兄弟と黒猫-4の2 黒真珠を吐く【青緑色】


1.4.5

ラルフは嵐が来ていると言った。

けれど、嵐の予報なんてあっただろうか。

翌朝、空っぽになったシアは昨日と同じシャツに袖を通しながら思った。

ラルフの自室は診療所の上の階にあり、同じフロアは関係者の居住スペースらしい。

ベッドが目立つせいか、ワンルームはほとんど病室に見えた。

そばのウォールハンガーには目の粗いカーディガンとブランケットが掛けられている。

簡易キッチンやソファ、ローテーブルもあるため、診療所の中でなければ病室を連想することもなかっただろう。

僕が目を覚ますと、ラルフはグラスに入れた珈琲を差し出した。

簡易キッチンにミルやドリップポットが使ったまま置かれている。

ローテーブルにある丸パンとネクタリンのコンフィチュールは食堂から持ってきたという。

いい匂いに包まれ、ソファに並んで朝食にする。

ラルフが終始笑顔なものだからくすぐったい。

夜の間、ベッドの中で例の夢の内容をすっかり話してしまったせいもある。

羊の群れに迷い込んだこと。

その後、夢の中の羊はラルフの姿に変わり、体を熱くしたこと。

それがずっと続いていること。

「綿雪羊のマーキングを消すには、夢の中の人物と現実に肌を合わせることなんだよ。

僕が夢の人物って嬉しいなあ。偶然、シアは答えに辿り着いたんだ」

その言葉を思い出せば、腰が浮ついた。

ついに欲望は叶えられ、昨夜は綿雪羊が訪れることはなかった。

それに、ラルフは自身の支援員の仕事についても話してくれた。

僕のような場合や、兄弟のいない牡羊を一時的に支援するらしい。

滅多にないが外天の対処もするという。

だからラルフは綿雪羊のことを知っていた。キフィのことも。

そして、支援員であるとともに患者であることも明かした。

普段の活動に支障がなくても、今も濃いシロップ薬を飲んでいるラルフは医師がすぐ駆けつけられるよう診療所内での生活を余儀なくしている。

僕が泊まっている間は普段とは違う状況にあるから、主治医がバイオテレメーターを見張っているらしい。

そのことを意識すると、顔が熱くなった。

熱を誤魔化して朝食を食べ終えると、外していたオパールの通信機を左耳に取り付けた。

「それ、綺麗だね」

外で生活するための必需品はラルフには縁のないものだ。

興味ありげにオパール玉を眺める視線をしばし感じた。

すると、空いた耳にやわらかな感触があり、僕は微かに肩を震わせた。

「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」

通信機は起動音を立てはしたが、気象情報を伝えることはなかった。

機械音による気象情報の代わりに穏やかな声が流れる。

あの時と同じだ。

「今夜は悪風により荒れた天気となるでしょう。一過後に碧天孔雀の飾り羽が開く見込みです」

やや低音のなめらかな声が嵐の来訪を伝える。

聞いたことのない声だ。その言葉は耳を素通りしていく。

無防備な耳に舌が這い、耳たぶが甘く噛まれるのだから、どうしても意識はそちらへ向かう。

「以上、観測局員・エンナがお伝えしました……」

耳の穴に舌が入り込めば、僕は悲鳴を上げていた。

飛びのいてオパール玉を着けていない耳を両手で押さえる。

「ラルフ……! もう、出しきったってば。だめだって」

ラルフといると僕は赤面ばかりしている。

「まだ一緒にいたいよ。シアの涙が見られないのは、悔しいね」

「……ラルフ」

「ううん、僕は夢で十分だ……支度ができたら下へ降りようと思ってたけど、あと少しだけ一緒にいよう」

声を落とした甘い声で僕の弱い部分をくすぐる。支度なんてできるわけがなかった。

こんな風にラルフとは戯れ合うことができた。

不安を抱くこともなく、涙も零れない。

なのに、キフィとは――――

あの声を聞くと安心感に包まれる反面、普段の態度はそっけなくて不安になった。

同じ甘い声でも、安心と不安が入り混じった渦に巻き込まれてしまう。

僕らの距離は遠い。もっとキフィと近づきたかった。

ようやく落ち着いて支度が整うと、ラルフはキフィを迎えに行こうと言った。

キフィに早く会いたかった。でも、別の不安もあった。

一人の朝を迎えた日、僕の通信機に1通の電子便が届いた。

それにはこんなことが書かれていた。

兄のキフィが診療所へ運ばれたこと。治療が済んだら迎えが必要であること。

追記として、他の牡羊が一緒であること。

その、他の牡羊というのがヒューだった。

しかも、名前の後に『Ex-bb』という文字があった。

Ex-big brother.

