兄弟と黒猫-3 薄明を飲む【藍橙色】


ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。

今夕は美しい薄明ハクメイが予想されます。マジックアワー・カクテルの美味しい一日となるでしょう。

以上、観測局員・ジェラルドがお伝えしました。

[ Twilight Beach / トワイライトビーチ ]

薄 明 に 染 ま る 海 岸

1.3.1

日の出前の薄明の中、バロは貝殻海岸を歩いていた。

診療所からの帰り道だ。

2人の牡羊を馴染みの診療所へ預けたのが2日前で、昨日今日と経過確認のために通っている。

あの様子なら退所は今しばらくだろう。

となれば、明日もまたこの道を通って帰るのだ。

観測員をやっていれば毎度のことだが、レポートのための情報収集だった。

今回は局長のサポートで動いている。

観測員は技師から受け取った予報を流し、外天での事象観測、こちらへ戻っての速報、事後レポートの作成までが仕事だ。

だから情報収集が欠かせない。

レポートには事象発生から入手物の特徴、見込まれるインクの種類、注意事項などが記される。

場合によっては事後経過を報告することもあった。

夜の活動のため、だいたいは仮眠を取った後に速報用レポートに取り掛かる。

だが、先日の夜を受け持った局長は真っ先にこれらを仕上げてしまった。

霊格高い黒烏コクウの羽を手に入れたのだから、興奮して仮眠など取れるはずもなかった。

何にしても御苦労なことです。

私といえば、今夜は非番に当たり、貝殻海岸を散歩するくらい気分のいい朝だ。

診療所に面した海岸は白い砂浜が続き、歩くたびに小さな貝殻がじゃりじゃりと音を立てた。

海面は暗い色に沈んでいるが、穏やかに波打っている。

北区の危険な海と異なり、この辺りは波打ち際を歩いて海水を浴びたとしても恐れることはない。

とはいえ、私はあまり海が好きではないので、波打ち際から十分な距離を取って歩く。

空に広がる夜の青は薄く明るくなり、地上は白々とした気配が漂い始めた。

冷たい空気は次第に暖められ、昼を目指して暑さは最高潮となる。

こんな時間に海岸を歩いても遠目では単なる黒い影にしか見えないだろう。

さざ波の安らかな音の切れ間に、受信音が耳に届く。

太陽さえ昇れば、力強いシャトヤンシー効果を示すであろう "Cat's Eye Opal-Type" が電波を受信したのだ。

「……ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします」

ジェラルドの声がした。このクリアな声は彼以外なかった。

発信機器は事務所にあり、最初の発信は事務所で直に行われる。

「今夕は美しい薄明が予想されます。

マジックアワー・カクテルの美味しい一日となるでしょう」

空の様子は大気の状態と連動している。

お酒を渇望する指数もそうだ。どうやら今日は暑くなるらしい。

「以上、観測局員・ジェラルドがお伝えしました……」

受信が終了した途端、あのすっきりとフルーティなカクテルが飲みたくなった。

私もすっかりこの町になじんでしまいましたね、とひとりごちる。

この町で羊らと交わり、彼らが穏やかな性格で、決まり事を守る従順な生活を好むと知った。

気の向くままに今を生きる猫とはまるで違う。

まあ、羊と一概に言っても、フラストレーションを起こす者もいれば、狼の性質を現わす者もいる。

どちらも今は診療所だ。黒烏の効果は凄まじいのだから。

羊らは心地よいものに容易く屈するとしても、実にあっさりした態度を取る。

彼らに強い刺激は必要ないため、効果が薄れるまでたいそう骨を折るだろう。

次に頭の中に浮かんだのは別の羊だった。

シア君だ。

彼のような小さな羊は、一定の年齢になると定められた兄弟と暮らし始める。

「まったく。〈兄弟〉とは、はなはだ紛らわしい言葉です」

血の繋がった者をいうのではない。親しい間柄を約束する者をいう。

驚くことに、それを表わすのにふさわしい言葉が『恋人』だった。

恋人なのだからすることをする。

その前にどこでどういう風に甘い刺激を得るかで羊らは分類された。

どこ、とは〈星〉だ。

星は快感を得るスポットで、

星を突いてよくなるのが兄と呼ばれるサフォーク。突かれるのが弟メリノ。

さらに、その両方で刺激を求める贅沢者がコリデールだ。

簡単に満たされることのできない空腹者とも言える。

コリデールは変異体だ。最初はサフォークかメリノであった者がある日突然それになる少数派。

私の知る範囲でコリデールはキフィ君しかいなかった。

キフィ君が弟から兄になったように、コリデールは以前と反対の立ち位置に分類されるのが原則らしい。

そして、兄になったキフィ君に定められた相手が弟のシア君だ。

〈兄弟〉と聞けば、今では甘い響きを感じざるを得ません。

1.3.2

小さな羊らは可愛らしいが、あの姿で熟しているという。

その年齢になると、彼らは〈学校〉という研究機関で『学習』という名の下に羊皮の扱いを学ぶ。

シープ・スキン。

肌理きめ細やかなそれはあらゆる種の中で群を抜いてなめらかといわれる。最高の質感だと。

