宝石の娘-3 院長は花模様を重ねるに至った記憶を呼び起こす
重 ね た 花 模 様
夜明け前だった。
ジャウハラを背負ったウルードは、他の者と一定の距離をとっての帰途となった。
ラバーブとは薬草園入口で別れ、弟子二人には薔薇の世話を言いつけて店へ帰させた。
帰り道の途中で、
普段見せることのない姿を晒すウルードを目にしたアズハールはいらぬ口を叩いた。
この時刻、まだ空気は冷え切っている。
にも関わらず、ウルードの身体は赤く火照り、息が乱れ、頭も体もふらふらしている。
あーあ、もう夜が終わるってのにあんなになってさ。
「はは、酔っ払ってやんの。ちょっとさ、興奮し過ぎじゃねえの」
ある意味で、ぎりぎりの体裁を保ちながらも、
睨みつける気概のあるこの年の離れた男にそそられていた。
膨らんだそれに触れて、始末をつけてやりたい。
今までどんなになっても涼しい顔しか見たことがなかった。
だから、揶揄わずにいられなかった。
ニヤニヤが止まらなくて口がゆるみっぱなしだったが、それは突然終わった。
ウルードに、というより、その背に負われたジャウハラに近づき過ぎてしまった。
まともに匂いを浴びたものだから、アズハールは顔を耳まで真っ赤にした。
「アズ、何やってるんだ。近づき過ぎだよ」
「早く言ってくれよ。くらくらする……嘘だろ」
その様子を見てウルードは鼻で笑った。
揶揄う気力は失せたようで、小舟の上でナルジスに櫂を任せるほかなく、
その背に赤くなった顔をうずめている。
「まったく、大人しくなって可愛いものだな」
アズハールに投げ掛けるが、うめくばかりでまともな返事はない。
そうは言っても自分の限界も近づいていた。
ウルード自身は店へ向かわず、ある建物の扉を叩いた。
扉には月と雲、雨、そして旅人が描かれていた。
街中であったが、辺りは静かな空気が漂っている。人々が起き出すにはまだ掛かるだろう。
そんな時刻に待つことなく扉は開かれた。
自分より若く、弟子よりは年かさの男が隙間ほど開けた扉から顔を覗かせた。
すると、何かに気づいてさっとショールで鼻を覆った。
その仕草を見て、心得たものだと感心する。
「夜明け前に何事ですか?」
「弟子の匂いが溢れ返っているんだ。すまない、落ち着くまでここに置かせてほしい。
店へ連れて帰れば、一帯がどうなるか知れたもんじゃない」
背中を傾けてジャウハラを見せると、男は目を瞠った。
アルマー特有の誘引物が迸り、無自覚に誘惑するばかりの眠り姫だ。
深く眠るも、密着する肌と首筋に掛かる息が心を乱す。
美酒の風呂に頭まで浸かっているのに、飲むことを禁じられている気分だ。
「わかるだろう」
「なるほど。イルファーンから報告は受けています。中へどうぞ」
「それなんだが、ちょっとな……」
珍しく歯切れの悪いウルードを見て、男は訝しく思うも奥へ招き入れた。
◆
その建物が何であるのか知る者は少ない。
青と白、そして金で彩られた中程度の大きさの優美なドーム。
塀の向こうから微かに聞こえる水音は清々しく、手入れの行き届いた中庭の様子が目に浮かぶ。
通う者はまばらであるが、その足は絶えることなく今日まで続いていた。
ここはアルマーが癒しを求める場所だった。
宝石治療院と銘打ったそこは、今の代はサーリーが院長を務めていた。
裏口から入り、ショールを被った男・院長であるサーリーに続いて廊下を進むと広間に出た。
人が歩くのに十分な幅をとって、一段下がり、もう一段下がると、水盤に行き当たる。
広間の床は大部分が水盤となっており、足首を浸す程度の水で満たされていた。
月が描かれた水盤、真っ白な壁に描かれたアラベスク模様、星をなぞった天井。
天井は円形で、ここが外から見えたドームだと知る。
壁面に幾つか穿たれた星型の明り取りの窓から光が差し込む。
明るい室内であるのに、天井を見上げると夜の中にいる感覚に陥った。
◆
サーリーは、突然の訪問者を伴って治療を行う広間へ足を踏み入れた。
ここで背中の者を預かり受けると、ウルードは力尽きたように床にへたり込んだ。
脱がせたマントを床へ滑らせ、眠る少女を横抱きにし、
水を張った水盤の中心に丁重な手つきで寝かせる。
浅瀬を思わせる水の上に横たわるアルマーには清冽な美しさがあった。
