兄弟と黒猫-6の1 虹渦を巻く【虹色】


ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。

今夜は虹蛇コウダが活発化し、月虹ゲッコウが現れるでしょう。採餌行動に遭遇する可能性が高まっています。

以上、観測局員・ルイスがお伝えしました。

[ Iris Quartz / アイリスクオーツ ]
虹 入 り 水 晶

1.6.1

「では、その旨は局長に報告いたしますので」

言って、バロは身を翻して扉口へ立った。

「それと、しばらくはここをあなたがたに明け渡しますが、夜の内に帰宅なさい。

朝帰りはいけませんよ」

「言われなくても長居はしないさ。キフィが待ってるからな」

そこでシアははっとした。

キフィ――――そうだ、キフィが待っている。

バロが出ていくと、衝動がぶり返した。

「まだ落ちないのか。なじみやすいのも考えものだな。それとも俺がロマノフじゃないせいか」

しまいには、前も後ろも濡れた状態になり、零れたものは飲み干された。

ヒューによって満たされた体は、ようやく冷えて平温に戻り始めた。

でも、何だか変だった。

頭がぼうっとしているし、腹の中が熱い。

そんな状態だから、帰宅するにしてもヒューに手を引かれながらになった。

月のない夜道を歩く。

冷たい夜気が心地いい。

星々は明るく輝くが、その光は遥か上空にあり、道々は暗い。

それでもヒューの歩みに迷いはなかった。

方角から察するに、東区からアパートメントを目指しているようだ。

しばらくすると通信状態もよくなり、オパール玉から復帰を知らせる音声が流れた。

4、5件の通知も届いている。

全部キフィからだ。

「それでも我慢してる方だぜ。

せっかく要点を知らせてやっているのに、俺には文句しか寄越さない」

主語のないぼやきだった。

横目にこちらを見るヒューに通知の相手などわからないはずだ。

けれど、そんな風に言いきるのは、僕らが気にする相手は一人しかいないからだ。

そうこうする内にアパートメントに到着した。

ロビーを抜け、玄関ドアをくぐれば、すぐリビングだ。

先に立つのはヒューで、気まずさを覚えながら僕も続き、ソファに座る人物に声を掛ける。

「……キフィ、ただいま」

オレンジ・バーミリオンの瞳が向けられ、視線が合わさる。

「おかえり」

落ち着き払った声が僕の胸を締め付ける。

真夜中を過ぎて久しい時刻だった。

キフィに眠った様子は少しもなく、いつも以上に冴えた瞳は異様に輝きを増している。

その瞳を見てしまえば、逃げたいと思う自分はたちまち瓦解した。

ああ、でも、キフィを求める気持ちと裏腹に、ヒューの背に隠れたくなるのはなぜだろう。

僕は臆病者だ。

堪らず目を逸らすと、立ち上がり、こちらへ歩いてくる気配がした。

叱られるだろうか、それとも失望させただろうか。

けれど、キフィは僕が恐れたような反応はしなかった。

「無事でよかった。本当に」

声に込められた感情に肌がぞわっとした。

顎に手が添えられたかと思えば、顔を上向かされる。

すぐ目の前の瞳が潤んでいる。キフィが、そんなまさか。

僕が驚いている間にも唇にキスを受け、抱き締められた。

「心配させて、ごめん。キフィ……あっ! ん、やっ」

そのまま頬や額、首筋に短いキスを次々に浴び、小鳥のようについばまれる。

くすぐったい以上に体のさまざまな場所が反応する。

「一体、今までどこにいたんだ」

「……僕、いてもいられなくて北区まで……暑くて休んでいたら、観測局の人達に会ったんだ。

流れでインクを見せてくれることになって……ラボで、休憩させてもらっていた」

歯切れの悪い僕に代わって、それまで黙っていたヒューが口を挟む。

「北区へ行くなんてよっぽどだろ。

シアはただ休んでいたわけじゃない。この暑さで脱水症状を起こしたらしい。

ラボはジェラルドの実験室だ。そこでインクの処方も受けた」

「インクの処方を?」

「そうだ。だから質問は明日にしようぜ。いくら処方を受けたからってな。インクも試作品だ。

さっさと眠った方がいい」

あくびを噛みしめながらヒューが言う。

「それだけか?」