他種が、例えば猫でも烏でも構わないが、一度肌を合わせると癖になる。

羊皮の肌心地は言うまでもなく、星の感じがいいのだ。

また、同種の兄弟であれば、振り切れるほどの快感だと羊らは秘密っぽく笑う。

この言葉を口にする羊は、幸福感と同時にある種の魅力をも溢れさせた。

ヒュー君とキフィ君の間では変質してしまったが、これから新しい兄弟の間に育まれるであろうものだ。

歩きながらバロは無意識に唇を舐めた。

その拍子に、舌先で遊ばせたことを思い出した。

小さな羊から溢れる魅力を前に、煽られない者がいるだろうか。

記憶に鮮明なシア君の肌は、どの羊よりもやわらかく、やさしい心地がした。

先日のことを体が覚えているせいで腰がうずいて仕方ない。

星を突いてよくなるのは何もサフォークだけではない。猫でも烏でも、だ。

やわらかさの理由は学校へ通い始めの年齢だからだろう。

初級から次のクラスへ上がる頃にはあの質感は失われる。

それまでに試作インクを見せるのもいいかもしれない。

くだんの羊角から作られるインクは、繊細な試作の段階にあり、完成に至るにはもう少し先になる。

足りないものがあると注文を受けているので、早い内に材料を調達する必要もあった。

インク作りに関わる羊は風変わりなロマノフばかりだ。

サフォーク、メリノ、コリデールといった小さな羊に対し、学校に通う年齢を過ぎた大きな羊をロマノフという。

キーツ局長とジェラルド観測員はロマノフだ。

私が二人と出会ったのは、町で仕事探しを始めた時だった。

とあるロマノフに口利きを頼んだら、ぴったりの仕事があるから紹介しようと持ち掛けられた。

面接に指定された場所は洒落たカクテルバーだった。

行ってみれば、濡れたような黒髪と菫がかった銀髪がカウンター席に隣り合って座っていた。

二人の手にはすでにカクテルグラスがあり、どちらも藍と橙のバイカラーの液体で満たされている。

私に気づいた銀髪が席を譲り、隣へ移ったので横並びに挟まれて座ることになった。

「やあ、初めまして。私はキーツという。珍しい黒猫が町にやって来たと噂になっているよ。

しなやかで美しい毛並みというのは本当だね」

気品のある黒髪がにこやかに言う。

「ジェラルドだ。外天に興味があるんだろう?

例の設計図を手に入れたいというのも本当か?

向こうへ行きたいと思う輩なら野心家で決まりだ」

涼やかな目をした銀髪が面白がって言う。

「噂になったつもりはありませんよ。短い間によくお調べになったようですね」

冗談めかし、笑って答える。

「名乗ることもないでしょうが、バロと申します。

あなた方も野心家で間違いないのでしょう。ひと癖もふた癖もあると見ます」

「ふふ、言うねえ」

「ああ、こちらのお客に頼む」

そこで、淡い金髪のバーテンダーが私の前にカクテルを置いた。

いつの間に注文したのか。

口振りでジェラルドと名乗った男が頼んだことがわかった。

「うん、確かにそうだ。人がしないことを始めようと思っている。

通信局をやっていたが物足りなくてね。手を広げて観測局に組み換えるつもりだ」

「通信局だと、外天の予報や注意報の発信に限られる。

格上げして、独自の観測を元に情報発信するために局員を募集している。

多くはいらない。身のこなしのいい奴が見つかれば採用したい」

「しかし、観測局というのならそれだけではないのでしょう? 技師はどちらです?」

そう言うと、ロマノフは互いに目を合わせ、少し黙った後で口を開いた。

1.3.3

「まあ、飲むといい。温くなってしまうよ」

右に座るキーツが勧める。

「今日は咽喉が渇くだろう。予報にもそう出ていた」

左のジェラルドがささやく。

運ばれたカクテルは二人の手元にあったものと同じだった。

逆三角形の薄いグラスの上層に藍、下層に橙。色鮮やかなマジックアワーを成している。

「では遠慮なくいただくといたしましょう」

促されるままグラスに口を付けると、冷たい液体が咽喉を通過した。

確かに暑い日だった。

この町はいつでも暑いが、この日は特別そうだった。

すうっと甘いオレンジの風味が広がる。

飲みやすくあるが、少々アルコールの度数が高いように感じた。

これは飲み過ぎてしまう。

そんな風にして潤いと酔いを得、同時に、私は見定められることに甘んじた。

カクテルは黙らせるための口実だ。

姿を、ただ姿を、舐めるようにじっくりと、2人のロマノフはこの体を仔細に見ている。

満足のいくものであるか。見落としはないか。

いやな視線ではなかった。

平気であったし、むしろ心地よいほどだった。これは賛美の視線だ。

その時、ふとアイリスが香った。

「俺が観測技師だ」

いつまでも眺めているつもりと思えたが、ついに口火が切られた。

爽やかなアイリスの香水を纏ったジェラルドは目元に睫毛の影が落ちる美青年だ。

切りそろえた前髪が眉を隠し、その下にファウンテン・ブルーの印象的な瞳が光る。

率直な言い方の中に聡明さを漂わせている。

その彼が名刺を差し出した。

白地に黒文字のシンプルな名刺にはこう書かれていた。

 

