兄弟と黒猫-6の2 虹渦を巻く【虹色】


1.6.5

授業中、シガラはキーツの『頼み事』を受信していた。

「シガラ君、先夜はご苦労様。蠍のダンスは大変よかったらしいね。

君の働きの甲斐あって素晴らしい碧涙を入手することができたよ。

あれから体調に変わりないだろうか?」

午前の授業が終わり、俺はキーツの音声を再生した。

労いと体調を気遣う言葉の中にご機嫌さがにじんでいる。

碧涙は観測局長のお気に召したらしい。

我ながらよくやったと思う。

外天から戻って半日経つが、体のどこにも不調はない。

ないが、普段突かれ慣れない星が刺激されたせいで平常に戻ってはいなかった。

蠍の動作と続くルイスの労わりを思い出し、腹の奥がじんとした。

「外天活動についても、見学を快諾してくれて感謝している。

またひとり、バイトメンバーに可愛らしい牡羊君が加わるので仲良くやるように。

その件に関連して、ぜひとも君達兄弟に彼の補助役を頼みたいと思っている。

というのも、シア君自ら補助役を頼む機会が用意されていないようなんだ」

そりゃそうだろ、と俺は思った。

通常なら、保健科目をクリアするために他の兄弟の片一方に補助を頼む。

シアはサフォーク、コリデール、メリノの3兄弟だ。

この時点で補助役の入る隙がなかった。

しかも、サフォークとコリデールは上級クラスで一緒にいるわけではない。

外れたメリノが頼んでもおかしくないが、弟は兄しか見えないものだ。

自主的に動くことは考えにくく、そうなると観測局のバイトに支障を来す。

下手を打てば、観測局は使い勝手のいい牡羊を同時に何人も失う。

だが、ひとつ断っておくと、他の兄弟が新しい牡羊を知りたがっている。

このことにキーツは気づいているはずだ。

腹の内を明かせば、こんな頼み事がなくても俺らが真っ先にそうするつもりだった。

「詳しい内容は電子便に記してある。ハウエル君にも同様のものを送っているよ。

そうそう、シア君にとって初めての経験であることを頭に入れておいてくれ。では、また夜に」

最後に魅力的な知らせを告げて音声は終了した。

「キーツが補助に付き合えってさ。シアの」

隣のハウエルに向かって言う。

「僕にも電子便が届いている。シガラが暴走しないよう見張っておいてくれって」

「はあ? 誰が暴走するって?」

「さあ。脊髄で動く誰かさんのことかもね。なーんて」

冗談めかして言う。

反論しようと口を開く前に頬を寄せてくるのでタイミングを逃した。

しばし互いの唇を楽しんだ後、シアと合流するためにヒーリングルームへと向かった。

正確には、ヒーリングルーム専用のモニタールームへ。

最初にそこを訪ねるようにと電子便にあった。

第7研究室は、広めの研究室を区切って小部屋をこしらえている。

そのため、別室のモニタールームがメインルームであり、教師の普段過ごす空間でもあった。

ドアの前に立つと、訪問を知らせるより早く、中から入室を促す声がした。

「どうぞ、お入りなさい」

「失礼します」

室内は暗く、幾つものモニターが青白い光を放っていた。

振り返ったのは前髪を編み込み、ゆるやかなヘアスタイルをした白衣の教師だ。

教師の研究対象は、ヒーリングルームで行われるレクリエーションの治療効果だが、全自動観察システムが作動しているため、かなりのんびりして過ごしている。

俺らに近くの椅子を勧め、ハーブティーまでご馳走してくれる。

ルームで越権行為がないか監視の目も光らせているらしいが、それを知ってなおのんびりしているので傍目ではそうとわからない。

「話は聞いています。シア君を迎えに来たのですね。

彼はヒーリング後の集中睡眠を取っているところです。ちょうど、覚醒準備に入りました」

指差したモニターは薄暗く、他より画質の落ちた映像の中に白い塊が見える。

