兄弟と黒猫-5の2 碧涙を流す【深紅色】


1.5.5

真昼の太陽光が降りそそぐ中、無我夢中で走った。

アパートメントと反対の方角へ。

頭の中にあるのはそれだけで、目指すものなんてなかった。

まもなく息が切れると、少しの間立ち尽くし、すでにここがどこかもわからないのに考えなしに歩きに歩いた。

学校から北へ進めば、いつかは北区の海へ突き当たる。

禁止されている区域だけど、それも今はどうでもよかった。

僕はパニックを起こして学校を飛び出した。

ただ逃げたかった。

この状況からも、ヒューからも。

それに、キフィからさえも――――もう目茶苦茶だ。

暑さに目が眩んだ。

立ち眩みを覚えた体は自分のものでないようで他人事に感じる。

反面、冷静な部分が、酷く汗をかいていることや咽喉が渇いて体が限界であることを告げる。

ふらつきつつ建物の陰に入ると、肌に吹きつける熱風は冷たい風へと変わった。

両膝を立てて座り、頭を垂れる。額が膝頭に当たった。

目を瞑ったまま、今何時だろうと思った。

通信機をみれば、すぐわかることだけれど、パニックになっている間に電源を切ったことを思い出し、再び接続することを躊躇った。

だって、キフィから連絡が来ているかもしれなかった。

それにどう返事をすればいいのかわからなかった。

でも、もし連絡がなかったとしたら、それこそどうしたらいいのだろう。

おそるおそる再接続すると、通信機から『通信障害』の音声が流れた。

僕は胸をなでおろし、通信機は数度同じ言葉を繰り返して警告音は消えた。

ふと観測局のことを思い出した。

キフィに教えてもらった方法で周波数を合わせてみる。

回路の種類が違うらしく、運がよければ、観測局に割り当てられた通信路に繋がるかもしれなかった。

しばらく無音状態が続くので耳鳴りがした。

キーンという金属音が響いている。

「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」

金属音に被さるように、ゆったりとした声が聞こえた。

「今夜は月がなく、肉眼での赤星観測が可能です。絶好の星落とし日和となるでしょう」

軽やかで甘い声が不可思議な事象が起きることを伝えている。

「以上、観測局員・ルイスがお伝えしました……」

また新しい名前だ。

一体、観測局にはどれだけの人が関係しているのだろう。

そんなことを朧な頭で思った。

しばらく休んでいると、うとうとと眠気をもよおした。

「こんなところでお昼寝ですか?」

出し抜けに声が掛けられた。

いつの間にか眠っていたらしく、はっとして僕は座ったまま顔を上げた。

ラフな黒いシャツを着た男が目の前に立っている。

僕はヒューを連想して身構えたけれど、そうではなかった。

「バロ」

「シア君、こんにちは。北区で下涼みとは洒落ていますね」

そう言って膝を曲げて姿勢を低くする。

「お会いできて僥倖。ですが、ここは長居するような場所ではありませんよ。

一見頑丈に見える建造物も中身は脆く崩れやすくなっています。

まあ、それは知れたことでしょうが、ここは少なくともこの数日は避けるべき場所です」

冴えない頭でバロの言ったことを考える。

「外天の……?」

「ええ、それ絡みです」

バロは微笑んで、後ろ上空を見るよう促した。

視線を後ろへ遣ると、そこには天に向かって真っ直ぐに伸びる鉄筋の構造物があった。

白みを帯びた銀色の柱だ。

側面に長い梯子が架けられ、上半分に偏って円形の輪が柱と垂直に取り付けられている。

地上部分はフェンスで囲まれ、所々大きく歪んでいるため遠目でも劣化が見て取れた。

そこに、背を向けたボブヘアの人物がいた。

菫がかった銀髪の表面は艶やかな層を成して輝いている。

小柄だが、佇まいからロマノフと思った。

「ジェラルド!」

声を張ってバロが呼ぶと、そのロマノフは振り返った。

「そろそろ切り上げませんか。こちらに得難い羊角の提供者がいらっしゃいますよ。

ラボへ招待したいと思うのですが、いかがです?」

ジェラルドと呼ばれたロマノフは、呼び声に応えて乾いた地面を蹴って走った。

彼の走りは滑るようで、静謐な雰囲気を感じさせた。

いよいよ近くまで来ると、とても端正な牡羊であることもわかった。

「何だって。君がシア君? 綿雪羊の群れと接触した?