「ああ、そういえば、今夜の星堕としを見たせいで外天の空気を落とすことになった。

星の始末をしたのは俺だ」

「俺の知らないところで……何が起きたのか、全部話せよ」

「もちろんさ。明日な」

ヒューが言い、僕が頷くのを見ると、キフィは質問を諦めて僕の頭を撫でた。

同じ手でベッドルームへ導く。

その時、僕らと反対にソファへ向かうヒューに気づいた。

彼の寝床は今もリビングのソファだ。

「……ヒュー」

「今度はシアか」

「一緒にベッドルームで寝ようよ。気を遣わせてごめん」

言うと、ヒューは目を丸くして僕を見た。

さっきのあくびはごく自然に見えたけれど、あれは単にキフィの質問を打ち切るためのパフォーマンスだ。

「無理するなって。一度受け入れたら俺はもう遠慮しないぜ」

「無理なんかしてないよ。本当に、大丈夫だから。キフィ、だめかな?」

キフィは少しの間を置いて答えた。

「……シアがいいなら反対しないが、いいのか?」

うんと言うと、キフィは案じる表情をみせ、ヒューは面白がる態度を示した。

3人でリビングとベッドルームの境を越えてベッドへ上がれば、そこはただ眠るための場所ではなくなってしまった。

部屋の温度は湿度とともに快適に保たれている。

けれど、不思議に甘く湿った空気が漂った。

「星の始末を受けたなら、直に触れるのはやめておこう。シア、太腿に挟んで」

高まったそれが視界に入っている。

不満が一番強まっているのは当然キフィだ。

「でも、キフィは……それでいいの」

「ああ」

そう言ったものの、ベッドに横たわった僕を見て、キフィはある事態に直面した。

「は……」

「えっ、嘘……あ……! やだ」

脚の間からは僕の中に溜まっていたものが零れた。

ここから見えなくとも、伝い落ちる感覚からキフィの目に映るものを否応なしに想像した。

「何だよ、これ。ヒュー……ヒューの?」

「そりゃそうだろ。掻き出しても仕方ないからな」

「こんなこと、俺以外に一度もしたことないだろ。どういうつもりで……全部出してやる」

「やめておくんじゃなかったのかよ。なあ、結局さ、どっちに妬いてんの?」

「は? ふざけるな。いつまでも中に残して置けるか」

「ふーん。ま、いいけどさ。そのまま入れたらきっと気持ちいいぜ。俺と、シアのだぜ。

すぐにキフィのと混ざり合う……いい顔、こっちの星も満たしてやるよ」

出すも入れるも、行為そのものは同じだった。

まもなく部屋の中は熱気が渦巻き、その後、僕らは短い眠りに落ちた。

1.6.2

眠りの中で無機質な音を拾った。

その音で夜が明けたことを知り、シアはいつもより早い時刻に目を覚ました。

ベッドの反対端には仰向けに眠るヒューがいた。

それなら、たった今、ベッドルームのドアを閉めたのはキフィだ。

朝食の支度はキフィが引き受けていた。

生徒の食事は、学校の契約する業者からまとまった食材や食品が定期的に届けられる。

受け取りと同時にレシピを閲覧できる仕組みだ。

見本の献立どおり作ることもできれば、届いた食材を好きに料理することもできる。

「料理はきらいじゃない。でも、特別好きなわけでもない。レシピに沿って作るだけだ」

だからキフィは煩わしさを感じないらしい。

何でもないことのように言うけれど、同じようにはとても思えない。

その代わりではないが、食事の後片付けは僕がする約束だ。

ここでの生活が始ったばかりの頃、わざわざ朝食の支度に合わせて起きなくていいと言われた。

キフィはいつもそんな調子だ。

何もかも一人で済ませようとする。

バイトの件にしてもそうだ――――

そんなことを思いながらリビングルームへ行くと、キフィはキッチンに立ってレシピを目の前に映し出しているところだった。 

現れた僕を見て驚くでもなく言う。

「シア、おはよう。ちゃんと眠れたのか?」

「おはよう。うん、ぐっすり眠れた。

でも何だか暑かったね。体がべたついちゃった。空調、おかしくないかな」

そばへ行き、キフィを見上げる。

「ああ、ここは2人用の部屋だから調節が追いつかなかったんだろう。

その内、自動で設定変更されるはずだ」

「……そう、なんだ」

3人だからだ。

