兄弟と黒猫-1 羊角を落とす【白色】
ヴァンタブラック観測局より外天情報をお報せします。
今夜は綿雪羊の群れが通過するでしょう。羊角の発生にご注意ください。
以上、観測局員・バロがお伝えしました。
[ White Noise / ホワイトノイズ ]
白 い 雑 音
1.1.1
夜も明け遣らぬ時刻に目を覚ました。
ひとつしかないドアから人工的な白色光が細く差し込んでいる。
いつもと違う気配を感じた僕は重たい瞼をわずかに開けた。
ドアの向こうにあるリビングの照明が落とされると、辺りは再び闇に沈んだ。
視界も暗くなるが、よく見えなくたって帰ってくる人物は決まっていた。
「……キフィ」
名前を呼ぶと、頭にそっと触れる手のひらを感じた。
「シア、ただいま」
その一言で安心感に包まれる。
ほっと息を吐き、おかえりと言葉を返す。
けれど、ちゃんと言葉になったかわからなかった。
衣擦れの音がするのは脱衣のためで、ベッドルームの温度は調整されて大きな寒暖を感じることもない。
どこか異質な空気を漂わせて帰宅する時、いつもキフィはきらきら光る透明な粒子を纏った。
今も、かすんだ視界にきらっと光るものが見える。
まもなくシーツの中で互いの肌が接すれば、心地よい温もりを感じた。
その感覚に浸っていると、いつの間にかうつ伏せになっていることに気づいた。
ぼんやりした頭ではそれ以上のことは考えられなかったけれど、感じやすい部分をじわじわと刺激されている。
とくに腹の奥が熱くなる。
そこに当たれば体が震えて声が漏れた。
「……んっ」
顔が枕に沈み、腰が持ち上がる。
やさしく押されるような刺激が気持ちいい。びくっとまた震えた。
下腹部の、キフィの手に握られた部分も熱くなり、僕はこの状態に我慢できなくなった。
体が一気に熱くなる。
膨れ上がり限界を迎えた風船が破裂した。
そして冷えていく。
待ち望んだもので満たされた時には息を乱していた。
思考はふわふわと雲のように漂い、体は白いシーツに投げ出された。
別の意味で治まった先に、僕は薄っぺらいものを被せられていた。
『薄雲』というそれをつまみ上げ、暗闇の中で器用に包みにするキフィが容易く想像できる。
専用の容器に放り入れた音がしたかと思えば、小さな熱源が冷えた後を舐め取っていく。
この瞬間が来ると、正体の知れない衝動を抑えている自分がいる。
理由はわからず、もっと、と思うのだ。
僕はまだそれをキフィに伝えられないでいる。
ついに熱源が離れると、僕の髪を撫でる感触がした。
「はあ……シア……いい子だから……このまま……」
耳元でささやかれた声にぞくっとして肩が震えた。
キフィの声も乱れ、その分だけ甘さが深まる。唇が触れ合う。
そうして眠り、朝がやって来るまで僕らは眠りの中で過ごすのだ。
1.1.2
次に目を覚ました時、キフィは出掛ける準備を済ませていた。
こざっぱりした白いシャツに薄手のカーディガンを羽織っている。
こちらへ向けたきりりとした端正な顔は、しっかり者の内面を映し出している。
「シア、午後の科目はキャンセルだ。昼食も戻らないからマーケットで調達しろ」
そう言ったキフィの髪は、朝の光の中でオレンジ・バーミリオンに輝いている。
ベッドに転がって、僕は寝ぼけた頭で綺麗と思った。
「……うん」
「一人で大丈夫だな?」
「……うん」
「うん、ばかりだ。本当に聞いているのか?」
キフィが屈み込んで顔を近づけるので、あまりに近くて何も見えなくなった。
額にやわらかなものを感じる。
「……聞いているよ」
「それならいいんだ。じゃあ行ってくる」
ふっと笑ってすぐ、部屋のドアは僕を置いて閉じられた。
ややあって向こうで玄関ドアの開閉音もする。
そっかあ、今日はキャンセルかあ。
置いていかれた気持ちを抱きながらも、不意打ちに照れ、僕は額を押さえた。
仕方なく、重い瞼を擦ってとろとろした感覚のまま身支度を始める。
キフィに触れられると、体から力が抜けて色んなところが敏感になった。
