが入っているために本来の輝きが失われていた。
それにしても、問題はひびだ。
「これと同じものだよ。チョーカーの方は新調してあるんだ」
ナルジスは自分の首に着けたチョーカーを示した。
細く綺麗な白い首に傷は見当たらなかった。それともすでに癒えたのだろうか。
「カフス釦はすぐじゃなくていいんだ。薔薇煙草の注文があっただろう? だから」
「そんなことより欠片はどうしたんだ。怪我はなかったのか?」
「え?」
「こんなに大きなひびなら欠片も大きかっただろ。治ったのか?」
「え、ああ……ドゥアー、違うよ。僕が着けていた訳じゃないんだ。だから怪我はないよ。
これを着けていた子にも怪我はない」
「……っ、そうか」
腑に落ちたナルジスは柔らかい笑顔を浮かべた。
「ふふ、心配してくれて嬉しいよ。君は変わらず優しいね……ドゥアー、顔赤いよ」
「……そんなこと、わかってる。言わなくていい」
勘違いが恥ずかしくて顔が火照る。
しかも、何でもないように振る舞っていたのに、ナルジスを心配したことが知られてしまった。
「いつも目を逸らしちゃうから、こんなに見られると照れるよ」
照れなんて本当に感じているんだろうか。
ナルジスは変わった。
遠慮がちで自信のない雰囲気は消え、はっきりものを言うようになった。
思わず、ナルジスとの間に片手をかざした。すると、その手をつかまれた。
「遮らないで。ねえ、これからもさ、僕をちゃんと見てよ」
「ナルジス……?」
ありえないほどすぐ近くにエメラルドグリーンの瞳がある。
戸惑っていると、あの形のいい唇が重ねられた。
ナルジスの口づけは……本当に気持ちがいい。
恍惚とした気持ちが膨らむのをドゥアーは慌てて打ち消した。
ナルジスは俺が拒み切れないことを知っている。
ドゥアーはそう思ったが、当のナルジスはそんなことを微塵も思っていなかった。
拒まれるのではないかと怯える気持ちをいつも抱えていた。
触れると、ドゥアーは信じられないという表情をする。
硬直するのでほぐすつもりで舌を入れる。肌を合わせた仲なのに、うぶな反応が可愛い。
舌先が絡まり合ったと喜んだ瞬間、両肩を押し返された。
「……はぁっ。ナルジス、待ってくれ。こんなところで……」
「場所を変える? 僕はドゥアーとならどこでだっていいよ」
「……お前、ほんと……っ」
「何?」
「……そうじゃなくて、俺はお前に酷いことをしたくない」
すごく気持ちがよくて、ある意味では酷いことをしようとしているのは僕なんだけどなあ。
ナルジスは心の中で思った。
「ドゥアーは酷いことなんてしないじゃないか。あの時だって、君は少しも狂暴じゃなかった」
僕が話すたびにドゥアーは取り乱していく。ああ、可愛いなあ。
「だからって今度もそうとは限らないだろ。
俺は……自分が制御できなくなるのが怖いんだ……」
「そんなことないよ」
ドゥアーの言葉に驚いた。もしかして、ずっとそんな風に考えていたのか?
