鳥籠-4 Maschera in the mist / Raxa
主 人 を 失 く し た 廃 園 で 恋 人 は 祈 り の 歌 を 捧 げ る
再びジョーカーの死骸が現れていた。
鷹の羽根箒の役目が終わると、壺の炎と塵の出番だ。
「クロード、なんて愛しいクロード」
背後に奇術師が立っていた。
「この身体に触れることができようとはね。皮肉なものだ」
椅子に座らされたまま顎を引かれやや後ろを向く形になった。
唇が触れ合った。
茫然としていたが、身体はシグナルを送ることを放棄してはいなかった。
「そんなキスを教えた覚えはないぞ」
奇術師の唇から一筋の紅い血が伝う。自分の歯と唇にも相手の血が付着した。
顔を上げた奇術師は公爵と目が合い、口を開いた。
「そんな怖い顔をしないでいただきたい。
コイツはもう私の愛したクロードでも、貴方の愛したクロードでもないのだから。
クロードの皮を被った怪物といえる」
「そんなことは関係ないことだ。はしたないから君は血を拭きたまえ」
「失敬」
奇術師が元の場所へ戻ったときには、唇の血はきれいに拭われ、笑みのマスクで覆われていた。
「ご不快な思いをさせてしまいましたことをお詫び申し上げます。
気を取り直しまして、昔語りの続きと致します。さあて」
奇術師が腕を振ると、ミステリーボックスから飛び出したのは『R』。
「お次は皇女様、貴女の番のようですよ。男達の昔語りは退屈でしょう」
奇術師と公爵のやりとりに沈黙していた皇女が口を開く。
「いいえ、面白く聞かせて頂きましたわ。
夜はさまざまな神秘が起きる時と言いますもの、その一端を知ったまでね」
皇女は祈るような仕草をした後、真っ直ぐこちらを見据えた。
「彼女が生まれた時には物語の歯車はすでに廻り出していた。
茨の中で目覚めない王子様にまつわる物語ーーーー」
頭上で鐘の音が鳴り響く。
厳かな神父様の声、控え目な白百合の香り、ステンドグラスの輝かしい光、
連なる人々、すぐ傍に立つ愛しい人。
誓いの言葉を交わし、彼の口づけを受け止めた。
拍手と喝采、降りそそぐ花片の洪水、リボンの嵐。
婚礼の儀式が執り行われる中、私は彼との出会いに思いをはせた。
あれはまだ小さな少女の頃のことだった。
あの時から気づいていた。
運命をともにすることが彼である事に、私は心のどこかで知っていた。
彼と出会ったのは母方の親族の葬儀の時。
黒い人の列、捧げられる花々。
密やかなおしゃべり、その裏で行われる力の駆け引き。
幼い私は、知らない人の死よりも母とはぐれたことで目を潤ませていた。
ベールで隠された多くの顔の中から母を探すのは困難で、
見慣れぬ黒い群は不気味で恐ろしくもあった。
「ママ……」
唇から洩れた声は消え入りそうで、見かねて声を掛けた大人に怯えて駆け出した。
教会の隅へ逃げ込んだとき、柱の陰に両膝を抱えてうずくまる先客を見つけた。
「どうしたの?」
小刻みに震えていた肩が一際大きく震えたのは、少年が驚いたからで、
彼はしゃがんだままこちらを見上げた。
大きな瞳、清冽な青。
蒼白な面に、涙に濡れた様子は何とも頼りない。
その様子から青い眼をした妖精の小さな王様を想起した。
挿絵のある書物に登場する年少の妖精王。人間の国に迷い込み冒険を繰り広げる物語。
彼も迷子だった。
束の間惹き込まれて、彼の手を取った。自然の成り行きだと思った。
「あっちへ行きましょう」
両手を握って微笑んだ。
もう教会(ここ)は冒険の舞台だった。
ステンドグラスから降りそそぐ光は七色に輝き、二人を七色の光が撫でてゆく。
黒い群ももう怖くなかった。
彼は目を瞬いて驚きの色をみせたが、そこに怯えは消えていた。
再会を果たしたのは、それから間もなくのことだった。
いつの頃からか、一人の紳士がフォンテーヌブロー家のお屋敷に出入りするようになっていた。
紳士の名前はアルベルト・グリフィス。