すると、暗い部屋は次第に明るくなり、朝がやって来たと思うほどの光量に包まれた。

外壁側に窓があり、ゆっくりカーテンが開けられ自然光が差す仕組みだ。

少しして目が慣れると、鮮明な画質の中でシアが目覚めていく様子が見て取れた。

ここではこういうやり方で自然な覚醒を促すのだ。

続けて、教師はマイクに向けて語り掛けた。

「シア君、おはようございます。まもなくヒーリングの終了時刻となります。

窓際に水を張ったボウルを置いていますので、顔を洗って目を覚ましてください。

急ぐ必要はありません。自分のペースで支度を行ってください。

ここでガイダンスを終えますが、ルームの使用履歴に研究員の連絡先が載っていますので、

気になることや相談事があれば、気兼ねなくご連絡ください。

それでは、健やかな牡羊に快適な眠りが約束されますようお祈りいたします」

教師が仕事をしている風に見えるのはこのガイダンスだけだった。

その終了とともに、のろのろと起き出すシアの姿が映る。

ボウルを見つけたようだ。そばにフェイスタオルやヘアブラシも置いてある。

モニター越しでもボウルの底にペパーミントの葉が沈んでいるのがわかった。

爽やかなメントールが眠気を払ってくれるだろう。

「支度はすぐ済むでしょうから、君達はエレベーター前のラウンジで待ってなさい」

マイクを切った後、教師は言った。

「彼の状態変化が楽しみですね。興味深い手法です」

教師はブランチド・アーモンドの瞳を微笑ませて呟いた。

どんなヒーリングが施されたのか気になったが、呟きは俺らに向けられたものではない。

さっさと退出し、出てきたシアを呼び止めた。

「シア、おはよう。こっち来いよ!」

「おはよう。ヒーリングはどうだった?」

呼び声に立ち止まり、こちらへ顔を向けるが何だか変だった。

突っ立ったままで返事がない。

近寄ってみると、シアはまだ寝ぼけていた。

前髪に滴がついていたので顔を洗ったことはわかるが、あどけない表情でこちらを見上げる様子は恐ろしく無防備だ。

「ん、可愛い顔してどうした?」

耳の辺りに軽くキスをする。

ふわっとした質感に俺は目を細めた。いい匂いもする。

いつものシアなら騒ぎそうなものだが反応が薄い。

もしかすると、これは初めての接触になるのか?

そんなことを考えていると、ハウエルが脇を小突いた。

「シガラ、気づきなよ。ヒーリングと集中睡眠の組み合わせ。直後なんだよ」

言いながら、ハウエルはシアに近づき、ゆっくりした動作で片頬にキスをした。

そうかと思えば、惜しいとばかりにもう一方の頬にも唇を寄せる。

「こんなにぼうっとして、すごくよかったんだね……」

うっとりした口調に俺は何事かを察した。

またしてもシアの反応は薄いが、幾らか頬に赤みが増している。

「はーん、そういうことかよ」 

着ている丈の長いシャツをめくろうとすると、その手を止められた。

「……何、するんだよ」

ようやく頭が働き始めたようだ。

高まりを隠しているつもりか知らないが、シアは熱を帯びた瞳で睨んでくる。

瞳が潤んでいるせいで全然威嚇になってない。

その時、階段を上ってくる生徒の話し声が聞こえた。

昼休みとはいえ、ヒーリングルームを出れば、いつどんな生徒と出会ってもおかしくなかった。

出会えば当然。まあ、遅れを取るなってことだ。

俺はキーツの頼み事に合点がいった。

「そこ、どうなってんのか見ないとわかんねえじゃん」

「……どうもなってない」

「やめなよ、シガラ。仕方がないだろう。あの後はみんなこうなるんだから」

「……ちが、」 

「違うの? 出てきた時からこうなってたよ。もしかして、気づいていなかった?」

ハウエルは真顔を作り驚いてみせた後、穏やかな笑みを浮かべた。

完全に口説きに入っている。

「頬もこんなに色づいてさ……そうだ、知ってる?

