兄弟と黒猫-7の2 紫貝を剥ぐ【菫色】


1.7.5

「それでは、このまま事象観測を続けるといたしましょう」

この言葉を聞き、シア君は強張った体をゆるめたようだった。

とろんだ理由が明かされたために、緊張の糸がほどけてしまったのだろう。

「無防備な体を外天にさらすマーブル君の白い肌も、今や薄紅色に染まっています。

要するに、どちらの牡羊も先生の玩具を纏った状態にあるわけです」

打ち合わせのとおり、シア君にリモコンを握らせ寝椅子へ促した。

菫色のクッションに背を預けた華奢な体が、自ら上半身のシリコンを剥がし取る。

その様子に起因する刺激を受け流し、言葉を紡ぐ。

「匂菫の香りに呼び寄せられたのは、何も牡羊だけではありません。

どこからともなく、やって来た蝶が数頭。

花蜜も顧みず固くなった部分に舞い降り、翅を休めました」

そこは腫れて、熟れたようになっていた。

まるでひとくちの赤い果実だ。

濡れて光るのは、肌を保護するローションのせいだが、奇しくも果実の浸出液に見える。

「これは再現ですので、蝶はご覧の美しい玩具で代用いたします」

蝶型の玩具を手のひらに乗せ、客人らの目に入れる。

作り物の蝶は光を反射して七色に輝いた。

それは螺鈿の施されたバネ仕掛けの留め具だった。

つまみ部分は白蝶貝を嵌め込んだ羽、噛み合わせ部分は薄いゴム膜で覆われた木製の脚。

とろんだ体にこれは、と思う。

蝶が魅惑の果実に噛み付けば、甘く甲高い声が漏れる。

「蝶が噛むなんて」

ため息混じりの熱っぽい声がした。

玩具はそこが到達点と知ると、ややゆるまり、また狭まった。

そして、また。

「蝶も無慈悲なものですね。蜜源となる花は燐光し、こんなにも主張しているというのに。

さておき、菫の絨毯に横たわった時からマーブル君はある視線を感じ取っていました。

この様子を眺める者がいたのです。皆様と同じに」

寝椅子の上の者がマーブル君を真似れば、ひらついた衣装が床に滑り落ちた。

「彼は実に外天生物の好みを心得ていました」

膝を曲げて両脚を広げた格好で煽り、残された貝の在処を示す。

あの障害物を迂回した先――――骨盤の真下と、その後方。

つくづく、羊らは従順なものだと思う。

警戒心が強い反面、心地よさをもたらすと知れば猫にもよく懐く。

それは、彼らの持つ貪欲な一面でもあった。

好餌になりそうだが、この地区では誰も彼もがそうなのだから目立った存在になり得ない。

私は寝椅子の枕側へ移動した。

「『それ、何だい? 随分よさそうだね』」

シア君の頭上に呼び掛けると、顎を跳ね上げて熱情の眼差しが向けられた。

「そう、やや声高の清らか声が聞こえました。

眺める者が一角を現したのです。これは、比喩でも例えでもございません。

額にそびえる螺旋状の立派な角、珠肌に映える豊かな菫色の毛並み。

星屑を散りばめた者は年若い一角獣。

両者は互いを認めましたが、それ以上言葉を交わすことはありませんでした」

締まりのない口から返答がないのは、マーブル君がそうしたからだ。

「彼の言動には幾らか幼さが見受けられました。

獰猛な性質は鳴りを潜め、見慣れぬものに惹かれるのは、きっとそのせいでしょう。

対するマーブル君は、外天生物もそっちのけで玩具の心地に酔いしれました」

さして長い時間ではなかった。

それに反比例する濃厚な時間が過ぎた時、シア君が言った。

「『気になるなら、あげるよ』」

二人の牡羊が似通っていたとは思わない。

外天のマーブル君は小悪魔的に、眼下のシア君は純真無垢にそそる表情をする。

どちらがどうとは好みの話だが、どちらも色目遣いがお上手だ。

続く語りはいらなかった。

一角獣は星を求めた――――しかし、今夜の私はそこに触れることを禁じられている。

外天では思いのままに剥がされた貝だが、このラウンジでは星への入口を塞ぐままにする。

代わりに、星にも、星を突く部分にも触れずに喜ばせる手法を採る。

そういう魔術もあるのだ。

白手袋を外して小さな呼吸を奪う。

骨盤の真下にあった貝を剥がし、ローションの残るそこを中指で圧迫する。