両膝をつき、腰を下ろした体勢で華奢な肩を抱き、前髪を手で払うと額の刻印を注視した。
白銀の長い髪も上質な衣服も水に濡れるが、構わずしばし見入った。
前々から刻印の場所は知っていた。
ただし、記録から想像していたものと様変わりしていた訳だが。
生まれもった石が同化してできた星型の印の上にナランキュラスが花開いていた。
折り重なる薄い花びらがふんわりと可愛らしく、華やかでありながら繊細な花模様。
「失礼」
少女の耳に届かないことはわかっていた。
額に口づけるサーリーの瞳は三日月様に変化する。妖しく輝く赤い三日月。
唇を離すと、懐から筒状の細長い硝子壜を取り出した。
星を宿した鉱物を粉末にして溶かしたもので、硝子を透かし見れば、
とろりとした液中で光が浮遊する。
サーリーは口でコルク栓を抜いて飲み干した。
「水を支配する月の王よ、お力をお借りします。ナランキュラスの主の姿を映したまえ」
空中に吹きつけた水分は、細やかな金色を帯びた白い霧となって渦を巻き、人型を形成する。
長身で肉惑的な輪郭線が出来上がったかと思えば、やがて色みが加わり、
青色がかった黒髪の男になった。
気だるげな色気が漂うが、ふと見開いたラピスブルーの鮮やかな瞳に惹きつけられる。
霧でできた男がひと回りすると、衣がゆったり動く。
その様子から水の中にいることがうかがえた。
「……そいつ、ライラに似ているな。色男だ。雰囲気は異なるが、おそらく」
壁に背を預け、片足を立てたウルードが言う。
ぐったりしながらも、よくも意識を保っていられる。
「ええ、おそらく水の一族の首領でしょう。
代替わりがあったことは聞いていますが、彼の姿と印を見たのはこれが初めてです」
「そいつのせいか。アクアマリンがまったく役に立たなかった。
強力な魔法を込めたんだが、まるでだめだ」
「その調子なら結界も破られたのでは? 彼は見られることを嫌うそうですから」
「それだ」
水合わせの相手が判明したため、サーリーは次の手順に移った。
布袋から色とりどりの宝石を取り出し、手のひらへ。
もう片方の手で、少女の額を始点にある法則に従って並べてゆく。
ウルードは頭を上げて、その様子を瞳に収めた。
口をつぐみ、宝石を割り当てる姿は神聖な空気を生み、神族が星を配置する様を思わせる。
これを見てしまうと、王の使者の神聖さはまがい物と知る。
現にこの男は王族の一人であり、ひいては月の王の血を継ぐことを意味し、
さらには神族の末端に連なるのだった。
かねてより宝石治療院の長は王の血筋から選ばれ、
魔法を宿した子の中でもアルマーの管理を担う。
出生からずっと、印や水合わせの相手、交渉など一切を記録する。
実動は王の使者が行うが、
院長が王の血筋から選ばれる理由はアルマーの癒しに関わるためだった。
「イルファーンの代わりに記録の追記は私がしておきましょう。
彼がわざわざ出向く必要もありません。しかし、」
最後の布石を終えるとサーリーはウルードに呼び掛けた。
「扉が閉じているのに、この娘のあり様は一体? 匂いが漏れ出ている。
それに彼女によく似た人を知っていると思うのですが、気のせいでしょうか」
「ヤーサミーン」
サーリーは思わず胸を押さえた。
憧憬を抱く名に、心臓を矢で射られた衝撃を受けた。
一目見てそうに違いないと思うほど似ているが、いざその名を聞くと心に風波が立つ。
いまだ色褪せない残像を吹き払うかのように、意識して息を吐き出す。
「思い出せないのか?」
ウルードはにやっとした。この男はわかっていてそんなことを口にする。
「思い出すも何も、忘れようがありません。
この娘がヤーサミーンの子……あなたに師事していたとは。
この娘は美しくなりますよ。今でも十分、けれど、今以上に」
ウルードはサーリーの肩を借りながら別室へ移った。
霞んだ視界の端で、ひるがえる裾から真白い足首が見え隠れする。
着込んでいるせいか、わずかに見える肌が何でもないのにいやらしいと思った。
ただでさえ興奮しているのだ。
そうでなくても、アルマーの本能はこの男を求めずにいられないのだから仕方ない。
それに、サーリーの魅力はそういう清浄さの中に垣間見る衝動だった。