十分な睡眠の後は、体がゆったりして刺激を感じやすくなっているんだ。つまり、」

手で口を隠し、続きをシアの耳に吹き込む。

シアはさっきまでほんのり桜色という具合だったが、今やその顔を真っ赤にしている。

「ねえ、シア。僕達ね、保健科目の補助役を探しているんだ。協力してくれると助かる。

シアにだって悪くない話なんだよ。基本タスクは評価に繋がる。兄弟のためにもなるんだ」

気づいた時には、弟同士で体をくっつけ合っていた。

ハウエルが主導しているとはいえ、シアに抵抗する様子は見られない。

俺とハウエルで態度が違うだろ。

そんな腹立ちも、眼前の興味にたちまち消えた。

二人のやりとりがこそばゆく、熱っぽい気分になる。

「初級カリキュラムを終えたんだから、補助役の必要性はわかるだろう。

僕達としよう。知らない牡羊を相手にするのは怖いだろう。可愛がってあげる」

火照った耳にささやけば、小柄な体に震えが走った。その吐息は熱い。

ハウエルは『何を』とは言わなかった。

代わりに、俺の手を使ってシャツ越しに触れてみせる。

シアの身じろぎが伝わる。

「何だ、もうとっくに出来上がってんじゃん」

言うと、シアの肩が大きく跳ね、恥ずかしさのためか目を伏せた。

俺はひと欠片も恥ずかしいと思わなかったが、そのしぐさには大いにそそられた。

今度は俺のを押し当て、熱っぽさを伝える。

「……わかったよ」

シアの同意を得てすぐ、逸る気持ちを抑えてシナバーの部屋へ移動した。

シナバーはシャワー室に一番近いプレイルームだ。

不透明な赤褐色は別名を辰砂といい、水銀と硫黄から成る鉱物顔料の名前だった。

高温で溶かすと鮮やかな紅色になる。

この色にはたぎるような魔力が込められている気がする。

今の気持ちにぴったりだ。

入室すると、赤いベッドを椅子代わりにシアを座らせた。

「最初に基本タスクの説明があっただろ。あれ、どうなってる?」

俺らはシアを挟んで座り、生徒間で公開可能なタスクを表示する。

「まだ、全然……」

「いいんだ、当然さ。見方はわかる? こっちが毎日することでこっちが毎週、毎月。

学期内にしておくこともあるんだ」

「要らねえのに禁止事項まで載ってんだぜ」

「はは、シガラのいやなもの一覧だね。それで、今からするのがこれ」

補助経験の項目が未実施であることを一緒に確認する。

俺達も落第になったせいでこの項目を取り零していた。

シアを見ると、不安げに瞳を揺らしている。

さっきの虚勢も悪くなかったが、こういう顔はいっそう煽情的だ。

「大丈夫だって。俺らに任せろよ」

「心配ないよ。3人で気持ちよくなろう」

初めてのことは何でもそうで不安になる。

だから甘い声でやさしく誘って、快感に震える顔を拝みたいと思った。

キフィが付けたキスマークは消えている。 

「キスマークを付けたくなるのもわかるぜ」

食い尽くしてしまいたいのだ。

だから、他の牡羊にあげる分はないし、あげるつもりもない。

俺とハウエルはそれぞれが欲しいものを撫でたり擦ったりして、思うままに可愛がった。

シアをとろかすつもりでいた。

だが、信じられない刺激でとろけたのは俺らの方だった。

シアの肌心地はしっとりして吸いつくような柔肌で驚いた。

進級したばかりだといっても、このやわらかさは破格だ。

そのせいですべてが格段に心地よく、危うく薄雲を使い忘れるところだった。

1.6.6

補助経験の項目が更新される頃、シガラはハウエルと並んで事務所へ向かっていた。

今夜はバイトに付き合わされる身だ。

だから、あの後少し眠って俺らは夜に備えた。

サン・オレンジの毛色の牡羊もよく眠った。

ヒーリングルームでも眠っていたくせに、気持ちよさそうな顔で本当によく眠る。

「これさ、キーツの字だ」

眠っているシアの手首には紙でできた白地のリボンが巻かれていた。

丈夫なペーパーリボンには虹色のインクで『Treated』と書かれていた。

淡い七色のグラデーションは不思議と心安らぐ色をしている。

「本当だ。キーツさんが来ていたのか。処置済み……どんなヒーリングをしたんだろう」

「だよな。教師も興味津々だっただろ。気になって仕方ねえよな」

常勤の教師と違い、特別研究員であるキーツのヒーリングを受ける生徒はほとんどいない。

サンプル数は少なく、俺らだって未経験だ。

外天のインクを使えば、奇想天外な夢を見るらしい。

夢の内容はさまざまだが、心地よさに包まれ、目覚めた時には深い満足感が得られるとか。

キフィが変異後に受けたと聞いていたが、この件を確かめたことはない。

ペーパーリボンを眺めつつ、ベッドに寝転がってハウエルと絡まり合う。