ごく弱い力でやさしく、やさしく。

そうして牡羊の体をさいなむ。

蝶の甘噛みとスポットの指圧。

繰り返しと相乗効果。

猫の目と観客らの視線。

風船が弾けたのは一瞬だった。

「上手にできましたね。大丈夫、どこも汚してはいませんよ」

上気した体に、絹雲を織ったなめらかなローブを着せる。

薄手の外衣に似たローブは、立ち襟が後ろでフードに変わる。

「例え、星が弾けてもその感覚に溺れてはいけません。

外天に身を置く者らはいつでも愛玩動物を欲しているのですから。

その夜、牡羊の四肢を黒褐色の縁取りのある紫貽貝が覆いました。

光り輝くそれは、鱗でできた甲冑のようにも、人魚の尾のようにも見えたそうです。

毒々しくも艶のある一枚一枚を剥がす作業は〈兄〉が行い、星の始末は、彼らを監督する観測技師によって為されました。

外天生物と接触した牡羊には、必ずこのような処置が施されます。

ロマノフは外天の嫌われ者。ですので、外天生物の体液作用を無効にすることができます。

今回は外天の空気に触れておりませんので、処置については省略いたします」

不満を飲んで笑みに変える。

「控室で休んでなさい」

眠たげなシア君にささやく。

階上に用意した控室で、最後の貝がおのおの剥がされるだろう。

ラウンジから小さな羊がはけたのを見届け、私は口を開いた。

今日こんにちのような外天活動が叶うのも、ひとえに皆様の支援あってのことでございます。

研究所の協力なくしては、外天へ行くこともままなりません。

外天は、理外の空間。

多くの不思議を秘め、知的好奇心や蒐集癖を刺激する素晴らしい場所です。

なればこそ、観測局の成果が皆様の蒐集品に特別を加えるのであります。

しかしながら、そこは常に危険と背中合わせの異界に変わりありません。

牡羊を虜にし、観測員の目を欺き……過去には、外天へ落ちた事例も報告されております」

ルイスとエンナは、外天で兄弟を失った最後の世代だ。

「『狂人の遊び』あるいは『賢者の愚行』等々。

外天での採取行為は、自ら望んで死の淵を歩くもの。

蔑みを含んで語られたのは昔のことですが、そこには少しの羨望が隠されていました。

外天渡りが確立したのちは『幻師の裏庭』と称され、貴重な資源の宝庫という認識が定着し、現在に至っております。

最後に、本会の記念品としてこちらの小壜を差し上げます。

中身は、牡羊の皮膚を覆った紫貝・綺羅の鱗でございます。

保存液にエーテルを用いていますが、次の新月には夜に溶けてしまいますので、鑑賞の機会をお見逃しになりませんよう」

そう締めくくり、深くこうべを垂れる。

顔を上げた時、目の隅で階段室へ飛び込む小さな後ろ姿を捉えた。

小さな羊はみな出て行ったはずだった。

問題になるようには思えなかったが、万一のため追尾の影を放った。

1.7.6

一陣の風が階段室を駆け上がる。

今まさに閉じられようとしている扉の隙間へ滑り込めば、書架の並ぶ暗い場所に出た。

影の両眼に映るのは、図書フロアを前方後方に分断する中央テーブルだ。

書物をめくる者もいないのに、横一列に並んだ読書灯のすべてが点いている。

ゆら、とその場の空気が動いた。

読書灯は狐色に大小と明滅を始め、左右に揺れ動く様は火の玉行列だ。

空気環境の整った室内で蜃気楼が発生することなどあり得るのだろうか。

訝しく思いながら灯りまで行くと、大きな熱を感じてテーブルの端へ視線を遣った。

やれやれ、と思った。

図書フロアを控室としたのは、最後の貝を剥がす目的であったのは確かだ。

ここに潜り込んだ時点で、小さな羊が散らばって潜む気配を読み取った。

古風な書架はパーテーションの役目を果たし、ある程度の目隠しになる。

上品な牡羊が蔵書を汚すことはないと踏んでのことだ。

だが、その判断は誤りかもしれなかった。

――――狐色の淡い光の中で、ローションのとろみが糸を引いた。

テーブルをベッドにして、貝の始末が為されようとしている。

絹雲を纏ったシア君がテーブルに両手を突いていた。