案内されたのは中庭が見渡せる部屋だった。
簡易のくせに贅沢なベッドがあり、ウルードはそこへ向かって倒れ込んだ。
ベッドの上で仰向けになると、身を案じる瞳がこちらを覗き込む。
生来の鋭い目つきもその印象は薄らぎ、白銀の艶のある長い髪が頬に掛かっている。
「あなたも酷く疲労しているようですね。治療を受けていかれますか?」
「頼む……院長様の治療を受けられるなんて幸運だ」
「このまま戻ってはあなたも危ないでしょう。
せっかくですから、ゆっくりしていってください。
あの娘が目を覚ますにも時間が掛かりそうですし、話を聞かせていただかなければなりません」
「そいつが本音だな……」
「記録の一環ですよ。納得いただけませんか?
私は困りませんから、お好きに取ってくださって構いません。
まずは酔いを醒ましてあげましょう。薬を」
半ば開いた口にシロップ薬を注がれた。よい香りの林檎だ。
「自分でも酷い様だと思ってるよ……弟子を泉へやらせるのは初めてでもないのにな」
次には程よい刺激が与えられ、サーリーの手が全身をほぐしてゆく。
話を聞きたい風に思えたが、これでは瞼が重くなるばかりで目を開けていられなかった。
「酔いを覚えるほどの匂いは、先代から聞いているハーディーの儀式の時と似ています。
彼も水の一族の首領と番ったと言いますし。匂いはすぐ治まりますよ。
あなたは自身を酷いとお思いですが、
人を驚かせる元気がおありですからどうってことありませんよ」
ハーディーと同じなのか、とウルードは呟いて続ける。
「はっ、元気か。どうやら恨まれたらしいな……ジャウハラのことを黙っていて悪かったな」
閉じた瞼の向こうでサーリーが笑った気配がした。
「謝る程のことではありませんよ。それより、あの娘に思い入れをされていると聞いています。
それは本当のようですね」
「何、弟子は大切にするさ……そんなこと、いつ誰がお前の耳に吹き込むんだ」
「報告の折に、イルファーンがひとつひとつ言いつけて行くんです。
ずいぶん好かれていますね」
「あいつか。使者のお守りをしっかりしてくれよ……私の何にこだわっているんだか」
「何に、ですか」
緊張がゆるみ、心地よさと眠りを感じていたはずが、今では再び興奮が高まっていた。
「まあ、彼ほどではありませんが、
私にしても心を許してくれるあなたをこの手で満たすのは幸せというものです。
重ねた花模様を見ることができるのも、役得としか言いようがない。とても美しい……」
薄く目を開けると、内太腿に隠された刻印にサーリーの視線が注がれていた。
星型の印に重ねられたダマスクローズ。
アルマーであることの証明にサーリーの指が触れる。
裸になったとしても、あまり自分の目に触れることのない場所にある。
そんなに見つめないでほしいと思う反面、サーリーなら見られていても嫌ではなかった。
「イルファーンが羨ましがるでしょうから、この事は内緒ですよ」
「ああ……」
肌にひんやりしたものを感じ、快さに瞼を閉じた。
きっと赤い宝石を使っている。
その冷たさが喜びを生み、加えて、うっとりと注がれたあの視線が拍車を掛ける。
癒しと同等の意味を持つ快感がもたらされ、昨夜より続いていた熱からようやく解放される。
サーリーに身を任せ、ウルードは腰を浮かせて背をのけ反らせた。
匂いが落ち着いたのは、陽が傾いてからだった。
ジャウハラは目を覚ました。
瞼を開くと、星空が広がっていた。
夜の帳に赤い星々。
頭に掛かった薄霧が晴れるに従い、それがドームの天井であることに気づいた。
向こう側の空が赤く染まっているために、高いところにある星型の窓がそう見えたのだ。
ここはどこなのかしら。
体の上に置かれていたのか、動いた拍子に綺麗な宝石が次々と滑り落ちた。
それらは水の中へ落ち、透明さを帯びてますます美しく輝く。
自身も水に浸っていることに驚きながら体を起こした。
儀式のための衣服は水を含んで肌に張りつき、だるさは空っぽになっていた。
どうやら水盤の中にいたようだった。
見たことのないくらいとても大きな水盤だ。
水盤には月が描かれていた。月の下で、晶の守り神様が歌う物語の一節。
水――――そうだ。夜に泉へ行って、それから?
