鳥籠-1 Maschera in the mist / Dealer
閉 じ た 少 年 は 冬 薔 薇 の 咲 く 温 室 で 蝶 と 戯 れ る
瞼を開けると、おびただしい蝶の群に視界を覆われていた。
玻璃と化した翅は透き通り、羽ばたくたびに白く反射する。
それ自身が眩しい光を放っている。
横向けに倒れていた身体を起こせば、やや遠巻きに蝶に取り囲まれる形になった。
辺りを見渡すと足元にカンテラを見つけた。フレームの角は歪み、蓄光石の光は失われている。
そこで、頭上の蝶から鱗粉が降りそそいでいることに気づいた。
群へ手をのべると、遠巻きに舞う蝶の数頭が指先へ吸い付いた。
その状態でカンテラのほやへ導いた。蓄光石の代わりになると思った。
ほやを閉めた瞬間、ある情景がフラッシュバックした。
手から滑り落ちたカンテラが床に落ちる光景。
同時に玻璃の蝶は生気を失ってゆるやかに地に落ちた。ほやの中の蝶も同じだった。
失望したけれど、暗闇の中でもぼくの目はよく見えた。そうだった、光なんて必要なかったんだ。
辺りはうっすらと霧に包まれている。
一連の出来事が、シルバーセレナーデの煙とともに同族の奇術師の手品を連想させた。
鏡を割ると破片が蝶に変身するものだ。
ぼくがどうやっても破片は花片にしかならず、結局仕掛けは見破ることができなかった。
いつか種を教えてくれると言ったけれど、約束は反故になったままだ。
霧の隙間に見えるのは、チェッカー模様の床といくつもの水溜り。その先にドアを見つけた。
引き寄せられるようにドアに近づき奥へ向かって開けると、長い廊下が延びていた。
そして、その先に少年がいた。
「レノー、僕を捕まえられるものなら捕まえてごらんよ。早くしないと壊れてしまう」
儚い笑顔を向ける少年は、笑い声を上げながら角を曲がって見えなくなってしまった。
「待って、マスター!」
ぼくのマスターだった。
会いたくて、愛しくてたまらない、ぼくのマスター。
自分を、世界をきらいになって、ぼくの名を呼んだマスター。
どうして気づかなかったのだろう、彼を追っていたなんて。
すぐに少年の後を追って走り出した。
ぼくは気づかなかったけれど、開け放したままのドアには金属板が嵌め込まれていた。
そこには "Bird In The Cage" と、懐かしい文字が刻まれていた。
以前にもこんなことがあった。
まるで迷路のような廊下を駆け回って、いくつものドアを窓を開け放つ。
計算された庭園には美しい花々が咲き誇り、それらで花環をつくって散らす。
好きなだけ鬼遊びをして、いたずらばかりして。
あの時と違うのは、今はぼくが追い、彼が追われる側ってことだ。
"Sanatorium" 、あの素晴らしく心地のいい、閉ざされた空間。
そこには夢に悩まされる者が集うようになっていた。
シルク。ううん、彼の名前はレイ・グリフィス。
ぼくの滞在は彼から始まった。
名門を誇るグリフィス家。鷹の調教を生業として財を成し、
彼ら一門は家督としてその業を受け継いできた。
レイは鷹の扱いを受け継いだ一人であった。
しかし、業を束ねる肝心の秘術は彼の弟に与えられた。
そこにどんな事情があったか興味もないけれど、
グリフィス家の別荘の管理を科された彼は僻地に閉じ込められることとなった。
それが悪夢の引き金になった。
毎夜毎夜、自らが飼い慣らした鷹に身をついばまれる。
生きたまま皮を剥がれ、肉を割かれ、骨を砕かれる。
ついには腐敗し、醜い姿を衆人に晒す。死ぬことは許されない。
眠れない夜を過ごし、うたた寝でもしようものなら悪夢に目を覚ます。
ぼくが訪れたのは、夢がすっかり熟したときだった。
憔悴し切った彼の枕辺で声を掛けたのさ。
「今晩は、ホワイトアリアの鷹使い」
彼は薄く目を開いたが、ぼくを見てはいなかった。半ば夢の中にいるのだ。
呼吸は苦しそうで、それは夢の内容が何であるかを物語っていた。
「今夜も悪い夢をみているの?