その肩は髪と同じ橙に照り、いつローブが滑り落ちてもおかしくなかった。

後ろ裾もめくれ、長時間吸い付いたために焦らされ、ふやけたであろう場所に別の牡羊が覆い被さる。

目の前で押し引きが繰り返された。

前後するたび、黄金色の艶やかな髪が揺れ動く。耳のピアスが幾つもの光を反射する。

白シャツ1枚で玉の汗を浮かべる姿がコットンの病衣と重なる。

私は彼を見たことがあった。

「もう……だめ」

「まだ我慢して。すぐだから」

後ろに被さる牡羊が相手の腹に手を回す。

根元を締め付ける動作と推測するが、そんなことを思いつく牡羊がいることに驚く。

まもなくその彼が身を震わせた。

一番いい瞬間にいる彼だが、声が漏れて仕方ないのはシア君の方だった。

こそばゆい声が感覚のない影を通して体に響く。

「いい? ひとつも零さないで。あの日も、これくらいしておけばよかった」

相手の細い腰を高く持ち上げてから、ゆっくり引き抜く。

「この貝、本当に何度もくっつくんだろうか。何だ、コードも取り外せるんだ」

一度剥がした貝を念入りにねじ込む。

「やだ……気持ちいい……これ、だめ」

「それなら尚更だ。今夜だけだから……お願い、剥がさないで」

シア君の体を表に返すと、二人は向かい合ってキスを始めた。

「今度はこっち……僕の中に」

「……僕、〈弟〉だよ……」

戸惑いに対し、ふっと笑う。

「シアは思い込みが過ぎるところがあるよね。役割に縛られないで。大丈夫、できるよ」

主導権を握る牡羊がシア君に跨れば、あっという間だった。

さらに、自身の手で別の貝を器用にねじ込む姿は煽情的といえる。

「……んっ。吸い付き、すごいね。本当、気持ちいい。ああ……」

体を反らし、腰をびくつかせる。

「ええっ! 何、なに? あんな使い方がある?」

「えげつないな」

声を抑えてもはしゃぐ様子が伝わる。

その声はマーブル君のものだ。一歩引いた声はアトリ君の。

「信じられない。やん、えっち」

「ああいうのがいいのか? だいたい、何でここにいるんだ。誰だよ」

書架の隙間から覗いているのか二人の姿は見えない。

黄金色の牡羊も声のした方に視線を向けたが、邪魔にならないと素早く判断し、目の前の物事に意識を戻したようだ。

「……どうしたの。ラルフ……」

目まぐるしさの只中にいるシア君は、一連の動作の意味に気づかなかった。

しかし、これではっきりした。

名前を呼ばれた彼は診療所の支援員だ。

キフィ君らに接する調子と変わらないようでまるで違うのは、獣性を帯びた瞳のせいだろうか。

「ううん、いいんだ。それより見て。シアのも僕のも全然萎えないよ」

言って、手も使わずそれらを擦り合わせる。

跳ね返る様子にシア君は口をわなつかせ、瞳を潤ませた。

「ねえ、観測局には酷い人しかいないの?

ビオリン・シークレットを出すなんてどうかしてるよ。

この効き目がわかってない。僕らにはよく効く……いけない気分になるよね。

シアも飲んだろう? でないとこんな風にはならない」

確かに、開会前に小さな羊らにビオリン・シークレットがふるまわれた。

これほど強い作用があるとは思いも寄らなかった。

客人らの説明事項に含まれるものだが、私は思い違いをしていたのだろうか。

そうだとしても、キーツらが誤った情報を口にする局員を見過ごすとは思えなかった。

頭を巡らす内にも、ラルフ君はシア君のものに舌をつけている。

全身で愛おしさと色めき、期待を伝える。まったくもって恐ろしい牡羊だ。

まもなく口内で受け止め、躊躇いもなく飲み干した。

ぎらついた瞳は今ではとろんとしている。

「……え、えっ」

「その反応。やっぱり、シアはまだ知らないんだね。キフィを見てわかったよ。

だから、いてもたってもいられなくなった。さっきの星の感じなら……中、どう?」

意識の持っていかせ方がいやらしい。

自覚したシア君の腰が連続して跳ねれば、効果の程が知れる。

可愛いとささやきながら追い込み、だめ押しに震える下腹部をつんと押す。

「……やあっ!」

「いい反応。ちゃんと3人で仲良くしてるんだってね。でも気づいてるよね?