『ヴァンタブラック観測局 ジェラルド 1級観測技師』

『当局では外天情報の発信を行っております』

『特別なインクをお作りします』

 

名刺をひっくり返すと、裏面は真っ黒に塗りつぶされていた。

その黒には不思議な魅力があった。

確かにそこに在るのに、空間が切り取られたような錯覚を引き起こす。

まるで底無しの宇宙を覗く感覚だ。こんな小さなものであるのに。

「いい色だろう? うちの看板インクだ」

「ええ」

「同じ型で君の名刺を作ろう。黒猫というのも何かの縁だ。なあ、キーツ」

「ああ、彼は第一声で合格だよ。ジェラルドの好きにするといい」

ゆったりとキーツは返事をした。

そのままバーテンダーに声を掛け、ネクタリンのラム酒入りグラニテを頼んでいる。

「猫で技師のことを知ってる奴は初めてだよ」

ジェラルドはカウンターに片肘をつき、さきほどよりくだけた態度でこちらを真正面に見た。

「キーツは局長だ。資金はすべてこいつ持ちだ。局長は技師の好きにさせてくれる。

と言えば、聞こえはいいが技師任せだ。だから細かいことは俺が指示する。これから頼むよ」

「こちらこそ」

「観測局の業務は、観測、調査、研究、情報発信。大まかにその4つを回す。

色々あるが、要は外天へ行き、いるものを入手して戻ってくる。それが最初に覚える仕事だ。

向こうにはこちらで手に入らないお宝や珍品が存在している。

迷って戻れない奴は御免だ。こちらへ戻ってくること。それが調査。局員の最低ラインだ。

君は外天がどういうところか知っているようだからわかるだろう?」

「多少はまあ」

「多少か。自惚れのない答えだ。指示を果たせば、あとは自由に行動して構わない。

望むものがあるんだろう。君への協力も惜しまない」

「有難いお言葉です」

「期待している」

「私もだ。ねえ、バロ君。私達は外天入手物をどうすると思う?」

そこでキーツが話に加わった。

「ああ、それで。インク、ですね」

「そうだ。これがすごい。効果の程はまもなく目にするだろう。

それと、ひとつ確認したいことがある。大事なことだよ。

ジェラルド、これを省いてはいけない」

「そうだな。入手には向こうの住人との接触が必須だ。接触の意味はわかるな?

