温室-4 Sleeper under the moon / Destiny
艶 を 纏 う 獣 に 抱 か れ 終 わ り な き 運 命 は 夜 に 帰 す
クロードが薄目を開けると、目の前がにじんでいた。
とても長い夢の中にいた。
身体が重く、ぐったりとしている。酷い疲労感だ。
けれど頭は冴えていた。ぼくは約束を、マスターと交わした約束を思い出した。
大好きなマスター。ぼくのマスター。ぼくのために悪夢という果実を実らせたマスター。
夢主の肉体が滅びゆく情景が浮かぶと、心が歓喜してやまない。
その果実をもぎ取る代わりにぼくは君に快楽の夢という贈り物をした。
他愛のないキャンディの夢とは違う。とっておきの贈り物。
喜びに心が奮えたが、同時になぜか胸が締めつけられる感覚に襲われた。
「やあ、お目覚めだな。加減はどうだい?」
頬に手が添えられていた。その手が濡れているのは、ぼくの頬を伝う涙のせいだった。
「おかえり、クロード。いいや、私のオネイロス」
語りかける黒頭巾が涙を吸い、そのまま唇を這わせて瞼にキスをした。
ぼくは黒頭巾に抱き寄せられていたため、顔を覗き込まれる形だった。
驚くだけで手応えのないぼくに小首を傾げてみせる。すると、あることに思い至ったようだった。
「ああ、忘れるところだった。君はまだ十分に熟していないのだったね。
一角獣の姿をした君は美しいが、制御できている訳ではないようだ」
黒頭巾の言葉を頭では理解できなかったが、そうであることを身体が知っていた。
「私の名はニュクス。夜の使者であり、夢を喰う者、金眼の獣、放浪を性とする民とも呼ばれる。
そうだな、自ら名乗るとすれば『Lilith』だ。私を、そして君をも示すもの」
そう言って頭巾を後ろへ押しやると、深緋の髪がなびき、鮮やかな金の眼が光った。
艶然と微笑む美しい造形に中に獣の匂いがする。ぼくと近しい匂いがひそんでいる。
「さあ、お愉しみの時間だ。"Festa" の続きといこうか。
君のマスターには覚醒が訪れた。だが、舟はいまだ岸の傍にある。
獲物を乗り替えれば事足りるだろう。
怖がることはないさ。"Festa" は苦痛を伴うが、やがてそれは快へと変わる」
ぼくらは古びた部屋の中にいた。
手足に力が入らず、ぼんやりとした感覚に囚われていた。
月明かりもカンテラもなかったが、辺りは淡い光に包まれてほのかに明るかった。
きっと湖面は、時が止まったように凍てついていることだろう。そうだ、ここは例の古城だった。
「ヒュプノスの奴が邪魔立てしなければ、今頃は君も無意識を超越し自我を得ただろうに。
手痛いとはいえ、ヒュプノスの失態ほどではない。あれをご覧」
ニュクスは正面を指さした。すると、その先の壁の一面が照らし出された。
壁面の中程に植物が集中して塊となっている。
よく見ると、塊は人型を為し、頭部らしき部分から切れ切れの吐息が漏れた。
それは磔にされた男だった。
ヤドリギが壁全体を覆いつくしている。
蔓は巨大な生き物の触手と化し、男の身体を拘束していた。
粘り気のある液体が黒光りしているのかと思えば、所々に血痕が付着していたのだ。
男の頭から血が滴り、無数の生々しい傷が見て取れた。
「ヒュプノス……!」
思わず叫んだ言葉に再び驚き、両手で自分の口をふさいだ。
僕が編んだ夢を破壊し、過去を暴いた張本人。
けれど、ともに旅をして生きる術を仕込んだ同族。
そして、薔薇の下で真実の名前を語り、ぼくに甘美な夢をみせた男。
ヒュプノスという仮称を名乗る男は、今まさに磔の状態で虫の息にあった。
「馬鹿な奴だ、クラウディオスの罠にはまったか。あの優男は己の中に蛇を飼っているからな」
その言葉に磔の男は垂れていた頭を上げ、口の中に溜まった血を吐き出した。