3人なんて無理だって。ほら、皮膚が輝き過ぎだ。よくない兆候だよ。

いくら抵抗力があるからって見過ごせない。病気になっちゃうって言ったろ。

シアが選んだから僕は諦めたのに、覚醒できてないじゃないか。満足だって。

これじゃあ、諦めきれない」

金羊種の誘惑だ。

それに抗える牡羊がいるだろうか。

「衝動を抑えているね。どうしてだろう、反作用なのかな」

ラルフ君が一方的に話して見えるのは、シア君の反応が今ひとつだからだ。

大いに煽る表情もすれば感度も抜群なのに、この鈍さは反則ではないだろうか。

まあ、天然ものに文句もない。

それを証明するかのようにシア君の頬を涙が伝った。

二人は特別な関係に思えた。

黒玉の情報収集時に、療養所で過ごした仲というのを知ったが、謎めいた会話だ。

ラルフ君の行動と学校の禁止事項を考え合わせると、見えてくるものもあるにはあるが。

「シア……涙、」

「……僕、ラルフのこと……好きだもの」

「うん、僕もさ」

「……でも、わからないんだ。呆れるだろう……」

「そんなことない。急かしてごめんよ」

言って、零れた涙をラルフ君の指がすくった。

その表情は今までになく満足そうに見えた。

「少し激しくしちゃったね。僕にも好機があるなら、いいんだ」

頬を寄せ、首を擦り、肌を密着させる。

その時ようやく、昂ったものを遊ばせたままであることを思い出したようだ。

「撫でて、」

「……うん」

少し意外に思えたが、シア君は扱いを心得ていた。

技能が巧みであるよりは、相手の求めるものがよくわかるといった風に。

この関係性は兄の心を乱すに違いない。

時を待たずして、恍惚を目にする。

1.7.7

「存外、羊は気が長いね。それとも、見せつけるのが好きかい?」

脱力した空気の漂う中、聞き馴染みのない声が響いた。

聖歌隊を連想させる明澄な声色だ。

牡羊らの向こう暗がりから現れた者は、小さな羊と変わらない体躯に絹雲のローブを着ていた。

珠肌の華やかな容貌にカールした睫毛が濃い影を落とす。

瞬くと、菫色の一本一本が不思議に煌めいた。

同じ色の豊かな髪が波打ち、同様に煌めくため眩しくあるが、最も輝くものが額にそびえている。

それは、鋭くも美しい一角獣の螺旋角だ。

「そうかもしれない。でも、邪魔者はきらいだよ」

ぽた、とシア君の手から白く透明なものが零れた。

ラルフ君はそれを注視し、醒めた声で言った。意識は一角獣に向けられている。

「羊の触れ合いは短いと思っていた。収まるのを待って、声を掛けたっていうのに」

悪びれる様子は微塵もなく、不平を垂れる。

「それもそうだね。君も落ちたの?」

ラルフ君の言葉から棘が抜け、声に明るさが戻る。

「そうだよ。うっかりしていた」

「見惚れたんだね。菫の原はきっと綺麗だろうから。それで何の用?」

「君達を呼んで来るようにって、言い付けでね」

「僕らを? 誰に」

「ご主人様だよ。芳香浴の後には食事がいるんだってね。そういう手筈だろう?」

シア君が戸惑いつつ頷くので、二人はテーブルから身を離すことになった。

戸惑いの理由は一角獣のせいだろう。

こちらに留まる彼の存在を知らされていなかったのだから仕方ない。

角を持つ美しい生き物は向きを変えたが、踏み出した一歩を留めて振り返った。

「ああ、何かいると思えば、魔風だ。お前も来るかい?」

言って、私の居場所を菫色の視線で射抜いた。

二人の牡羊も振り仰ぐ。

本来の形を失った影も、周囲より闇を深めた影そのものを目に映すことはできる。

彼の態度は友好的だ。

外天では警戒すべき態度だが、ここは彼らの縄張り外。

であれば、身を隠す必要もないだろう。

「魔風、ですか。目敏いですね。早くも見つかってしまいました」

彼らには姿のない声が聞こえたはずだ。

爪先から頭頂へ、ねっとりした温い風が私の全身を取り巻いて吹き上がる。

今度は頭頂から爪先へと。

纏わりつく感覚が消え去った時、影は実体を現した。

「バロと申します。しがない観測局員をしております。どうぞお見知り置きを」

そう言って笑顔を振りまく。

「名前なんて覚えてられないよ。お前は下の牡羊とどこか違うね」

「単なる挨拶ですのでお気になさらず。外天周囲をうろつく猫はそういないでしょう」