夜のことを思い出すのもそうだけれど、直接的には腹に残った液が僕を熱っぽくさせていた。
「早く出さなきゃ」
こんな状態じゃあ何もできない。
シャワー室で体を洗う時も何度もびくんとなった。
その度にキフィを感じる。
一人でそれをなだめると、ようやく人心地つくことができた。
鏡の前で髪を乾かすのは、年齢のわりに幼い顔をしたサン・オレンジの髪の小さな羊だった。
自分でもぼんやりした顔だと思う。
身長もまだ足りない。
髪と同じ色の瞳が自信なげにこちらを見返している。
キフィも毛色はオレンジだけれど、赤みが強いキフィに比べ、僕は薄まった印象だ。
脱衣所で服を着て、左耳に乳白色の通信機を取り付ける。
僕の通信機は "White Opal-Type" という型式で真珠くらいの大きさだ。
乳白色の本体は鉱物のオパールに似て、やわらかな虹色の斑で彩られている。
必需品だからと療養所を出る時に渡され、今では身に着けるのが当たり前になった。
通信機は静かな起動音を立てる。
その後、一番に気象情報を教えてくれる。
いつもはそうだった。
ところが、今日はいつまで経っても明瞭な音声は聞こえてこなかった。
代わりにざあざあ音ばかりが耳に響く。
リビングへ移動した僕は足を止めた。
通信障害だろうと思う反面、雨の音と錯覚する。
少しすると、音はしとしとしたものへと変化した。
細やかな雨が静かに降る情景が頭に浮かぶ。
白く煙り、辺りはほのかに明るく暖かだ。
気づけば瞼を閉じていた。無意識にこのやさしい音に耳を澄ませていた。
その時、通信機から今までと違った音がした。人の声だ。
「……ヴァンタブラック観測局よりガイテン情報をお報せします」
「ガイテン情報?」
反射的に瞼を開き、鸚鵡返しにしていた。
一方通行の通信機は、当然ながら僕の疑問に答えることなく言葉を続ける。
「今夜はワタユキヒツジの群れが通過するでしょう。ヨウカクの発生にご注意ください」
ワタユキヒツジ、ヨウカク。
聞き慣れない言葉に疑問符が浮かぶ。
けれど、ヒツジ、という単語から文字が像を結ぶ。綿雪羊、羊角、と。
「以上、観測局員・バロがお伝えしました……」
その言葉を最後に、再びかき消すようなざあざあ音が流れた。
今のは何だったんだろう。
観測局と言っていた。ヴァンタブラック観測局って。
でも『綿雪羊の群れ』なんて見たこともなければ聞いたこともない。
『羊角の発生』というのが注意するものなら、よくない事象なんだろうか。
ただ、いつもの無機質さと異なる男の声はしっとりして、僕を変な気分にさせた。
耳元でささやかれたと思うくらい生々しく、短い言葉であっても紡ぐ声に惹き込まれた。
電波の通信障害か機器の不具合かもわからず、対処もせずに通信機を点けたままでいた。
その後もざあざあ音は時折変化し色を変え、見えない雨が降り続いた。
窓越しに晴れた空を目に映しながら、雨が僕の体を包んだ。
1.1.3
時間になると、僕は学習室の机に向かった。
キフィが作っていった両面焼きの目玉焼きと檸檬の効いたソーセージ。
シロップ薬を飲み、トーストは自分で焼いて朝食にして食器を片付けた後だった。
僕らはアパートメントの一室に住んでいる。
キッチンと一体化したリビングを中心にベッドルーム、学習室、バス・トイレと各室に繋がる。
どの部屋もそうで、ベージュとグレイを基調とした落ち着いた色合いだ。
学習室に窓はなく、内壁に造り付けられた机には2人分のスペースがある。
授業は専用の通信設備の整った場所で受けるのだけれど、キフィがここを使う様子はなかった。
いつも僕ひとり、そう思ってすぐ頭を振った。
気を取り直して椅子に座り、オパールの通信機を『講義室』に設定する。
自動的に双方向通信に切り替わる。
すると、目の前に見慣れた光景が広がった。
僕は通信機が壊れていないことに胸をなでおろした。
雨の音はあれからふつりと途絶え、がっかりしたけれど。
それはそうと、もうすぐ授業が始まる。