それは二人が以前は兄弟であったことを意味した。

ヒューがキフィの兄だった?

この事実は僕が外天で迷子になったことと関係ないはずがなかった。

そう思いながらラルフの自室を出た。

エレベーターに乗り込めば、あっという間に階下に到着する。

「キフィがいるのはあの部屋だよ。ここまでで大丈夫? 何なら付き合うよ。本当にいいの?」 

「うん、大丈夫。ラルフ、またね」

手を振ってラルフと別れ、特別治療室の前へやって来た。 

でも、いざドアの前に立つと、怖気づいて入室を躊躇った。

部屋の中で激しい声がしているのだ。

内容はよく聞き取れないが、言い争いをしている。

思わず僕が一歩後ずさると、廊下の真ん中で背がぶつかった。

ラルフが戻ってきたと思った。でも、それは違った。

「入らないのかい?」

穏やかな低音の声が聞こえた。

「中で騒いでいるようだな。一体、何をしているんだか」

振り返って見上げると、ゴールド・オーカーの瞳と目が合った。

明るい黄金。それは肥沃な大地を思わせた。

男はカジュアルなスーツを着て、肩まで伸ばした灰プラチナブロンドの髪を結んでいる。

華やかなイランイランの香りを漂わせ、声と同じく穏やかな顔で笑い掛けたのは背の高いロマノフだった。

1.4.6

「おや、シア君ではありませんか。またお会いしましたね」

スーツのロマノフの背後から顔を覗かせたのはバロだった。

以前と同じ黒い制服姿だ。知らず、手袋をした指先に目がいく。

「バロさん……」

「ご丁寧にどうも。バロでいいですよ。もちろん、黒猫呼びでも構いませんが」

「知り合いなのかい。バイトの牡羊でもないだろうに」

「ええ、少し接点がありまして。言ってしまえば、キフィ君の弟ですよ」

「君が。これは、ヒューが迷惑を掛けてすまないな。私はエンナだ。ヒューの〈伯父〉だよ」

その時初めて、迎えが必要なのはキフィだけではないことに気がついた。

伯父? 迎えの者が兄弟ではないということは、ヒューのその席は空いたままなのだ。

僕が口を開こうとした時、ガタン、とドアの向こうで大きな音がした。

「とにかく、中へ入ろうか。病み上がりの牡羊らには安静が必要だ」

互いの紹介もそこそこに、僕らは部屋の中へ足を踏み入れた。

先にエンナと名乗ったロマノフが入る。

バロがどうぞと言うので、僕が続き、バロが最後になった。

室内の空気は微かに張り詰めていた。

息を詰めた気配。その後に続くのは漏れ聞こえる吐息だった。

これは聞いてはいけない音だ、と本能が警鐘を鳴らす。

床には、丸椅子が1脚倒れていた。

さっきの音はこの椅子が倒れた音なのだろう。

椅子の先へ視線を遣ると、そこにはキフィが立ち尽くしていた。

同時に、キフィを抱き締めるヒューが目に映る。

吐息に合わせ、オレンジ・バーミリオンと灰プラチナブロンドの髪が輝く。

ヒューは、キフィのうなじと腰に手を回して唇を重ねていた。

その抱擁とキスには溢れる感情が込められている。

キフィはそれを拒絶することができないように見えた。

二人の姿は絵になった。

画中の牡羊達を綺麗だと感じる一方で、別の欲望が僕を強く刺激した。

キフィは見たことのない表情をしていた。

とろんとした目にゆるんだ口元。いつもの引き締まった表情はどこにもない。

僕を見る時は、こんな風に自分自身を見失うことはない。

キフィは本能でヒューを求めているんだ。

そんな考えが、僕を侵食する。

「まあ、ずいぶん情熱的ですねえ」

そのとおりだった。

「茶化すんじゃない。ヒューが勝手にしていることだ」

エンナが言うと、バロの言葉に同調した自分が恥ずかしくなった。

その時、キフィは体を大きく震わせた。

ヒューを跳ねのけ、その弾みで後ろによろめいた。

「キフ――」

名前を呼びきるまでに別の声が被さった。

「キフィ、鈍った感覚は消えただろ? 素直になれよ」

「無理だ! 今までのような気持ちにはもうなれない。どうして……」

「どうして? 何だよ」

「……どうして綿雪羊の群れに襲わせた?」

僕はキフィの言葉に驚いた。