腹の中が空っぽになるまで星を突かれたせいで、体中に甘い余韻が残っている。

夜間の熱気を思い出せば、調節が追いつかなかった原因に顔が赤くなった。

「まだぼうっとしているみたいだ」

「起きたばかりだから……」

「それなら冷水シャワーがいい」

キフィはレシピの表示を消すと、僕の額にやさしく触れて誘い掛けた。

「たまには一緒に浴びよう」

それで、シャワー室で洗い合う。

気持ちがよくて、いけない。

「1回、出そうな」

僕は容易くこうなってしまう。

そぶりもみせないキフィの手でとろける気分を味わい、すべて洗い流される。

さっぱりしてリビングへ戻ると、ヒューがソファでくつろいでいた。

「ヒュー、おはよう」

声を掛けると、こちらを一瞥して言う。

「二人ともおはよう。これ、ルーティンなわけ?」

ヒューは目の前に映るバイオテレメーターを指差した。

そこには数刻前の僕とキフィの推移グラフが表示されている。

「いつもじゃない。少し冷ました方がいいと思ったからだ」

「テレメーターの数値が大きく下がったぜ。効果的だな」

兄弟であれば、バイオテレメーターの情報を即時共有できる。

ヒューに揶揄う様子はなく、単に感心しているとわかるが、指摘されると心が乱された。

だって、これじゃあシャワー室でのやりとりが筒抜けだ。

ヒューは僕の戸惑いに気づいてか気づかずか、昨日の続きを話し始めた。

キッチンに向かうキフィを追うようにソファから立ち上がり、近くの壁にもたれかかる。

キフィは話に耳を傾けながら朝食の支度に取り掛かった。

小ぶりの鍋で湯を沸かし、その間に手のひらほどの円形のパンをフォークで水平に割っていく。

パンには表面にとうもろこしを粗く挽いた粉がまぶしてあった。

3人分のパンをトースターに並べて焼き上げる。ベーコンも一緒に。

溶かしバターに調味料や檸檬汁などを加えて手早くソースを作り、鍋の湯が沸くと、ビネガーを入れ、割り入れた卵を静かに落とす。

洗わなくていい葉野菜とトマトを皿に盛り、焦げ目のついたパンにベーコン、ポーチドエッグを乗せ、ソースをかけて黒胡椒を振る。

頭に入れた手順をキフィは流れるようにこなしていく。

二人の振る舞いを見て、以前からこうだったのだと察してしまった。

てきぱきと料理するキフィと、話し掛けずにはいられないヒュー。

僕は小さく息をのんだ。

美味しそうな朝食がテーブルに用意され、ちょうどヒューの話も終わった。

キフィが僕の動揺に気づくことなく。

「俺の話に異論はないな? あとでケチつけるなよ」

この確認はキフィが抱く不信に対する予防線だ。

「そんなことしないよ。ヒューの話したとおりだ」

動揺を隠しながら正直に言う。

相変わらず、ヒューの口調は突き放すようだが、それにも少しずつ慣れてきた。

「そうか。次はインクの処方と赤星観測の番だぜ。三白眼の蠍を拝んだだろ」

昨夜の出来事が一気に頭に押し寄せ、うまそう、という言葉はかすんで聞こえた。

コットンキャンディの匂いのする白インク。

夢すらみることのない深く静かな眠り。

シガラを誘う蠍のダンスと零れる血赤色の涙。

耳に吐息がかかる距離でささやくバロの甘い声。

「ええっと……」

何から話せばいいか迷った。

しかし、迷っている内にもヒューは食前の祈りを口にした。もう食べ始めている。

呆れ顔のキフィは元凶を横目に僕に言った。

「シア、話は食後でいい。ふやける前に食べよう。いただきます」

「いただきます……」

無闇にくじけた気持ちになったが、食べ始めて気が持ち直した。

半熟の玉子にナイフを入れると、色鮮やかな黄身が溢れる。

サクッとしたパンの食感と濃厚でありながら爽やかなソース。

キフィの料理を食べれば、たちまちしあわせな気分になった。

3人ともあっという間に完食した。後には空の皿が残る。

「俺も、冷水シャワーを浴びるかな」

ヒューは意地の悪そうな顔をしてシャワー室に向かった。

その後、皿洗いの時に、思ったより時間が過ぎていることに気づいた。

キフィの姿も見えない。そうかと思えば、脱衣所から二人が出てきた。

僕は首を傾げた。

何かを忘れている気がした。何だろう……?

