宝石の娘-4 恋した香りを模索する調香師はある予感を抱く


男 神 の 香 り

快感が走り抜けた体は、事の終わりに甘い息を吐くばかりだった。

「こんな形で君と……こんな、ことをするなんて思いもしませんでした……」

燃えるような瞳に見つめられる。

目の周りも火照り、綺麗な色に染まっている。

瞳の中に見え隠れする切なさを見てはいけない気持ちになりながらも、

赤い三日月が解ける様子にジャウハラは目が離せなかった。

こんなんじゃ心臓がいくつあっても足りない、と自分の手をぎゅっと握った。

サーリーはというと、恋心を抱いていた女性の娘だというのに、

あるいはそうであるからこそ愛しさを感じずにはいられなかった。

動揺以上に喜びが勝っていた。

水の一族の首領と同じに、可愛らしい額に口づけて耳元でささやく。

いくらウルードであっても聞かれたくなかった。

「君は両親のことをあまり覚えていないと聞いています。

私の知っていることであれば、何でも話してあげましょう。

いつでもここへおいで。そうでなくても、私は君を歓迎している」

最後にサーリーそのものの深い癒しの香りに包まれた。

腕が解かれ、三日月様の虹彩が元に戻ったのを見てとると、

長いこと黙っていたウルードは立ち上がった。

やっと終わったかと文句を言う。

「ジャウハラ、帰るぞ」

師はどこか不機嫌になっていた。

中央市場は、宝石市場と薬種市場に大きく分けられる。

晶区から採掘された色とりどりの鉱物に研磨されたルース、加工の施された美しい宝飾品。

薬草区から採集された様々な花や薬草類、凝縮されたエッセンスである精油に香水、煙草。

その合間に喫茶や食料、果実を売る店が並び、朝には人々の声が飛び交い活気が溢れる。

露店の日覆いは色鮮やかで、取り引きされる物の煌びやかさに引けを取らず、

目にも眩しく映る。

街の至るところに小舟の船着場があるように、

中央市場の区域も例外になく幾つもの船着場を見つけることができる。

縦横無尽に走る水路の上でも商売は行われ、もの、ひと、噂話が取り交わされる。

その一方で、太陽が没すれば、この一帯は異なる趣を見せ始める。

目に付くのはくつろぎを愉しむ店や屋台で、市場に接する歓楽街へと賑わいが移る。

旨い酒に美しい酒器がそろい、晶華の魅力は宝石と薬草だけではないことを教えてくれる。

太陽の光が燦々と降り注いでいる。

あれから数日経ち、この日はウルード煙草の受け渡し日だった。

小舟に幾つも籠を積み込む。中身は師の煙草と花精油、そして朝摘み薔薇だ。

普段なら昼間に出歩くことをしないが、

朝摘み薔薇の注文がある時は特別に明るい太陽の下で届けに行く。

舟先に積んだ籠から朝露に濡れた薔薇が爽やかに香る。

清々しい香りを吸い込んでいると、

すぐ近くにアズハールの気配を感じてジャウハラは振り返った。

積み込んだ籠に挟まれて二人は座っていたが、ジャウハラの首筋近くで鼻をひくつかせている。

「何してるの? アズハール、朝からずっと変よ」

朝食の時から及び腰で私に近寄らないでいることに気がついていた。

今はともに舟の上で、揺れに合わせるようにうんうんと一人うなずいている。

「あー、ようやく調整されてんな。これなら平気だろ。大丈夫大丈夫」

「どういうこと?」

「別に」

そっぽを向くが、代わりに隣の舟を漕ぐナルジスが小さく声を上げて笑った。

「笑うなよ」

「だってさ、ジャウハラの匂いにやられて、アズハールが酔っぱらったのを思い出しちゃうよ。

ずっとそわそわしてるだろ。おかしくってもう」

「うるせー」

「先生だけじゃなかったの? ごめんね、悪いことしちゃった」

「もう終わったことだからいいんだけどさー……」

「格好悪いよね。先生を揶揄ったりするからだよ。自分も同じ目に遭うなんて」

ふてくされるアズハールにナルジスは舟を寄せて耳打ちする。

「その分すごくよかった。

あんなに乱れたアズ、久しぶりで……格好悪いアズも僕は好きだよ」

「格好悪いって連呼しやがって。こんなに舟を近づけんなよ。危ねーだろ」

「ぶつけたりしないよ。えっ、それともアズは気持ちよくなかった?」

「そりゃ……」

意地悪な口調であっても、ナルジスは愛おしむ眼差しをしている。

二人は声をひそめているが、近くにいるジャウハラには全部聞こえてしまう。

フードの内でできるだけ耳を閉ざすが、あまり意味はなかった。

私が師の元へ身を寄せた時には二人はすでにそういう仲だった。

アズハールは私と同い年でナルジスは1つ上だけれど、二人は大人びた関係だ。

