温室-1 Sleeper under the moon / Lilith


冥 き 果 実 を 齧 っ た 愚 者 は   何 れ 嵐 を 連 れ た 隠 者 と な る


我らの神になるため貴女は生まれた。
奴らは恋焦がれるように言ってひざまずいた。
事の始まりを思い出すと、いつだって酷い気分になるものさ。
この世界には昼と夜とがある。私は夜に生きる定めだったんだろう。
この世に誕生したのも夜、覚醒を遂げたのも夜――――そして死する時もまた。

あれはまだ恋も欲情も知らなかった15の時。私は一人きりで夜道を歩いていた。
夜間の薬草採取は稼ぎがいい反面、村のみんながやりたがらない仕事だった。
日の沈んだ森は道に迷いやすく、獣と遭遇する危険があった。
その危険は獣だけでなく人間に当てはめることもできる。
黒頭巾の男たちは、夜陰に紛れて村に侵入し、抵抗する間もなく私を故郷から連れ去った。
意識を取り戻したのもやはり夜だった。
灯りのない部屋で簡素な寝台に横たえられていた。起き上がると痺れるように頭が痛い。
辺りを探ると、側の小卓にグラスの水が一杯と、
暗闇に仄かに浮かび上がるテンダーピンクの薔薇が一輪。
最後の光景を思い出せば、攫われたのだとわかった。水を飲んでよいものかためらった。
カシャン。暗闇で錠の音がした。キイと扉が内側に開く。
近づいてくる灯りを持った人物。身体つき、足音から男のものと知れる。
開かれたままの扉口には男がもう一人立っている。
私は怯え、寝台の上で身を固くした。逃げ場などなく壁に背をつけた。
敵か味方か?そんなもの敵に決まっている!
ついに男が目前に迫った時、覚悟を決め目をつむった。
自分で驚くほど大きく肩が震えた。その肩に男は触れた。まるでなだめるかのごとく。
「目が覚めたんだな。具合は悪くねぇか?」
恐ろしい言葉を予想していた。無骨だが気を遣った声色、大きな手。私は目をしばたいた。
「怪我をしてたから放っておくわけにもいかねぇでな。勝手だが手当させてもらった」
カンテラに照らされた自身の手に包帯が巻かれていた。気づかなかった。
男は聞き慣れない言葉遣いをしていた。落ち着いた動作に私は冷静さを取り戻した。
攫われたのは間違い?自分の記憶を疑い出した。けれど部屋には鍵が掛かっていた。
「だがまぁ、具合が悪くねーならさ」
男は両肩をつかんで私を寝台に押しつけた。優し過ぎる猫なで声。
私の両手首を片手で捕え、馬乗りになったかと思うと無遠慮に身体をまさぐる。
手足に力が入らず、震えて声が出ない。
「おい、祭司様の言付けを忘れたか。修養が足りないぞ」
男の手が止まり、扉口を睨みつける。
「いいだろ、最初からそうだったと言えば済む。
可愛い顔をしてるぜ、そうじゃねー保証なんてないだろ」
「そうかもしれないが判断するのは俺たちじゃない。
怪我のことだってある。今の状況ははっきり言って、悪い」
頭上で舌打ちして、あーそうですかと言う声。それでもしぶしぶ身体から離れた。
「せいぜいいい夢でも見るんだな!」
再び錠の音。立ち去る足音は一人分。
「俺の言葉なんて信じられないかもしれないが、そこにある水に妙なものは入ってない。
喉が乾いたろう。明日、食事も持って来よう。おやすみ、安らかな夢を」
そう言って、足音は遠のいていった。
部屋に静寂が戻っても、私は眠れない一夜を過ごした。
彼らの言葉を信じられるはずもなく、水も飲みはしなかった。