目標物によって局員を変えるつもりだ。君の得手不得手も知っておきたい。

その体を検分させてくれ」

体は資本だ。元手なのだから納得のいくまで調べるのが当然だろう。

「ええ、思う存分にどうぞ」

1.3.4

その夜、検分のために案内された部屋が今の私の住処となった。

事務所の建物自体がキーツの持ち物であり、部屋は階上にある。

羊らによる検分の間、熱い波が何度も押し寄せ、これまでにないほど震えた。

二人は似たような背格好をしているが、星に対する嗜好は正反対だ。

星以外にも、猫相手に飲ませたがったり、飲みたがったり。

華奢な体に情熱が収まりきれていないのは共通している。

「心配いらないようだ。バロ、改めてよろしく頼む」

「今夜はこのまま休むといい。私からもよろしく頼むよ」

アイリスとピオニーの残り香の中で眠りに就くと、おかしな夢をみた。

差し出した両手のひらに上空から黒い液体が滴っているのだ。

最初は墨汁と思った。

とろりとした黒光りする液体は手のひらが作る海へと溜まる。

不意に滴りが途切れると、液体は長方形を象り始めた。

カード状に収束したそれを2本の指で挟むと、表面で反射していたはずの光はすべて吸収され、底無しの黒が残った。

すっきりして目覚めると、枕元にあの名刺が置かれていた。

裏面の黒は一部白くかすれていた。

後に知ることだが、外天入手物であるインクはこのような幻夢をみせるのだ。

さて、キーツとジェラルドはヴァンタブラック観測局の発起人だ。

昔は通信局のかたわら、自ら外天へ出入りし、インクの材料調達に勤しんだらしい。

さらに、元々〈兄弟〉であったことを窺わせる親密さには心惹かれる。

同じ空間にいれば、当たり前のように戯れ合う。

時には度を超したものを見せつけてくることさえある。

そういう時はたいてい誘い掛けてくるのだ。

一緒に遊ぼうよ、と。

そんなことを思い起こしながら朝の散歩を楽しんだ後、

明るい内からカクテルが飲める店へ向かった。

外看板には硝子屋の文字がある。

『closed』ともあるがそれは無視してドアノブに手を掛けた。

鍵が掛かっていないことは知っていた。

ロールカーテンを避け、ひっそりした店内へ入る。

まず目に付くのはビーカーやフラスコだ。それから試験管、シリンダー、シャーレ。

その他にも電球、オイルランプなども置かれていることに気づく。

壁上部の明かり取りが、陳列されたそれらの硝子器具を照らし出している。

どれも飾らずとも静謐な直線や優美な曲線を描き、一種の芸術品を思わせる。

一方で、珈琲や紅茶を飲むにも、花器、保管容器にも使えることが示され、用途を限定しない硝子ものを扱う店であることがわかる。

硝子の林立する陳列台を抜けるとすぐカウンターに行き当たる。

その内側に1人のロマノフがいた。

淡い金髪をオールバックにして半分だけ前髪を垂らした男だ。

こちらへ顔を向けた時、露わになった片耳にシルバーのイヤーカフが反射した。

人形じみた無機質で整った面に目が2つ。

どこを見ているか読み取りづらいのは淡い色素のためだ。

そのせいか、このロマノフも陳列されたひとつの硝子人形のようだった。

「おはようございます、ルイス」

呼び掛ければ、ルイスは目を細めた。

すると、無機質さは溶解し、硝子人形の顔にやわらかな微笑みが浮かんだ。

「おはよう、バロ。君にお客さん」

気だるげな声で言う。

「そのようで。お早いお越しですね」

カウンターのこちら側にはロマノフ以外の者がいた。

鋭い目つきに青みを帯びた艶のある髪。

眼光の鋭さと筋肉質の浅黒い肌は彼ら種族の特徴だ。

「まさか夜から一緒ではないでしょうね、ヤーライ」

「さあ。だったらどうした。黒猫こそどこで油を売ってたんだ、待ちくたびれたぜ」

軽く頭を振ると、ウィンドチャイムに似た派手な耳飾りが重なり、心地よい金属音を立てた。

「待ち合わせの時刻はまだですよ。早起きの青烏セイウが硝子玉の自慢でもしていたのでしょう?」

ヤーライは肯定の意味で笑い返した。

1.3.5

軽口を叩くのはご挨拶だ。

ルイスも気の抜けた笑いを漏らし、半分に切ったライムのカクテルを差し出した。

ミントが添えられた爽やかなジンだ。

「おや、ライムですか」

ルイスの後ろには備え付けの棚があり、細口の試薬壜が数段にかけて並んでいる。

壜の数だけ有色無色の液体で満たされている。

豊かな色彩は目に美しく、あらゆる色素を抽出したかのようでもあった。

中身はアルコールだ。もちろん咽喉が欲しがる方の。

「ジェラルドはああ言っていたけれど、マジックアワー・カクテルは夕方までお預けなんだ。