怜悧な双眸と美しいけれども厳格な所作。上等な身なりには鷹の紋章が縫い取りされていた。
幼心に畏怖の感情を与えずにはいられないもの。
しかし、両親が紳士を慕っていることは明らかで、畏怖よりも尊敬の念が勝っていた。
それは父がお屋敷でお茶会を催した時だった。
綺麗なお庭はいつもと異なる華々しい空気に包まれた。
花々が輝かしく咲き誇り、香りのよいお茶と甘いお菓子、南国の色とりどりの果物が用意された。
招待を受けた者は多く、知らない顔ばかりだったけれど、
優雅でくだけた会話と笑い声に満たされた心地よいお茶会だった。
大人達の中に彼の姿を見出すまでそう時間はかからなかった。
当然のごとく、例の紳士もお茶会の招待を受けていた。紳士は少年を連れていた。
整った面立ちは似通い、金色の細い髪に青い瞳から血の繋がりがあることが知れた。
少年は招待客の注目の的であった。周囲の大人達は口々にこう言った。
『グリフィス家の嫡男』
『青い眼を持つ選ばれた高貴の人』
続く賛美の言葉を口にする大人達の目は熱に浮かされたようで不気味だったのを覚えている。
その言葉が意味するものを知ることになるのはもう少し後になるけれど、
そこで私は彼の名前を知った。
大人達の群と纏わりつく権威の間で清冽な青い眼とぶつかった。
彼の唇からこぼれた名前はエドガー。
その名は、清らかな水が身体に浸みわたるように記憶に刻まれた。
少女の殻はすでに脱ぎ捨て、公爵家フォンテーヌブローという
目に見えない権威のベールを纏って、外へ出ることを許された頃だった。
交易で財を築いたアイスナー家の社交パーティ。
アイスナー家は兄弟が多く、パーティも大規模なもので招かれた人の数も相応。
その末弟・シェダルフが買って出、挨拶のために兄弟達のもとへ案内してくれた。
シェダルフは幼い頃の学友で、権威のベールにも気兼ねなく接する数少ない友人だ。
挨拶の合間にもう一人の学友を探したが、広い会場の中にその人を見つけることはできなかった。
一通り挨拶が済み、シェダルフに別れを告げたところに、私を呼び止める者がいた。
「お嬢様、どうかダンスのお相手を願いたいものです」
白手袋を外し、差し出された手は、陶器のような滑らかであったけれども男性の手をしていた。
そのままの恰好で視線を上げた男の眼は深みを増した青。
頼りなさは鳴りを潜め、優雅であるけれども力強い笑みを浮かべていた。
あんなに探しても見つからないと思ったのに、その人は私を見つけ出した。
「ご光栄ですわ。喜んでお受けいたします」
ドレスの両裾を持ち上げて一礼し、私は笑みを返した。
彼のリードは巧みで、流れるような動きに心が弾んだ。
けれども高揚したのはダンスのせいばかりでなく、
その瞳の奥にある熱情を感じて、胸の鐘の音が鳴りやまなかったの。
ダンスの後、お決まりの抱擁をして頬と頬が触れた時、彼は耳元で囁いた。
「鐘が12時を打つ時、空中庭園でお待ちしています。僕のフローラ」
フローラは花の女神。物語の妖精王が恋に落ちる相手だった。
約束の鐘が鳴った。
パーティも最高潮に達する頃、忍ぶように空中庭園へ続く螺旋階段を上った。
庭園へ足を踏み入れると、柔らかな夜風が花の香りを運んできた。
進んでゆくほどに、芳しい花々の匂いに身を包まれる。
月の光が射し、その青白い光の下に佇む人の姿を浮かび上がらせている。
ベールではないけれど、彼エドガー・グリフィスも見えないマントを纏っている。
「月の女神に見初められてしまうわ」
思わず駆け出し、幼い頃のように後ろから抱きすくめた。
「そんな心配はいらないよ。顔を上げてごらん」
目と目が合うと、二人で声を出して笑った。
「ずいぶんダンスがお上手になったわね。
あんな風に踊れるようになったなんて信じられないわ」
「酷いなあ。君だって男性にリードを譲るのが上手くなったね。