夜が明けると、世界が一変してしまった。
知らない土地にいることが肌で感じられる。
近隣の村ではない。風が森が違う、出されて手をつけなかった食べ物も幾分異なっていた。
言葉も。意味は何とかわかるけれど、発声がどうも違うようだった。
身支度といって髪を梳かされた。梳るのは昨夜私を犯そうとしたあの忌々しい男だった。
触れられるだなんて鳥肌が立った。ましてや唯一誇れる長い髪に。嫌だった。
長い時間を感じた。その間ずっと無言だった。真っ白な衣服を着るよう命じられた。
躊躇ったが無言の催促に観念して、抵抗として背を向け着替えるが男の視線が痛い。
「まったく、いい身体してるぜ。昨晩は悪かったな、ついムラッときちまって。
はー、俺も焼きが回ってんな。こんなガキとヤらなくて正解だったぜ」
身体のことしか頭にないのね!腹立たしい気持ちのままに後ろを振り返ろうとした。
そんな近くにいるなんて気づかなかった。抱きすくめられて息が止まるかと思った。
「柔らけぇ。女の体ってのはいいもんだな」
口の悪い男。思いの外、触れ方は優しく、屈強な身体に包まれるのは悪い気はしなかった。
大の大人のくせに、子どもみたいだわ。でもそんな気持ちは一瞬で消えた。
両手を縛られ、首に縄を掛けられて移動を強要された。
別の部屋へ連れて行かれた。祭司様の部屋へ行くのだと言った。
柱廊を渡る時、湖が見えた。この建物は湖の畔にあるのだ。
眩しいくらいに白い部屋だった。奥の椅子に座る男が『祭司様』なのだろう。
隣に佇む男が口を開くと、昨夜の男だと知れた。鋭い眼光に身がすくむ。
「進め。祭司様の前で両足をつけ。頭を垂れろ」
背後の男が命令する。命ずるままに進んだが頭は垂れなかった。祭司を睨みつける。
「カト、乱暴な物言いはよしなさい。怯えているではないか」
「どこが?」
「怯えた動物は威嚇してみせるだろう。それと同じことだ。それはさておき」
司祭が私の頭を両手で包み、目を覗き込んだ。聞き取れない言葉を紡ぐ。
いつの間にか、力の抜けた両腕がだらりと床についていた。
抵抗する気力が起きない。私の心を覗かれている。土足で入り込んではすべてを覗く。
嫌よ。やめてやめてやめて……時間の感覚がなくなった頃、祭司の目が見開かれた。
「こ、これは夢告げの通りだ」
祭司は己の言葉に驚愕して立ち上がったように見えた。声だけでなく手足も奮えている。
「セネカ、お前が見出したのだったな。なんと、なんと、熱望した娘がようやく現れたのだ」
私の身体は自由を取り戻した。解放と同時に横向けに倒れ込み、セネカと呼ばれた男が抱き止めた。
祭司の一番近くにいたのが彼だったから。特別な理由はなかった。
「我らが女神、夜の女王……」
わななく祭司が口走る。私の生まれた年、巡った月日。言い当てたことにぞっとした。
「我らの神になるため貴女は生まれた」
熱情に奮える男たち。どうかしてるわ。霞んでゆく頭で思った。
こんな集団の中で私は一体どうなってしまうの?