バロがインクを見せる約束をしたというのは聞いている。

君なら大歓迎だ。なぜなら、あの逸品は君が手に入れた羊角だからだ。

羊角が生まれ変わる様子は興味深いよ。外天の産物は実に魅力的なんだ。

インクは試作段階だが過程というのも面白いだろう。

短時間とはいえ、君の体の一部であったものだ。気になるだろう?

マーキングは……いや、それはもういいのか……電波塔の下調べは十分だ。

さあ、早速ラボへ戻ろう」

口を開くと、その佇まいから想像できないような早口でまくし立てた。

「ああ、変なスイッチが入ってしまいましたね」

驚いていると、バロが慣れた風に呟いた。

「シア君。日はまだ高いですし、少しだけ我々にお付き合いいただけると幸いです。

行けば、彼の情熱の理由もわかるでしょう。

そもそも、外天の価値を知らないでいるのはもったいないことです。君の働きの重大さも」

ジェラルドの熱の入り様とバロの惜しむ言葉のせいで、僕は頭を縦に振っていた。

何より、アパートメントに戻らないでいい言い訳ができた。

「では、ゆっくり立ち上がって」

言って目の前に手を差し出すので、僕はその手を取って立ち上がった。

けれど、体がふらついた。足に力が入らない。

「それに、体を休めるには屋内がよいでしょう。

顔色が悪いとは思いましたが、こんなに手を冷たくして。脱水症状を起こしかけていますよ」

「えっ」

有無を言わせず、バロは戸惑う僕を抱えてこの場を後にした。

1.5.6

ラボへ着くと、空調の効いた室内でソファに寝かされた。

バロが僕の額に手を乗せ、ジェラルドがグラスに入れたミネラルウォーターを差し出す。

体にしみわたる水はほんのり塩の味がした。

「羊角インクを持って来よう」

そう言ってジェラルドは奥へ行ってしまった。

「どうやら熱はありませんね。

これから試作インクをお見せしますが、少しでもつらいと感じたら目を閉じてください。

遠慮はいりませんので」

さらっとしたタオルケットが掛けられ、頭上からしっとりした声が降る。

熱はないと言われはしたが、その声を聞くと体が火照る気がした。

さっきまでそのしなやかな腕に抱えられていたのだ。

そのことを深く考えないようにして、横になった状態でジェラルドが向かった先へ視線を遣った。

僕がいるのは、ソファとローテーブルが置かれた扉口のスペースだ。

壁のない部屋は全体がよく見渡せた。

白い壁に黒光りする木製の床。

2つの実験台と同程度のテーブル2つが等間隔に配置され、壁に取り付けられた棚にはさまざまな硝子器具に試薬壜、試料が整然と並んでいた。

想像した実験室と違った部分は、色彩豊かな溶液がショーケースと思われるガラス台に展示されていたことだ。

それを見ていると、ジェラルドが陶器のトレイを持って戻ってきた。

トレイの上には、どれも手のひらに収まるほどの試薬壜やビーカー、スポイドが乗っている。

「さっきはすまなかった。興奮してつい早口になるのは悪い癖だ」

咳払いして言う。

早口であっても本質は変わらなかったが、落ち着いたジェラルドの声はより明瞭で聞き取りやすく感じた。

「これは例の羊角を粉砕し、微粉末状にしたものだ」

試薬壜の1つを手に取り、よく見えるよう僕の目の前のテーブルに置く。

その中には、極めて細やかな白い粉が入っていた。

白色そのものに輝きがあり、見る者にやさしげな印象を与える。

「こっちは見覚えがあるだろう。少しは欠片の状態で保管しておくんだ。