アパートメントを出て、学校への道すがらインクと赤星観測の話をした。

まごついて、ヒューのように上手に話せたとは思えなかった。

それでもキフィは相槌を打ち、笑みを返してくれた。

ヒューはあまり頷かず、補足したり、声を上げて笑ったりする。

「そうだ、」

バイトの勧誘のことを話さないと。

口にしかけた時、オパール玉に電子便が届いた。

「学校からだ。午前の授業がお休み……ヒーリングルームへ行くようにって」

「まあ、昨日の今日だ。学校も心配しているんだよ」

「心配ねえ。サボったから処置なんだろ。俺達はただでさえ恰好の的なんだ」

「ヒュー、そういう言い方はよせ」

「別にいいだろ」

そんなやりとりの後、キフィは考えるしぐさをした。

よくわからなかったけれど、前向きなことではないのだろう。

「シア、先生は誰になっている? こういう時は最初から決まっているはずだ」

「んーと……特別研究員だって」

「名前は?」

「載っていないよ」

「そうか」

そういうわけで、学校へ着くと、僕は二人と別れて3階へ向かった。

ヒーリングルームの扉口に立つ。

やっぱり清らかな花の香りがしている。

指定された部屋のドアを叩けば、どうぞ、と返答があった。

失礼しますと断り、おずおずと入室する。

「おはようございます」

「おはよう。君がシア君だね」

明るくやわらかな声が出迎えた。

朗らかな笑顔を向けるのは、赤色がかった黒髪のロマノフだった。

他の教師と同じ白衣だけれど、首元から覗くシャツはなめらかで、結んだリボンは酷く赤い。

一通りの挨拶を済ますと、赤瑪瑙を思わせる瞳が僕を真っ直ぐに見た。

「決まりだから生徒手帳を見せてもらってもいいかい」

はい、と言って近寄った時、不意に甘く爽やかな香りがしてどきりとした。

「ありがとう。ヒーリングルームを使うのは初めてだね。

どうも睡眠の質が下がっている生徒がいると聞いてね。それで今回私が呼ばれたんだよ。

ああ、本当だ」

教師はバイオテレメーターの記録を表示して、僕の体調の変化を確認した。

学校に所属する以上、生徒の情報はどの教師にも開示される。

「短い時間だが、シア君の疲労回復の手伝いをさせてもらうよ。さあ、始めよう」

教師が示した先には厚めのタオルが敷かれたベッドがあった。

サイドテーブルを見れば、フラスコ型の硝子製噴霧器と小さな遮光壜が幾つも置いてある。

「ベッドに仰向けになって。体をほぐしていくからね。タオルで目を隠すよ。

暗くていやな感じはないかい? そう、大丈夫だね」

目隠しはふわふわで、シガラが持ってきたタオルと同じものだった。

ベッドは診察台に似た形だが、肌触りも寝心地も格段によかった。

視界が暗くなると、すぐにも眠りたい気持ちになっていた。

ぐっすり眠れたのは嘘じゃない。

けれど、療養所を出てから、つまりキフィとの生活が始まってから間もないことに気づく。

それなのに、思いも寄らない出来事が起きてばかりだ。

「シア君はオレンジとラベンダーを配合したローションとの相性がよさそうだ。

緊張している? ここを軽く押すと余計な力が抜けるだろう。ほら……」

ふわっとした手が僕の体に触れた。

吸いつくような感触がする。

「……には深い眠りが必要だ。不足を補うには……」

蠱惑的な声がこそばゆい。

ほどよい力が加わり、体がほぐれるにつれて心も開かれていく。

ますます眠たくなる。

「……ないメリノだ。今朝の分のシロップ薬を飲み忘れたね?」

悪戯っぽい言葉がはっきり聞こえた。

そうだった。

僕はシロップ薬のことをすっかり忘れていた。

「……吸ってごらん。これはシロップ薬と同じ成分だから……」

言われるままにそれを吸った。

すっと一口飲んでしまえば、最後の一滴まで飲み干さずにはいられなかった。

後にはほのかな甘みが残った。

シロップ薬のおかげで思い出したことがある。

軟膏だ。二人は脱衣所で昨日と同じことをしたのだ。

最後にそれを思い出したために、甘さの中にうっすらと苦いものが混じった。

1.6.3

「上級クラスのみんな、おはよう。

本日は、睡眠による効能と睡眠中に起きる現象についての授業を始める」

授業開始の決まり文句と変わり映えない担任教師によって2コマ目の授業が始まった。

変わり映えないとはいえ、この教師の容姿には常に目を引く点がある。

真ん中で分けたシナモンベージュの長い前髪、その間に並んだ色違いの瞳だ。

不自然な配色のオッドアイは、教師が行っていた過去の研究だったか蒐集のせいらしい。

どちらにしても作為の結果に変わりなく、それ以上のことに踏み込んだ生徒はいなかった。

ずいぶん前にシガラとハウエルが突拍子もない推論を披露していたのを思い出す。

あの時まだ二人はクラスメイトで、正真正銘の兄であったヒューがいて、シアを知る前の自分がいた。

「これまで学習したとおり、睡眠は疲労の回復が確立している唯一の方法だ。

単純に脳や体を休ませることによる効果が大きいと言えるが、

その裏でホルモンが作用し、修復と成長促進、免疫機能の向上や記憶の定着、

