宝石の娘-1 招かれざる王の使者は口づけにより熱情を与える
訪 問 者
そこは入り組んだ街の路地裏だった。
看板こそないが、煙草を扱う店であることを示す四角錐状の模式図、
刻み煙草の山が扉の片隅に描かれていた。
外観からは店内の様子をうかがい知ることはできない。
扉を開けると、そう広くない店内に硝子の陳列棚が1つあり、
腰掛け椅子が数脚、壁際に寄せてある。
窓はなく、読書灯ほどの抑えた光が店内を優しく満たしていた。
宝石店を思わせる陳列棚の中央には、金属ケースが開かれた状態で置かれ、
13本の煙草が等間隔に収められている。
こちらの商品しか取り扱っておりません。
しかし、選りすぐりのものであります、必ずご満足いただけることでしょう。
いわゆる高級煙草店だった。
誰かが喫煙したばかりなのか、店内にはえも言われぬ芳しい煙の痕跡があった。
◆
今は正午。
時刻を知らせる鐘が街に鳴り響いた。
ウルードの高級煙草店に客はいなかった。
扉から見て、硝子の陳列棚の向こうに店番の者が座っている。
店番の者は象牙色のフード付きマントを被って俯き、
稜線のはっきりしない服装で全身を覆い、同じ色の布地で口覆いと手袋をしている。
そのため、顔形や性別、年齢も判然とせず、人成らざる者の空気を纏っていた。
ただ、陳列棚の中へ視線を注いでいることは察せられた。
陳列棚には、紺地のベルベットが敷かれ、
中央に置かれた金色のシガレットケースには薔薇シリーズの煙草がきちんと並べられていた。
月白のシガレットペーパーが、薄青い月の光を思わせる。
ペーパーやラベルは衣装であるからと、ひとつの汚れのないよう仕立ててあり、
美しい文様が描かれている。
1から13番の印字がなされ、ウルードの手製である薔薇精油を浸み込ませて作られたものだ。
陳列棚の横には、ペーパーを巻く前の粉末を入れた蓋付き丸皿を見本に用意している。
この国では、香りと薬効を愉しむ者が多く、匂い煙草は嗜好品の上位にある。
「ジャウハラ」
呼び声がした。
「ジャウハラ。おいで、昼食だよ」
正午の鐘からそう経たず、奥から聞こえた男の声に店番の者は立ち上がった。
「先生、今行きます」
その声は少女のものだった。
首に下げた水色の石を冠した鍵で店の扉を閉めれば、午前の店じまいとなる。
少女の足は店の扉とは反対へ向かう。
そこには、目立たないよう設えた扉があり、その扉を押し開けた。
在庫品や乾燥させた薬草を収納した隣室を軽やかに通り抜ける。
すぐの中庭へ出た頃には、フードを払い除け、口覆いも手袋も片腕に引っ掛けていた。
覆いを取り払った姿は少女であったが、今はただ、大人になるまでの狭間にいるに過ぎない。
歩みに合わせて、腰まであるダークブラウンの髪がゆるやかに揺れる。
身に着けているワンピースは、同じ象牙色でも柔らかな素材でできており、
空気をはらんで膨らんだ。
首には、先ほどの鍵と同じ宝石をあしらったチョーカーをしていた。
肌は白く、きめ細やかで、その白に映えるヴィオラの瞳が正面を見据える。
屋根のある部分から一歩外に出ると、光に晒されたそれは宝石のようにきらめいた。
空につき抜けた中庭。
青と白の幾何学模様のタイル。
目に映る水面と水音が涼を誘う。
中央には小さな湧き水があり、それを張り巡らせた水路が中庭を囲っていた。
木々はまばらに植えられ、
ちょうど陰になるよう丸テーブルの上空に生成色の布が張ってあった。
室内に慣れた目には布張りが眩しく映る。
ジャウハラと呼ばれた少女はわずかに目を細めた。
しかし、眩しさは束の間で、布張りがつくる陰の中へ飛び込んだ。
そこには食事が準備されたテーブルがあり、籐椅子が4つ置かれていた。
空席は2つ。ジャウハラは空いている籐椅子の背もたれに脱いだマントを掛けた。
「先生の声がしたと思ったけれど」
別の籐椅子の前に立っていた少年が口を開く。