「猫? 暗がりから出てきやしない蜥蜴かと思った。勘が鈍っているなあ」

「ううん、そちらでしたか。半分は正解ですよ」

呻き声を上げ、自分の頭を小突くが、芝居を打っている場合ではなかった。

惑う牡羊の視線が揺れている。

「……どういう、こと?」

「さっきの、見られたみたいだね。観測局の連中だろう? 変わった特技だ」

ラルフ君は余裕の笑顔を浮かべている。

「ええ、どうも。活用方法はさまざまあります」

シア君は口を開けたが、言葉が出ないようだ。

顔を赤くした後で青くし、最終的には真っ赤になった。

「これ以上、一角獣を待たせるわけにはいきませんね。

願ってもないお誘いですので、気が変わる前に参りませんか」

そうして一角獣を先頭に、格好もそのままの牡羊らの後ろを歩く。

濡れた二人の後ろ姿は悩ましい。

事実、ローブとシャツのみだ。

膝裏のくぼみが露わになって目の毒。それに、この匂いが堪らない。

後ろを行くせいで、発情でも誘う匂いを全身に浴びてしまう。

こういうものは影の姿では知り得なかった。

あの姿では、視覚や聴覚を保持しても、触覚、味覚、嗅覚は失われる。

快もなければ不快もない。便利であるが時に味気ない。

案内された場所は、フロア後方にある上り階段の脇に作られた空間だった。

階段裏と壁面、書架によって囲いができている。

内側にはスポットライト型の多灯照明が1本立ち、天球儀を思わせる真鍮のテーブルがある。

壁沿いにマットレスタイプのソファを繋げているのは仮眠用だ。

ここでは書物を片手に食事も、飽きたら寝入ることも許される。

果ては、先ほど目にした通りだ。

「お待たせ、ご主人様」

「ご苦労様」

一角獣と唇を重ねるのは、手前に座るマーブル君だ。

「ご褒美、おくれよ」

「このキスは?」

「数に入らない。もっと、こことか」

求める相手に手を伸ばし、ローブ越しに上から下へと背中をなぞる。

「ご褒美は食事の後にね。僕は聞き分けのいい子が好きだよ」

ぱっと手を離した一角獣は、約束の甘美さに身を震わせた。

なんとまあ、外天生物にお預けを食らわせるとは。

ふてくされながらも頬を染めた愛玩動物は、主人の腰に抱き付き、腹部に顔をうずめた。

意地悪、とくぐもった声が聞こえる。

鋭い角が危なっかしい。

くっつき合う彼らの頭と頭の間に、アトリ君の顔が覗く。

「誰だか知らないが大胆だな。そっちにタオルがある。ローブも予備があったはずだ。使えよ」

「助かる。有難く使わせてもらうよ」

答えたラルフ君は、至極当然にシア君の背を押した。

タオルを見つけると相手の体を拭き、代わりに僕を拭いてと頼んでいる。

その様子を眺めていると、マーブル君が私に斜め前の席を勧めた。

今、マーブル君も同じように見てはいなかっただろうか。

いや、彼だけではない。

奥にいたシガラ君とハウエル君がにぎやかしくしているが、闖入者に注意を向けるのは同じだ。

彼ら牡羊は、どうしようもなく黄金色の牡羊に惹かれるらしい。

髪を乱す金羊種は魅力増しだ。

さらに言えば、彼を連れてきたシア君に興味が湧かないわけがなかった。

辺りはいい香りがしていた。

その正体は、テーブルに用意されたムール貝のワイン蒸しだ。

鉄鍋で卓に上り、取り皿もあるが料理といえるのはそれのみだった。

飲み物なら、炭酸水で割ったネクタリンビネガーがある。アイスペールに氷も十分に。

すでに集っていた牡羊は、殻の乗った皿を前に淡黄色を弾けさせていた。

ほとんどがローブ姿だが、アトリ君とシガラ君はいつもの服装だ。

我々の到着が最後かと見渡せば、オレンジ・バーミリオンと灰プラチナブロンドがいないことに気づく。

ちょうど、その組が現れた。

「お疲れ。好きな席に座れよ。タオルは、いらないようだな」

二人に気づいたアトリ君が言う。

「みんなそろってるよ。遅いと思ったら、どこで済ませて来たの?」

マーブル君は一角獣の髪を撫でている。

「どこって、下で」

ヒュー君が答える。そのわりにさっぱりして身綺麗さも保っている。

「どうせ、閉架書庫だろ」

「そんなとこ。お前らの方こそ、移動までしてよく我慢できるよな」

「それ、褒めてる? ここはリラックスできていいよ。