それから、粉末を溶かして液状にしたものがこれ」

言って別の試薬壜を取り、1つ2つと目の前に並べた。

ひとつは、羊角の欠片とある程度わかる大きさのものだった。

僕の元にある対の羊角が、ベッドの下に仕舞っているのを思い出す。

もうひとつは、白単一の煌めきと異なった七色に光る粒子が含まれていた。

「輝きの違いがわかるか? 真珠母雲と混合すると、こういう風に煌めく。

真珠母雲も外天で手に入れた雲だ。鮮やかな光彩は真珠貝に通じる美しさといわれる。

あとひとつ必要な材料を加えれば、羊角インクが完成する。

だが、完成が目的のすべてではない。外天の産物は各段階でさまざまな幻夢を俺達にみせる」

「……ゲンム?」

「まぼろし、ゆめ。つかみがたく妖しげな幻影のことだ。

羊角でいえば、眠りに関係するものが多い。

眠りを促す効能があるため不眠の処方箋にも用いられる。

綿雪羊は強い刺激や痛みを回避する傾向にあるからだ。鎮痛剤にもなる。

さらに、個体の質や違いが効き目に直結する」

ジェラルドは溶液を硝子製のスポイドで吸い取ると、ビーカーへ一滴垂らした。

ビーカーには、ひとかたまりの白い綿が入っていた。

こんもりとしたそれに滴が染み込み、心なしかひと回り収縮したように見えた。

「不安や疲労にはこれが効く。幻夢をみながら大きな回復効果が期待できる」

火の気もないのに、ビーカーからぱちぱちと微かに弾ける音がした。

そのたびに甘い香りが漂う。コットンキャンディの匂いだ。

「ここからは私が引き受けましょう」

「ああ」

黒猫と大きな羊がひそと言葉を交わす。

「シア君、綿雪羊たちの眠りは酷く穏やかです。

ですから、眠りに落ちるまでに君の知らないことを教えてあげましょう」

バロはそう言って秘密をささやいた。

「綿雪羊の群れが通過すると予報された日。

狼は1匹の牡羊を使って羊角を手に入れようと考えつきました。

狼は、羊飼いが常々白インクが足りないと嘆いていたことを知っていましたし、

かつて片割れであった牡羊との関係を取り戻すため足掻いている内に、

白インクを手に入れるにぴったりの牡羊がいることに気づきました」

耳に届く声は魅惑的だ。

コットンキャンディの匂いと相まってやさしく響く。

「綿雪羊は年を経た木製家具に引き寄せられる性質があること。

過去の実績から、燕屋に通り道ができる可能性が非常に高いこと。

これらに加え、狼は猫がそこへ下調べに来ることまでつかんでいました。

外天へ迷い込んだ牡羊を猫が見逃すはずがない。その判断は光栄です」

最後の方は声に微笑みがにじんだ。

「羊飼いは観測局。もちろん、猫は私。

では、狼が一体誰で、どの牡羊が誰であるか、もうわかるでしょう。

ヒュー君は、備えをした上であなたを外天へ誘い込んだのです。

外天へ取り残されることがないよう網を張って。

ですから、彼をそんなに怖がらなくていいんです。

それに君もわかっていたはずです。

決して、危ない目に合わせるつもりで外天へ追い遣ったのではないと。

彼もまた善良な牡羊の枠の中にいるのですから。

しかし、だからこそ理解できないということもあるでしょう」

バロの言葉は素直に耳に入れることができた。

最初からヒューは僕に悪意を持ってなどいなかった。

それに気づけば、安心して眠りに落ちることができた。

逃げ出すことなんてなかったんだ。

1.5.7

いつになくすっきりした気分で目を覚ました。

そして、ラボへ招かれたことを思い出した。