とっておきを準備しているから、日の沈む頃に出すよ」

どうやらルイスも技師の予報を聞いたようだ。

前髪で隠れた耳には "Boulder Opal-Type" の通信機をはめている。

鉄鉱石の亀裂を思わせる茶色地に斑な虹が浮かんだ型式だ。

観測局のみなはこの型を使っている。

「さっきからこればっかなんだぜ」

ヤーライは炯眼だ。不満そうにすると、その目がぎらっと光った。

光り物を好む目はそれ自体が強く輝く宝石のようだ。

胸の内で思うが、口にはせずに本題を持ち出した。

「まあ、ルイスのカクテルを頂戴できるなら、甘んじてお預けを食らいましょう。

ところで、黒玉の方はいかがです?」

その言葉を聞いて、青烏は得意気な視線を寄越す。

「当然、回収済みだ。見てみろ」

アルミのアタッシュケースからコットンの巾着を取り出すと、中から球形に膨らんだ包み紙が幾つも出てきた。

「雨上がりに例の廃工場で回収した。少しは他でも降ったみたいだ」

包みの中身はざらついた黒い玉だ。1粒ずつ包んである。

トリュフにチョコレートフレークをいい加減にくっつけたようにも、

無骨な石炭キャンディのようにも見えるが、甘い菓子でなければ食べられる代物でもない。

「その場で形成された黒玉だ。初期状態をよく保っている。

処置済みとはいえ、手袋は外さないことだな。気が変になっても知らないぜ」

気が変に、と聞けば自然と診療所にいる2人の牡羊を連想した。

キフィ君とヒュー君はあれからずっと熱に浮かされた状態にある。

ああなっては仕事にならない。

「で、こっちが海辺や街で回収したやつだ。

お得意様だから教えてやるが、急ごしらえの黒玉は大きさが違えども性質は似たり寄ったりだ。

観測局はどれがご希望だ?」

「廃工場のをすべて買い取りましょう。他はあなたの言葉を信頼して少量ずつ」

「そりゃどうも。毎度有難いぜ、局長によろしくな。今後もご贔屓にってな。

だが、本命の黒玉が手元にあるくせにこれをどうするつもりだ?」

「本命と比較するのですよ。それぞれに意味のあるインクになるでしょう」

「ふーん、観測局も飽きないよな。それも、今回は片翼ずつ憑いたんだろ。

いくら牡羊を2人用意したって、こんなことそうそう起きやしない。

三本脚はいつになくご満悦」

「そうでなくては困りますよ。どちらも優等生ですから。

まあ、味を占めて黒烏の出現が増えるような事態になれば黒玉も大暴落です。

それはそうと、新しい鉱物を仕入れています。ご覧になりますか?」

「ご覧にならないわけがないでしょう、だろ? そのつもりだ、標本商」

ヤーライは揶揄い口調でもうひとつの私の職業を口にした。

「そう聞こえるのであればそうなのでしょう。ルイスもどうぞ」

私は足元に置いていた商売用の黒いトランクを開け、木製の標本箱を取り出した。

標本箱は古めかしいが、見れば上質であることがわかる。燕屋のアンティークだ。

中敷きはホワイトベルベット。

ヤーライとルイスが標本箱を覗き込めば、整列した研磨済みの鉱物が自然光の中で透き通って密やかに光る。

二人は趣味趣向が似ていた。

気の合うために、商談の度に青烏は硝子屋を指定する。

ここはそういう場所に使われるのだ。

「トルマリンです。トレイに出しますので、手に取ってご覧なさい」

14粒の鉱物は虹になぞらえて配置してある。

この世にない色はないと言わしめるトルマリンだ。

無色に始まり赤色から紫色まで。

単色だけでなく、バイカラーにパーティカラーだってある。多彩さは虹以上。

ただし、そう思っているのは猫だけかもしれない。

色認識の異なった烏の目に映るトルマリンは何色をしているか知れない。

それは、彼らの見ている虹の色数とどれほどの差があるのか。

1.3.6

「お買い上げありがとうございます」

そう言って商談の終わりに煙草に火を点けた。

14粒のトルマリンはヤーライが買い上げた。

後日、好みの硝子標本箱に入れて納品することで話がついた。

もちろん、硝子標本箱はその場でルイスに手配を頼んだ。

「あなたもどうです?

今なら気分がいいので鯖雲煙草を3種お付けしますよ。すぐ吸われます?」

Ac.アルトキュムラスCc.シーロキュムラスを同数詰めたセレクトボックスを取り出す。

「……ああ、そうするぜ」

「うろこ、いわし、ひつじ。どれですか?」

「羊。お前の商売は標本ってとこがあくどいよな。

着眼点が蒐集家には堪らないようにできている。儲けがチャラだ」

私は咥え煙草でヤーライの口に新品の煙草を運び、点火までご奉仕する。

「分割払いもご対応しますよ。利子付きで」

「そんなもん払うかよ。黒猫、外天にはもう行けやしないんだろ?