さらには情緒の安定化に影響する活動が行われている。

我々の体は複雑なメンテナンスを自然的に行っていると言えるだろう。

また、睡眠中には夢という一種の幻覚や星に結びつく生理現象も起きる」

キフィは教師の話を聞く傍ら、別のことを考えていた。

隣に座るヒューを盗み見る。

昨日からこの講義室でヒューとともに授業を受けている。

思い出すのは一昨日の第9研究室でのやりとりだ。

早めに終わった授業の後に呼び出しがあり、研究室へ行くと、担任教師とヒューが待っていた。

診療所を出て以来、初めて見るヒューだ。

濃密な時間が脳裏を過る。

碧天孔雀を片付け、無事に外天から戻ったことは速報用レポートで知っていた。

無事に、といっても別に心配したわけじゃないが、碧天孔雀は強欲だ。

事後には流石のヒューも荒らされた星を慰めることを願う。

弱ったヒューが求める姿は、俺を優越感に酔わせる。

しかし、今回はそんな気分にはならなかった。

「呼び出して悪いな。キフィ君、こっちへ」

ヒューと近すぎず遠すぎず、不自然でない距離に椅子が配置されている。

そこで、ひとつの提案が投げ掛けられた。

「早速だが、新しいプロジェクトが始動する。

牡羊の型というのがあるだろう。シングル、ダブル、トリプル。

クアドラプルはダブルの応用であるから省くとする。

基礎測定はシングルで、その先はダブルで行うのが基本だ。

理由なら、安定した型が決まって1兄1弟の2兄弟だからだ。

だが、コリデール型の事情を酌んで3兄弟の計画が持ち上がった」

俺は目を瞠った。

そういえば、変異後どこかで3兄弟の過去の研究資料を見ていた。

「それで、君達3人で共同生活を始めてもらう。

生活の決まりに変わりないが、予期しないこともあるだろうから都度報告するように。

アパートメントが手狭なら、もっと広い部屋に変更も可能だ。

授業については差し障りないよう組み替えてある」

質問はないか、と教師は効いた。

「……3人というのは、もうひとりはシアと思ってよいでしょうか?」

「もちろんだ。他の牡羊でも検討されたが、まあないだろう。

これは限定的な研究だ。3兄弟の解消は前提にあると思っていい。

安定型が1兄1弟であるという学説は疑いようもないからな。

ただし、結果次第で変わり得る。3兄弟が成立したならば、興味深い事例となるだろう。

だが、その場合も誰の不利益にもならない。そうだろう?」

どう見ても、教師は俺を説得する態度だ。

ヒューに対してさほど気を遣っていないのは、納得済みの案件だからだ。

「正直なところ」

返事をしかねている俺に教師はそう切り出した。

「君には十分な実績があり、卒業までに今ある星マークも保持されるだろう。

だが、ベルウェザーの認定取消は杞憂ではない。

君のフラストレーションはすでに長期に入っている」

続けて、計画が教師個人の考えでなく、所長のものであると明かす。

そうだった。

3兄弟の研究資料を見たのは所長室だ。

そこに居座る所長は、珍しく唇に紅をのせたロマノフだ。

白地の長い髪は淡金を帯びてなびき、ボディラインの明瞭な衣服を好んで着ている。

紅と同色のチェリーレッドの瞳にベルベットの質感。

学校の顔である所長はいつ見ても手入れが行き届いていた。

所長から積極的に補助に入るよう助言があったのは、このためだったのか?

3兄弟――――今更、何だってこの組み合わせなんだ。

俺がシアに愛着を抱き始めたのを担任教師は承知している。

それなのに、否定しつつも検討案の存在を示したのは、シアが別の牡羊と入れ替わる可能性もあるということだった。

突然、この場にシアがいないことが気掛かりになった。

シアに愛おしさを感じるに至っているが、物足りなさが残るのは事実で、判定が及第点であるのは強がっても図星だ。

他の兄弟の中で一番相性のよいアトリとマーブルに快楽以上のものは見出せない。

ヒューは関係修復を望むが、今までのような心地よさは到底得られない。頭打ちなんだ。

一方で、何としてでもベルウェザーの認定取消は回避しなければならなかった。

それに、教師は『始動する』と断定した。

その言葉には計画が決定事項であるというニュアンスが含まれている。

考えることなどひとつもなかった。

コリデールにとって3兄弟という点のみを挙げれば、決して悪い話ではないのだから。

だが、簡単に気持ちの切り替えができたわけもなく、隣室では平常心を保てなかった。

「……キフィ……キフィってば……」

ふと、あのふわふわした印象の金羊種を思い出した。

苦労がないように見えたが、不自由が約束されるのが金羊種だ。

「……ヒューからも……言いなよ……」

ラルフに同族じみた感情が湧いた。

だが、何だってあんな奴に。シアの夢の相手だろ、と自分をなじる。

「キフィ、授業は終わったよ!」

突然の大声に俺は息を止めた。

目の前の人物を正視すれば、不穏な顔をしたマーブルが立っている。

「えっ……? 悪い、ぼうっとしていた」

「もうさあ、大丈夫なの?