こんなにぐっすり眠ってしまうなんてちょっと信じられなかった。

体調も悪く、初めて来た場所だというのに。

白天井を眺めていると、ごく控えめに、視界の端に誰かの手がちらついた。

そちらへ視線を向ける。

「お目覚めですね。気分はいかがです?」

僕は上半身を起こしながらバロの言葉に返事をする。

「とても気分がよくなりました。あの、ありがとうございます」

「どういたしまして。ずいぶん顔色がよくなって、羊角が効いたのでしょう。

これなら安心ですね。ところで、眠っている間に何か夢を見ませんでしたか?」

そう問われた。

「夢? ええと、あんまり覚えてなくて」

「そうですか……なるほど、それでジュラルドがあんなことを言っていたのですね」

バロは思案するしぐさをみせた後で、視線を窓へと向けた。

それに僕もつられる。

すると、窓にカーテンが降ろされていることに気づいた。

室内灯が点いている時点で気づいてもよかった。

「日が落ちてしまいましたね。

気持ちよく眠っていたものですから、無理に起こすのもどうかと思いまして」

成り行きでここにいるのだった。

迷惑を掛けていると心配になった。

「ああ、別段気にすることではありませんよ。元より今夜はお留守番ですから」

バロがよく気づくのか、僕の顔がわかりやすいのか。

どちらにしてもほっとすると、次には何の留守番だろうと疑問がわき上がった。

だが、口にする前にもバロは言葉を続けた。

「というのも、今夜は赤星観測に適した夜なのですよ。

観測局の者がクリムゾンスターを撃ち落とすために外天へ出向いていますので、

支援のためにジェラルドは出掛けてしまいました。

彼は熟練の観測技師ですから、もっと話を聞けたらよかったのですが」

バロは『赤星観測』と言った。

それは昼間の予報で聞いた言葉だった。

瞬きを忘れていると、相槌もないことに気づいたバロが穏やかな笑みをこちらへ向けた。

思わず僕は瞼を伏せた。

間抜けな顔をしていたに違いない。

「ふふ、惑わすような言葉でしたね。クリムゾンスターもインクの材料ですよ。

せっかくですから、外天の事象をご覧に入れましょう。

口で説明するより目で見た方が腑に落ちるというものです」

そう言うと、バロは握手を促す姿勢をとった。

僕らはL字になって座っていた。斜め前からバロの手が差し出されている。

「特別ですよ。観測局の一員でない者に見せるのは初めてです。

クリムゾンスターは鮮烈で美しい星ではありますが、同時に妖しさをも持ち合わせています。

綿雪羊の穏やかさは本当に異例で、外天の生き物はほとんどが苛烈な習性を表します。

普段、キフィ君がどんなものを受け止めているか知ることでしょう」

この誘いに乗りますか、と訊いている。そそられる誘いだった。

キフィに関わることなのだ。

答えは決まっている。当然、僕はバロの手を握った。

「では、ご案内いたしましょう。シア君、あれが見えますか? 昼間に見た電波塔ですよ」

「電波塔? どういう意味……何も見えないよ」

見えるわけがなかった。

バロのもう片方の手が僕の両目を覆っているのだから。

「おや、変ですね。ちゃんと手が触れているのに。距離があるのが原因かもしれませんね」

言って立ち上がると、僕の背中と背もたれの間に滑り込んだ。

一瞬の出来事だった。

軽く抱えられたと思った時には、後ろからバロに包み込まれるようにして座り直していた。

「え、え……あの」

密着感がとんでもない。