君のダンスはどっちが殿方だかわかったもんじゃない」
「まあ!言ってくれるわね、お嬢さん」
親しみを込めて言った。病弱で内向的な女の子のようだった彼は『お嬢さん』とからかわれていた。
でも人一倍優しい心を持っているわ。
「淑女の真似事は気詰りだろう」
「あら、お転婆だったあの頃とは違うのよ」
本当に、という言葉は彼の目にかち合って、喉元で詰まってしまった。
焦れた瞳がわずかに潤んでいる。
「もう子どもじゃないんだ。軽弾みに抱き付くなんてとんでもないよ」
彼は私の腰を引き寄せた。ダンスの時以上に吐息を近くに感じる。
「僕のは軽弾みではないよ。ずっと君のことを想っていた」
見つめ合い、互いの了承を汲み取ると唇を重ねた。
その夜、熱っぽい吐息とむせ返る香りの中で、酷く甘やかなひと時を過ごした。
結婚までの道のりは順調であった。
ただひとつだけ、祖父の様子に後ろ髪を引かれた。
思わぬことに、エドガーとの、
いいえ祖父にとってはグリフィス家との結婚にただ一人反対を示したのだ。
家族からも変人とあだ名される祖父だが、私をとても可愛がってくれた。
祖父の語るおとぎ話や冒険譚に夢中になり、またその思慮と所作に魅せられた。
赤子の頃から最期に至るまで慈しみの情を惜しみなく与えてくれた祖父。
そんな祖父がなぜ?幸せを分かち合うための結婚になぜ反対するの?
その問いに、祖父は微笑むだけで理由を教えてはくれなかった。
反対は強硬なものではなく、私の説得にじきに折れた。
義父の存在。気づいた時には義父は、祖父の良き蒐集家仲間という地を固め、
父よりも祖父と過ごす時間が多いことが当然と思える程だった。
そこに答えが潜むことに、この時は気づくことができなかった。
「君はお祖父様のギャラリーを見たことがあるのかい?」
いつかエドガーに訊かれたことがあった。
「ないわ。祖父は家族の誰にもギャラリーの場所を明かさないもの。
その様子だとお義父様でもご存知じゃないのね……いいえ、待って。
一度だけ、小さな頃だわ。古い博物館のような部屋へ案内されたことがあるわ。
よく覚えていないけれど、あれは祖父のギャラリーだったのかしら」
エドガーは祖父のコレクションにさほど興味を保てず、この話は早々に打ち切られた。
私を祝福し歓迎してくれたグリフィス家。
けれども幸せな時間は長くは続かなかった。
祖父の死、葬儀、相続、遺品ーーーーそう、コレクション。
膨大であるはずの祖父のコレクションは見当たらず、この世に隠されたままとなった。
時を同じくして、義父は体調が思わしくなく、自室に籠るようになった。
そして、小さな頃からのエドガーの世話役が解任され、
入れ替わりにグイドという男が現れた頃から大きな変化が起きた。
本当はいつからだったのだろう、私にはもうわからなかった。
義父が祖父のコレクション目当てに息子の結婚を進めたことに気づいたとしても、
エドガーに恋焦がれる気持ちは抑えようもなかった。
だから、どうしようもなかったのだけれど。
グイドという男は、エドガーの信頼を勝ち得、アルベルトの思惑を叶える役目を負っていた。
「お慕い申し上げております、花の女神様」
手の甲に口づけし、賛美の言葉を贈る。汚らわしい芝居だった。
最初は聞こえのよい甘い言葉で口説き、それが無駄と知ると、露骨にも祖父のギャラリーの場所、
つまりは "Crystal Coin" の在処を聞き出しに掛かった。
私にはそれがわかったけれど、エドガーは、ああ、心優しいエドガーにはわからなかった。
グイドが私に惹かれている、そして私もグイドに惹かれている。
エドガーはそう思ったらしかった。
そんな馬鹿なことってない!ありえないわ。
グイドに犯されたのは月のない夜だった。
どんな行為がなされたのか、よく思い出せないの。
ブラックカンタータの煙がただ立ち上り、事の終わりを告げた。