何度呼んでも反応ないんだもん。調子が戻るどころか前より悪くなってるよ」

どうやら授業の間中、考え事をしていたようだ。

思い出そうとすれば、教師が退出する姿も思い出せたし、マーブルの言葉も声そのものは聞こえていた。

目からも耳からもすり抜けてしまっていたわけだが。

「他の奴らはみんな下へ行ったよ」

マーブルの右隣にはアトリもいる。

さらに視線をずらせば、机に片肘を突くヒューが得意のポーカーフェイスでこちらを眺めていた。

他の生徒の姿はなく、講義室に残っているのは俺達だけだった。

「こんなキフィ見たことない。ヒューも眺めてばかりだ」

「目を開けたまま寝てるのかと思ったんだよ。夜は盛り上がったからな」

「すぐそういうこと言う。惚気てる場合じゃないよ」

「マーブル、凄み過ぎだ。キフィが心配なのはわかるがそんなに怖い顔をするな。

ヒュー、学校で会えるようになってよかった。サボりは終わったんだな」

「まあな」

穏やかに凄むマーブルにほどほどにまとめるアトリ、そして自由なヒュー。

俺達はよく4人でつるんでいた。

だから、この顔ぶれの中にいると、まるで変異前に戻ったようだった。

マーブルの顔はすでに笑顔に変わり、アトリも笑っている。ヒューも和やかだ。

ふっと緊張が緩んだ時、講義室の扉口から声が掛けられた。

「ああ、やっと見つけた。君達を探していたんだよ。

食堂へ来るものと踏んでいたが、まだ講義室に残っていたんだね」

そう言ったのは白衣の教師だった。 

とはいえ、教師にしては身なりが整っているし、研究対象から一線を引くような感じがない。

「君達、どうだい。一緒に昼食にしようじゃないか」

白衣姿で現れたのは、紛れもなくキーツ観測局長だ。

「キーツさん、どうしてこんなところにいるんですか?」

「白衣を見てわからない?」

悪戯っぽく小首を傾げる。

俺が驚いているのが楽しくて仕方ないみたいだ。

「私の肩書きは知っているだろう? 特別研究員の仕事を頼まれるのはいつぶりだろう。

ああ、そうだ。最後はキフィ君の時ではなかったかな。

今日はね、寝不足の牡羊のヒーリングのために呼ばれたんだよ。

ヒーリングルームを使うのも初めてなんていう初心うぶな牡羊の相手だ」

満面の笑顔を浮かべてそんなことを言う。

なんてことだろう。

シアのヒーリングの相手はキーツだったのだ。

1.6.4

特別研究員と聞いて、局長を思い浮かべなかったわけじゃない。

ラボの経緯にしても、バイトでもない牡羊にそこまでするだろうかと思った。

綿雪羊の件は本当にヒューの単独行動だったのだろうか。

一体、いつからシアに目をつけていた――――?