あそこはあそこで秘密めいていいかもしれないけど。ねえ、聞いてよ。

信じられないんだよ。君達の弟ったらさ、予定外を誘惑して来るんだもの」

注目の二人はじゃれついている。

先ほどからキフィ君がそれを無言で見つめる。

予定外に含まれるであろう私も、キフィ君にとっては度外視のようで安心した。

「どんな風に、口説いたんだ。俺にも教えてほしいな」

冷ややかな声だった。

「キフィ? え、こわい顔」

「おい、大丈夫か……」

「そう苛つくなよ。他の牡羊と仲良くしているのが、そんなにいやなのか?」

驚きと心配に続く冷静な声がした。

「……ヒュー、こうなるとわかっていたな」

ヒュー君が頷くので、キフィ君は堪えるように一度瞼を閉じた。

そして、ゆっくり開くと、親しげな二人の間に割って入った。

ようやくキフィ君に気づいたシア君が嬉しそうに兄の名前を呼ぶ。

隣のラルフ君は穏やかに微笑している。

「キフィ、君はロマノフの代わりもこなすんだね。すごいよ」

「ふざけるな。このために同行したのか? お前は、こっちだ」

片手でラルフ君の胸を突いたかと思えば、もう片方の手で弟の腕を引っ張っていく。

シア君は不安な瞳で二人の顔を交互に見るが、兄に従って囲いを抜けた。

「時間切れだね。連れていかれちゃった」

金羊種は明るい声で俯いた。

1.7.8

無論、私は影を放つ。

キフィ君は反対壁をその場所に決めたらしく、シア君を壁面に押し付けた。

私に、ではなく兄に背を向けた弟の後ろ裾がめくられる。

貝は剥がされ、腹に留まっていたものが掻き出される。

ラルフ君の願いは早速無効にされた。

「……のか? 言うことを聞かないから……」

「……わけないよ! な、何して ……っ」

言い合う声が静まり返ったフロアに響く。

拾えない言葉もあるが、こうも筒抜けなら影を放つまでもなかったかもしれない。

シア君がこちらを向いたと思えば、壁に背をつけてずるずると滑り落ちた。

その眼前で、ラルフ君が思い留めたことが実行されようとしている。

「……じっとしてろ。飛び散るだろ……」

「……や、やだ。無理だよ……! 待って!」

強引さの爪は甘く、受け入れを拒む者を従えることはできなかった。

試みは失敗に終わった。

「……キフィの馬鹿。綺麗にしたばかりなのに……」

「……だろ。拭いてやる。自分のはいい気が……」

この時点で影を放つだけの意味があった。

対照的な牡羊らが、悦に浸るに十分なものを見せてくれた。

キフィ君が弟の濡れた額や頬を手で拭うと、何を思ったのか、その手で小さな口を蹂躙し始めた。

親指で構わず押し広げるので、苦しそうな息遣いが聞こえる。

「黒猫、覗いているんだろう? 何が起きているの」 

瞼を閉じる生身の私に問い掛けるのはマーブル君だ。

「さあて、キフィ君でも粗相をするのですね。シア君のお顔がちょっと、ね。

その後始末をしているところですよ」

「へえ、キフィは変わったよね」

結局のところ、苛立ちも強引さも根は同じだ。

影は、極めて甘い仕上げのキスを見納めた。

一時して、眉間を寄せたキフィ君と片手で顔を隠したシア君が戻ってきた。

繋いだ手に目がいく。首筋の鬱血にも。

「お前さ、いつもシアにそんな風じゃないか?」

「ヒューの説教は受けない。誰のせいと思っている」

「つんけんしてんな。下で引き留めたのは悪かったよ」 

「グルになって何が悪かっただ。金羊種とでも仲良くしていろ」

俺はいいのかよ、とヒュー君がぼやく。

「僕が食い下がったんだ。ヒューをそんなに責めないでくれ」

「まだいたのか」

舌打ちにラルフ君は苦笑した。

「キフィ、落ち着けよ。やっと報告会が終わったっていうのに、なあ」

アトリ君はやや迷惑そうだ。

その手はマーブル君の膝を枕にする一角獣の頭にある。撫でられる一角獣も頷く。

「綿雪羊は人気者だね。けれど、こっちのそらは何かと面倒そうだ」

長居はしたくないね、と付け加える。

「『綿雪羊』って言った? 金羊種だろ。黄金色っていったらさ」 

シガラ君が口を挟む。

「有蹄類の僕にそんなことを訊くの。どう見ても綿雪羊だろう。『金羊種』って何だい?」

「金毛を持つ牡羊のことだよ。もともとは『楽園の羊』だったかなあ。

滅多にいないから稀少型に分類される」