講義室の正面には教壇とスライドがあり、振り返れば、何人もの〈生徒〉が座れる机が整然と並び、奥へ行くほど勾配が高くなっている。
広々とした講堂だ。
太陽光を感じる方向には大きな窓。
その向こうはテラスになり、緑豊かな〈学校〉の外庭に臨む。
窓と反対の壁には前方と後方にドアがあり、行けもしない廊下が続いている。
この講義室は作り物の幻像だ。
見えていても触れることのできる空間ではなかった。
定刻が近づくにつれ、講義室に人影が増えていった。
この講義室は人数に対して奥行きが十分すぎ、生徒は前半分に固まって座っている。
人影にも触れることはできないが、僕と同じように授業を受ける生徒が存在するのは本当だ。
同じアパートメントに他の生徒も住んでいるらしいが、僕は彼らと関わりがなかった。
幻像の中に教師が現れると、開始を知らせるランプが点灯した。
僕は教壇に立った白衣姿の教師を見据え、その言葉に耳を傾けた。
「みなさん、おはようございます。
この初級クラスも第4週目に入りましたね。本日は、牡羊の個体群についての授業を始めます」
初級クラスを受け持つ教師は、ラベンダー色の淡い瞳で僕らを見渡した。
「君達は、すでにメリノ型とサフォーク型のことを学習してきました。
自身がどちらの型に属すか、承知しない者はここにはいないでしょう。
生徒手帳にはさらに詳しい遺伝形式も記されていますので、すでに目にしているかもしれません。
生まれた時点で型は決まっていますが、私達の種の中にも変異体が存在します。
正式には、突然変異体コリデール型と呼ばれるものです」
学校の授業は初級クラスに始まる。
このクラスは初級カリキュラムともいい、修了時に中級クラスと上級クラスにランク分けされることが決まっている。
僕はそれが気になって仕方なかった。
不安に煽られ、思わず講義中に周りを見回した。
この中で僕はどの位置にいるのだろうか。
けれど、見回したからといって、生徒の何ひとつ比べることができなかった。
幻像の中では背格好と毛色をどことなく認識できる程度だ。
ただ、この講義室にキフィがいないのは知っていた。
学習室でも学校でも同じだ。
僕はキフィとの間に距離を感じて、どうしようもなかった。
別々の学習階級にいることを強く意識した。
1.1.4
午前の授業が終わり、マーケットスクエアで昼食にしようと思った。
学習階級が違えば学習形態も異なり、キフィは学校へ出向くことが多い。
大抵は午後になると昼食を買って帰ったり、一旦帰宅して一緒にマーケットに出たり。
たまにそうじゃない時もある。今日みたいに。
午後は実技科目のため相手が必要で、〈兄〉のキフィがいなければ、僕もキャンセルするしかない。
1人でも参加は可能だけれど、そこまでしなくていいと思った。
それは朝の時点で決めていたので、僕の思考はどこで昼食を調達するかに向かった。
近くのマーケットスクエアには常設の露店が並んでいる。
昼時から夕方まで一番賑う区域だ。
いつものサンドイッチ屋にしようか、足を延ばして具だくさんのスープ屋にしようか。
それともまだ足を向けたことのない区画へ行ってもいい。
玄関を出ると、ダイヤ型のタイルが目に入った。大小のダイヤが敷き詰められている。
大きなダイヤはまろやかなシトロン・グレイ。
小さなダイヤはアクセントの利いたアメシスト・バイオレット。
鮮やかなコーンフラワーで天井は塗りつぶされ、間接照明の黄みがかった光が白壁の通路を照らす。
共有スペースのあちこちに観葉植物が置かれ、ロビーにはアクアリウムまであった。
オーナーの趣味らしく、中庭がないせいとキフィが漏らしていたけれど、庭というより海の中を泳いでいる気分になる。
そんなことを考えていると、通路の途中で声を掛けられた。
「やあ、シア」
当然、声を掛けたのはキフィではなかった。
「……誰?」
顔立ちの綺麗な牡羊だった。
目を瞬かせる僕に対し、彼は首を傾げてみせた。
同時に、灰色がかったプラチナブロンドの髪が軽やかになびいた。