そうして、あれがよかっただとか次はこうしたいだとか互いにささやいては笑う。

プレイルームの使用時間が切れる直前にシアを起こし、シャワー室で体を清潔にした。

薄雲を専用の容器に放り入れたら頼み事は遂行だ。

すっきりして、正面エントランスで別れたのは数時間前のことだった。

その間に日用品の買い出しをし、マーケットスクエアをぶらついてネクタリンのソルベを食べた。

観測局の通りに出れば、黒看板まで駆け抜ける。

建物の入口近くへ来ると、淡い金髪のロマノフが目に留まった。

自然な立ち姿が様になる。

それは、抜け感のある声から受ける印象と同質のものだ。

礼儀作法に慣れたキーツやジェラルドとは違う種類の格好よさなんだよな。

そんなことを考えながら、どうしてこんなところにいるんだろうと思った。

「なあ、事務所で待ち合わせだったよな?」

「うん。ルイス、どうしたの?」

駆け寄ると、俺らに気づいたロマノフは短く言った。

「予定変更だ」

ルイスが口を開くと、美しく仕上がった人形が突然話し始めた気になる。

出会った当初はびびって、その後しばらく面白がっていたが、顔を合わせる回数を重ねればそれも慣れてしまった。

「状況が変わってね。通り道で落ち合うことになった。バロ達は先に行っている。

僕達も行くよ」

ルイスはそれだけ言って、通りから狭い路地へ入ると足を早めた。

目的地は美術館に隣接した東区の公園だった。

閉館時刻を過ぎた今は柵状の門扉に鍵が掛かっている。

数か所ある門の中でも目立たない扉を解錠し、月夜の園路を進んでいく。

この公園は知っていたし、園内の地図も頭に入っていた。

だが、俺らは静かな散歩や野外の読書を楽しむ性分ではないので馴染みのない場所でもある。

人工の緑地らしく手入れは行き届き、このお上品な小綺麗さはアトリとマーブル好みだ。

中央に噴水があり、周りの植物に溶け込むように屋外灯やベンチが配置されている。

背もたれが大きく湾曲した緑色のベンチの前に立ち、背中をみせるのはバロだ。

長い黒髪を束ねてポニーテールにしている。

黒猫のしっぽだ。

俺らに気づいてこちらを振り返ると、ベンチに座るキフィとシアの姿が視界に入った。

「よお、昼ぶり。まだ出発してなかったのか」

「やあ、キフィも一緒だ。珍しいね」

キフィは頷き、シアは小さく手を振った。

その時、いるはずと思っていた人物の姿がないことに気づく。

「そろったようだな。時間が押している。今日のところは、キーツに代わって私が説明する」

そう言ったのはエンナだった。

やや低音のなめらかな声がよく通る。

バイト入門と聞いていたのに、キーツがいない。

ルイスとバロを見ると、落ち着き払って頷いている。

このバイトに予定変更はつきものだ。

キーツの不在は動じる理由にならないし、説明するったって、観測局が一から十まで懇切丁寧に教えることはない。

「今夜、外天にはハウエル君とシア君に行ってもらう。

基本事項だが、外天生物は本能的に星を求める。

とくに虹蛇は隙間を見つけては執拗に塞ぐ習性がある。だから、簡単には出させてはくれない。

満ちるまで続く。その間に自ら意識を手放したり、相手の誘惑に溺れたりしてはいけないよ。

ハウエル君、君にはシア君のフォローを頼むよ。水晶のタワー群が目印だ。

合流の手を打っているから、探索の手間は掛からない。

虹蛇は話好きの部類だ。遭遇しても話半分に聞くように。

限界と判断したらすぐ呼び戻すが、自分の置かれた状況を知ることも大切だ。いいね」

そこで言葉を切ると、エンナは白っぽいしなやかなチェーンをハウエルとシアに手渡した。

チェーンにはリングが通してある。

ハウエルの手の中で、リングの爪に留められた宝石が月明かりを集めて輝いた。

月光を思わせるとろみがかった乳白色の光沢。

半楕円のカボションカットに浮かぶのはやさしげな青。

ムーンストーンだ。

さらに、その宝石には内包物があった。

小さな螺子を引き抜いた空隙のようにも、多足類が抜け出した穴のようにも見える亀裂だ。

「これを身に着ければ、磁石のように引き合うだろう……ああ、ショーが始まった。

もうまもなくだ」

話の途中から噴水のポンププログラムが始まった。

制御された水が幾筋も噴射され、白く泡立ち煌めきながら伸びやかに踊る。

「シア。それ、ネックレスを。早く」

ぴんと来ていないシアに構わず、キフィはネックレスを奪った。

そのくせ、やることは甲斐甲斐しい。

丁寧な手つきで首に着けてやっている。

その後、シアのうなじにキスするしぐさをみせたかと思えば、なぜか留まった。

「何だ、あれ。意味がわかんねえ」

「ふっ、いいじゃないか。シガラ、僕にも着けてくれるかい?」