近くには、師もアズハールもナルジスも誰もいなかった。
ただ、体の中を蝶が舞うようなふわふわした感情がわき起こった。
サマルのことを思い出していた。
熱っぽさはすっかり消えているのに、言葉にできない想いが胸を占めていた。
額の刻印に触れると、サマルの口づけが花降る感覚に囚われた。
その時、視界に何者かの姿が映り込んだ。
白いショール。緋色の爪。銀色の花十字を形づくる額飾り。
「お目覚めを待って、ご案内するよう言いつかっています」
反射的に体を強張らせたが、目の前に現れたのは自分より年下と思える少年だった。
いつからそこにいたのか、水盤の外に立ち、恭しく手を差し出した。
「こちらへ」
格好は例の王の使者と同じだったが、
どうもはにかんでいるし、警戒しなくてもいいように思えた。
水盤から出ると、まず清潔な布を、そして白いローブを渡してくれた。
髪や体から滴る水を拭い、ローブを羽織る。
頃合いをみて少年はジャウハラを中庭へ案内した。
中庭では、師と知らない男がテーブルを挟んで話し込んでいた。
お茶の準備とドライオレンジ、くだけた雰囲気。
師はこちらに半ば背を向けていたため、先に気づいたのは向かい合って座る男だった。
その切れ長の目が見開かれ、言葉の途切れた様子は時が止まったかに思えた。
「どうした?」
「……あなたの弟子がお目覚めですよ」
師は顔だけ後ろに向け、私の姿を確認した。
「ジャウハラ、おいで」
手招きをするので、師のそばへ近寄った。
「言うまでもないが、ジャウハラだ。
1年前に私の元へ弟子入りした。ハーディーとヤーサミーンの娘だ」
挨拶を促され、ジャウハラは口を開く。
「この真珠の連なりがかけがえのないものになりますように」
初対面の者がする決まり文句だった。
赤い瞳がこちらを見据えている。白い肌に、銀色がかった白い髪。
白いショールは王の使者のものとやや異なり、素材や装飾から幾分位の高さを思わせた。
「こちらはサーリー。この宝石治療院の院長だ。つまりアルマーの治療師だ。
今回の水合わせの始末にこいつの手を借りたんだ」
院長という言葉に慌てて頭を下げると、サーリーと呼ばれた男は立ち上がり言った。
「アンニザームが花珠となりますよう心掛けましょう。体はもう大丈夫そうですね。
あなたたちを癒すことは私の役目ですから気にしなくていいんですよ」
目を瞬かせると、席へ掛けるよう促され、事の次第を聞かされた。
「君がとてもいい匂いをさせるものだから、この男を狂わせていたんだよ」
「狂ってなどいない。少しふらついただけだ」
「泥酔状態といえば否定はできないでしょう。
あんな姿、なかなかお目に掛かれるものでもありません」
全体に冷たい印象があったが、
サーリーの言葉遣いは丁寧で、師を揶揄うも心根と上品さを感じさせた。
長い付き合いなのかしら。
師がこんな風に心を許している者を知らなかった。
話している間に先ほどの少年が戻ってきて、
綺麗なフロート型のグラスをテーブルに並べていった。
「ジャウハラ、どうぞ」
サーリーは細口のボトルを手にして、ジャウハラのグラスを示した。
すらりとしたグラスを傾けると、琥珀に澄んだ液体が注がれた。
ふわっと芳醇な薫りがする。
細やかな泡が現れ、いつまで経ってもなくならない。
続いて他のグラスも琥珀色に満たしていく。
サーリーの所作は優雅で、手の内から光を生み出す魔法を見ている心地だった。
思わずサマルを思い出した。
「水合わせの成就をお祝いします。ジャウハラ、おめでとう」
「おめでとう。これで正式に大人の仲間入りだ」
「ありがとうございます」
としか言えなかった。
サマルのことを思い出すと、何だかとても……先生には言えない。
えいっと飲み干すと、途端に体が熱くなる。お酒なのだ。
初めて体内に取り入れた液体は、凛と冷えているのに体を熱くさせる不思議な飲み物だった。