彼を見ていると、さまざまな疑問が浮かんで消えることがなかった。

学校を出てカフェに入り、中庭に面したテーブルで昼食にする。

オパール玉から注文画面を呼び出し、パンの種類と具材を決める。

全員のサンドイッチがそろった時にはキフィは騙された気分になっていた。

「ちょうどいい時刻だね。もうそろそろ今日の予報が流れるだろう」

その言葉で、みな自然と予報を聞く態勢を取っていた。

珪化木を模して静謐に光るアトリの "Wood Opal-type" のオパール玉。

なめらかな海面にゆらぐマーブルの "Blue Opal-type" のオパール玉。

そして、強烈なファイアがほとばしるヒューの "Black Opal-type" のオパール玉。

耳に取り付けた精巧な通信機はどれも綺麗で個性豊かだ。

一方、キーツの耳にあり、多色の彩りが点描を連想させる "Boulder Opal-type" は、どぎついくせに俺達にないひんを持ち合わせていた。

観測局のロマノフはこの型式を使いこなす。

「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」

程なくして抜け感のある声が流れた。

ライチの香りをさせるロマノフの声だ。

彼の耳にも "Boulder Opal-type" が光っていることだろう。

「今夜は虹蛇が活発化し、月虹が現れるでしょう。

採餌行動に遭遇する可能性が高まっています」

ルイスの声が、今夜の外天予報が虹蛇であることを伝える。

同じ局員の二夜続きは珍しかった。それに虹蛇か。

月虹を生む虹蛇は外天生物の中でもうっとおしい部類に入る。

危険さは少ない反面、逃げ場のない方法で対象を翻弄するためだ。

その採餌行動の時期にあえて観測局が向かわせるのはどの牡羊だろうか。

「以上、観測局員・ルイスがお伝えしました……」

予報の終わりを見計らい、茹で鶏やラディッシュを挟んだやわらかな生地のサンドイッチにかぶりつく。

サンドイッチが2切れ乗った丸皿には、付け合わせにキャロット・ラペや蜂蜜がけのヨーグルトが添えられている。

グラスにそそがれた搾り立てのオレンジジュースは太陽に似た眩しさだ。

「以前から仕事内容の見直しを考えていてね。

とくに外天生物に対する割り当てを調整したいと思っていた」

そう話を切り出すので、早くも俺は胸の内でため息をついた。

こういう話になるに決まっていた。

「その折に、偶然にも綿雪羊の群れに出会うような牡羊が見つかった。

おかげで長い間切らしていた白インクをそろえることができそうだ。

実に喜ばしいことだよ。みな、キフィ君の弟のシア君は知っているかい?」

やわらかな口調で語尾をはね上げ、俺達を見回す。

「顔ならわかるよ。ただでさえ新しい牡羊は目立つもの」

マーブルの声にアトリも頷く。

ヒューはすまし顔で知ってる、と返事をする。

キーツは微笑んで話を続けた。

「3兄弟の話を聞いて驚いたよ。君達は本当に人の胸を騒がすね。

その末弟の牡羊君だ。赤星観測の際に前向きな返事をもらった。

早速、面談を終えたところでね。観測局の一員に加えるつもりだ。

今夜の月虹の採取はハウエル君が行う手筈だが、入門編とでも言おうか、

シア君にも体験してもらおうと思っている。そういう事情だから、わかってくれるかな?」

名前を呼ばれはしなかったが、真っ直ぐ俺に呼び掛ける。

シアがバイトに誘われていた――――しかも、すでに勧誘を受け入れていた。

それを知った途端、何も聞いていない自分に対し、くすぶった気持ちになった。

「……わかりました」

「ふふ、無理に気持ちを抑えなくてもいいんだよ。気になることがあるなら言ってごらん」

「いえ、」

気になることも不満もないわけがない。

しかしながら、それらは問いただしても仕方のないことばかりだ。

ひとつに、兄の了承を取ってほしかった。

だが、了承?

シアはもう大人だ。

例え、兄であろうとも、その選択に他人の承認を求めるような真似をキーツはしない。

それはそうとしてだ。

シアにしろキーツにしろ、もっと早い段階で俺に話してもよかったのではないのか。

思い返せば、シアは昨日の出来事を時系列に話した。

いつ、どの段階で勧誘を受けた?