ハウエルがにやにやしながら言うので、俺ははいはいと返してネックレスを預かる。

さっさと首に回し、最後に留め金とまとめて白い首筋にぞんざいなキスをする。敢えてだ。

「乱暴だなあ」

「うるせー。これで満足しろって」

勝ったつもりで笑えば、ハウエルも体を傾けて笑う。

すると、しなやかに動く金属が首を這う白蛇に見えた。

無用心なところを這う蛇を見て、俺はうなじに噛みつきたい衝動に駆られた。

すでに辺りには水煙が立ち込めていた。

やがて、それが作り出すつかみ難く不安定な幕に虹が浮んだ。

「さあ、虹に向かって進むといい……行っておいで」

やんわりと、エンナの声が二人の背を押す。

水の噴射によって地面には濡れて湿った円が現れた。

その円よりひと回り大きな円がはじめから存在していた。

噴水の意匠のひとつで、小さく砕いた半透明の白い石が埋められている。

こちらと向こうの境界線だ。

「じゃあね」

「あとでな」

いつものように俺は答えた。それ以上の言葉はいらない。

ハウエルはシアを促し、足取りも軽く境界線を越えた。

今や虹に到達した二人の体は七色の光と重なって透き通り、俺の目に映ることはなくなった。

1.6.7

砂を踏む感触に気づくと同時に暗闇が去ったことを知った。

ハウエルは白い砂地に裸足で佇んでいた。

消えたものは靴だけだ。それと、

「シアはどこだろう」

澄ました月が辺りを照らし、遠くまで見渡せるがシアは元より生き物の気配すら感じられない。

踏みしめる砂には透明な石が多く含まれていた。

月の光に照らされてそこら一面煌めいている。

石英のように見えるが、そう見えるだけで、外天に在るものの正体は知れない。

氷の化石かもしれなかった。

外天には、そんなものが存在しても少しも変ではないのだ。

やや先に泉が連なっているのが見える。

泉の淵まで歩いて行くと、僕はしゃがんで水底を覗き込んだ。

自然に湧き出ているわけではなさそうだ。

泉というよりは、砂丘のへこみにできた大きな水溜まりだ。

成分の違いだろうか、側面にくっきりと境目が付いている。

上層は色がなく透き通り、中層は明るく澄んだ薄青、下層はほとんど黒に近い青。

見たところ熱水ではなかった。

手ですくおうとすると、水面に強く弾き返された。

ぷるんとした弾力に手を引っ込める。

「嘘だろう、ゼリーだ」

予想外のものに出合い、気がゆるんで声を出して笑った。

しかも、顔を上げた拍子に対岸のサン・オレンジを見つけた。

「シア、こんな近くにいたのか」

「ハウエル! よかった」

シアはほっと笑顔を浮かべた。

その首元で青色閃光が散乱した。さっきのリングネックレスだ。

僕にも同じものがあるか手探りで確かめる。

外天で馴染みのあるものを見つけることはまずない。

ましてや、同じ牡羊に出会うことなんて。

シアを見つけたことで僕自身もどこか緊張がほどける気持ちになっていた。

外天に慣れたつもりでいたが、そうと知らず気が張っていたようだ。

「あそこで道が繋がっている」

僕はゼリーの連なりが途切れた場所を指差した。

ゼリーを突っきる方法も頭に浮かんだが、あの弾力でも僕達の体重には耐えられないだろう。

目測では底に足が届くほどの深さだ。

体の重みでゼリーが潰れても、底伝いに向こう岸へ渡ることができるかもしれない。

ただ、こういう場所には思いも寄らない罠がひそんでいる。避けるのが身のためだ。

それで、同じ歩速でゼリーの淵に沿って進み、シアと合流した。

「もう少し歩いてみよう」

「ずっと砂丘が続いているね。水晶のタワー群って何だろう」

「さあ、僕にもわからない。わからなくても、きっと向こうが僕達を見つける。

彼らは、外天生物のことだけれど、異物や侵入者を察知するのに長けている。

ここは静まり返っているし、僕達の話し声も聞こえているはずだ――――来た」

砂粒が伝い落ちるさらさらという音が妙に大きく響いた。

聞こえるのはそれだけだが、見渡す限りの砂丘は静かに変容し始めた。

砂地は変わらずどこまでも続いている。

けれど、眼前に無数の透明な柱が出現したのだ。どれも巨大だ。

手を伸ばして触れると、冷たく硬い質感がする。

柱の根元は白く不透明で、あるところより上は屈折した夜空が透けている。

ところどころ、ファントムクオーツの特徴であるぼんやりした山型の模様が浮かぶ。

これは成長痕だ。内部に亀裂も走っている。

エンナの言っていた水晶とはこのことだろう。

見上げるほどに高く伸びた六角柱の水晶は、タワーのようであり、剣のようでもあった。

無数の柱は巨大な水晶クラスターだ。