「よかった。それなら僕にいい考えがある。君をリボンで縛ってあげるよ」
「……は? 何でそうなるんだよ」
「手だけ縛れば大丈夫と思う。僕のリボンはそういうことにも効果があるんだよ。
君は何もしないでいい。僕がするから。気持ちがよくて酷いことをね」
あまりに妖艶な笑みを向けられ、ドゥアーは言葉を失った。
声は出なかったが別の部分に気持ちが表れた。
ナルジスは気づいていて、気づかないふりをする。
「それならいいだろ?」
こうして、ドゥアーの両手はナルジスによってハニースイートのリボンで縛られた。
あの時以来のナルジスの熱にドゥアーの抵抗は打ち砕かれた。
ジャウハラが13番の手ほどきを受けた7日後。
ラバーブとウルードに連れられ、ジャウハラは再び水の一族の棲む泉へとやって来た。
そのことにいち早く気づいたのはライラだった。
「満月の夜でもないのにアルマーがやって来ているわ!」
ライラは逸る想いのままジャウハラが放つ花の匂いを辿り、水面から顔を出した。
水面より向こうは、明るい日差しが降り注いでいた。
光の下の世界は水の中の世界よりずっと眩しい。
一族のみんなは太陽の光を嫌うけれど、わたしは少しなら平気だった。
「ジャウハラ、待っていたわ! 遊びましょうよ」
水面から飛び出してすぐ、柔らかく繊細な娘に抱きついた。
狙いは正しく、驚きの声も可愛らしいジャウハラを捕らえた。
こんなにいい匂いなんだもの。狙いを外すはずがないわ。
すぐそばにいた男二人が後ずさる姿もライラの目には入らない。
ジャウハラを草むらに押し倒し、額や頬、唇に口づける。
それでも逸る想いは収まらなかった。
眩暈がするほど美味しそうな匂い。
あん、絶品の匂いだわ。
「ライラ、いけないよ」
その一言でライラは動けなくなった。動作も思考も停止する。
「行儀が悪いよ。そんなに欲を剥き出しにして、僕のジャウハラを食い尽くすつもりかい?」
背に指先が触れた、と思った時には水中に戻されていた。
戻されていたといっても、けたたましい水音の中心に飛ばされていた。
その水音以上に、一族の本能がうるさいほどの鐘を鳴らす。
その身で従順を示せ――――と言葉でない気配が言う。
お兄様の気配はどうしてこんなに頭に響くのかしら。
「ジャウハラ、驚かせたね。ライラが勝手をしてごめんよ」
不意に現れた男は、泉の淵に倒れたジャウハラを抱き起こした。
サマルは酷く静かな空気を纏い、周囲に幾つもの水の塊を浮遊させて現れた。
対照的に、背後には轟音を立てる水柱が上がっている。
目を瞠って固まるラバーブとウルードには、轟音が遠くかすんで聞こえた。
それほどまでにサマルの気配は静かだった。
水の一族の首領は泉の淵の岩場に腰掛けて言う。
「そろそろやって来る頃だと思っていた。ジャウハラ、満月でもないのに会えて嬉しいよ」
脚と脚の間にジャウハラを収め、後ろ抱きにした格好で座る。
首筋に鼻を押し付け、唇を這わせる。
逞しい腕と華奢な腕の対比が艶めかしく映る。
「見せつけてくれる」
とウルードは呟いた。そして言葉を続ける。
「わかっているなら話は早い。ジャウハラはこれからリーハ作りを始める。
番いの君に手引きを願いに来た。リーハをどんなものにするか、教えてやってくれ」
サマルはジャウハラ越しにウルードを見て、口の端を上げた。
「いいよ、教えてあげる。もちろん、ジャウハラのためだ。
その間は、水中で二人っきりにしてもらう。ああ、たっぷりと、可愛がってあげる」
最後の言葉はジャウハラに向けられた言葉だった。
しばしの間、体をくっつけて戯れる様を浮遊する水の塊が遮った。
水の塊は透明であるのにゆらゆらと波打ち震えるせいで、互いの姿を上手に隠した。
誰もが気づいた時には轟音は消えていた。
水柱はすでにない。
「もう、お兄様ったら! 邪魔しないでよ!」
水中深くまで沈められたライラが水面まで浮上して叫ぶ。
「わたしだってジャウハラと遊びたいの! いいでしょ!」
「聞き分けが悪いなあ。少し、遠くへ行くんだ」
お兄様がそう言うからわたしの体は再び強い力で水の中へ沈んでいった。