群れに迷い込んだことは話していたが、ヒューに会ったことは言えずにいた。

けれど、キフィはヒューが狼であることまで知っていたのだ。

「白インクが欲しかったんだよ。感受性の高い牡羊が適任だろ。泣かせてやろうと思ったのに」

「あんなところへ迷わせるなんてどうかしている。

外天から戻れなかったらどうするつもりだったんだ!」

「戻って来れない奴が悪い。そうしたら、次の弟が用意されるだけだろ」

「次の弟って何だよ……俺が好きでコリデールになったとでも思っているのか!」

コリデールだって? 僕は自分の耳を疑った。

そこでようやくキフィは僕らに気づき、驚きの表情を浮かべた。

ヒューは横目でこちらを見据えている。

その顔は無表情で、そこから感情を読み取ることはできなかった。

「ヒュー、いい加減にしろ。お前はもう兄じゃない。諦めが悪いぞ。

こんなことのために綿雪羊の誘い方を教えたわけじゃない」

エンナは感情を抑えた声で、ひとつひとつの言葉をゆっくり言った。

「エンナに関係ないだろ。それに、どう使うかは俺の自由だ」

「そうか。そういう心づもりなら構わないよ。

であれば、お前に仕事の依頼がある。お待ちかねの嵐だ。

碧天孔雀の衣替えに遅れず外天へ行くように。毒を消すにはいい機会だろう。

材料をそろえてちゃんと戻って来るんだ」

「毒かよ……あいつら、面倒だからいやだ。俺以外に役者はいるだろ」

ヒューは吐き捨てるように言った。

「面倒? だからこそ行けと言っているんだ。好き勝手した責任を取ってもらうよ。

できないのなら、観測局の仕事は辞めてもらう」

「は? 何言ってんの。俺がいないと困るのはそっちだろ?」

「役者はそろっているんだろう。他の者を危険にさらす奴はいらない。

行くか、観測局を辞めるか、どちらかだ」

エンナは毅然と言い放った。

1.4.7

行くに決まっている。

ヒューは反発する気持ちを隠さず言った。

俺が要件を飲むと、エンナはそれ以上うるさくは言わなかった。

黒猫に視線を投げ掛ければ、察しのいいバロは両手を上げて言い訳をした。

「ご勘弁ください。私は局長の命令で烏羽を受け取りに来たのですよ」

言って、部屋の隅に置かれていた黒い鞄を早速見つけ出した。

診療所の連中が用意していた鞄だ。

銀の縁取りのある黒い鞄は2つあり、楽器を持ち運ぶハードケースに似ている。

バロは中身をあらためるため、床の上で大きな鞄を広げた。

「中身は見飽きたでしょう。キフィ君達に憑いた美しい烏羽ですよ。見事なものです。

元の持ち主の手入れが行き届いているので、時間が経っても劣化は見られませんね。

今は羽の形をしていますが、手を加えれば輝く黒玉となり、

技師の手により "Vanta Black-Ink" という黒インクが出来上がります。

観測局のものはきっとよい品となるでしょう」

キフィは煩わしそうに、シアは不思議そうにバロの講釈を聞いている。

二度目に見るキフィの弟は、変わりなく、健やかなサン・オレンジの髪をしていた。

アパートメントの廊下でシアを初めて見て、キフィと相性がいいことは一目でわかった。

二人は毛色が似ている。

質感はさらりというよりふわりとしている。髪艶も似ていた。

似た部分が多ければ多いほど兄弟の相性はよくなる。

学校が弾き出した組み合わせにはうんざりするが、こればっかりは流石と言うしかない。

それに、シアには俺にない可愛げがあった。

そう思うとやるせなく、二人に向けていた視線を外した。

腹を決め、俺はキフィを残して診療所を後にした。

正午近くの空は目にしみるほど晴れやかだ。

エンナと連れ立って真っ直ぐ向かった先は、東区の図書館だった。

古風な石造りの青灰色の建物は私設の図書館で、無口な司書がひとりいるきりだ。

外天の通り道は幾つもあり、その中には局長が資産化した場所もあった。

この図書館もそのひとつだ。

キーツとジェラルドが蒐集したはいいが、溢れ返って手元に置けなくなった書物を保管している。

一般に開放しているのは、観測局がよくやる気まぐれだった。

訪れる客は少ないが、同類を呼び寄せる魔力がある。