女神様。女神様。我らが夜の女神様。
彼らと過ごす日が積み重なってゆく。
毎日野の花が届けられた。時には木の実であったり、髪飾りであったりもした。
同時に添えられるのは賛美の数々。中にはこちらが赤面する愛の言葉と受け取れるものもあった。
村に女の姿はなく、男らだけで共同生活を営んでいるようだった。
女神って、彼らの偶像になるってこと?そういった異教徒の話を聞いたことがあった。
貧しい暮らし。特別望まれたわけでもなく、兄弟の世話をして毎日毎日。あの頃が嘘に思えた。
ここへ来たばかりの時と大違い。慈しみを持って扱われるようになった。
私の姿に気づき、セネカが走り寄ってきた。
「女神様、貴女にこの花を捧げます。可憐なところが貴女に似ておいでだ。
どうかお受取りください」
彼のひたむきな心を感じる。知的で熱烈な彼をどうして恐がったのだろう。
「調子乗ってんじゃねーぞ。セネカにときめきやがって」
髪を梳かす作業はあれから変わらずカトの役目だった。
「セネカはあなたと違って優しいわ。なんて綺麗な花、私みたいですって!」
窓辺に置いたアイリスを見つめてうっとりとした。鏡越しのカトは冷めた目をしていた。
「あいつ、お前を人間として見てない」
あいつに限ったことじゃねぇが、と呟く。
「女神になるってのは死ぬんだよ。殺されるんだ、わかってんのか?
ちやほやされていい気になってよぉ。儀式の日が楽しみだな、おい」
梳かす手を止めて、顔をわざと鏡に映してカトはいやらしく笑った。
「……っ!わかってるわよ!言われなくったって、そんなこと……!
いいじゃない。少しだけ夢を見たって。そうじゃないって思わせてよ!
嫌よ!こんなところで死ぬなんて、嫌に決まってるわ!儀式なんてなくなればいいのに」
最後は泣き崩れてしまった。まやかしも壊れてしまった。
「バカが」
力強く抱き締められた。せっかく梳かした髪が乱れてしまう。
「俺だけの女神になれよ……リディ」
一緒に逃げよう。カトはそう言った。
そして私たちは逃げた。逃げて、捕まった。"The Reality Is Such A Thing.現実とはそんなもの"
「カトは牢の中だ。修養の浅い奴だから仕方がない。
罰を受ければ己が行うべきことに気づくだろう」
セネカは言った。髪と梳かす作業は彼の役目となった。
「カトの奴と逃げようとするなんて酷い仕打ちだ」
切ない声で赤銅色の髪を一束手にして口づける。
「我らがいるのになぜ?こんなにも想っているのに。貴女は残酷だ」
男は目の前にいる私を見ていなかった。私の背後にある女神の幻想を視ている。
私は唇を強く噛みしめた。血が出ていることに気づかないくらい強く。

私の16の誕生の夜、儀式が行われた。
カトに会えず終いだった。でも生きていればそれでよかった。
沐浴、地下の礼拝堂、頭を垂れる黒頭巾、燭火、女神の像、
燃えるように咽喉を焼く酒、炎を映す短剣。
生贄、という言葉が頭に浮かんだ。短剣を握るのは、恋し陶酔した様子のセネカ。
祭司が告げた。
「死を恐れる事はない」
真夜中の訪れとともに私はあっけなく死んだ。そう思った。
再び目覚めたのは夜。
空腹を感じた。それは生きている証拠だった。けれども酩酊した感覚。
誰かが私の顔を覗き込んでいた。暗闇だったが、男の顔や光る目がはっきり見て取れた。
男に抱え込まれていた。間近に迫る顔。熱を帯びた浅黒い肌。差し出された黄金の林檎。
ああ、これで空腹が満たされる。一口齧ると蜜が溢れた。頬がとろけるみずみずしさ。
甘い果実を食べ切っても足りず、男の指に残った汁を貪るように舐めた。
「ごめんな、リディ。ごめんな……」
男は黒い薄絹を纏っていた。身体の在り様が透けて明らかだった。私も同じような恰好をしていた。
うわ言を理解できず一層の空腹を感じた。無意識に辺りを見渡した私は男の存在に思い至った。
熱っぽい目、奮える唇、脈打つうなじ、厚い胸、引き締まった腹……蜜はどこ?
探るように喰らいついた。
心臓の音。喘ぐ声。心地よい刺激。飢えた感情を抑制できなかった。
男の精が果てると、朦朧とした意識の中で私は立ち上がった。
すべてを喰い尽くすのは今じゃない。だって芽生えたばかりの甘美な悪夢の匂いをさせているもの。
腹を満たすものを求め地上へ出た。幾人もの寝処を探し彷徨ったけれども満たされない。苦しい。
どうして、どうして。心の中で叫びながら、男達の精も魂も喰い尽くした。
結局、望み求めるもので満たすことができず、元の場所へ戻っていた。
祭壇のような台座に女の死体があった。なぜかこの女の名を知っていた。

Lydie・Isola・Los・Insana・Taylor・Hill.