悪い夢ならぼくが喰べてあげよう。今は忘却の彼方にある安らかな夢を君に贈るよ。
それとも、とろけるような甘美な夢がご所望かい」
レイがこの提案を拒めるはずもなかった。
虚ろな目は安らかな夢を切望していた。その瞼にキスをして、契約は交わされた。
「お代はね、君の瞳に眠る光の結晶と、帽子いっぱいのキャンディ!」
ぼくの帽子は底なしで、帽子いっぱいのキャンディは無期限の滞在を意味していた。
そうして、ぼくは "Sanatorium" をしばしの棲家とした。
"Sanatorium" を訪れると夢魔に蝕まれた心身を癒す。
別荘に招かれた人間の夢をつまみ喰いするようになってから、そんな噂が立ち始めた。
レイにとって悪夢のきっかけとなったこの地は、皮肉にも転地療養にはうってつけの場所だった。
街の毒気から隔たった高原にあり、夏には避暑地に、冬には美しい雪原が現れる。
名家の別荘だけあって造りは優美で、住み居心地は文句の付けようがない。
夢魔に心身を侵された貴族たちが、静養のためにと逗留を望む者が跡を絶たないようになった。
ぼくはいつでもキャンディを喰って満腹で、気ままに時間(とき)を過ごしていた。
ただ、レイは悪夢といっしょに契約の記憶を失くしてしまった。
故に彼にぼくの姿は見えない。
遊び相手のいない別荘は、満腹感とうらはらに退屈で退屈で死んでしまいそうだった。
そんな折、エドガー・グリフィスと出会った。未来でぼくのマスターとなる人に。
エドガーが訪れたのは、静けさに包まれた真冬の頃。
知らせの使者となったのは、別荘の下の町に住むネルソンという青年だった。
その手に鷹の蝋印で封じた一通の手紙を携えた青年は、
実質の別荘の管理人の息子で、今ではレイの話し相手になっていた。
ぼくは彼らの会話をひま潰しに聞いていた。
部屋の暖炉は赤々と燃え盛っている。
炎は彼らの姿を照らし出し、二人分の影を作り出していた。
しかし、二人のほかにもうひとつ影があることに気づく者はここにはいなかった。
ネルソンから受け取った手紙を読み終えると、レイは溜め息をついた。
「父からの手紙だ。弟の気晴らしに、別荘(ここ)へ滞在させるそうだ。
お伺いの内容だが、すでに決定事項のようだね。ネルも目を通してみるといい」
「決定事項ねえ。命令だろう、中身を見なくともわかるさ」
そう言いながらも手紙を受け取り一読する。
「アルベルト・グリフィスは慇懃無礼で実に態度のでかい奴だ。
当主だか知らないが、こんなところまでご命令とは感服いたしますねえ。
夢魔の噂をよく思っていなかったはずだが、どういう風の吹き回しだ?」
続く罵詈雑言を聞きながら、レイは用意しておいたブランデーのグラスをテーブルに並べる。
「まったく、父をそんな風に言うのはお前くらいだよ。
それにしても、噂を当てにするほど弟の調子は悪いのか」
レイは静かに微笑んだ。その微笑みの裏を探るようにネルソンは眉を潜めた。
長椅子に掛け、隣に座ったレイの長く白い髪を指でもてあそぶ。
「弟を迎えるつもりなんだな」
「困っているようだからね、招待しよう。
しばらく町へ戻る用事もないから弟の様子をみるには、いい機会になるだろう」
その態度にネルソンは舌打ちをした。
「こんな髪色ならあの時、見落としてもおかしくなかった」
「見落としてもよかったんだよ。あるいは、そんな風を装って見ぬふりをしてもよかったんだ」
ここへ来て間もない頃、レイはネルソンによって救出されるという出来事があった。
レイは、怪我をした鷹を助けようとして山の割れ目に落下した。
意識を失い、倒れていたところを偶然にもネルソンが見つけたのだ。
雪の中、レイは雪と同一になっていた。青白く体温(ねつ)を失う様子は美しく、思わず見惚れた。
ネルソンは胸に秘めた光景を思い出していた。
「あの時の鷹が白い翼を持っていたから、放っておけなかった」
「自分のことより鷹を心配する奴を放っておけるか。見落とすものか、大事なものに出会ったんだ」
「……」
二人は長椅子の一方に寄りかかり、長い間影を密着させていた。
幾分、部屋の温度が上昇した。濡れた彼らは陶酔の中で吐息を貪るように奪いあった。
彼らの愛情表現は、ぼくらとさほど違いはないようだ。
雪が世界の音を吸い込んでいた。
けれども冬薔薇の咲く温室は暖かく、その中で少年は眠っていた。
一目見て、ぼくのもの(マスター)だとわかった。
クリーム色の薔薇を並べ、花片を散らし、少年の寝台を飾った。
温室で飼われた蝶が周りを飛び交う。
散らす鱗粉はスノーシュガーのように甘い時間を刻んでゆく。
花環をつくって頭に乗せた拍子にマスターは目を覚ました。
驚きに見開かれた眼は青、深い夜を秘めた青。
その青に手繰り寄せられ、小さな唇にキスをした。
いっそうの驚きと恥じらい。
しかし次第にとろけるような表情に変わった。
誰も "Lilith" の唇に抗うことはできないのだ。
マスターはぼくの胸に堕ちていった。ぼくもまた彼に堕ちたのだ。
彼はやがてみるであろう美味な悪夢を抱えている。
その予感が甘い匂いをまき散らしている。
蜜を求めるように飽きるまでキスをした。