隣のハウエル君が答え、ラルフ君をちらと見る。

「面前で言うのは気が引けるけれど、君には惹き付けられる。そういうことなんだ」

「ふうん。僕の知る綿雪羊は全身真っ白で渦巻きの角を持つ。

ただし。角が折れると、白い毛は黄金色に輝き出し、短命になる」 

一角獣の言葉にシガラ君とハウエル君は頭をひねっている。

ふと、外天生物のいう短命とは幾ばくをいうのだろうと思った。

「君の意見が訊きたいな」

マーブル君がラルフ君に直球を投げた。

微笑む牡羊は眉尻を落とす。

「僕らのことを『金羊種』という者もいれば、『綿雪羊』ともいう者もいる。

どちらも僕らのことだ」

「ほらさ」

一角獣はさも得意気だ。

その顔を見つめ、ラルフ君が言う。

「一角獣、君には角があるんだね」

「ああ。お前達は色々と欠けているね」

「折れてしまったんだ。それが金羊種というものだから」

「自己修復はできないのかい?」

「兆しはない」

「気の毒に」

「そうでもないよ。仰ぐ天が違っても楽しみは見つかるものさ。それに、方法がないこともないんだ」

金羊種と一角獣の会話に口を差し挟む牡羊はいなかった。

「ラルフ……何の話をしているの? 金羊種と綿雪羊が同じ?」

最初に言葉を発したのはシア君だ。

「そうだよ。シアが夢で見た綿雪羊は別の奴らだけどね。こっちでいう外天生物ってやつ。

療養所の役割も忘れてしまった? 僕のことを覚えているのが不思議なくらいだ」

言葉を切り、キフィ君を一瞥する。

「君らは、外天活動中に溺れないよう言い聞かされているんだろう。

向こうで魅了されてしまえば、彼らの愛玩動物になる。飼い主が絶対の存在になるんだ。

でもね、反対のことも起こり得るんだよ。一角獣が見惚れてしまったと同じように。

誘惑する牡羊に惹かれてしまったものはどうしようもないよね。

魅了された側が別の天に捕らわれる。

君らが落ちればあちらのもの、僕らが落ちればこちらのものになる。

僕は外天から落ちてしまった。ただそれだけさ」

ペール・アクアの瞳がじっとシア君を見つめる。

「シア、思い出したことはない?」

訴える瞳にシア君は言葉をつかえさせた。

「悪かった。無理に思い出さなくてもいいんだ」

「……ラルフ」

「そろそろ帰った方がよさそうだ。パラダイスの扉を開くのはやっぱり君がいいな。

シア、またね」

力なく笑い、図書フロアを後にする。

『求める』という意味においては、彼は最初から最後までシア君しか見てはいなかった。

立ち去る牡羊と残された牡羊を見比べる。

すると、菫色の瞳もまた鋭い目で彼らを見つめていた――――

「これをどう報告したものかと思いまして」

「急に姿を消したかと思えば、そんなことが起きていたのかい。

観測局の大事な局面だというのに、バロは最後まで戻らなかったね」

「申し訳ありません。何分、彼らに心をそそられたもので」

「どうしようもないね。出番を終えていたのを鑑みて、大目に見てあげよう」

「無闇に恩を着せる奴だなあ。契約段階になれば、俺とキーツの出番しかないだろ。

研究地区での活動継続も承認された。困りはなかったよ。

バロは暇を持て余さずに済んだというわけ」

「左様で」

「まあ、そういう言い方もあるね」

キーツとジェラルドに報告と言い訳を述べながら、Cb.キュムロニンバスとともに火を差し出す。

雷雲で知られる重めの煙草だ。

これで許してもらおう。

燐光体の匂菫が香った夜の処置をするにはお誂え向きだ。

すべての貝は平らげられ、テーブルには黒光りする殻が残された。

図書フロアに残ったマーブル君は壁沿いのソファに仰向けになっている。

その両脚を一角獣が抱え込み、持ち上げたそこに顔をうずめる。

「僕、ここ好きなんだ」

そうして星への入口を飽きずに舐める。

いつまでも続くので、流石の小悪魔も弱音を吐いた。

「ずっとそこばっかり、本当に好きだね……んっ……焦らすんだから……っ」 

星が激しく突かれる頃になると、一角獣はマーブル君に飲まれながらアトリ君を飲み込んだ。

同時に星を感じる者はとろけにとろけた。

牡羊は3人をよく好む。

それは、強固に結びついた一組がいてこそ成り立つものだ。

第三者の存在によって、関係を確かめ合っているように見える。