長ったらしい名。"Lilith" でいいじゃない。その方が呼びやすいわ。
やけに羽音がすると思っていたら、翼が揺れていたのだ。それは自身の背に繋がっていた。
巨大な姿見に自らの姿を映し出した。こんな翼、生えていたかしら。首を傾げた。
薄明を迎える前に村を飛び去った。
仄かな甘い匂いを頼りに、悪夢の飼い主にようやく行き当たった。
闇夜を渡って枕元で蠱惑の囁きを繰り返す。満腹感を得るたびに "Viola" が増えていった。

再び村に辿り着いたのが、いつだったか忘れてしまった。
曖昧な意識の中でただ悪夢が成熟したことを知った。
待ち望んだ果実を摘み取る期待に胸を膨らませる。
礼拝堂の祭壇にしがみつく者がいた。彼が私の名を呼んだのだ。
廃村という言葉が相応しい場所で襤褸を纏って涙を流し、祈りとも呪いともつかぬ言葉を吐き出す。
「もう苦しむ必要はないのよ。あなたの心を苛む悪い夢は私が喰べてあげる」
両頬を挟んで、閉じた瞼にキスを降らせた。老いて乾いた浅黒い肌。
「魅惑的な楽園へ行きましょう」
彼に幸福な夢を見せた。意志を分かち合う仲間との生活。出合った女性。
夢見た未来。叶わなかった現実。悔やんだ年月。抜け出せない絶望。
夢の内で心を侵し、夢の外で体を犯した。ついに精を奪い、死をもたらした。
三日月の下で青白い頬にキスをする。
そうしながら、頭にかかった靄がたちまち晴れてゆくのを感じた。
「貴女は残酷だ」
私は震える手で彼の頬を撫でた。とんでもない人の夢を、命を喰ってしまった。
"Lilith"(わたし)という化け物が生まれた日のことを思い出した。
セネカが放った言葉がわたしの胸に突き刺さり、カトの骸に降りそそぐ。
人気の途絶えた礼拝堂で、私は哀しみに打ちひしがれた。
あれから、性交渉を行っても死なない者がいることがわかった。
私の子だ。可愛い私の息子ら。モロス。ケール。タナトス。
そうだ、お前の名はヒュプノスとしよう。夢の神の名だよ。
極上の美しい角を持つお前にぴったりだ。
お前は人間のように眼球がお気に入りなんだね。色彩に惹かれるとは変わった子だ。
この世にあるのは生と死ばかり。ただそれだけなのだよ。

夢を喰いながら戯れに生きる。数え切れないほどの月日が流れた。
いつしか私はニュクスと名乗るようになっていた。
やがて格別の出会いを果たす。
愚かな人間の子、クラウディオス・フォンテーヌブローは美貌、知性、資力を持ち合わせ、
性的嗜好も悪くない。
何より悪夢を飼い慣らしている。"Viola" の毒気に抵抗する力になるだろう。
私の手で "Lilith" に仕立てるのではつまらない。この男に同じ道を辿らせるのはどうだろう?
そうなれば、同じ地平を見つめることがーーーー。
夜の一族を辿るヒントを与えよう。"Viola" に謎掛けして、ディオスに解かせよう。謎解きは愉快だ。
おや、思わぬことになった。少女(ドール)を "Lilith" に仕立てるか。これは面白い。
ディオスであろうとドールであろうと "Lilith" になれば、女に化生(シフト)する予感があった。
"Lilith" は無性の状態で生まれ、"Festaフェスタ" で性別を選ぶことができるのだ。
私は女に飽きてしまったよ。それに、あんな苦い思いはご免だ。
ニュクス。私の好きな女。もう戻ることのできない女。今ではもう夢物語の中の女。
ディオスは理由はどうあれ女を愉しむことを選ぶだろう。ドールはディオスの意のままに。
新しい試みは心が躍るようだ。我々が為せるものか試すのも一興だろう。

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