マスターの虚ろな瞳に映るのは、時を巻き戻された少女の姿。
華奢な身体に、不釣り合いに大きな翼を持って。
その後、ぼくは舌先に乗せて、マスターに名前を伝えることとなる。
たとえ、この名がどんな理由で付けられたのであったとしても、ぼくにはこの名しかなかった。
クロード・キィア。
これがぼくの名だ――――
「マスター!」
少年の背中がすぐ目の前にある。そのくせ、手が届きそうでいてまるで届かない。
埒があかない、そう思って大きく跳び込んだ。
両腕でマスターを捕まえた。もう逃すものか。
そう確信したとき、少年の身体は大量の花片へと変わった。
同時に床が崩壊し、自分の身体が下降する感覚に襲われた。
花片は渦となり、舞い上がって上空の闇へと消えていった。
急速に小さくなる渦を見つめながら、空虚に天をつかむ。
そのまま、ぼくは海に落ちた。
水飛沫が上がったかと思うと、それが雫となって雨霰と降りそそぐ。
雫は針のように幾度も肌を刺したが、降りそそぐ黄金(きん)色の雫は、
月夜に黄金色の雨を降らすという黄金色の竜を思い起こさせた。
変に愉快な気分だった。
そんな竜がいることを、ハープを奏でながら教えられた覚えがある。
身体は水底まで沈んでゆくかに思えたが、浮力だか水圧だか、
確かに弾力のある水力に跳ね返されてぼくは水面に浮上した。
必死に息を吸って目を開けるも霞んでよく見えなかった。
水上が霧に霞んでいることに気づいた時、霧の向こうにぼやけた光の点が見えた。
舟だ。
水蒸気で拡散する光は舳先の灯だ。
ゆっくりと近づいてくる灯に、舳先だけでなく棹がぼんやりと形を成す。
そう思ったのも束の間、ぬめりのあるものに足首を引かれて再び水中に沈んだ。
「助……けっ……ごふっ……」
手足をばたつかせ、抵抗するも身体は重く、ますます沈んでゆく。
水を飲んで苦しくもがく姿を歓喜するかのように、暗い水底で女の笑い声が聞こえた。
水の乙女は、彼女らのテリトリーを侵した者を抗い難い力で翻弄するそうだ。
時には美貌により、時には美しい歌声により。
あの時、ハープを奏でる手と同じ手でぼくを水に沈めた女も水の乙女だったのかもしれない。
「鳥籠から出てはいけない。
ましてや、水辺に近づけば全てを失うと教わらなかったのか」
何者かに腕をしっかと掴まれた。
強い力で引き上げられ、ぼくは水の乙女から逃れることができた。
差し出されたマントは暖かで、凍えた身体に温もりを与えてくれる。
同じマントを頭から被った男は水棹をさして、ぼくらを乗せた舟が水上を進む。
頭を振って顔や髪についた水滴を払い落とす。
濡れた髪が額に張りついていたが、ぼくは疑問を抱えていた。
彼はマントを深く被り、口に "Night Series No,17-FOG " をくわえていた。
風上にいるため、ラマダーングレイの煙がぼくの鼻先をかすめる。
「……どうしてお前がここにいるんだ?」
口に出すとかすれた声になった。
この霧の中では、声という言葉が重さを持ち、下方へ沈みゆく感覚に囚われる。
彼の耳まで届いたかどうかわからなかったが、ぼくは言葉を続けた。
「マスターを捕まえることができなかった。
彼には眼球がなかったし、鏡が割れてぼくは気を失ってしまった。
ぼくがここにいるということは、ベルベットもオークも、マスターを捕まえられなかったんだ。
フランネルを繋ぐワイヤ(いと)も切れてしまった。
向こうで灰鯨の匂いがする。ぼくのきらいな匂いだ」
ぼんやりしたまま、切れたワイヤの向こうに灰鯨を感じた。
「ディーラー……」
彼の名前をつぶやいた。その言葉は先刻の言葉より深く沈みゆくように小さくなった。
うつむき加減で背を向けたまま、彼は無言だった。
別の舟がすれ違った。
舟に乗る者の姿はなかったが、その空虚な舟には不気味な気配が漂っていた。
彼は舟に鋭い視線を向けた。
薄い唇に人差し指を立て、"Shhhh" と息を漏らした。
空の舟が行き過ぎた頃、彼は低音の声で言った。
「ここではディーラーは私の名前ではない。A.G. と名乗った方が相応しいだろう。
霧の中で言葉を交わすと、あれに声を喰われる。
もうすぐ岸部に着く時刻だ。それまで黙ることだ」
言葉が終わる頃、再び空の舟が行き過ぎていった。ぼくらは無言でそれを見送った。
鐘の音が聞こえた。
どうしてだか教会の鐘だと思った。
水上の旅は短く、岸辺へ近づくにつれて霧が晴れていった。
暗幕の夜の下に星が輝いていた。
「先刻の答えだが」
彼は舟を岸へ寄せて言った。
「どうして私がここへいるか、この口から話す訳にはいかない。
水先案内人の遊戯札を配ったのはお前だろう。。
まだ思い出していないに過ぎない。ついて来ればいずれわかるだろう」
灰色のマントから突き出た手が指し示すのは丘の上の洋館だった。
「サンルーム……」
洋館にサンルームがあると知っていた。
ひどく動悸がして手足が震えていた。
そこで待ち受けているものに、ぼくはおそれを感じた。
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