誰に、という問いの答えに黒猫の顔が浮かぶ。

勧誘の件は言いそびれたのか、言い出せなかったのか。

それとも、あえて言わなかったのか。

何にせよ今更それをはっきりさせることに意味を見出せなかった。

そもそも、キーツを当てにするのは間違っている。

観測局は相手にすべてを明かし、公平公正に事を成すような組織ではない。

バイト入門も、ていよく材料集めに狩り出されているという見方もできる。

「訊きたいことはないのかい? まあ、安心してくれていい。

星の始末はキフィ君に任せるつもりだ。だから今夜は頼むよ」

飴と鞭を使って欲しいものを手に入れるのは観測局の常套手段だ。

はいと答えると、キーツは目を細めて微笑んだ。

「さて、報告はこの辺にして午後の話をしよう。これから保健科目が入っているだろう。

ジェラルドからクアドラプルのご指定だ。君達全員の最新の数値を取っておきたい。

他の牡羊にも同じように頼んである。割り当ては数値が出そろって」

えっと俺は思わず声を漏らした。

「どうしたんだい? ああ、もちろん、今の話にシア君も含まれている。

彼は学校の基本タスクをこなすのが優先だ。補助が未経験のままだろう。

これはかんばしくないね。評価に直接関わる事項だ。同級の二人なら適役だろう。

それから、キフィ君はフラストレーションの解消に本格的に取り組むこと」

シアの扱いに反論の余地が与えられなかった。

愕然とする暇もなく、追い打ちのように自分自身の課題を突き付けられてしまった。

それ見ろというマーブルの視線を感じ、アトリには気遣われている。

ヒューはすまし顔を継続中だ。

くそ、何なんだ。

楽しくもない気分で昼休みが終わった頃には、鮮明な青色の部屋に佇んでいた。

ウルトラマリンというプレイルームは、天然では非常に貴重な鉱物顔料のラピスラズリに由来する。

あるいは、瑠璃。それは人を魅了してやまない色だ。

空と海に出現することを考えると自然界にありふれた色と言えるが、天然の鉱物顔料としては稀少かつ神聖な意味を持つ。

再現ともなれば、奇跡と称賛された色でもある。

だが、今はこの心を映して憂鬱そのものに見えた。

正直言って、俺は自分の気持ちに戸惑っていた。

シアの登校初日につけたキスマークを思い出せば、自分の中にある執着心が露わになる。

クラス判定の結果はまったくの予想外で動揺した。

シアと別々に過ごす学校生活を思うと、冷静でいられなかったのだ。

しかも、鬱血した肌に一種の満足感すら覚えた。誰にも触れさせない魔法をかけた気になった。

実際にはそんなものはなく、能天気なシガラとハウエルが釣れたのでげんなりした。

本当に。

こんな気持ちはふざけたバロに抱いて済めばよかった。

それが、療養所のパートナーだったラルフ、俺にとっても兄であるヒュー、ヒーリングを受け持ったキーツ。しまいには、補助役を務める兄弟にすら嫉妬する始末だ。

「はあ……ああ……っ」

そんな気分の中にあっても、2組になって戯れていれば、憂鬱さも紛れた。

俺の息が漏れるのを惜しむように唇を重ねるのはヒューだ。

コリデールに変異しても体の構造自体は変わらない。

手や口で気持ちいいところを撫でほぐされている間に、アトリによってマーブルも熱を帯びる。

準備が整うと、兄を後背にして2組は向かい合う。

この時が最も目のやり場に困る。

欲望を露わにしたアトリの瞳と喜びに濡れたマーブルの瞳。

爛々とした瞳にかち合うのもそうだが、二人の平らな胸にあるものはつんとして桃色に染まり、薄雲を被せた部分ははち切れんばかりになっている。

見せつけられると思うものの、自分達だって似たようなものだった。

クアドラプルは刺激的だ。

視覚に強く訴えてくる。

兄に星を満たされた状態で、はち切れそうになったものを弟同士で突き合わせる。

「キフィ、やーらしい……ローションも、いらないね……あんっ」

「誰のせいでこんなに……マーブルの、あっ……ん! もうだめ、だ……」

びりっとした快感が走り抜け、反射的に目を瞑った。

息を整えていると、快感の先端に熱を感じた。

ヒューが薄雲を取り払い、とろとろになったものを舐めている。

時々、音を立てて吸うのはわざとだ。

そんな風だから、全員がある域に達するのに大して時間は掛からなかった。

だが、事を終えても俺の不満は消えなかった。

アトリとマーブルがピロートークを交わす様子も焦燥を募らせる。

「まだ足りない? 不満そうな顔だぜ。ほら、キーツに言えなかったことでも吐いたらどうだ。

仕方ないだとか無駄だとか、気にすんなよ。弱音を吐きたくないのも知ってる。

俺相手に見栄もないだろ」

ヒューが覆い被さるので、灰プラチナブロンドの前髪が仰向けの俺の額に掛かる。

額と額がぶつかるまで近づいたところで見つめ合う。

期間限定の3兄弟を受け入れたヒューの心もわからなかった。

ヒューはこんな兄だっただろうか。先のない計画に乗るなんて無謀だ。

「何でもいい、吐けよ」

言って俺の上唇を舐めた。

兄弟の枠にはめられてしまうと、うまく抵抗ができなかった。

あれほど強く突き放したヒューであったが、その言葉は耳に心地よく響く。

群れを好む牡羊は博愛主義だ。

激しい感情を抱くことは少なく、穏やかさや心地よいものに親しみを覚える。

だから、こんな気持ちに悩まされるとは思わなかった。

心地よいものに惹かれる性質は、多くと交わることをよしとする。

兄弟と補助役が機能するのはこの性質に基づいていた。

そんな中にも相手を一人に絞る変わり者もいるが、ヒューはそういう牡羊だった。

そのヒューにしても、俺が他者へ向ける欲望も熱い行為も気に留めない。

群れの性質を理解していたし、その枠の中ですべての感情に説明がついた。

今までそうであったのに、説明できない衝動でシアを独占したくてたまらず、この気持ちを持て余していた。

吐き出さないでいるのは、苦しかった。

「……じゃあ、吐いてやる……言ってくれても、よかっただろ」

「何の話だ?」

「バイトの勧誘だよ。わかっていて俺に言わなかった」

「シアが言わないのに俺が言ってどうする。

だいたい、別々でいたいと思う兄弟がいるかよ。兄がすることを弟もしたい。

同じでいたいんだ。その気持ちならいくらでも身に覚えがあるだろ」

ヒューがシアを弁護しているのが不思議だった。

「なあ、何がそんなに気に入らないんだ? 俺は、お前がいれば」

一瞬、ヒューはその綺麗な面に焦れた表情を浮かべた。

過去の俺ならもう一度、恋に落ちている。

「言えない? なら、俺だって訊きたいことがある。

どうしてそこまでベルウェザーにこだわる? 今も認定を受けてるなんて思いもしなかった。

学校の言いなりになってまで、お前が手に入れたいものって何なんだ」

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