柱の頂点はてんでばらばらな方角を向いているが、その中にも天頂に向かって垂直に伸びる水晶タワーがあった。

タワーの頂点と円盤じみた月とが重なる。

月の輝きは僕達が知るものとよく似ていた。

けれど、外天の月はどういう仕組みで輝くのだろう。

こちらに太陽はあるのだろうか。

見つめる先はあまりに高く、キィンと耳鳴りがした。

気にしないでいると、耳鳴りはますます高音になり、最高潮に達した。

その時、月の輪郭がぶれた。

そう見えたが、すぐに間違いと知る。

尖った頂点で白い布地がはためいているのだ。

ぶれたのは、白い服を纏った何者かが立っているせいだった。

月を従える姿は神秘的で、祭服を纏う美しい僧侶を連想させた。

もっとよく見ようと目を凝らした矢先、姿を見失った。

「殊勝な。自ら獲物が現れた」

背後から声がした。

くすっという笑い声も。

そうかと思えば、うなじに突き刺すような痛みを感じた。

反射的にその部分を片手で覆う。

なぜかシガラのキスを突き止められた気がした。

痕跡すら、ありはしないのに。

腕を後ろに引いた勢いで声のした方へ体を向けると、数歩先に男が立っていた。

男は腰に帯を巻いた煌びやかな衣服を身に着けていた。

祭服に見えたのは純白の布地のせいであり、金糸銀糸に凝った刺繍や縁取り、房飾りなどがあしらわれているせいでもあった。

視線の先で、白色に輝く流れる髪を片耳に掛けている。

その所作には、くねり踊り出すようななまめしさがあった。

「よくもまあ、こんな辺鄙なところへやって来たね」

微笑む男は、形容しがたい皮膚の持ち主だった。

それには薄い膜を張ったような滑らかな輝きがあり、細やかな模様が彫り込まれていた。

そして、猫の目……いや、この鋭さは蛇以外なかった。

縦に細長い瞳孔がこちらを見据えている。

鋭利な瞳と凶悪な気配をやわらかな笑みが打ち消す。

「よかった。うんと長いこと独りでね、ちょうど話し相手が欲しいと思っていたところだ。

牡羊はいつも仲良しで群れるらしいね。微笑ましい……

1匹より群れの方が捕まえやすいというし、好都合だ。君らは恋人なの?」

外天生物はみな魅力的だ。

発する声は誘惑のためにある。

今にも彼に身も心も委ねてしまいたいという衝動に駆られる。

「ねえ、どうなの?」

悪びれもせず、舌なめずりを僕達の目にさらす。

美味しく食べてあげる――――男の声でそんな幻聴が聞こえる。

彼らは常に食うことを考えている。

しかも、今は食欲の最も盛んな採餌行動の時期だ。

彼らにとって、僕達は異物や侵入者であると同時に鮮度の高い食い物でもある。

「『恋人』……? 恋人って、どういう意味?」

シアは男に向けて言った。

その後で、不安な顔で僕を見る。

「んー? 『恋人』では伝わらないのか。ああ、牡羊達は〈兄弟〉というんだったかな。

他にも別の言い方があったね。確か、」

「僕達は兄弟でも恋人でもない。餌に向かって話し相手なんて、回りくどいよ」

「ふふ、せっかちだね。まだ私が話している途中だよ。

君らとの会話も食事に欠かせない一連の遊戯だ。相手を知ることで味にも深みが増す。

だが、そんなことに構っていられない時もある。例えば、今がそうだ。

待ちきれないのなら、活きのよい君から始めよう」

その言葉が終わらない内に向う脛に鋭い痛みが走った。地面に両膝をつく。

膝立ちになった僕の視線はちょうど男の腰の高さにある。

見下ろされた格好で顎をつかまれた。

強い力で上を向かされる。

そうかと思えば、男の両方の親指が口の中へ否応なしに侵入する。

「牡羊の口は小さいね。伸び縮みしないのは不便だろうに。もっと大きく口を開けて。

でないと、裂けてしまうかもしれない。まだまだ、それでは足りないよ」

限界など知ったことではない、とその目が言う。

僕の口の両端をさらに押し広げるが、それ以上広がるわけがなかった。

「ここまでか」

諦めの嘆息。直後、ぬるっとしたものが押し込まれた。

抵抗する間もなかった。

「う……ぐっ」

途端に息ができなくなった。胸が苦しい。呼吸する隙間が、ない。

「……ぷはっ」

ようやく息をつげたと思えば、空気とともに得体の知れない液体を飲み下してしまった。

自分の体が冷えていくのを感じる。一方で、咽喉の奥がかっと熱くなる。

頭をつかまれ、咽喉の奥を圧迫される。

内側がぞくぞくする。

「私の言う事をよく聞いて。ほら、もっと奥まで飲み込んでごらん。怖くなどないよ。

奥の奥まで……その先には溢れてやまない快感が待っている」

口を塞がれたまま、しばらく頭を前後に揺さぶられたかと思うと、途中から左右の動きを受け止めざるを得なくなった。