肌の白さも相まって透明な爽やかさを感じさせる。
「聞いてないのか?」
髪と同色の繊細な睫毛に縁取られたマラカイト・グリーンの瞳に少しの驚きと興味を覗かせる。
視線は高く、キフィの背と同じか幾らか高いくらいだ。
痩身に首の開いた黒いシャツを無造作に着ている。
耳元にはピアスが揺れる。そのピアスも大小のダイヤが組み合わされていた。
「まあ、いいさ」
形のよい口角を吊り上げて微笑む。
「俺はヒュー。キフィのクラスメイトだ。迎えに来たんだよ。行き違いにならなくてよかった。
キフィの〈弟〉で間違いないな?」
「そうだけど……」
戸惑っていると、ほら、と言ってICカードを突き付けられた。
無色透明の硝子板のようなそれは生徒の身分証だ。
カードの表面をつつくと、名前とクラスの文字が浮かぶ。
キフィのクラスメイトというのは本当らしい。それも、僕には遠く感じる上級クラスの。
星マークも付いている。
そういえば、キフィのカードにも形の違う星マークがあった。
星と鐘を組み合わせた模範生のマークだ。
じゃあ、このマークにはどんな意味があるんだろう。
「キフィに頼まれたんだ。これから外で昼食だってよ。ついて来いよ」
「えっ」
キフィが? こんなこと初めてだ。それならそうと、僕にも連絡してくれたらよかったのに。
「待って」
でも、本当に? という疑問をぶつける相手は、今にも通路先の階段を降りようとしている。
「もたもたしてると置いてくぞ」
ヒューと名乗った牡羊は特段足をゆるめるでもなく、階下へと姿を消した。
疑問を口にする暇もない。
僕は躊躇いつつも後を追った。
初めて、なんて。
声にならない言葉が口の中に転がった。
僕とキフィは出会ってまだ3週間しか経っていなかった。
彼の口ぶりからして、僕より長い付き合いなのだとわかる。
初めてと思ったそんな自分はいかにも間抜けだった。
1.1.5
「ねえ、どこへ向かってるの?」
一歩外へ出てしまえば、直射日光と乾燥した暑気を感じた。
アパートメントを出てすぐ、足早のヒューに追いつくと、その背中に呼び掛けた。
ちらと視線が向けられる。
「ついて来ればわかる。すぐそこだから」
振り向いた拍子に、左耳に着けた "Black Opal-Type" の通信機が見えた。
暗色の地色に緑や青、黄色が輝き、陽の光の下で鮮明なオレンジが弾けている。
星雲を凝縮したようなオパール玉だ。
それは、この牡羊によく似合っていた。
キフィのクラスメイトかあ。
率直に言うと派手な牡羊だ。キフィのような模範生になじまない。
でも、何だろう。魅力という意味では二人はどこか似ている気がした。
そうこうする内に、ある店の前までやって来た。
アパートメントからマーケットスクエアに行くほどの距離もなかった。
たった通りひとつ先。燕を象った看板がぶら下がった店だ。
「近くにこんな店があったんだ」
燕の白い腹に刻まれたアンティークショップの文字が目に映った。
同時に、硝子のドアベルが澄んだ音色を響かせる。
ヒューは気後れもなく店の中へ入っていく。
「何してんだ。早く入れって」
僕が立ち止まっていることに気づくと、ドアが閉まらないよう手を添えて待っている。
「ここ?」
店は酷くがらんとして見えた。
昼食というから、露店へ行くものと思っていた。
「ここは寄り道。いや、『通り道』か」
「どういう意味?」
「別に。どっちも大して変わらない」
ヒューは笑ってまともに答えてくれなかった。
店内に足を踏み入れてもやっぱり人の気配はない。
空調は動いているらしく、ひんやりした空気が静かに流れている。
入口から真っ直ぐ進んだ先に小さな明かりがひとつある。
暗い店の中は奥行きがあり、どうやら古家具のキャビネットやチェスト、トランクが積まれているようだ。
所狭しと、幾つもの椅子が置かれている。
古めかしい品々が混在しているせいもあり、足元も暗くてよく見えない。
僕は恐る恐る足を進めた。
他にも、壁に額縁や鏡、書物が、天井に多くのシャンデリアやランプがある。