早くに成人もしている。

快感をともにする決まった相手で、それを隠そうとしない。

欲望を抱く相手は異性に限らず、私たちは触れたいと思うものに触れ肌を重ねる。

特にアルマーは欲望を溜め込んでしまうと自制できなくなる。

そう考えて、サマルの柔らかな笑みが浮かんだ。

そうかと思えば、サーリー院長の恋焦がれた表情が脳裏を過る。

私はどうなのだろう。

鼓動が速くなり、何だかいけない気持ちになった。

そもそも院長は母に想いを寄せていた訳で。

漠然とした感覚が残っていたサマルとの交渉は、

記録の追記によってありありと蘇ってしまった。

それなのに、サーリー院長の顔が重なるから堪らない。

浮かんでくる記憶を払いのけようと頭を振ると、

フードが脱げそうになったので両手で深く被り直した。

店を出れば、そこは人の目から逃れられない外界だ。

顔形を晒すことはなくとも、姿そのものを隠すことはできない。

顔を隠した怪しげな者を証明するものは、首に着けたチョーカーだけだった。

水合わせの夜にアクアマリンにひびを入れてしまったジャウハラは、

新しいものに付け替えていた。

そして、耳にはヴァイオレットブルーのピアスが揺れる。

花の形を模したそれは師からの贈り物だ。

瞳と同じ色の宝石を見つけてくれたことが嬉しかった。

アズハールとナルジスと同等の扱いになったこともそうだし、

この数日、嬉しさと恥ずかしさが半々だ。

中央市場から外れた船着場に小舟を寄せ、3人で積み荷を分け持った。

朝摘み薔薇の注文主であるマタルの香水店を手始めに得意先を訪ね、ヒバの店が最後だ。

受け渡しが済んだら、中央市場で気晴らしをしてもいいことになっていた。

少しなら、なのだけれど。

その時間を愉しみにしている3人は、

露店の立ち並ぶ通りに興味を持ちながらもそれを避け、人目を引かぬよう気を配った。

象牙色のマントは密やかに街を巡る。

人の多く集まる場所を避ける習性は、彼らの経験に因るもので、

食いものにされるというアルマーの身に降り掛かる不幸のためであった。

アズハールはその身を欲望に虐げられた過去を持ち、

ナルジスは他者に浪費される日々を送っていた。

ジャウハラ自身はそれを忌避して記録からも人の目からも隠された。

隠されて、目の前にあるマタルの屋敷で幼少期を過ごした。

屋敷に隣接する香水店の裏口を叩く。そこには美しい香水壜が描かれていた。

ジャウハラがこの扉を見慣れたのは、ここを出て訪問する側になってからのことだ。

「ウルード煙草の者です。薔薇のお届けに参りました。幕屋の中の幸運サダルアキベアがあらんことを」

と、商人に贈る挨拶の言葉を口にする。

中から馴染みの女性が顔を出すと、

ジャウハラはマントの前を開けて首元のチョーカーを見せた。

チョーカーには模式的なローズにカッティングしたアクアマリンが飾られている。

女性はアクアマリンをじっと見つめた。

相手がお得意様でも訪問の度に確認を求めるのは致し方ないことで、

この証がないと中へ入れてもらえない。

アクアマリンはその名の通り『水』を意味し、沙漠地帯では『癒し』をも指し示す。

それは丸みを帯び、柔らかな美しさを持ちながらも存在感のある一粒だった。

女性は頷いた。

「あなたたちにもサダルアキベアを」

了解が得られたことを示す返答だ。ようやく女性は微笑んで扉を開いた。

中へ入るとそこは小部屋で、朝摘み薔薇は作業台へ置くよう指示された。

「まあ! なんていい香りなのかしら。爽やかで瑞々しいわ。朝摘み薔薇はやっぱり特別ね。

いつもご苦労様。それと毎度のことだけれど、ジャウハラは残ってちょうだい。

薔薇を移し終えたらあとの二人は帰っていいわ」

心得たアズハールとナルジスはてきぱきと薔薇を移し、空の籠を背負って小部屋を出てゆく。

後でね、とジャウハラは心の中で二人に向けて言った。

事前にヒバの店で落ち合うと決めていた。

「マントを預かるわ。今日は風が強いわね、沙を払わなくちゃ」

女性の名はルゥルアといって、

二人きりになると親しみを込めて頬と頬を合わせて再会を喜んだ。

「変わりはないかしら? 少し見ない内にますます綺麗になったわね」

にこっと笑ってジャウハラの脱いだマントを壁のフックに掛け、

慣れた手つきで櫛で髪を梳かし、濡らした布で体を拭った。

毎度の世辞だが、今日はルゥルアの言葉にジャウハラはどきりとした。

「ルゥルアさんはお変わりありませんか?

早く会いたくて、朝摘み薔薇の注文が入ってからずっと心待ちでした」

「嬉しいことを言ってくれるわね! 見ての通り私は元気よ!