天の狭間で石集めなんてよくやるぜ。海に落ちたくせに懲りない奴だ」

「それは心外です。光り物好きのお仲間ではありませんか。

行ける場所ならば限界まで行く。でなければ良い物は手に入りません。

あなただってそうでしょう? いえ、大きくなってもこちらとあちらを行き来できる渡り烏には

理解できないことかもしれません。羨ましい限りです。ねえ、ルイス?」

「そうだね。僕達はもうどうしたって行けない」

「帰るつもりがないなら連れて行けないことはないぜ。望むならば」

「お断りですよ」

笑いながら手袋越しに黒玉をつまみ、自前の鉱物用ルーペで処置具合を眺めた。

処置を見れば、施した者の腕前がわかるというもの。

ヤーライの言葉のとおり、状態を保持しているのは優れた腕の証拠だ。

もの自体が粗いため素人には判断しにくいが、変成がほとんど見られなかった。

感心していると、なぜか身震いした。

気のせいで片付けるには気掛かりな悪寒だ。

「ところで黒玉の処置は誰が?」

ヤーライを見遣ると、口をすぼめて白い煙を細く吐いていた。

水蒸気を含んだ煙は先で広がり、もこもこした巻毛を思わせる雲に変わる。

鯖雲煙草はこの、雲を思わせる白煙の大きさで鱗、鰯、羊に分けられる。

羊の煙が最も膨張する。この中で一番人気の羊雲だ。

「蜥蜴だ。あいつに任せるのが一番いい」

「そう、ですか」

言い淀んだ私にヤーライの視線が向けられた。

同じライムカクテルを一口含んでゆっくり言う。

「好きな相手だろ」

「……ええ、大好きですよ。血の気が引くほどにね」

「お前が毛嫌いする奴は蜥蜴くらいだな。体はもういいのか? 何だか震えているぜ」

ヤーライの言葉はなぜか色褪せて聞こえた。

眼前の白煙の密度もぼんやりしている。その向こうに青烏の黒服が見える。

気づいた時には腹の底が冷たくなっていた。変に力んだ拳が小刻みに震える。

視界は水面にインクを流したような歪な円を描き始めた。白と青黒いマーブル模様が広がる。

酔いではない。

本能に訴える恐怖が這い上ってくる。

影が、この体から抜け出そうとしている――――

そこでさっと視界が暗くなり、口の煙草が外された。

視界が暗くなったのは手で覆いをされたせいだ。瞼も下ろされた。

すぐそばで新鮮な果実に歯を立てた瞬間の瑞々しさが香る。

そして、閉じることを忘れた唇に熱が触れた。

冷えた唇を吸ったと思えば、押し開けて舌を噛んだり絡めたりする。

こちらの無反応を余所に好き勝手するも心地よく感じる。

力加減のよくわかった者のしわざだ。

「塩の味がする」

至近距離でルイスの吐息混じりの声がした。

「……ついさっき貝殻海岸を通りましたから」

一方的なキスの後に目を開けば、元の体温と正常な感覚を取り戻していた。

「そう。潮風にあてられたのかもしれないね。まだ不安定だ。でも顔色はよくなった」

ルイスの言葉を聞きながら反射的に視線を下に落とした。

「明日も貝殻海岸を通りますから、ついでにこの体も診てもらいますかね」

磨かれた靴が椅子に腰掛けた私の影を踏んでいる。

影はどこかもの問いたげだ。

「冗談を言う。診療所の連中に見せたってどうにもならないよ。エンナに訊きなよ」

「そうしましょう。はあ、ヤーライのお陰で酷く疲れました」

息を吐き、灰皿用のシャーレに置かれていた吸いさしを潰す。

「おい、俺のせいか。自業自得だろ。その上、恩恵に預かりやがって」

「ひがむのはよしてください。私は少し眠りますので」

「ベッドを使う?」

「こいつに使わせるベッドはないだろ。ここで眠るのもなしだよな」

「ルイス、ありがとうございます。

でも、烏の邪魔をするのに絶好のこの場所を離れるわけにはいきません。

ヤーライ、夜までいるのでしょう? また一杯しましょう。

もう限界です……次の薄明までに起こしてくださいね」

言うだけ言って、ヤーライの不満顔を尻目に私はカウンターにゆるく突っ伏した。

たちまち眠りに落ちる。

1.3.7

真っ直ぐに廊下が伸びている。

辺りは暗く、手に持ったフラッシュライトだけが近くを照らしていた。

天井は言うに及ばず、前後へ光を向けたとしても先を見通すことはできない。

周囲の濃密な闇に対し、あまりに心許ない光だった。

照らし出す範囲は、ただただ紺碧の引出が積み上がり、同じ色の鉄骨フレームが無口に支えているだけだ。

前に後ろに上へ、上へ。

その光景が続く様をいつまでも両端にしていた。

それは立入禁止の博物館のバックヤードを思わせた。

あながち間違いでもなかった。

なぜなら、私は蒐集家の保管室に忍び込んでいるのだから。

保管室らしく引出にはすべて統一したラベルが付されている。

そのため、同じ場所を巡っているようにも錯覚する。

だが、ラベルが読めさえすれば、確かに進んでいることがわかると言えた。

星の卵、変光星、回転花火銀河、環状星雲、銀河円盤、惑星の材料……

そそられないラベルなどひとつもなかった。

そっと引出を開けてみると、金色の発光体を中心に紫や桃色の光斑が渦を巻いていた。

見事な渦巻きは貴人の首を飾る粒ぞろいのジュエリーだ。

これらは本物ではなかった。

本物を写し取った、実体を持たないもの。

それを知ってなお惹かれてやまない魅力を持っていた。

だが見惚れている時間はないと思い直し、回転花火銀河の引出を元に戻した。