「先生なら作ったそばから食っていって自室に戻ったよ。どうせ昼寝だぜ」
ダークグレーの髪は毛先がふわっとはね、
やや明るめのプラチナグレーの瞳が半眼になっている。
同じく象牙色で、襟ぐりが深く鎖骨の覗くシャツを着ている。
締まりのない格好に見えるが自由さが勝る。
「まあ、いつも通りさ。昼飯にしようぜ」
「今日は一緒だと思ったのに。残念だわ」
そう言って、ジャウハラは籐椅子に座ってテーブルの料理に目を移した。
「さ、召し上がれよ。
クスクスのタブレサラダにトマトの冷製スープ、アンチョビと泡卵のガレット。
あと、そっちにラービア農園の無花果を冷やしてある。
苦労して手に入れたんだ。残したら許さねえぜ」
所狭しと並ぶプレートを示していく。無花果は籠に入れて水路に浸していた。
先生の席に目をやると、プレートがないことが不在の証拠のように空白だ。
「美味しそう。いただきます」
「いただきます」
声をそろえたのは、別の籐椅子に座っていた少年だ。
胸元まで伸ばしたベージュブラウンの髪を黒橡色の細紐で結んでいる。
「ラービア農園の無花果なんて簡単に手に入らないよ。アズハールはいつもすごい」
線が細く、美しく整った顔立ちをしている。エメラルドグリーンの温和な瞳が陰の中で微笑む。
やはり象牙色の衣服だが、襟のあるシャツの着こなしに清潔さが漂う。
「だろ? 特別いいのを分けてもらったんだ。
こいつを手に入れるのに新作のアロマワックスをラービアの奴らにあげちまった」
「どんな手を使ったのかと思えば、ずいぶんいい物で交渉したんだね。
あれはどれも出来がよかった」
「本当。薔薇とラベンダーの精油の相性も好きだったわ」
アロマワックスは薔薇の花びらを蝋で閉じ込めたもので、精油を数滴垂らして使う。
寝所に置かれることが多く、よい香りが神経を落ち着かせる効果がある。
「仕方ねえよ。ナルジスもジャウもさ、飽きるまで無花果を食ってやろうぜ」
食後にナルジスの用意したミントティーを飲み、3人は夜の薬草摘みの話をした。
薬草摘みは一月前に行ったのが最後で、今夜は満月だからきっと特別な採取になるだろう。
くつろいだひと時の間、3人の首元は露わで、
アクアマリンのチョーカーが陰の中で三様にきらめいた。
日差しが強まり、気温が高まる午後。
大抵の店は扉を閉ざし、日暮れまで休憩をとる。
この時間、街は静かなものだった。
3人は盆に水差しとグラスを乗せ、おのおの気に入った場所へ向かう。
今日の店番はジャウハラだった。
そうでないアズハールとナルジスは煙草番と料理番だったために、
作業を要した彼らは汗ばんでいた。
湯浴みをするといって二人は浴場へ向かう。その後は昼寝と決まっていた。
ジャウハラは中庭の片隅にある寝椅子を休息の場所とした。
盆をそばに置き、グラスにミントウォーターを注いで咽喉を潤す。
ジャウハラがここへ来たばかりの頃、
アズハールはコーラルピンクの花びらのアロマワックスをくれた。
時が経ち、香りの弱まったアロマワックスにネロリとオーキッドの香水を噴き、
ナルジスの選んでくれたヴィオラ色のリボンを使って近くに吊るす。
クッションを手で叩いて膨らませ寝床を整えると、
快い香りと昼間の熱気がすぐに睡魔を招いた。
瞼が重くなり、意識が遠のけば、たちまち漆黒の睡魔が夢の底へ導いてくれる。
しかし、夢の底へ着く前に声がした。
「夕闇時に訪問者があるから覚えておくように」
夢の導き手は、わずかに開かれた瞼の隙間で見慣れた姿と溶け合い始めた。
「……はい、先生……」
ネロリとオーキッドでなく薔薇が香る。
「よろしい。ああ、咽喉が乾いた。ミントティーを飲みそこねたのか」
すぐ近くで水音がするのは、グラスに注ぐ音なのだろう。
薔薇の香りが一層強まったかと思えば、冷たく柔らかなものが額に触れた。
瑞々しいミントがほのかに香る。
遠のく足音を聞きながら、ジャウハラはようやく夢の底へ辿りついた。