今日だってあなたが着るものを色々考えてきたのよ。会って決めちゃおうと思ってね」

ルゥルアの笑顔にジャウハラの顔もほころぶ。

ちょうど、ほのかな果実の香りがした。幸福を感じさせる爽やかなルゥルアの香りだ。

「んー、そうねえ。今回はこれがいいかしら。そろそろと思ってたのよね。

うん、そうね。これだわ」

着る物を決める間はルゥルアの独り言が響く。

集中しているため話し掛けても返事がないのを知っている。

そのため、ジャウハラはその様子を目で追うに留めた。

選んだ服が入った籠を渡されると、調香室へ通された。ここで着替える手筈だ。

いつもと変わらなかった。

「じゃあ店主を呼んでくるわ。それまでに準備しておいてね、『香りの女神さん』」

香りの女神。

ルゥルアがそんな風に呼ぶのも、マタルの仕事部屋へ通されたのも、

二人がアルマーの生み出す誘引物を研究しているせいだった。

研究の性質から、これから着替えるものは衣服であるが一枚の薄布で、

普段身に着けるには気が引けるものだった。

水合わせの夜のドレスは今までで一番そうだった、と思い出して顔を赤くする。

あの時のドレスもルゥルアが準備したものだった。

けれども、滑らかな肌触りや繊細な透かし模様は美しく、

極上品であることは何となくわかった。

そう思いながら籠の中の衣服を取り出して目の前で広げた。

着る前からわかっていたことだが、

肩は露わ、胸の真ん中にリボンがあって全部は見えないが、臍が見え隠れしているはずだ。

腕や脚は言うまでもなかった。

今まで用意されていたふんわりした素材でできた丈のあるワンピースと明らかに異なり、

サンドベージュのナイトドレスは今までになくちょっと、

と言えないくらいセンシュアルだった。

こんな姿で育ての親ともいえるマタルを迎えることになるなんて。

待ち時間がもどかしい。

長く感じる時間の中で、ようやく扉を叩く音がした。

「ジャウハラ、私だよ。着替えは済んでいるかい。入ってもいいかな?」

「はいっ、大丈夫です」

声が上擦ってしまった。

現れたのは物腰の柔らかな男で、同時に穏やかな雨を思わせる香りが広がった。

アイスブルーの瞳が微笑み、やあ、と声を掛ける。

大丈夫、と答えてしまったが、本当に大丈夫なのか自信がなくなる。

マタルを前に普段しない緊張をしたせいか、初めて会った時のことが脳裏を過った。

両親に連れられ、手放されることとなった少女は身を固くして泣きじゃくった。

久しく忘れていた記憶が溢れ、返事ができなかった。

「ああ、ルゥルアはこんな服を用意して。戸惑わせてしまったね」

黙っているジャウハラに対し、マタルはやや面食らった反応をした後で照れたように笑った。

「ずいぶん大人っぽいドレスだが、似合っているよ。綺麗だ」

しっとりと肌に触れる布地の感覚とともに自分の格好を思い出し、

はっとして記憶の放流が止まった。

胸元を隠すも、マタルの視線を過剰に感じ、頭の中では考えがまとまらない。

「……でもどうして急に」

「うん、彼女はその時だと思ったんだろうね。安心して、こうすれば見えないよ」

マタルは立ったままのジャウハラを正面から抱きしめた。

「綺麗なのに。もったいないけど、落ち着かないのなら早く終わらせよう」

くすぐったい……うなじの辺りでマタルの吐息を感じる。

これはこれで何とも言えない熱っぽい気持ちになる。