「…くそっ、お前も手を貸しただろう…甘いのは夢の中だけか」
「今のは褒め言葉と受け取らせてもらおう。私としても "Festa" を続けさせたかったのだ」
「へぇ、そうかよ……」
「お仕置きは存外悪いものでもないが、口が悪くなるのは余裕のない証拠だ。死ぬなよ」
「…?何のことだ……っ!」
その時、odd-eyesがぶれて焦点を失った。
蔓の締めつける力が強まったのだ。
短い叫びの後、ヒュプノスの意識が飛んだ。頭が力なく垂れ下がった。
「ニュクス、おしゃべりはお終いだよ。君とはいえ、手出しは許さないからね」
蔓に紛れて、首に影が絡まっている。
黒く透けるような影は収束し、たちまち質感を増していった。
「私の女神を盗んだ代償を払ってもらうのだから。高くつくことを承知の上だろう」
影が成した手はそれ以上締めつけることをやめたが、形作った姿に呼吸を忘れた。
殺意を抱くとも、魅せられずにはいられないものが目の前にあった。
ほのかな明かりでは判別できないが、その髪はセピア色だ。
すらりとした後ろ姿。振り返る動作にともない、眼帯の金具が鈍い光を反射した。
目を細めて笑みを向ける者は彼でしかなかった。
ヒュプノスの編んだ夢に現れた存在とは全く別物だ。ぼくの知っている気配と同質のものーーーー。
「ディオス、あなたは死んだはずだ」
彼の形のよい唇の両端がつり上がると、空を抱き締める動作をした。
気づくと私の身体は彼の腕の中にあった。
「私は死に抱かれた。だが、ここに存在するのも事実。
クロード、すまなかった。君には随分寂しい想いをさせてしまったね」
ディオスは額にキスの雨を降らせた。優しくも冷たいキス。
歓喜に奮えてやまない。抑えようのない感情が溢れ出す。
信じられなかった。瞬きもできず彼を見上げる。どうなっているの。
「彼だよ。君の記憶の影響を受けたせいか、巧いこと老いた殻を脱ぎ捨てたようだ。
意識体の残滓で生者の身を乗っ取ったのだろう。どいつの身体を使ったのかな、それ」
後方で言葉を放つニュクスがさっと手を払うと、ディオスの姿が揺らいで別の形を成した。
鍛えた肉体と翠緑の鋭い目つき。極彩色の羽根が広がり、青藍色の多数の眼が胸の奥底で揺らいだ。
「学者女ではないな。とすると、こいつは子飼いの孔雀とみた。飾り羽根で女を誘うつもりか」
「ご名答。君に対抗し、"Viola" の毒気に耐えるには、これ以上ないだろう」
「人間ごときがおかしな業を身に着けたものだ」
「謎掛けの賜物といったところさ。
君と付き合っていれば、人間離れした技も身に着くのも当然だろう」
「"Viola" の特性を理解した者でなければこうはいかない。いいセンスだ、強く美しい」
「ご光栄に預かろう。ご褒美は、この子の唇」
硬直した身体を解きほぐすように、ディオスは唇と舌で熱を生み出した。
甘い吐息と吐息が重なる。その息継ぎの間に囁く。
「お前の全ては私のものだ。過去も未来も永劫に。勝利の杯は私にある」
ディオスは抗い難い力でぼくを押し倒した。
薄暗い中で天蓋を見ていた。
見ていたというより、それ以外のものを見ないために天蓋を凝視していた。
ここは私に与えられた屋敷の一室だった。
それは私を閉じ込めるための檻を意味していた。そう、とても綺麗な檻。
檻の中は、母の元にいるよりもずっと居心地のよい場所だった。
彼に支配されることに、これ以上ない喜びを感じた。
けれど、それも今この瞬間が訪れるまでのお話。
私の身体は寝台に押し付けられていた。
体力の尽きた身体を弄び犯すのは見知らぬ二人の男だった。
扉口には美しい風貌の女性がシガレットを吸っている。
苛立ちならがも、時折こちらへ視線を向ける。