ボトルには満月のラベルが貼られていた。
銀の背景に琥珀色の満月がぽっかり浮かんでいる。
水合わせの時に見た満月を思い出した。
「アフラームのバドル酒を飲むことができるのは今この時だけなんですよ。
成人の儀を終えた者のみが飲むことを許される極上品です。どうぞ、よく味わってください」
そう言ってサーリーは微笑み掛けた。
「美味しい」
まろやかな酸味が口の中に広がり、シュワシュワと泡が弾ける。
なんて美味しいお月さまなのかしら。
「ああ、旨い。このために水合わせをやっているようなものだ。
こいつから最高級のバドル酒を頂戴するにはこれしかないからな」
「不届きな師匠ですね。それに、あなたはこんな風に孤児ばかり集めて……」
「変わった奴か? お前には言われたくはない」
「いいえ、面倒見のいい人です。
あなた方アルマーがいるおかげでこの国は豊かでいられるんです。
今では水合わせはこの国の豊かさの要です。
どんなに資源があろうとも、水がなければこの地ではやっていけませんから」
「そうか、真面目な奴だ」
そう言って、師はふいと顔を背けた。
サーリーが目くばせをするので二人でくすくすと笑った。
この人は私たちの繊細な部分を知っているようだった。
孤児であることも、アルマーに共通する生い立ちも、きっと。
師が心を許すのがわかる気がした。私も、すでにそうなのだから。
やがて中庭に火が灯され、夜の訪れを知らせた。
笑い合う二人に対し、目を細めてウルードは睨みつけた。
「温いな……記録の追記はいいのか? 状況報告は十分だろう。
まだ明らかになっていないことを探るべきだ」
肩肘をついてグラスを揺らす。
強い口調だが、酔って喧嘩を売っているようには見えない。
言葉を向けられたサーリーは、笑い合ったばかりのジャウハラから視線を逸らした。
「……ええ、そうですね」
「?」
「ジャウハラ、こいつはヤーサミーンと親しかったんだ。恋と慕っていたと言った方がいい」
なかなか動き出さないサーリーをけしかける。
この調子では夜が明けるのではないか。
日をまたげば、記録の追記は王の使者が行うだろう。イルファーンにさせるのは御免だ。
サーリーだってそのはずだ。イルファーンに譲るものかと思っているに違いない。
「何を言い出すかと思えば、突然にも程があります」
「隠しても仕方ないだろう。いつまでもこの時間を過ごせやしないのはわかってるはずだ」
「言う必要がどこにあるというんですか」
「母を……?」
思わず漏れた言葉にサーリーの目がわずかに揺れる。
「だから少し躊躇っているんだ。少し、だと思っているがどうなんだ。私情が引っ掛かるか?」
しばし口をつぐんだ後でサーリーは言った。
「そんなことはありません、私情など……ジャウハラ」
名を呼ばれ、真正面から見つめられた。
赤い瞳が潤んでいるように見える。目が熱く、真白い肌に朱が入っている。
お酒のせいでそうなっているのではなかった。
秘められていた獣性を感じて肌が粟立つ。
「失礼、」
両腕を掴まれると、あの、花降る感覚に囚われた。
どうして、と思うと同時に衝動が体を駆け巡る。
体が熱くなる。
「水合わせの記憶は不明瞭のはずです……記憶のないものを呼び覚ますためにはこれしか……
水の一族との交渉は記録しないといけないんです……でないと……」
言葉尻が聞き取れなかった。
けれども、すでに本能が彼を受け入れていた。
躊躇いがちに触れたのは最初だけで、サーリーは溺れるように肌を合わせた。
椅子に座ったままでサマルとの行為を繰り返すこととなった。
それは『先生に言えないこと』の再現であった。
ウルードはその様子をただ眺めていた。
手には月白。
薔薇の香りのする煙が中庭に漂った。
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