「外天は危険なところではありますが、ルールを心得た案内役がいれば心配には及びません。

リラックスして。身も心も、私に預けてください」

そうして再び両目を覆われた。

心臓が早鐘を打つ。体温が上がる。

吐息がかかれば、ささやきはすぐそこにある――――

「さあ、すでに宵を過ぎ、今は夜の刻限です。

太陽が沈み暑さがゆるめば、夜になると花開くものどもが主張し始めます。

目を覚ました白い花は、強く甘い香りを遠くまで放ち、それを助け運ぶのは心地よい夜風です」

声とともに甘い香りがした。

芳しいジャスミンの匂いだ。

「夜天を仰げば、月も隠れた今夜は星々がよく見えることでしょう。

赤星もクリムゾンスターも『蠍の星』のことなんですよ。

ちょうど、その星を狙って、バイトの牡羊君が心許ない階段を上っています。

シガラ君は知っていますね。彼を手本に外天を覗いてみましょう」

不思議なことに、バロが言葉を繰り出すたびに夜天の下にいる実感が強まっていった。

室内にいるのを忘れてしまいそうになる。

確かに月はなく、光る星々がよく見えた。

そして、電波塔が姿を現すと、側面に取り付けられた梯子階段を上る牡羊が目に入った。

黒地にネオンカラーの髪。ビッグシルエットの服が彼の手首や足首の細さを強調する。

物怖じしないシガラはどんどん上っていく。

その姿を電波塔の真下から見上げていると、幾本もの鉄筋の重なりがある形を描いていることに気づいた。

「もしかして、あれも星?」

「気づきましたか。そう、ヘキサグラムです。

そのせいもあって、廃止された電波塔が外天へ通じる道となっているのです」

そんな講釈を聞いている内に、シガラは電波塔の天辺に辿り着いた。

その瞬間、夜に溶け込み姿を消した。

「消えた……」

「外天へ足を踏み入れたのです。見失わないよう追いかけますよ。

めまいや吐き気はありませんか? 大丈夫そうですね。

私達は影になって追跡しているのです。影は私の分身ですから、もっと近くに感じてください」

ね、と耳に息を吹き込まれた。

首筋がぞわぞわして肩が跳ねた。それは脊髄に伝わり、一種の焦りを呼び起こした。

腰にはバロの手が添えられている。危うい気分だ。

一方で、突然ぴりっとした空気の膜をすり抜けた感覚があり、肌がざわついた。

「どうやら、少し時間が飛んでしまったようですね。

祭りの前半戦を見損なったのは実に残念です。ですが、まあ。後半戦は間に合いました」

かろうじて顔が識別できる距離にシガラがいた。

それに、赤と黒の髪房が交互に入り混じった三白眼の男も。

両手を握り合って前後左右に動くので、最初僕は踊っていると思った。

けれど、そうでないと気づく。このまま、見ていていいのだろうか。

シガラの格好はさっきまでと全然違っている。

僕が赤面していると、変わらない声が補足する。

「了承は得ていますので心配は無用ですよ。

綿雪羊たちは内気でしたが、総じて、外天生物の作法は荒々しいものです。

彼らとの接触が激しければ、ほぼ間違いなく材料を手に入れることができ、

反対に、穏やかであれば入手は難しい。ですから、シア君がしたことは重大なのです」

バロの言っていることはわからないことだらけだ。

でも、肝心なことは僕にも理解できるように話してくれている。

「それに、あの蠍のように、外天生物は獲物の星に狙いを定めます。

人の形を取る以上、感じるところはみな同じというわけです。

ねえ、シア君が不安に思っていることはヒュー君だけですか? 他にもあるでしょう?