うまく息ができないせいで、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回される気分だ。

でも、なぜか……感じるものは不快感だけではなかった。

不思議なことに、やがて来るものを星が待ち望んでいる。

僕は男の誘惑に溺れそうになっていた。

このことに気づけば、幾分頭がすっきりした。

咥えたものをよく見ると、白色のホースだった。

ビニール製ではない。革製の太めのホース。

それには細かな模様が入り、うねる様子は無機物とは思えない輝きがある。

咽喉の奥への圧迫もちろちろした小刻みの刺激へと変わっていた。

模様は緻密な鱗だった。蛇の鱗だ。

刺激が蛇の舌によるものと気づいた時、恐怖と快楽がせめぎ合い、風船が破裂した。

1.6.8

いつしか、ゆるやかな波に身を任せていた。

温かいジュレの上に寝そべっている気分だ。

接地する背中、首筋、脇腹、太腿の付け根、膝の裏……どこもかしこもぬめりのある管状体にくすぐられている。指と指の間までも。

少し凹凸も感じた。その引っ掛かりすら心地いい。

時々、体が大きく震えたが、そのたびに管がきつく巻き付く。

「あ……っ」

胸の先端を甘く噛まれた。

そうかと思えば、温かいものに圧迫され、ちろちろとくすぐられる。

甘噛み、圧迫、くすぐり。

連続した動きが全身の体力を奪う。そのせいでいつまでも眠気を払えない。

何とか正気を保っていられるのは、眠気以上に焦燥が勝るせいだ。

ああ、口より下の隙間が埋め尽くされている。

いいところを撫で回されるが、弾ける寸前で止められる。

出したくて出したくて、仕方がないものを出させてくれない。

風船が破裂したのは最初の1回きりで、より強く巻き付いて出口を塞がれる。

もう何度目かわからない。その繰り返し。終わりが見えなかった。

そこで、シアの姿が目に映った。

瞼を重たそうにするシアの体のさまざまな場所を蛇が這い、大きな隙間には頭から潜り込んでいる。

「シア、眠ったらだめだ……」

這った後に薄いオイルが付着し、肌がてらてらしている。

その姿態を目にしたことで自分の状況までもが明白になった。

「……う、ん……」

苦しそうな口から零れた言葉は男に飲み込まれた。

まだ、シアを気に掛けていられる内は余裕だ。

僕は溺れてはいないし、意識もある。

しかし、それを嘲笑うかのように男は長い長いキスをした。

ただ唇を重ねるのではない。

奥の、波状の突起を舌で撫で回される。僕も、おそらくシアの中でも。

「ん……っ……はあっ。まだ意に満ちたとは言えない。満腹になるまで、振り切ってよ」

顎に男の手が添えられると、さらに深いキスを受けた。

冷えた唇が心地いい。

的確に星が摩擦される一方で、蛇の胴に何度も巻かれた部分に噛み付かれた。

唇はあんなに冷たいのに口腔内は温かい。

包まれる感覚の後、ごく細い管を異物が遡ってくる抵抗感を味わった。

ぎちぎちと進むものだから最初は体が悲鳴を上げた。

痛みの頂点を過ぎれば、むず痒くてどう我慢していいのかわからなくなった。

行き止まりまで突き進むと、何かに触れた。

体が跳ねる。

「わかるかい? 今ね、星に触れたんだよ。直に。この意味がわかる?」

男の声が事を明らかにする。

「ね、気持ちいいだろう? どうなの? 素直な声を聞かせて」

まるで自分がキャンディかナッツにでもなった気分だ。

丸ごと口に放り入れられたかと思えば、舌で転がされ、もてあそばれる。

こんな心地は味わったことがなかった。

今まで星に受けていた刺激が、どんなに近くとも壁越しであったことを思い知る。

「さっきまでの活きのよさはどうしたの。いや、それはあっちの牡羊だったかな。

どちらも牡羊に変わりないのだから、違いなど些末なことか。

声を堪えてないで、鳴きなよ。ね?」

誰かの悲鳴が聞こえた。

誰か、じゃない。僕の悲鳴だ。

声はたちまち塞がれる。すると、咽喉の奥に快感が広がった。

わずかな隙間を抜けて意味を成さない声が漏れる。

「いい声だ。いつまでも聞いていたいと思うのに、塞ぎたくて仕様がない……ああ、ああ。

なんて美味しいんだろう」

全身が熱い余韻に震える間、男の手がうなじから背骨、尾てい骨までを撫でていく。

「はあ、腹が満たされたら眠くなるものだね。そろそろ水晶へ戻らなくてはならない。

あそこは安全だから好きなだけ眠るにはちょうどいいところなんだよ。

私が水晶の中で眠ると、この色のない山は虹色に輝くのさ。

先客の幽霊らが纏わりついて少々煩わしいが、逆を言えば戯れには困らない。

だが、あいつらが声を上げることはない。驚きもしない。退屈なのさ。

君らはなかなかどうして。ん? 思い出して震えているの?