エンナは司書に声を掛けると、クローバー型の鍵を受け取った。鍵穴に挿し込む旧式だ。

中央階段とは別に、壁伝いに取り付けられた階段を3階分上れば、ドアに突き当たる。

屋上に通じるドアだ。

ここから外天へ行くのは何度目だろう。

ポケットの中には、手鏡と麻紐で縛った樫の小枝。

三本脚と接触してすぐ、碧天孔雀の相手は骨が折れるに決まっている。

面倒以上の事が待っている。だが、できないことじゃない。

そう思い、目の前の大きな背中を睨みつけた。

ちょうどその時、例の鍵が鍵穴に挿し込まれた。

鍵は回され、ドアが開かれたが、そこに屋上はなかった。

視界が暗転し、瞼の裏に遠雷が閃く――――幕電だ。

夜に広がる雲全体が光り、瞬間的に周囲が明るくなった。

それで、いつもの岩場に出たことがわかった。 

平たい石が敷き詰められているため、裸足のあなうらがひんやりした。

外天の空に雷鳴が轟き、稲妻が光る。

得体の知れない風が吹き、暗闇が茫々と広がる場所で生き物の気配を感じた。

「あー、やっと来た」

「もう来ないと思った」

鼻に掛かった2つの声が発せられた。

「美しい牡羊がいないと宴が始まらないんだから」

「美味い牡羊、だろ。どっちにしろ、現れたからには幕が上がったも同然」

4つの手が顎や首筋に添えられ、そこから熱い体温が伝わる。

「あんまり遅いからこんなになっちゃった。早く、我らの腹を満たして」

「いつまでも現れないから余計な支度をしてしまった。口直しには高級な牡羊がいい」

名前を覚えることはできないくせに、こいつらは俺が毎度の牡羊であることはわかるようだった。

左右には、眩しいほどに煌びやかな飾りを身に着けた者が2人。

どちらもマラカイトを思わせる華やかな碧緑の薄布を纏い、あらゆる装飾品で全身を飾り立てている。

それらは鮮やかな緑を基調とし、輝く金色と醒めるような青色で統一されていた。

眉目秀麗の中性的な顔に笑みを浮かべ、細いながらも引き締まった体躯を持つ。

派手な飾り物に引けを取らない姿態。

それに対する自信と自己陶酔を隠そうともしない。

むしろ、ひけらかすことを好んでいる。

派手なアイラインを引き、目元や口元には金粉を、露わな背中には真珠粉末を散りばめている。

それが化粧であるのかも生来のものであるのかも判然としない。

何にしても目がくらむ。

「ヒューは彼らのお気に入りだ。碧天孔雀は美しいものを愛好する」

あれはキーツの言葉だった。

そのせいで、観測局の奴らは嵐のたびに俺を双子の孔雀の元へ派遣する。

だが、こんな派手なナリの外天生物を前に『美しいもの』とはナンセンスだ。

自惚れの延長で、単純に自身の共通色を気に入っているせいとも考えられた。

『愛好』というのはぴったりだ。

こいつらは俺を愛玩動物か何かのように思っている。

ある種の魔術でもって至るところを撫でるため、瞬く間に体は暴かれてしまう。

「いい調子。もっと大きく口を開けてみせて」

「君の毒を吐き出してごらん。ほら、こっちも限界まで開くんだよ」

碧天孔雀は害虫や毒蛇を平気で食う。

同じ態度で、他人の胸の内にわだかまる強い欲求や欲望を食らう。

こいつらの目的は、俺の中に滞留した欲だった。

1.4.8

事の発端を思い出さずにはいられなかった。

最初にヒューの頭に浮かんだのは、あの金羊種だった。

のんきな表情とどこか間延びした口調。

大して歳は変わらず、見た目はただの生徒だ。

ただし、金毛きんもうというのは特別だった。あんなに黄みの強いものは見たことがない。

淡い金毛なら幾らか見かけるが、そう呼ばれはしても、厳密には地色は白毛なのだ。

稀少型のラルフは兄弟のいない牡羊の支援をする。

「適合期の兄弟がいるだろう。そのどちらかが欠けるとする。

学校が兄か弟かを斡旋できなくて、時間が掛かることがあるんだ。

そういう時に診療所を通して依頼があるから、手伝っているんだよ」

初対面の日、軽く自己紹介して話し始めた。

兄弟のどちらかが欠ける状況というのは病気や事故だが、そんな牡羊がいたとしても新しい組み合わせは弾き出され、斡旋は速やかに行われる。