キフィ君が満足できているかどうかは、本人しかわからないことです。

彼はバイトを続けているのですから、星への刺激は十分過ぎるほど受けています」

1.5.8

「これでお終いではありませんよ。蠍の星がまだです」

その言葉からすぐして、ドライアイスに似た冷やかな煙によって視界は白く覆われた。

そして、煙が過ぎ去った後に現れたシガラの体には光の粒が付着していた。

きらきら光る透明な粒子――――外天から戻ったんだ。

それを理解した途端、改めてシガラの姿に驚いた。

シガラは目から真っ赤な血を流していた。

細く開いた目から流れる血はとめどなく、電波塔を囲むフェンスにしがみつき、震える手で網目部分をつかんでいる。

さらに、その背に被さるように見知らぬ綺麗なロマノフが立っている。

ロマノフは頬を朱に染め、片手はシガラの胸へ、もう片方の手は前方下腹部へと回している。

ハウエルもそばにいた。

うっとりした表情で、時々片割れの牡羊にキスをしては伝い落ちる血を拾っている。

「血を拾っている……?」

3人の様子は不可解だ。

「よく見てください。あれは涙ですよ。血のように見えても、血ではありません」

「あれが……涙?」

「ええ、そうです。その証拠に、まったく固まる気配がないでしょう。

血に含まれる鉄由来の赤とは異なる成分によって発色しているのです。要は色水です」

流血しているのでないとわかると、3人の印象は様変わりした。

「宿主の体温に触れている間は液体状態を保ち、離れるとたちまち固形化する。

ハウエル君が拾っているのは、激しい状態変化を起こしているクリムゾンスターです。

蠍の星の正体は『外天の血赤珊瑚』ともいわれる美しい涙なのです」

シガラの涙は止まらなかった。

ハウエルがそれを拾い集めるよりも、血赤色の玉が辺り一面に散らばる方が速かった。

小刻みに震えているのは快感のためだ。

自分を兄と言ったシガラは、蠍に続き、腰が砕けるほどロマノフに星を突かれている。

さっきまでの恐ろしげな姿は、今や妖しい美しさを胸に抱かせる。

「今のところ、キフィ君の事後処理……いえ、お世話をしているのはキーツ局長です。

彼は元々メリノですが星の扱いは上手うわてです。

キフィ君がフラストレーションを起こしているのは学校も把握していますが、

不満は別にあるのでしょう」

言って、バロは頬を擦りつけてきた。

「キフィ君もまた混乱しています。兄弟の変更は当事者に大きな負荷となります。

それに、学校はさまざまなことを試しているのです。あちらも研究狂いですから。

そう、ですから、シア君が中級クラスに振り分けられた理由が、

他より劣っているせいと思うのは的外れですよ。

だってこんなに、あの時の質感がまるで失われていないではありませんか……」

赤い涙が途切れがちになる頃には、僕の体にバロが触れていた。

「マーキングも消えたのですね。綿雪羊のいない夢は退屈でしょう。

心配事が解消されても、今度は解消の理由が心配の種となります。

キフィ君はお相手がとても気になるでしょうね」

「そんなこと、あるわけない……! 僕なんかに……それほどこだわって、ないんだ」

口にしてしまうと、それが事実であるように思えた。

「本当にそうでしょうか」

どうしてバロはこの不安を言い当てるのだろう。

これがキフィだったら、どんなにかいいだろうと思った。

僕をなだめようと、一心に慰めの言葉を掛けてくれたら。

けれど、そう都合よくいかないこともわかっている。

矛盾する安心感に満たされ呼吸を乱せば、僕はゆっくりと弾けた。

涙に堰があるとしたら、それも壊れてしまったようだ。

さっきから涙が止まらない。

体は震え、汗もにじみ、溢れる感覚に頭がいっぱいになる。

「だからってバロが代わっていいものじゃない。羊泥棒は重罪だぜ」

不意に扉口で声がした。

「ってな。これを見たらキフィならそう罵るぜ。いくらなんでもやりすぎだ。

はあ、こんなところにいたのか。見つけたのが俺でよかったと思え」

きつい言い方をするが、安堵の息を吐くとともに肩を下げ、自分の言葉にヒューは軽く笑った。

「だが、こいつも俺の弟だ。何、泣かせてんだよ」

「蠍の毒煙に当てられたら無条件で涙も出ます。

お迎えが遅いですよ。一体、どこを探していたのですか」

と言ってバロも笑う。

「シア君が抱いている誤解を解いてあげたのですから、感謝されてもいいくらいです。