同時に、すべての引出を開けてしまいたいという衝動も押し込める。

そうして先へ進むと、『流星痕』のラベルを見つけた。

その次に、探していたものがあった。

喜びに目を見開き、目的の引出に手を掛けた。その時だった。

「『流れ星の設計図』」

背後から声が聞こえた。

「何が目的か思案していたが、探していたのはこれか」

男の言葉によって早くから見られていたことを知る。

威圧感のある声色だ。

緊張でこの体は動きを止めた。

見開いた目は瞬きを忘れ、呼吸すら今までどのようにしていたか忘れてしまった。

わかっていたことであっても、頭で理解していることと当人を前にするとでは別だ。

空気が張り詰める。

保管室への侵入は、方法さえ知っていればさほど難解ではない。

ただし、持ち主に見つかれば拝観料を請求されるという。

見つからなければしめたもの。とはいえ、そんな例はないらしい。

事前の調べによると、拝観料は少々変わっている。ここは外天なのだ。

こつ、と初めて床を踏む靴音がした。

隣に並んだ男は断りなく、伸ばしたままの私の手に手を重ねてきた。

硬直したはずの体が自分のものでないようにすんなりと引出を開けている。

火花が弾ける音がするのは、引出に閉じ込められていたものが中で暴れているせいだ。

期待と恐怖がない交ぜになって飛び出す予感がした。

それは、四方の壁にぶつかっては弾かれ、またぶつかって弾かれた。

そうして忙しなく動き回り、オーロラグリーンの光をまき散らすのは流れ星だ。

男がそれを片手でつかみ取ると、手の内と、引出に残ったものの2つに分裂した。

分裂の瞬間、一際強い光が放たれ、赤い閃光が網膜に焼き付いた。

「求めたものを味わうといい」

目で追う間もなく、男の片手が、腕が、勢いよく私の鳩尾を貫いた。

体に大穴が開き、腕を引き抜けば血が迸る。

内臓とともに、美しいオーロラグリーンの火花が飛び散った。

そう見えた――――

はっと我に返ると、体に穴はなく、一滴の流血もなかった。

自分の体を凝視するも、目の前がちかちかしてめまいを覚えた。

体がおかしい。寒気がする。

「私のコレクションのお味はいかがかな? その様子では感想は、無理か」

再びはっとすると、そびえる引出の壁に横面を押し付けられていた。

両手も肩も壁に張りついている。

男の脚が邪魔で、自分の脚が上手く閉じられない。

そんな体勢で、羊でいう内部の星を繰り返し突かれる。

激しい寒気のせいか行為のせいか、全身から汗が噴き出した。

断続的に意識が飛ぶために視野も感覚も途切れがちだ。

その合間に、溢れたものが中をひりつかせ、外へと伝い落ちる異物感を味わう。

反面、圧倒的な快楽が生まれていた。

外天入手物を持ち帰るにはこちらの住人との接触が避けられない。

快感を伴うそれに溺れ、意識を手放したならば、元の世界へは戻れない。

「拝観料が足りない。まだ絞り取れるものがあるだろうか」

次に意識が戻った時、顔面がどろっとしたもので濡れていた。

顎を伝い、ぽた、と落下地点の膝へと滴る。

「身の丈に合わないものを望む者には災いを」

どの次だかわからなくなった時には、自らで濡れたものを舐め取られていた。

下腹部に感じる舌の動きにますますおかしくなる。

「そろそろいいか……行き先は乳の海だ。溺れはしない」

とん、と軽く背中を押されたと思えば、視界は一変した。

眼下に広がるのは外天の海だ。

「ああ、言い忘れるところだった。今後、自分の影には気を配ることだ。

影が逃げ出すことはよくある話だからな。しかし、上手く立ち回れば……」

男の言葉を最後に、私は海へ落ちた。

1.3.8

薄く瞼を開けると、不快な乳臭さを嗅ぎ取った。

今の今まで真っ逆さまに海へ落ちる夢を見ていた。

そのせいでどっと汗をかいていた。息も乱れている。

寝覚めは最悪だ。

夢の中で過去の出来事が繰り返された。

溺れはしないという蜥蜴の言葉はまったくの嘘だった。

海を構成する煌めく不透明な液体はミルクに似た脂っぽさで、容赦なく口の中へ浸入し、呼吸を奪った。

海中では目を開けていられず、温い海水に全身が飲まれ、すべてが溶けていく感覚に意識を失いかけた。

それでもどうにか私は外天を抜け、こちらへ戻ることができた。

出口となったのもまた海だった。

貝殻海岸へ打ち上げられた私は錯乱状態にあり、目に映るのは腐敗し、爛れた皮膚。

自慢の毛並みも無残な姿に変わっていた。

思い出すもおぞましく、手首の皮膚が剥がれ落ち、白い骨と無花果の断面に似た肉が覗いた瞬間には嘔吐した。

すべて幻覚だったが、それ以来、無花果は人の肉にしか見えない。

「大丈夫だよ」

あの時と同じ声がやさしく呼び掛ける。

「バロ、大丈夫だから」

「ルイス……」

あの時、貝殻海岸で私を見つけたのはルイスだった。

彼の背後に広がる空は、藍と橙が色成す鮮やかでいて淡い輪郭をしたマジックアワー。

恐ろしいほどの美しさだった。

その残像が残ったまま私の瞼は閉じられ、錯乱状態は沈静した。

「また幻覚に囚われてる。あんまり無理しちゃだめだよ。

悪夢が覚めないからベッドへ運んだ。悪いけど、苦しそうだったから服も」

「ええ……迷惑を掛けます」

「今夜は特別。昔の相棒を労わったっていいだろう」

「律儀な……」

言い終わる間もなく、ルイスのすっとした手が私の視界を覆い隠した。