衝動を抑えるように、大きな背中に回す形になった手に力がこもった。

雨の香りが強くなる。

それは、マタルが自身のために調香した香水の香りだった。

人気を誇る香水の作り手であるマタルは、香水作りの理想と閃きをアルマーに求めている。

定期的に匂いの測定をするため、マタルが肌に接する行為は何度もしている。

それなのに、慣れているはずなのに体が熱くなってしまった。

考えていることを知ってか知らずか、なだめるように頭を撫でられた。

少し体を離し、目を合わせてマタルは言った。

「匂いが変化しているね。匂いの変化も、大人っぽくなったのも、このせいかな?」

耳で揺れるヴァイオレットブルーの宝石に手を添える。

窓から差し込む光を弾いて、きらきらと眩くも輝く。

「瞳の色と一緒だね……君たちは、ある夜から急激に匂いを変えてしまう。

私たちと何ら変わらないように見えるのに、この匂いは本当に不思議だ。

この、体の中から溢れる匂いに香水では及ばないと思い知らされる。

これが成人の儀式を経た、ということを意味するのかな」

君たち、という言葉にジャウハラは少し落ち着きを取り戻した。

鼓動が治まるには時間が掛かるけれど、もう混乱してはいなかった。

マタルが理想とするのはアルマーに違いないが、

マタルのいうアルマーとはハーディーのことを指す。

ハーディーの、つまり父の匂いを模索しているのだ。

一緒に暮らすようになって、父に特別な感情を持っていることは子どもながらに察せられた。

いつのことだったか、惹かれてやまない、とマタルは言った。あの匂いを探っているんだと。

あの匂いというものがアルマーの放つ誘引物をいうのか、父のことをいうのか……

何にしろ、自分は欲望の対象にならないことを思い出し冷静になる。

けれど、マタルの行為が体中に至れば、平静を保てるはずもなかった。

考えれば父と同世代なのだが、マタルは年を重ねた魅力と哀愁漂う色気があるのだ。

「……熟した酒のような芳醇な匂い。それよりも夜に咲く天人花の艶やかさか。

ああ、濃厚さと官能さが増したのか……」

集中して独り言が漏れる。この辺の癖は店主も助手もそっくりだ。

「……以前は甘酸っぱい果実と爽やかさが勝ったが。

質自体が変わったようだ……華やかな……甘い花の香りだ……」

流れのままに壁に追いやられていた。

ささやきは低く、雨に包まれたかのような湿り気と体温にぞわぞわする。

一方、照れるくせにマタルの心中は平気なもので、

ジャウハラの戸惑う様子が可愛くて、くすっと笑った。

呼吸は乱れ、吸いつくほどの瑞々しい肌は薄紅色に染まっている。

その気にさせることができるなら私もまだ捨てたものじゃないと思うが、

可愛いらしいとしか思えない娘に欲など抱きようもない。

瞳の色はハーディーのものを受け継いでいるが、あとはヤーサミーンの容姿を持つ娘だ。

ハーディーが大事に想う宝石を育てたのだから、すでに私の欲は満たされていた。

「ルゥルアの思惑通りになってしまったね。

君を高揚させるには、このドレスはぴったりだったようだ」

自ら発する湿りと熱によってジャウハラは匂い立っている。

「……知ってたの? ルゥルアさん……」

「彼女は感情の機微を読むのが上手いんだ。この変化に気づかないはずがない。

本当に敵わないなあ。相手にそうなるよう仕向けることも上手なんだから」

とろけるようなヴァイオレットブルーの瞳を見て、油断していたマタルはある匂いに戦慄した。