その瞳は、忌み嫌うものを見る不快さも優越に浸る喜びも隠しはしなかった。
枯れた咽喉は言葉を為さない。お願い、助けて。お願い……。
この後に起こる出来事を私は知っている気がした。
髪を乱暴に切られる。咽喉を潰される。眼球を繰り抜かれる。
そんなことはいいの。どんな酷いことをされても彼が来てくれるなら。
ついに男達は鋭いナイフを向けたが、それは弾き飛ばされた。
そうだ、彼は来てくれたのだ。
涙で霞んだ先で、彼は男達を骸にし、泣き崩れるシャウラの胸に刃を立てた。
「もう大丈夫だ、安心しなさい。クロード、愛しいクロード。私の女神」
気づくと、彼の腕に抱かれていた。
夜ごと待ち望んだ温もり。
そうだ、そうだった。
彼、ディオスは来てくれた。どうしてあんな酷いことが自分の身に起きるなんて思ったのだろう。
彼がいるのに、死にたいだなんて思うはずがなかった。
死にたい?そんなことを私は思ったかしら。
私は絶望して、死にたくて、どうしても消えていなくなりたくて。
だから、彼はすべてを忘れさせてくれると言った。安らかな死を捧げると。
いいえ、違う。彼は、彼は……!
目の前で私に触れて抱くのはディオスだった。けれど、本当にそうだったかしら。
わからないわからないわからない。
涙が止まらない。血の混じった赤黒い涙。頭の中は混乱状態に陥った。
ああ、ディオスは来てはくれなかった。助けてはくれなかった。
私の叫びに応えてくれたのは彼よ、ロワ……!
ロワ・エヴァレット。
それが彼の真実の名前だった。薔薇の下で明かした名。
「ぼくの記憶に干渉するんじゃない!」
叫んでぼくはディオスを突き飛ばした。
男の腕から逃れ、燃え立つ怒りの矛先を向ける。
拒絶された男はしばし空を見つめたが、軽く瞼を伏せて息を吐いた。
「もう1度だけ私に身を任せてくれないか?
私は悔いているんだ。君とあの日をやり直したい」
「だめだ、あの日を変えることはできない!」
「どうして。そんな困らせるようなことを言わないでおくれ。
よく考えてごらん。私達になら可能だよ、さあ」
ディオスの言葉は魅力的だった。心が、従うことを欲している。
差し出された手を見つめていた自分に気づき、精一杯目を逸らした。
「だめなんだ。ぼくはもうあなたを信じることができない。
シャウラをけしかけたのはあなただろう。ぼくは知っているんだ。だから、だめなんだ」
身体が小刻みに震えている。それが怒りのためか哀しみのためか、わからなかった。
両腕で自分自身を抱きしめるけれど、震えは止まらなかった。
「シャウラのことは否定はしない。しかし、それは今の君を手に入れるためだった。
女神の君を手に入れるためには、避けられない道だ。君が欲しかったのだ」
「違う!」
「無理に否定することはない。もう君を悲しませたりはしないよ。
君はこうして私の元へ帰ってきた。君の本心は私を探し彷徨い、ここへ辿り着くこととなった。
もう苦しむ必要はないんだよ。さあ、おいで」
「違う、やめろ!」
「おいで、クロード」
「……!」
「ディオス、これまでだ」
古城の景色は消え去り、隙間なく敷き詰められた薔薇の首の絨毯が広がっていた。
元より太陽も月も星もない。闇がどこまでも続いている。
「しつこい男は嫌われるぞ。これ以上の無理強いは興味がない」
ニュクスはディオスの背後に立ち、その肩に手を置いた。
すると、生身の身体は力なく薔薇の上に倒れた。本来の身体の主であるシェダルフの姿をして。
ニュクスの手はいまだ彼の肩に置かれていた。
そこからぼんやりとした黒い靄が立ち昇っている。背後の闇をゆらめかす不穏な靄だった。
見開いた瞳は、真っ直ぐにぼくに向けられたままだ。その瞳の色は虚ろ。
「この男はしばしの間、私が引き留めておこう。君はあの子の元へ向かうといい。