気持ちよかったろう。またいつか……次は丸ごと飲み込んで……」

男の声がかすれていく。

どこかで水風船の破裂する音がした。

水飛沫を感じて薄く瞼を開けると、僕は砂地に腹ばいになっていた。

シアもそばに転がっている。

眼前にそびえる水晶タワーを見上げれば、内部に閉じ込められた虹を見た。

きらきらと七色に笑っている。

さらに上空には別の虹が架かっていた。

――――色無しの虹の出現は、外天からの帰還を僕達に告げた。

「ハウエル、もう我慢しなくていい。出すんだ」

背後から声がした。

あの声でなく、ルイスの声だ。

「破裂するんじゃねえの。柘榴みたいにさ。パァンてな」

前方から聞こえる弾んだ声はシガラのものだ。

期待を隠す時と同じ調子の。

「……シガラ」

一瞬、体から力が抜け、前のめりになったところを抱き止められる。

「危ねえな。腹にまき散らす気かと思ったぜ」

「……そんなヘマ、しないよ」

「どうだか。出すならこっちだろ」

「……珍しいね。どういう風の吹き回し」

「だってさ。ハウエルの、こんなになってんの見たことねえよ。どんなか知りたいんだ」

「……へえ、外天から戻ったばかりだよ」

全身が濡れそぼっていた。

外天生物との接触直後は、ロマノフ以外の者と触れ合わない決まりだ。

それは承知だろうに。

「……シガラの言うとおりに、してもいいのかなあ。ルイス?」

いくら兄弟でも許されるのはよくてキスまでだろう。ただ、

「……咽喉をしつこくされた。星も、本当にしつこかった」

「ご苦労だったね。今回はそうしていい。シガラ、他の部分ではだめだよ」

「わかってるって! ハウエル、ほら、早く入れろよ……」

シガラは公園のベンチに座っていた。

決して行儀がいいとは言えない格好で。肌を薄紅色に染め上目遣いに。

もとい、両脚を開いて星へと誘っているのだ。

求める気持ちを全身で表すので、愛しさが止められない。

「しびれを切らしても無理はない。ハウエルが戻るまで一人で支度していたんだから」

背中にルイスの体温を感じたかと思えば、大きな手に促され、顔を横向けにされた。

「君のサフォークはいじらしいね。見ていたいなら視線はそのままでいい……んっ。

まだ蠍の余韻が残っているはず、だから……はあ……もっと可愛い姿が、見られるよ……」

言葉の端々に吐息が掛かる。

同時に、尾てい骨の辺りが擦れるので焦れったい。

「二人とも、何やってんだよ。待ちきれない……」

焦燥を振り払うかのようにシガラは頭を左右に振った。

しばしそれを眺め、悦楽を味わう。

「早くう……ハウエル……!」

シガラは涙目だ。

「そうだね。僕も限界だ」

意地悪を打ち切り、いつもであればシガラのすることを僕がする。

昨夜の蠍に慣らされたくせに酷く締め付けてくるので、それほど大きな動作はできなかった。

星に届く前にどうかなってしまいそうだ。

その及び腰をルイスによって突き上げられた。それがそのままシガラに響く。

やにわに三様の息遣いが交差し、熱が渦巻く。

その時初めて、僕は別の気配を感じ取った。

肩越しに視線を遣ると、離れたベンチに複数の影が見えた。

はっきり見えたのは黒猫のしっぽだった。

そうすると、ベンチに座っているのはキフィだろう。間に挟まれるのはシアだ。

思わず、脳裏にある心像が閃いた。

巻き付く白蛇と、ちろちろと動く赤い舌。

膨張は自然なことだった。

一瞬の後、僕は堰切って溢れた。

溢れる、なんて容易いものじゃないが。

だくだくと流れ出る感覚で頭がいっぱいになる。

「あっ……立って、られない……」

すでに足腰の震えを抑えられない状態にあり、いつ態勢を崩してもおかしくなかった。

けれど、間に挟まれる体はそれをやり過ごして異常な量を放出した。

果てた体は全身で脈打っている。

「そろそろ固定化する頃だ。ハウエル、抜けるかい?」

「……無理。力が、入らない」

そう、と色っぽくささやくルイスに抱えられ、力の入らない体を後ろに引いた。

すると、べちゃっとした粘り気と引き戻される感覚がした。

星を突く部分も同質のもので覆われている。

正体はわからないが、大判の薄雲にたっぷり水分を含ませたらこんな風になる気がした。

「あ……んっ」

それを巻き取られる間、上ずった声が何度も出た。

ルイスは聞こえないふりをして作業を終わらせ、僕をベンチに座らせた。

息を整えつつ隣を見遣れば、隣のシガラはうっとりした視線を宙に向けていた。

脚の間をルイスの手が探っている。

驚いたことに、半透明の紐状のものを引き抜かれている。

見た目は白っぽく、幾つものくびれがある。

その間、シガラは少しも声を抑えられなかった。

というより、抑えるつもりがないのだ。与えられるままに感情を乗せている。

ああ、もう。喘ぎ声が腹に響く。体を震わせる様子も見てられない。

時間を掛けて取り出された物質は薄い腰紐のようだった。

幾らかぷるっとした弾力と厚みがあったが、空気に触れるとたちまち乾燥し薄っぺらくなる。

そうなってしまうと、折り畳まれたコットンガーゼだった。

それには見覚えがあった。

コットンガーゼは暈色うんしょくにきらきらと輝く。規則的な模様も読み取れる。

あの虹蛇の皮膚に酷似していた。

「虹蛇の抜け殻だよ。僕らが知る脱皮とはずいぶん違うね。

採餌中に色素成分をそそぎ、体外に出すことがあれば一定の形を取る。

皮、と言っていいものか怪しいね。

これを金運のお守りにする者もいるが、言うまでもなく、観測局はインクにする」

硝子に混ぜても面白そうだ、とルイスはもう次のことを考え始めている。

「……それちょっとさ、まじまじと見られると照れんだけど」

シガラはベンチに体を投げ出している。あけっぴろげだ。

その視線は、抜け殻に向いたり、宙を泳いだりと忙しい。

「……虹蛇っていっても、その、形……さ?」

珍しくまごついている。

まあ、その戸惑いはわからないでもなかった。

虹蛇の抜け殻といっても、実質、中身のない腸詰めと言い換えていいのだから。

離れたベンチでも話し声が聞こえている。

向こうでもきっと同じものが手に入ったのだろう。

僕達と事情が異なり、戸惑っているのはどうやらシアらしかった。

1.6.9

――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。

砂丘に昇った満月に幻想的な白虹が架かり、虹蛇の採餌行動は概ね終了しました。

採餌行動前の虹蛇は睡眠状態から醒めた直後に当たり、空いた部分を埋める習性が顕著です。

派遣した牡羊2名の空隙は悉く満たされ、虹蛇は再び睡眠状態に入りました。

被食者に注入された色素成分は、虹色に煌めく筒状の殻皮を形成して排出されます。

この殻皮から作る "Iris Quartz-Ink" は総じて品質がよく、変質も少なく長期保存が可能です。

インクのラベルには、とぐろを暗示する暈色渦巻が描かれる模様です。

古来、虹は蛇の一種と考えられ、多くの民話に水との深い関係が示唆されます。

本件においても、水晶の塔で入眠後、7日に渡る雨を降らせる見込みです。

なお、本報告は観測局員・ルイスのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――

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