「何よもう。少しだなんて嘘じゃない。あーあ、やんなっちゃう……」
今度はゆっくりだ。
さっきはいきなりだったからびっくりしちゃったわ。
深く深く沈みながら、ライラは水圧を逃がしながら思った。
ジャウハラは本当にいい匂いだわ。
それは美味しいアルマーの証だった。
お兄様の番いなんだもの。そうでしょう、決まっているじゃない。
今度こそ簡単に死なないアルマーかもしれないっていうのに、お兄様ったら意地悪なんだから。
ジャウハラのことを考えると、ライラはとても楽しい気分になった。
笑みが溢れて止められなくなる。
お兄様は本当に嫌がっているのに、わたしを罰しないのも気に入っていた。
「離されちゃったけれど、いいわ。次こそ、お兄様の隙をついて遊んでみせるわ」
本能的にライラは舌なめずりをした。
「あーあ、お兄様こそ、もう少し戯れに付き合ってくれたらいいのに」
それだけがライラは不満だった。
「満月の日は水の一族の力が増すんだよ。
水の一族は夜を父とし、月の王の下についているからだ。どうかすれば、眷属にも数えられる。
月は水を支配している。シャッルは支配されていると思ってもいないが。
反対に、新月の日は力を減じる。番いと結ばれたリボンも細くなってしまう。
それは、私たちとの繋がりが薄れることを意味する」
師はそう言って一度言葉を切った。
少しだけ声の調子が変わる。
「だからという訳ではないが、ジャウハラが行きたいと思うなら新月の日がいいだろう。
その日の自分の仕事が終わったら、一人で宝石治療院へ行っても構わない。
ただし、辿り着くまでアクアマリンのチョーカーを外してはいけない。それだけは守ってくれ」
それは、ジャウハラが宝石治療院へ行きたいと打ち明けた時のことだった。
今日はそんなやりとりがあって初めての新月の日に当たる。
朝からジャウハラはこのことが頭の片隅にあったせいで落ち着かなかった。
一方で、今はじっとナルジスのリボンを見つめていた。
作品見本のリボンだ。
13本のリボンの片側が一つの台紙に取りつけられているため、
反対側の端が垂れ下がってひらひらと揺れる。
ジャウハラは順にリボンを目で追った。
ミルクホワイト、チェリーブロッサム、柘榴、ハニースイート、金糸雀、アップルグリーン、
翠緑、孔雀青、葡萄、アーモンド、ラベンダーグレイ、黒橡。最後に虹。
色とりどりのリボンはどれも綺麗だ。
幅や長さ、素材もさまざまだが、12番の黒橡にはジャウハラにも馴染みがあった。
ナルジスの髪を結んでいるリボンと同じものだ。
「ジャウハラ、リーハをどんなものにするか決まったのかい?」
そう聞かれたのでジャウハラは首を縦に振った。
「うん、バスハーブにしようと思うの。
浴室のお湯に溶かしたり、蒸気で香ったりするようなリーハを考えてるところよ。
少し作ってみたけれど、うまくいかなくて」
「そっか。ゆっくり進めばいいよ。きっといいものができるから。
僕のリーハが参考になるといいな。僕のはね、リボンに香りを織り込んであるんだ」
「うん、ナルジスのリボンはいつもいい匂いだもの」
「そう、嬉しいな。髪じゃなくても結べるものであれば何でもいい。
何でもって言っても特別なものを結ぶんだ。
ほら、最初にあげたアロマワックスのリボンがそうだよ。
今はこういうのを作っているんだ。どうかな、手首に結んでみてもいい?」
私が頷くのを見て、ナルジスは好きな方の手を出して、と言った。
絹でできたリボンには、真ん中に飾りものが付いていた。
銀で縁取られた小指の爪ほどの白い宝石だ。
帯の部分を左手首に巻いてゆき、白い宝石がちょうど手の甲側に見えるようにする。
柔らかく綺麗なリボンが巻かれると、ブレスレットであることがわかった。
華やかな香りがする。
4番の柘榴のリボンはその通りに赤く、ふっと光が当たるとサーリーを連想した。
赤い三日月が解ける様子を思い出し、どきりとした。
「宝石はアズハールが手に入れたんだよ。これはジャウハラにあげようって二人で話したんだ。
宝石治療院へ行くんだろ? ほら、そろそろ行きなよ」
言って、ナルジスはジャウハラの背中を押した。