"Festa" の決着はな、あの子にやるさ。早く行くんだ」
ニュクスの片手が伸び、ぼくの両の瞼を下ろさせた。
その声は遠のき、夜色の幕が幾重にも降ろされてゆく。
「私はかねてより疑問に思っていた。なぜ、我々は種族間で繁殖できないのか。
人間の身体を借りなければならないなんておかしな話だ。
私はね、女にシフトしたリリスが見たかった。だがその試みは」
そこで意識がふつりと切れた。
ヤドリギが蔓延っている。
いやないやなヤドリギ。ぼくらを捕らえる寄生種。
見開いたぼくの視界には、寝台に眠る者と刃物を持つ者の姿が映った。
ここは凍てついた古城でも終わりのない闇の世界でもなかった。
グリフィス家のお屋敷。ぼくが最後の棲家とした、静寂に沈んでいたはずの場所。
そこはヤドリギが支配する部屋に様変わりしていた。
そして、今まさにオブシディアンの黒色の刃物が、
寝台に眠る者の心臓を突こうと振り上げられたところだった。
「やめるんだ!わっ」
駆け寄ろうと足を踏みだした時、床に転がっていた何かに足を取られた。
蹴つまずいた何か、うずくまったシェダルフを飛び越える。
幸運にも、刃物を持った『彼女』・ジオットはシェダルフに気を取られたらしかった。
その一瞬にワイヤを放ち、ジオットの腕に巻きつけたため彼女は動きを止めた。
彼女の眼は落ちくぼみ、酷くやつれている。
憔悴しているだけに、瞳の強い光がぎらぎらと主張する。
距離を詰め、動かせずにいる手の中の刃物を叩き落とす。相手の胸を強く突いて押しのける。
そのまま後ろめりに倒れると思われたジオットは、しかし倒れなかった。
とてもいやな感じがする。不穏な空気が身体に纏わりついている。
凶暴な瞳がぼくを見据えた。黒い靄が彼女から立ち昇っている。その手に刃物が握られていた。
「「盗人は死で贖わなければならない。私は "Lilith" を殺した初めての者となるだろう」」
ジオットの瞳が声が姿が、ディオスと重なった。
「「彼には死んでもらう」」
「わああああああああああ」
耳鳴りの向こうでぼくの叫び声が聞こえる。ぼくは加減なしにワイヤを放った。
幾筋のワイヤは形を変え、金色の束になった。
燦然と輝く金色の剣となって、彼女であり彼である身体を打ちのめした。
ぼくの剣はガーネットのような火を宿してはいない。
けれど何より強く硬いダイヤモンドでできている。
ディオスの残滓を打ち砕くのにもってこいなんだ。オブシディアンの刃物が砕け散った。
ジオットの身体は後方へ倒れ、黒い靄が彼女の上に渦巻いた。
「悪あがきはここまでだな。君は駒切れ、もう手詰まりさ。
勝利の杯はディオス、君のものではなかった。あの日に、すでに決まっていたことだ」
渦はディオスの姿を形作った。空虚な瞳がぼくを見つめる。
現れたニュクスは、ディオスの手を取り、指を絡めた。
「捕まえた。ああ、ようやくこの時が来た」
対照的なニュクスのうっとりとした眼差し。酷く興奮しているのが見て取れる。
「クラウディオス、君は蛇だけでなく悪夢をも飼い慣らしていた。
リリスの素養があったものの我々の同胞には成り得なかった。
しかし興味深いことに、君はクロードという少女を女、つまり女神にしたいと考えた。
成功すれば、勝利の杯は君のものだった。その夢は潰えた」
言葉を紡ぎながらディオスの胸に両腕を這わせる。
「しかしだ、これはいい。なかなか好く出来上がったものだ。
流石は私が見込んだ男だ。最高の男になった。私の夢を叶えてくれる」
ディオスの顎を捕らえ、深く呼吸を奪うキスをした。呼吸があるとすればだけど。
その後でぼくに言葉を投げかける。
「続きは可愛いオネイロスには見せられものじゃないな。