だから同じ牡羊の支援をするのは一度だけ。あっても二度らしい。

大概はそれで済む。

俺の場合は病気でも事故でもない。あるいは、そのどちらでもある気がした。

「キフィ……」

不意に、俺は欠けた弟の名前を呼んでいた。

「うんうん。それが君の愛しい奴の名前なんだね。わかるよ、だって声が熱っぽいもの」

明るい方の孔雀が言う。

「それで、どうして金羊種の支援を受けることになったんだい。何かあったんだろう?」

利口な方が言う。

どちらも軽薄な口調だが、二人の愛撫のせいで俺は一度大きく身震いした。

「はは、いっちゃった? いいね」

「気持ちよかったんだろう。続けて」

嬉しそうな声で先を促す。

頭上では雲と雲の間で雷が走った。

青天霹靂――――弟のキフィが変異したのは、前触れもなく轟いた雷だった。

調子が悪いと零して早退した日、キフィは高熱を出して中央病院へ運ばれた。

そして、メリノの体はコリデールに突然変異したという診断が伝えられた。

この診断結果に納得できるはずがなかった。

だが、否定するつもりで触れたキフィの肌を通して伝わったのは、快感とは程遠く、気まずさを覚えるほどに鈍った感覚だった。

どちらも兄なんていう兄弟が成立するわけがない。

キフィがコリデールになった瞬間に兄弟の関係は突如消滅し、隣にいる理由が失われた。

それで今の状況だ。

キフィには新しい弟ができた。

部屋くらい替えればいいのに、一緒に暮らしたアパートメントで生活を続けている。

俺には診療所へ行くように、という短い電子便が届いた。

学校はサボるわ、他の生徒との接触は断つわ。

抗議のやり方がまずかったのもあり、学校が示した回答は『入院』という名の謹慎。

俺に新しい弟を受け入れる準備ができていないことは、お見通しのようだった。

診療所へ行くのは一時しのぎの支援を受けるためだ。

落第を避けるには他に選択肢はなく、行くしかなかった。

「来てくれてよかった。君のことを聞いて心配だった」

致し方なくやって来た診療所だが、ラルフの言葉は俺の頑なな態度をとかした。

「このままじゃつらいだろ。そこに仰向けになって。ヒューは何もしなくていいんだ」

そう言って跨り、自ら星を突けば、俺の体はすっかり開放されてしまった。

しばらく禁欲していたからじゃない。

金羊種のすることはすべてが心地よく、やさしい言葉で俺達牡羊を誘い導くため、身も心もほどかれてしまう。

それでも、彼との間に振り切れるほどの快感は存在しなかった。

そこで、孔雀達は口を挟んだ。

「へー、そんなにいいんだ。どんな風に感じるのか知りたいなあ」

「ふうん、牡羊らのおかしな慣習だ。だが興味深い。その快感をよく思い出して」

俺は二度目の身震いをした。

頭がかすみ始めたが、集中しろと、自分に言い聞かせる。

ロマノフになっていれば――――という気持ちが胸の内にわだかまっている。

そうであったなら、例えキフィがコリデールであっても関係を続けられた。

ロマノフになれば、兄弟関係を続けることも解消することも自分達で決めることができる。

学校の干渉を受けることはない。

俺達はロマノフになってもこの関係を解消するつもりはなかった。

だのに、あの鈍った感覚がそれが叶わないと知らしめた。

それ以来、俺はキフィに触れる気も起きずにいた。

だが、外天で黒烏と接触し、俺達は再び交わった。

その後、副作用を鎮めるためにラルフの誘導に身を任せた。

薬のいらない処方だ。

結果として、副作用とともにあの鈍った感覚は完全に消え去った。

「でも、元には戻らなかった。欠けた弟は欠けたまんま」

「なびかなかったものは仕方ない。我らはその気持ちを理解したい」

理解なんて嘘だ。

やめてくれ、と俺は心の中で思った。

「だめだめ、やめてあげない。君の嵐を打ち消す熱量が足りていないもの」

俺の嵐だと。外天の嵐だろ。一緒くたにするんじゃねえよ。

「どっちも同じさ。まだ美味い毒が底に残っている。底はいっそう美味い」

孔雀達には、口にしていないことまでもが伝わった。

こいつらは胸の内を暴く行為に飽き足らず、頭の中も遠慮なしに覗き見る。