視界を遮断するのは、幻覚を鎮めるための初歩だ。

けれども、遮断により気づいたのは羽音だ。快い金属音もする。

羽音に連動して顎に熱い手が添えられた。その後の唇の感触。

高い体温は烏のものだ。金属音はあの派手な耳飾りだ。

「……あなたもいたのですか」

「俺も付き合うぜ。弱った黒猫もたまにならいい」

本命はルイスなのだろうが、ヤーライはまんざらでもない様子だ。

それ以前にヤーライはルイスの好みに侵食されている。

飲む側に甘んじるどころか悦楽を覚えている。

まあ、それは私も同じだった。

そうして、仰向けになった状態で二人のキスを全身で享受した。

ああ、そこらじゅうからライチの香りがしている。

寝室は個人的な居室だ。普段は気にも留めないルイスの香りに包まれていた。

ここにも明かり取りの窓があった。

カーテンはなく、すでに陽が落ち、薄明を見逃したことを知る。

冗談のつもりが、こんなに長く眠ってしまった。

今日の薄明は今季一番と聞いていたのに。

そんなことを考えながら、ヤーライに星を、ルイスに剥き出しのものを撫でられた。

たゆたう感覚に意識が持って行かれる。すぐに何も考えられなくなった。

だが、本能的に目の端で自分の影を追っていた。

室内にはオイルランプが点いていた。その灯りが3人の影を浮かび上がらせる。

これは私のために灯されていた。影があるべきところにあることを確かめるために。

やがて、熱は頂点に達した。

余韻に浸るでもなく、手早く自身を身綺麗にした後、隣に寝そべったヤーライは言った。

「何であんなものを盗んだ? 蜥蜴の蒐集品に手を出すなんて自殺行為だ。

蜥蜴は話のできる奴だ。わざわざ保管室に侵入して、奴を楽しませるだけだっていうのに。

あれは大っぴらの罠だってみんな知ってる」

ヤーライの声は最初よりくたびれていた。自分の疲労を棚に上げて思う。

「誰もがそちらの事情に明るいわけではありません。拝観料は承知の上ですし」

「ま、そうだろうな。不憫な猫だ。

局長達にも騙されてんだよ。あいつらは実験研究って思考回路がまともじゃないからな」

「何とでも。あの人達はあれでいいんですよ」

そこで、肩にタオルを掛けただけのルイスが戻ってきた。

適度に筋肉のついた引き締まった体は、興奮状態から冷めた私たちに対し、まだ冷めきっていないのが見て取れる。

「もう、他で飲み直しはしないだろう。

バーで出そうと思っていたけれど、気つけのつもりで持ってきた」

そう言って差し出したのは逆三角形の繊細なグラスだった。

藍と橙のバイカラー。

待ち望んだマジックアワー・カクテルだ。

「しかし、どういうことですか。グラスが1つではありませんか」

「まあ、見ておいて」

思わせぶりにルイスは言った。

「仕上げに秘密のインクを加えたら、とっておきの幻夢をみせる。

蜥蜴の幻覚とは別物だから安心して。

マジックアワー・カクテルは夜の時間帯でないと効果がない」

言って、持っていた小壜の中身を最後に一滴加えた。

「夜入りの薄明」

私にはルイスとヤーライのどちらが呟いたのかわからなかった。

加えた一滴はグラスの上方に広がり、これから薄明の空を覆い尽くす夜の腕を思わせた。

最初に一口、ルイスが口に含むと、ヤーライの顎を引き寄せる。

実に慣れた様子だ。

しばし、目の前で味わい合うものだから、冷めていたものも再び熱くなる。

同じようにして、私の咽喉をフルーティな液体が落ちていった。

舌の上に甘美な刺激を残して。

潤いと等しく渇きをもたらすものは、飲む者に甘い夢を運ぶ。

海はこれからも好きになれる気がしない。

拝観料を支払った流れ星は、気まぐれに地上へ落ちるまでの旅路を私に見せてくれる。

大気にぶつかり壊れる瞬間、自身の構成情報の図式が頭の中にひらめく。

それは儚く美しい図式だった。

手に入れたことを悔いてはいない。

時々は蜥蜴の毒を見ることもある。喉元を過ぎた毒は魅惑のみを思い出させる。

影が脱走を謀るのは弱るが、光を求める影は同種の熱に引き寄せられる性質がある。

この夜、影は私から逃げることなく留まった。

1.3.9

――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。

日没前に今季一番の薄明が見られ、魔法がかった美しい空が広がりました。

本件の薄明は、暑気払いとして飲まれるマジックアワー・カクテルで知られます。

酒液に数滴垂らすことで、滋養強壮のみならず心身のわだかまりまでも取り除きます。

スイート・グラデーションを楽しむには、パールミルクや琥珀蜂蜜を加えるとよいでしょう。

満天の星を仰ぐ頃に、蜥蜴族が "Magic Hour-Ink" の原液となる摘星テキセイを行う倣いです。

これに由来し、インクのラベルには蜥蜴の手が描かれる模様です。

空全般の事象を写し取る行為を意味する摘星は星にまつわる神話を持たない者が特技とします。

蜥蜴族を介した入手をお考えの方は、対価に加え星を要求されますので相応の覚悟が必要です。

なお、本報告は観測局員・ジェラルドのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――

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