ふっと感じたのだ。

魅了され、胸を締めつけるあの懐かしい匂い。

奥深くから滾るような熱が生まれ、思わず恍惚とした。

ハーディーを思い起こす匂いだ。

まずいな……ジャウハラに悟られはしなかっただろうか?

見れば、先ほどと変わらない様子だ。

瞳を潤ませて守りたくなる愛らしさだ。

安堵しつつも、ルゥルアには黙っていても気づかれてしまうだろうと、ため息をつき思う。

まさか、このことまで先読みをしていた訳でもないだろうに。

それにしてもジャウハラの変化は、完成されたハーディーに近づく予感がした。

ハーディーは神を惑わすほどの果実だった。

これまでそれを望みながらジャウハラに兆しもなかったが、淡い可能性にマタルは微笑んだ。

ジャウハラを見送った後、マタルはハーディーのことを考えていた。

ハーディーが街から消えて久しい。

私との関係が終わり、彼はヤーサミーンを選んだ。

ただ、二人の大切な娘は私に託された。

ジャウハラ。

名前の通り、ジャウハラは宝石のようにきらきらと可愛らしい娘だった。

涙を流す彼女は幼いながら透明な美しさがあった。

さらに成長すれば、ますます美しくなることを予感させた。

容姿がハーディーに似ていないことに安心したのは私くらいだろうと自嘲する。

一緒に預けられたトランクには、

最低限の生活用品とその時が来たら渡すべきものが入っていた。

それらは今、ウルードに任せてある。彼なら悪いようにしないだろう。

それとは別にハーディーは手製のオイルを準備していた。

鍵付きの小箱に、中身の満たされたオイルボトルとレシピが13種。

「秘密のレシピをマタルに贈るよ。いわゆるアスラール製オイルだ。

使い方は知ってるだろうからジャウハラに指南してくれ。頼むよ。

こっちの、13番目のオイルは君に。俺が欲しくなったら使うといい」

「……どういう意味だい?」

「やらしい気分になったら。ま、俺と気持ちよくなりたい時におすすめする」

ハーディーはにやっと笑った。

「そうじゃない。

君が欲しくなったら、君に触れたらいい話だろう……もう触れてはいけないという意味かい」

「違うよ。もうすぐ俺はここにいられなくなる。

ジャウハラが成長すれば、俺は娘を傷つけるだろう。

アルマーの親と子であっても例外はない。俺はそんなこと、望まない」

笑みを消した顔は酷く冷たかった。だが、相反した色気が漂っていた。

「……オイルの使い方なんて知らないよ」

言葉にすると声が微かに震えた。

この頃、私はハーディーが遠くに行くことを漠然と感じていた。

ヤーサミーンもそうだが娘の存在が大きい。

「そうだっけ。俺とやらしいことをした時はいつもアスラール製だよ。知らなかった?

じゃあ、嫌でも忘れられなくなるくらい体に覚えさせてあげる」

言って、ハーディーは俺を押し倒した。

いつもはゆるやかに煽って誘い込むのに、あらがうこともできずに翻弄された。

ハーディー自身の香りにも二面性があった。

相反する香りが共存する不可思議さと心地よさにシーツの上でむせた。

だが『香りの男神』はもういない。

もしも、惹かれてやまない香りが蘇ったら、と考える。

怖い者知らずのハーディーが恐れた香りだ。

マタルは喜びと同時に恐れを感じずにはいられなかった。

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