一組の兄弟、か。

観測局では兄弟単位で外天活動をする。

しかし、考えてみると不自然な点が浮かんだ。

2兄弟であった当時も、ヒュー君とキフィ君はバイトでペアを組んでいなかった。

時たま組むこともあったが、別行動が基本なのでそういうものと思っていた。

ヒュー君は必ずエンナと一緒で、単なるバイトではなく助手という位置付けだ。

ほとんどの場合、処置まで片付けてしまう。

キフィ君はキーツ局長と一緒だ。こちらもご同様だ。

どことなく、キフィ君を助手にするつもりと思っていたが、月虹の採取では監督を私に任せ、シア君と組み合わせた。

これを兄弟単位と捉えるか微妙なところだ。

いずれにせよ、やはりヒュー君は毛色が違った。

「もう、また……目覚めちゃいそう……あんっ」

マーブル君は気持ちよさそうに喘ぐ。

「目覚めてしまいなよ。貝なんかよりずっと温かくていいだろう」

一角獣は嬉しそうだ。

「君達、時間だ」

ジェラルドが開手ひらてを打って呼び掛けると、ソファから離れたアトリ君がキーツの隣席に座った。

髪をかき上げ、疲れた顔で天井を見上げるので色気がだだ漏れだ。

触れ合う者が二人になったところで照明が落とされた。

途端に、瞬き1回分のめまいを感じた。酩酊と異なる感覚だ。

外天活動中に一角獣が落ちたのは想定外だった。

いくら観測局であっても、理の異なる外天生物をいつまでもこちらには置けない。

マーブル君の体を覆った紫貽貝を食べ終えた時点で外天へ帰す決まりだ。

それが今夜だった。

先夜から屋上のペントハウスに匿い、今夜まで3人で仲良くさせていた。

「……僕と一緒に来ない? 君に飼われたままでいい……」

声の方向からして、二人は寝転がった状態でささやき合っているようだ。

「……その誘いには乗れないよ。また外天で会ったら可愛がってあげる……」

「……向こうで会ったら、今度は僕が可愛がる番だよ。覚悟して……」

「……楽しみにしてるよ……」

キスの音が暗闇に溶けると同時に一角獣の気配も消えた。

再び明るくなると、ジェラルドが立ち上がった。

横たわるマーブル君の近くに手を突き、顔に顔を重ねる。

星には触れない。

嫌われ者の役目は果たされ、菫ばかりの熱狂状態に終止符が打たれた。

兄弟の帰宅後、私は質問を口にした。

「キーツ局長、ジェラルド技師。少々気になる点をお尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「改まって、何だい」

「どうした」

「あなた方は綿雪羊と金羊種の関係に驚きもしませんでしたね」

言うと、二人はやや目を細めた。

口元の笑みがどちらも深まったように感じたのは、気のせいだろうか。

「それに、一角獣もラルフ君も、あたかも金羊種が複数いるように話していました。

療養所もただの患者がいるわけではないようですし」

そこまで言った時、キーツが艶っぽく小首を傾げた。

「気になるのはそれだけかい? はっきり言うといい。シア君は何者ですか、とね」

1.7.9

――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。

慎ましやかな匂菫が香り立ち、燐光体を多く飛ばす夜に紫貝狩りが為されました。

花蜜に惹かれる蝶の群れが行き先を教え、秘密の狩り場へと導いてくれます。

本件の紫貝は、菫の原で出会った一角獣に種蒔かれ、事後萌出した牡羊の体より採取しました。

一角獣の姿は、絹のたてがみに神秘を纏い、高潔より生まれ出ずるよう。

万病を癒し、邪を払う反面、熱病の最中は星を突く加減も知らぬ激しさと語られます。

綺羅の鱗と見紛う紫貝を剥ぎ取る行為は、慎重を期すため難作業に数えられます。

集めた紫貝を粉砕し、燐光体の匂菫と亜麻仁油と混合すると、蓄光性を持つインクになります。

芳しく香る "Luminous Violet-Ink" のラベルには、一角に貝飾りが描かれる模様です。

なお、本報告は観測局員・エンナのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――

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