夢の導き手は、アクアマリンの瞳にプラチナブロンドの長い髪、
山羊に似た白い角を持った姿に変容していた。
見惚れてやまない美貌に、ジャウハラは夢の中でさえ憧れを抱いた。
師は綺麗な人だ。
腰を隠すほどに長い髪はプラチナに輝く金色。
美しい瞳は澄み切った海を思い起こさせる水色。
顔に掛かる前髪を払うと、アクアマリンの宝石を並べたようになる。
『美貌』という言葉は師のためにあると思えるほどだ。
いつもシャツを一枚着て、背が高いからアズハールにもナルジスにもない格好よさがある。
性格は穏やかで細かいことは気にしない。
アズハールにしてみたら、ゆったりし過ぎて世話を焼きたくなるらしい。
そう言って、ずっと年上の師の世話を焼くアズハールは生き生きとしている。
アズハールは師が大好きだ。
一番弟子だから師と過ごした時間はナルジスより長く、こなすお使いの数も多い。
昼食の準備にしても、文句を言いながら本当は嬉しいのだ。
それから、私たちの身の回りのものはほとんどラービア農園から支給される。
食べ物は毎朝農園で受け取り、
店の裏手に煙草畑と薔薇園があるが、食べ物は作ってはいけない決まりだ。
衣服は飾り気のない象牙色でそろえられている。
衣服の色が同じなのはそういう理由だ。
商品の匂い煙草はラービア農園に卸し、一部は店で売るが、儲けはほとんど農園へ入る。
匂い煙草の他には花を搾って花精油にする。
顔や髪、衣服用の洗料は手作りし、材料はあらかじめ農園に伝えると用意してくれた。
オイルや特別な溶液は、手入れのためのもので、自分の手入れは自分でするのが基本だ。
ここでは身を整え、心と体を落ち着かせることが何より優先される。
共同生活と物作りはその一環だ。
二番弟子のナルジスは繊細な作業が得意で、髪を結ぶのも上手だ。
簡単に解けないやり方や髪が痛みにくい工夫を知っている。
師は髪を結ぶ手間を面倒がるが、ナルジスにせがまれて結ばれていることがある。
ナルジスだって、心から師が好きなのだ。
私はというと、養い親とここへやって来た時から師に魅了されている。
最初の夜に、不安な気持ちが落ち着くからと寝所にとっておきの花精油を焚いてくれた。
「まずは私に慣れてくれたらいい」
新しい生活に馴染むよう祈り合った後、シーツの中で抱き締められて眠った。
その時の、枕元のカンテラの火が照り映えた師の瞳は特別美しく輝いていた。
次第に不思議な安心感に包まれて眠りに落ちた。
翌朝には、むくれたアズハールと困り顔のナルジスに対面する羽目になる。
「昨日は、俺と一緒の日だったんだぜ」
「仕方ないだろ。ここに来たばかりなんだから」
「ナルジスはこいつの肩を持つのか?」
「そういう訳じゃないって。ねえ、アズハール!」
初めはこんな風だったが、仲直りをした証に例のアロマワックスをくれたのだ。
1年前の話だ。今ではずいぶん昔のことのように思えた。
陽が落ちる頃、アクアマリンを冠した鍵で店の扉は開かれた。
鍵に冠す石は、店主の瞳の色を合わせる慣習がある。
それは眼の役割を成し、二心を持つ者に『あなたは見られている』ことを伝える。
店番の者は椅子に腰掛け、やはり煙草は13本だった。
この内の13番には、遊び心が加えられており、外れ物であるが極上の贈り物でもある。
私はその秘密をまだ知らないでいる。
師の手から生まれる魔法が仕上げをしてはじめて、目の前の匂い煙草は極上品になる。
そう思いながら、次には訪れるという客のことを考えた。
ウルード煙草を店で買い求める者は、薔薇シリーズはもちろん師の愛好家と決まっていた。
そのため、ここで煙草を味わいながら師との会話を愉しむことを目的に訪れる。
客と師の会話は、鍵となる言葉が不明瞭なためにいつも謎々遊びに聞こえる。
不意に、夢の中に現れた山羊の角を生やした師の姿を思い出してしまった。
顔の知れない客もまた山羊となり、対面する彼らは謎々遊びに興じる。