遂にその思惑が明かされた時、お義父様のベッドルームは真っ赤に染まっていた。
鷹が……お義父様の眼球を、心臓を、はらわたを、ついばんでいた。
衝動に駆られ命令を下したのはエドガーだった。
そんなに泣かないで、悪いのはあなたじゃないわ。
愛しい人は哀しみに狂った。
謀略に掛けた尊敬する父、信頼を裏切ったグイド、傷を負った愛する妻、
そしてその心を疑った愚かな自分自身、殺人の道具に貶めた自らの慈しんだ鷹。
彼はそれを受け止めることができなかった。
心は壊れ、誰の声も聞こえない深く暗い眠りに沈んだ。
グリフィス家のお屋敷も主人に追従するかの様に静かの中にある。
その静寂は夜の使者を招き寄せることとなった。
夜の使者は眠りを解く秘密の鍵を持っている。
眠りを解き放つために、女は最後の賭けに出たの。
「主人を失くした女の名前はアニエス・フォンテーヌブロー。
舞台の上では『ラシャ』と名乗らせていただいたわ。
祈りを捧げて目覚めを待つには、痺れを切らしてしまった」
皇女のマスクを取り払い、女は毅然とした目をこちらへ向けた。
高潔と正義に裏打ちされた視線が眩し過ぎる。
「あなたに会えてどんなに嬉しいか、わかるかしら」
『R』のダイスが砕け散った。
ディオスの手。優しくも決して差し伸べられることのない手。
アニエスの目。邪心を見透かすかのような澄んだ強い目。
「残るダイスは一つ。最後は貴女が物語る番ですよ」
奇術師は空中に浮遊する箱を手の甲で二度軽く叩いた。
3人目のジョーカーは、気づけば奇術師の手で息絶えていた。
ミステリーボックスは波打つように七色に輝き、開いた穴から深淵が覗く。
その底知れなさに引かれたが最後、目を逸らすことができなくなった。
「これまでだ。覚悟を決めることだな」
ヒュプノスの声。ひねくれた愛を囁き過去を語ることを促す声。
「……夜よ、夢よ……眠りの獣」
ぼくは上の空で言葉を紡ぐ。
深淵に残されたダイスが砕ける音がした。
そうかと思うと、サンルームの天頂にひびが入り、硝子の覆い全体に亀裂が走った。
身の周りの物は何もかもが吹き飛び、洋館は傾き、月は落下し、天でさえ裂けた。
風が集い渦を巻く。雷雲が立ち込め、たちまち嵐の様相を呈す。
「阿呆め、力の制御もできないのか。手間を掛けさせる奴だ」
雷鳴が轟く中で奇術師が指を鳴らすと、公爵と皇女は消え、
奇術師の背からは大きな翼が、頭からは角が生えていた。
その角を撫でる者がいる。
前触れもなく現れた黒い頭巾を目深に被った者が口を開く。
頭巾からわずかに見える口元や輪郭線から、優美な姿が自然と想像される。
「ああ、美しい角。何度見ても冷たく心地よく、黒曜石のように美しい」
一層激しさを増す嵐の中で、黒頭巾の周囲だけ風が凪いだように思える。
うっとりと流線を描くように角を撫で、満足するとこちらに向かって微笑んだ。
真っ直ぐぼくの視線を捉え、一歩ずつ歩み寄ってくる。
「オネイロス、泣かなくていいんだよ」
涙が頬を伝っていたことに初めて気づいた。
髪が、ドレスがめちゃくちゃだ。足首に繋がれた銀鎖が風に煽られて痣を生む。
「こんな苦い夢を編むなんて、ヒュプノスは酷い奴だ。
どんなに美しい角を持っていても許せやしない」
黒頭巾の後方にいる奇術師は驚愕の表情で声を張り上げるが、風雨のせいでよく聞こえない。
「苦い夢はシロップを溶かして甘くするのが我々の常套手段だろう。
シロップを切らしてしまった?それなら蜂蜜かシナモンという手もある」
黒い翼のような両手を広げ、手を差し伸べる。
その時、そよ風が頭巾を吹き飛ばし、姿形を明らかにした。
金の双眸が陶酔したようにぼくに向けられている。
理性を欠いた美を象ったような男だった。
「おいで、私と快楽の夢を結ぼう」
ぼくは黒頭巾の手を取った。
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