そうして夕刻には宝石治療院の扉が叩かれた。
月と雲、雨、そして旅人が描かれた扉口で出迎えたのはバラカだった。
サダルメリクの挨拶をしてサーリーのいる院長室へ案内する。
アルマーはいつでも院長に会うことができる。
ここでは王や王の使者より優先されるのだ。院長はそのためにいるのだから。
でも、それほど頻繁にアルマーがやって来ることはない。
よく訪れるのは王の使者だ。
今朝だってイルファーンが報告に来ていた。
イルファーンは王の使者がみなそうであるように王の血を崇めている。
だから、二人の兄はもちろん僕ですら丁寧に扱う。出会った時から今でもそうだった。
そこには尊崇と畏怖と欲望が入り混じっている。
院長室へ案内したバラカがいなくなると、サーリーは血が上るのを意識した。
バラカが案内した者に驚きを隠せなかった。
象牙色のマントに身を包み、フードを払った姿はやはり可憐だった。
喜びに声が震えるのではないかと思ったが、表面上は至極落ち着いていた。
そのため、ジャウハラはサーリーの様子に気づかなかった。
「ジャウハラ、訪問を嬉しく思います。さあ、こちらへ座ってください」
マントを脱いだジャウハラが象牙色のワンピースを着ていることに安堵する。
水合わせの後も前の満月の夜もジャウハラは肌を透かす薄絹姿だった。
思い出せば、生肌の感触が蘇る。
その肌に触れたことが思い起こされる。ああ、いけない。
「リンデンフラワーのお茶でもよろしいですか? ヤーサミーンの話を聞きに来たのですね」
「はい。あの、それもあるのですが……」
目の前のジャウハラは瞳を揺らして口ごもった。
心配事でもあるのだろうか。
「遠慮することはありません。何でも言ってください」
躊躇いがちに視線を上げる仕草が可愛らしい。
ヴィオラの瞳と視線が重なる。
「サーリー院長に会いたくて……」
サーリーはジャウハラの言葉に息が詰まった。
会いたかったのは私の方だ、と口にはできなかったが嬉しい気持ちになる。
だが、舞い上がってはいけないと自分に言い聞かせる。
同時に水の一族の冷やかな顔が脳裏を過った。
平静であろうとするのはサマルのためではない、と強く否定する。
この日、サーリーはヤーサミーンのことを語った。
すなわちジャウハラの母親のことを。
初めて彼女を見た時のこと。初めて話をした時のこと。
その時にはすでにハーディーが隣にいたこと。
体が弱いためにそれまで会う機会がなかったこと。
明るい性格と優しい心根が笑顔に表れていたこと。
清純さだけでなく、気高さを持っていたこと。
ジャウハラがヤーサミーンに似て美しいこと。左目に泣きぼくろがあること。
兄が2人と姉が1人いること。末の妹であること。
一番上の兄がナジュムンドの前王であり、二番目の兄が宝石治療院の前院長であること。
姉が今では晶区の長であること。慈しみを込めて『お姫様』と呼ばれていたこと。
つまり、サーリーにとって叔母にあたること。
最初、ジャウハラは目をきらきらさせながら聞いていた。
ほんの少し、切ない表情を浮かべながら。
途中からは驚きに変わった。
そう、ジャウハラの母は王族だ。
それは月の王の血を引くことを意味した。
ジャウハラはサーリーに試作品のバスハーブを一つ置いていった。
ガーゼに包まれたそれは、ワイルドローズと数種の花を組み合わせたものだった。
湯を張った浴槽に入れると、ガーゼは次第に水を吸って少しだけ沈んだ。
水面近くに浮かべば、よい成分が湯に溶け出し、浴室をいい香りで満たした。
湯に足を入れ、身を浸し、愉しむつもりで香りを胸に吸い込んだ。
ところが、その香りには調和というものが感じられなかった。
おのおのが香りを主張し、わずかな反発を生んでいる。
それでも暴力的な陶酔感がサーリーを襲った。
自制心が奪われ、逃れられない愛撫を受けている気になった。
ここにいないジャウハラによってうっとりとした感覚に陥れられる。
そして、のぼせて助けを求めたサーリーはバラカを大いに慌てさせた。
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