彼らは勝負好きに違いなく、ジャウハラはフードの内側で微笑んだ。
その時、扉が開いた。ゆるんだ口元を慌てて引き締める。
「いらっしゃいませ」
来訪を知らせるために卓上鐘を鳴らそうと手を伸ばすと、客の手がそれを制した。
陳列棚越しに自分の手に重ねられた男の手。
緋色にきらめく指先から目が離せない。
驚くほどの速さでそばへ来ていた。
時間が飛んだ。
そんなものは錯覚だったけれど、足音がしただろうか。
「今晩は、宝石の娘さん。あなたに王の幸運の星が宿りますように」
「宝石の娘?」
男の言う通りに、ジャウハラの名前は『宝石』を意味するが、
今までそんな風に呼ばれたことは一度もなかった。
疑問の表情を浮かべていると、男はにこりと笑った。
それで張り詰めた糸が切れた。
息を止めていたことに気づき、店番をしていることを思い出した。
どうしてこんな風に警戒してしまったのだろう。
とにかく、お決まりの挨拶だとジャウハラは自分に言い聞かせた。
「……お待ちしておりました。あなたの下にもサダルメリクを」
客は笑顔を一層深くし、上出来と小さく口にした。
体を一歩引かせたが、相手に上背があるため見上げる形になった。
銀色の花十字――――その姿は王の使者と一目でわかるものだった。
足元まで覆い隠す白いショール。
そこから覗くのは柘榴の実を連想させる緋色に染めた手足の指爪。
浅黒い肌。
人工的に色を抜いた白い髪は、
はさみを入れることがないと言われるほどに長く、三つ編みにしている。
そして、銀色に輝く花十字の額飾りが何よりも確かな証だった。
額飾りの先でドロップカットの宝石が揺れる。
なぜ彼らがこんなところにいるのだろうか。
屋内なのに沙嵐が起こった。
沙を巻き込んで、正面から強い風が吹きつけるので思わず目を細める。
幻影だ。
実際はそよ風であったが、悪戯心を持った風はジャウハラのフードを後ろへ押しやった。
「その瞳、その顔。やはりそうだ。宝石の娘に違いない」
気色ばむ使者の様子に驚き、その双眸をまともに見上げてしまった。
オパールレインボーの瞳だ。
おぼろな虹が彩り美しく渦巻いていた。そこに月が浮かぶ。
三日月様になった虹彩から目が離せず、思考が停止する。
唇を重ねられると、スパイスの刺激と神聖な香りが被さった。
それを最後に、手足に力が入らなくなり、頭の中は真っ白になった。
体だけでなく心までも探られる心地に背筋が震えた。
けれど逃れたい気持ちと裏腹に引き寄せられてしまう。
自分の奥底に眠っているものをこじ開けられる、そう思った。
「どういうことだ」
その時、聞き慣れた声が頭上から降った。
普段は心地よいはずのそれは今、酷く冷やかだ。
唇が離れはしたが、体は抱き寄せられたままだった。
「勝手な真似をしてくれる。お前の耳に入るとは私もヘマをしたものだ。
扉を開ける役目を頼んだ覚えはない。弟子をそんな風に覗くのはやめろ。
いつまで触れているんだ。今すぐやめろと言っているんだ!」
「おっと、見目麗しき店主がお怒りだ」
おどけた言葉と同時に体がぱっと離れた。
その拍子に、現れたウルードはジャウハラを腕の中へ奪い返した。
薔薇が香る。
使者は両手を上げて降参の意を示すが、まったくの丸腰という訳ではない。
「あー、はいはい。そんな怖い顔するなって。だが睨んだ顔もそそるぜ。
なあ、呼び出したのはそっちだろ。今更な話じゃないか」
「今更も何もあるか。こちらの苦心が水の泡だ」
「苦心って、そんなに俺を避けるなよ。いいじゃないか、俺でなくともすることは同じだろ。
アルマーを前にすれば、早々に覗くのは当然」
使者は一旦口を閉じた。玩味して吐き出す。
「上等のアルマーなのは保証しよう。報告書もしっかり作ってやるよ。
だが最高級ではない。お前が入れ込んでるって噂だからどんなものかと思ったが今ひとつか。
他の弟子と変わり映えしないようだが、血に目が眩んでいるんじゃないのか?