これは必要な材料、それも良質な体液を手に入れるためですよ。

気持ちよかったです? 答えは見ればわかりますが。もう、ヒュー君は怖くありませんね」

後半の言葉は僕へ投げ掛けられた。

「……うん」

そう答えはしたが、僕はヒューを怖がるどころじゃなかった。

「蠍の毒煙のせいか。ふーん……」

言って、ヒューは半眼で僕を見据えている。

こんな、こんな姿を見られるなんて。

下腹部に添えられた大きな手が僕ので濡れているのが視界に入る。

弾けた後でも、衝動が消えないせいで僕はまだ満たされない状態でいる。

ああ、バロのいう『必要な材料』とは何を指すのだろう。

そういえば、ジェラルドも似たようなことを言っていた。

「迎えに来たのなら、狼を決め込むのはおやめになったのですね」

「何の話かわからないな。バロ、どけよ」

冗談とも挑発とも取れる言葉が飛び交っている。

「はいはい。ですが、材料の採取はさせていただきますよ。お仕事ですから。

あと、こちらの始末も頼まれてみませんか?」

「採取はわかってる。だが、そっちの始末は自分でつけろよ。

シアのはまだだな……まだ、だよな?」

「もちろん。少し撫でただけですよ」

ほんとかよ、とヒューが言う。

場所を譲ったバロは、ベルトのバックルを外したまま目の前を通り過ぎた。

「シア、あんなの見るんじゃない」

「う、うん……でも、でも……何で、ヒューが……あんっ」

バロに撫でられた部分を今度はヒューが撫でる。

「何でって、可愛い弟の面倒をみるのに理由がいるのか? 兄の役割だろ。

外天の空気に触れたらちゃんと落とすんだ。ほら、こうやって」

耳を疑うことに、さっきからヒューは僕を弟と言っている。それも可愛い?

「待って……ちょっと……っ」

「待ってられない。おい、腰が逃げてる。時間がないんだ」

その直後、腹の奥にズンと押し込まれた衝撃があった。

「あ……っ」

星に強烈な刺激が伝わり、体がおかしな動きをした。

予想もしない事態に僕は体を震わせるしかなかった。

これ以上ないほど星が熱くなる。

戸惑いに反し、僕はヒューにとろけた。

「ヒュー君がキフィ君以外にこんなことをするなんて、今の今までなかったでしょうね」

そう言うバロは、僕の頬に試験管の口をつけて流れ出る涙を採取した。

「ジャラルドは『怯え』の正体を涙と確信しているのに、

汗という線も捨てきれないようなのです。ですので、こちらも少量いただきます」

別の試験管で同じように汗をすくい、蓋をし、テーブルにあった試験管スタンドに立て掛ける。

それを見てヒューが言った。

「蠍の毒煙に当てられたのは嘘じゃなかったんだな。今夜の星堕としを見せたのか」

「そう言っているでしょう。

事前に局長とシガラ君の了承を得ていますので、心配には及びません」

「事前に? それじゃあ」

ヒューはそこで黙った。

「ええ。たった今から観測局はバイトの牡羊を募集します。

予定外ですがこの事態です。君のようないい牡羊はそう見つからないでしょうから」

バロは僕と目を合わせ、例の声で誘い掛けた。

「シア君、観測局のお仕事を手伝ってみる気はありませんか?」

1.5.9

――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。

大火くだる季節、新月の下に催される蠍の祝祭に牡羊1名の参加が許され、碧涙を獲得しました。

祝祭期間中に見られる射的遊戯・星堕としに興じる姿は、一種の風物詩となっています。

本来、活動的でない蠍もこの時ばかりは相手を誘ってダンスを楽しみます。

本件の碧涙は求愛成立後の闇中くらがりで流され、心を惑わす美しい血色に滴りました。

これが冷え固まったものを幾度もふるいにかけると、次第に鮮やかな濃い赤を呈します。

"Crimson Star-Ink" は強力な殺菌作用があり、翻って、気化すると毒性作用が認められます。

保管に際しては、厳重な管理と使用期限内に使いきることをお守りくださいますよう。

最近は、規定ラベルである蠍の尾を蛍惑ケイゴクにすり替える不得心ふとくしんな者がいることもご留意ください。

なお、本報告は観測局員・ルイスのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――

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