知っているだろう、"Lilith" はみな死にたがりの罪を負っている。
この男はね、人間でも "Lilith" でもないものへ成り代わってしまった。
"Lilith" を殺した初めての者とは、真実となるだろう。
だから夜の許へ帰すよ。この意味がわかるだろう、さよならだ」
満足な笑みを浮かべる。獣のそれは艶を纏い、ぼくを魅了した。
「カト、ようやくあなたのもとへ行くよ」
ニュクスの最後の言葉とともにぼくの魅了も解けた。
寝台に眠る者の気配は絶え絶えだった。
その者を宿主とし、身体から発芽したヤドリギは、皮膚に根を下していた。
血管状になった様は毒々しい。
果実を切り裂くと粘液質の糸を長く引き、飛び散った粘液が顔に張り付いた。
けれど構わない。ぼくは夢中で剣を振った。
「ロワ!飲み込まれちゃだめだ!」
ヤドリギを切り払い、ロワの頬に手を寄せる。
「ぼくを置いていくなんて許さない!蝶の仕掛けをまだ教えてもらってない!」
ロワの頬に涙が落ちた。涙が溢れて止まらない。ぼくの涙。
「……うる、さい」
わずかに見開かれた眼は色を失い、血紅も銀世界もなかった。ただの無色の結晶だ。
「ロワ!」
「喚く、な……せっかくの極上、の悪夢を、見てたんだ。邪魔する……のか」
「嘘つき、あんな悪夢が極上なものか」
「嘘じゃ、ない。一度死んだ身だ……それを嘆くなんて、馬鹿げてる。
"Lilith" に相応しく、ない……それにしても、酷い顔だ」
そう言いながら、ロワは涙でぐちゃぐちゃになったぼくの顔を愛おしそうに撫でた。
「無様、」
「いいんだ。よかった、間に合ったんだね」
ロワの頭を両腕で包み込み、キスをした。悪態をつくのは大丈夫な証拠だ。
「今度は……何の真似だ」
「ヤドリギはいやな奴だけど、この下ではキスをすることが許されるんだよ。恋人達にとってはね」
「勝手な奴……恋人のことなんて、すっかり……忘れて、いたくせに」
「許してくれるだろう」
「……ふん」
ぼくはロワを思い切り抱きしめた。
そして夜想の調べを口ずさむ。歌を聞いたヤドリギは消滅へ向かう。
夜の内にヤドリギは全て枯れた。
ぼくらは夜の淵で遊ぶ。ともに甘美な夢をみるんだ。
"Viola" の雨が降る。口に含めば甘い蜜の味のするそれは流れ流れて湖を作る。
翼も、角もさらす。角には小さな白い花が咲いた。ヤドリギが残したものだった。
"Festa" の痛みが心地よいものへ変わってゆく。
ヤドリギの花が少しだけ可愛らしいと思えた。
薔薇園の温室に青年がいた。
花の女神を描いたレリーフベンチ。その肘掛けにもたれてうたた寝をしている。
かつての陰りは薄れ、健やかな肌の色をしている。
絹のように細く滑らかな金髪が頬にかかっていた。同じ色の睫毛は伏せられている。
車椅子はもう必要なかった。自由な手足には生気が溢れている。
「マスター」
瞼の裏に人影を感じ取った青年は、静かに瞼を開いた。
ローヤルブルーの瞳が不思議そうに辺りを見回した。辺りに人の姿はない。
「元気になって安心したよ」
微かな風が鼻先をかすめたかと思うと、すぐ近くで硝子の割れる音がした。
すると、数頭の蝶が視界に現れた。それは唐突だった。
「 "No Secret Trick" 」
羽ばたきの気配がした。蝶ではなく、骨格を持つ生き物の羽ばたきだ。
見えないが、何かが確かにそこにいる。
「さよなら」
懐かしいもの。ずっと傍にいたのに、忘れてしまったもの。
お別れなんだね、青年はそう口にしていた。さよなら、と。
不思議なことに、満ち足りた空気がその場に漂った。
温室の中を午後の金色の陽光が射していた。
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