いくら純血だからってより上をいく訳ではないってことだ。
とはいえ、役目を果たしてやったんだ。俺を喜ばせてくれよ。
神は無垢なものを、魔は洗練されたものを好む。俄然、お前が第一級だ」
ウルードは鼻を鳴らした。
「相変わらず図々しい奴だ。お前に私的な奉仕をすると厄介事にしかならない。
報告書は信用しよう。早急にやれ。夜までに書き上げる約束だ。
おかげでこちらの用は大変短い時間で済んだようだ。さっさとお帰り願いたい」
「いいや、せっかくだからすんなり帰るものか。言い値で煙草を買うよ」
「お前に売る煙草はない……」
「じゃあ外で13番を手に入れて本物を拝んでやる……」
険悪なやりとりは続いたが、閉じた瞼の向こうで聞こえる声は札遊びの駆け引きじみていた。
そして、ジャウハラは師の言葉を思い出していた。
師は『訪問者』と言った――――最初から客ではなかったのだ。
「ジャウハラ」
誰かが私の名前を呼んだ。
やや低音の快い男の声。
「ジャウハラ」
もう一度、名前を呼ばれた。
今度は明るく穏やかな女の声だった。
「誰?」
ジャウハラは目を開けて確かめようと思った。
けれど、瞼が重くて開けることは叶わなかった。
目の前は真っ暗だったが、こちらへ言葉が投げ掛けられる。
「何して遊ぼうか。花の輪を作りたい? いいね、あの赤い花を冠にしよう。
小さなお姫さまには綺麗な花冠が似合うだろうから」
繋いだ手の感触。
ともにする時間を心から楽しんでいることがわかる笑い声。
「白チーズのペストリーを焼いているのよ。まあ、お手伝いしてくれるの。
一緒に作ったらうんと美味しくなるわ。出来上がりが楽しみね」
頭を撫でられる感触。
そばにいることが幸せで仕方ないということが伝わる温もり。
二人がとても大切な人だとわかるのに、誰なのかどうしても思い出せない。
「だぁれ?」
舌足らずの甘えた声がした。
小さな子どもの声だ。
驚いたことに、その声は自分の口から発せられた。
「この花は母さんの瞳みたいだ。母さんが魔法を使えば、赤い三日月が浮かぶんだよ。
体に障るから滅多に使わないけれど、いつか見られるといいね。とっても綺麗なんだ」
「そっちのオイルは触っちゃだめよ。気になるのはわかるわ。オイルのボトルが綺麗だものね。
香りをみたいなら、父さんがいる時にしてちょうだい。いい匂いに触れるのはいいことよ」
そうだわ。
あの低い声はお父さん、明るい声はお母さんだ。
二人のことを思い出した瞬間、重く閉じられた瞼がぱっと開かれた。
目の前はもう暗くなかった。
それなのに誰の姿もなかった。
ただ、そこに『いた』という空気が漂っている。
姿がないのに声だけが遠くから聞こえた。
「まさか、嘘だろ。この子もアルマーなのか。
それじゃあ、この先この子に不幸が降り掛かるっていうのか」
「まだこんなに小さいのに可哀想だわ。
これからの成長を見守ることもできないなんて、そんな」
さっきまでの楽しげな様子から一変し、予期せぬ出来事を知った者たちは苦悩する。
ぼんやりと、幼い頃に住んでいた家を思い出した。
「すまない。これ以上は一緒に暮らせないんだ。
ジャウハラのためには、どうしても離れていなければならない」
「ごめんなさい。方法が見つけられなくて不甲斐ないわ。
あなたが大きくなるまで一緒にいたかった。ジャウハラ、ずっと健やかにありますように」
「元気で。必ず戻ってくるから……」
「いい子にしているのよ……」
声はかすみ、急激に悲しい気持ちが膨らんだ。
お父さん、お母さん、今どこにいるの? 今も生きているの?
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