「根比べだよ。嵐の終わりが楽しみだ。我らは美しいものをそばに置きたい」

「熱量が充ちるのが先か、君が諦めるのが先か。今こそは、逃がさない」

三度目の身震いが俺を襲った。

連続するそれに孔雀達は色めき立ち、俺の星を刺激するのをやめなかった。

それも、2本を一時いちどきにするのだ。

弟でもないのに、敏感な部分をこんな風にされたら、受け止められない。

孔雀の高揚に連動するように激しい雨が降りそそぐ。

「我らのものになってよ。一生涯、可愛がってあげる」

四度目、五度目、と波が押し寄せる。

「なんて素晴らしい反応をするんだろう。極上。文句なしにいい」

六度目、七度目、と的確に突き刺さる。

辺り一面水浸しになり、足元の石の隙間からは蓮華が伸びては花開く。

そうして、次から次へと蓮華が広がった。

「いよいよだ」

「秒読みに入った」

八度目、九度目、と大きな電流が走った。

それが外天の空に光る雷なのか、心身を貫くしびれなのかわからなかった。

何もかもがどうでもよくなり、すべてを投げ出したい気分になった。

「流されるな」

その時、脳裏に映ったガラス球が弾け飛んだ。

同時に2つの舌打ちが聞こえた。

「残念。もっと遊んでいたかった」

「今回は我らの負けだ。またおいで」

惜しむ声とともに孔雀の熱が切り離された。

いつ、眼前の景色が切り替わったのか気づけなかった。

俺は図書館の屋上にあるペントハウスの中にいた。

外天から戻って来ていたのだ。

「……助かった」

息も絶え絶えに言葉を絞り出す。

「馬鹿、危ないところだったぞ。食われるつもりになっていただろう」

四つん這いになった俺の背中をエンナがさする。

「……もう、だめだと思った。強引に、こんなことも、できるんだな」

「それはそうさ。何のために私らがついていると思っている」

「……おとり、の観察」

「後ろ盾だ。戻ってくるための備え。観察よりも優先される事項だ。

外天に行けなくてもできることはある。こんな風な働きかけがな」

「……知ってるし。それに、信頼している」

ぶっきらぼうに返すと、エンナは微笑んだ。

その時、咽喉の奥からせり上がるものを感じた。

急激なそれに為す術もなく俺は吐瀉した。

「……ほんと毎回、最悪。心の底から、いやになる」

「悔しいだろうがしゃべるな。吐き出して楽になれ」 

一言毒づいて、自分の口から吐き出される異物をそこら中に散らばした。

黒蝶真珠と呼ばれる、最高級の外天由来の素材だ。

「……前も、触って」

「世話の掛かる奴だ。ああ、星ばかり突かれたのか。可哀想に」

「……可哀想は、やめろ」

やれやれと言いつつ、エンナは丁寧な指使いで俺の世話を焼いてくれた。

幾らか体が楽になると、ペントハウスの窓越しに屋上に佇む避雷針が視界に入った。

避雷針は中程にガラス球が装飾されたアンティーク品だ。

今まで一度も壊れることがなかったが、それは破損していた。

破片が屋上に四散し、落雷を物語っていた。

1.4.9

――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。

正午に最接近した嵐は、碧天孔雀の飛来により黒蝶真珠を残して数時間後には過ぎ去りました。

一年周期で訪れる繁殖期の飛来に対し、観測局では碧眼の牡羊による沈静法を採用しています。

本件の黒蝶真珠は、最強のテリと一際美しい干渉色を備えています。

薄く切ると特徴的な目玉模様が現れるものは、蒐集品として稀少価値が付くでしょう。

"Peacock Green-Ink" として壜詰めされた後は、ラベルに飾り羽と雷電が描かれる模様です。

碧天孔雀が霊鳥と崇められる理由に、毒を顧みない食欲が挙げられます。

心の内に宿る葛藤や不満を好んで食らい、それを核に真珠質の分泌物で包んだ珠を生成します。

一過後に抜け落ちた飾り羽を拾ったら、寝室に飾ると悪夢除けの効果があります。

なお、本報告は観測局員・エンナのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――

 4-2