それを伝えるのは輪郭や反射だけで、とてもじゃないが店全体を見通すことはできなかった。
明かりまで進むと、その正体はカウンターに置かれたモザイクランプだった。
水色に青、赤やオレンジの色とりどりの光を放っている。
その近くに紙袋が3つ置かれてあった。
ヒューは紙袋をまとめてつかみ、全部を僕に押し付ける。
紙袋の口から香ばしい匂いがした。パンだ。
ふっとハーブの匂いもした。香草パンなのかなあ。
「裏口から出る。こっちだ」
明かりから遠のくが、不思議とぶつかったりつまずいたりすることはなかった。
ただ、さっきまで判別できていたヒューの背中も暗闇に吸い込まれて見分けがつかない。
それに、歩いている感覚もなくなっていた。
自分が進んでいるのか止まっているのかわからなくなり、芽生えた恐怖を紛らわせるため口を開いた。
「ねえ」
ヒューとそれほど離れているはずがなかった。
それなのに返答もない。気配もだ。
「ねえ……ヒュー?」
屋内だからってこんなに暗いだろうか。
振り向けば、あのランプも入ってきたドアも消えていた。
その瞬間、暗闇によって目隠しをされた感覚に陥った。
奥行きにも限度がある。歩いても歩いても壁に突き当たらない店があるだろうか。
僕は彼を見失い、自分自身も見失ったことに気づいた。
1.1.6
どれくらい茫然としていたかわからなかった。
突然、ふわりとしたものに触れた。
最初、僕はクッションを思い浮かべた。
白くてやわらかな肌触りのいいコットン。
なぜだか懐かしい気持ちになった。
すると、微かにだけれど、真っ暗闇の中に光を思わせる白く淡い靄が見えてきた。
僕の周囲を取り巻いている。
少しずつ、靄はまとまってゆき、ますます白く、ふんわりした綿雲になった。
視野が明瞭になるにつれ、それは両側に列を成していることがわかった。
先頭が見えないくらいどこまでも、どこまでも、長い列が続いている。
綿雲と思ったものは、白い羊だった。羊の群れだ。
気づけば、僕はたくさんの羊に左右を挟まれて歩いていた。
綺麗な螺旋が渦巻く角が幾つも視界に入る。
それに風鳴りがしている。
渦を巻いて吹き荒れる風。きっと、つむじ風だ。
でも、風と思ったものはささやき声だった。軽やかな笑い声もする。
羊の? 羊もしゃべるのか。
そうだよね、仲間同士ならしゃべるだろう。
そう思った途端、羊に見えていたものは人の姿に成り変わった。
あれ? 何だ、羊と見間違えるなんておかしいや。
だって、羊が服を着るはずがないだろう。
彼らはおそろいの白い服を着ていた。制服だろうか。紐靴も白く、足取りは軽い。
顔も手足も髪までも白いが、彼ら自身がぼんやりした光に見えるため、本当に白いかなんてわかりようもなかった。
くすくす、くすくす、くすくす。
笑い声がくすぐったい。
でも、くすぐったいのは笑い声のせいだけではなかった。
彼らは通り過ぎ様に僕の体を撫でていくのだ。
そのせいで、僕は彼らよりゆっくりとしか進むことができなかった。
初めは指にそっと触れた。手を繋ぎたいとでもいう風に。
次に脇を狙ってきた。でも、脇以外にも髪やうなじを撫でるのだ。
肩や背中、腹、さらに下へも手を伸ばす。
服越しとは思えなかった。それくらい敏感なところを撫でていく。
ふざけた調子でささやく声もどこかしら甘く、いやな感じがしなかった。
「迷ったの」
「可愛いね」
「同じ匂いがする」
「好みの感じだ」
「何だか具合がいいよ」
「遊んでいくかい」
「仲間にしようよ」
「それはいい考えだね」
それぞれが異なる声で話しているとわかるのに、そのどれもが同じ声に聞こえた。
はっきりしたり、かすんだりして、決まってどの声も一様に通り過ぎていく。
頭がぼんやりして熱っぽかった。眠りの中を漂っているようだ。
ふわふわ、ふわふわ。
ふわふわ――――どうして僕はこんなところにいるんだっけ。
「ラルフ……」
僕は療養所でできた友だちの名前を零した。
ラルフは今頃どうしているだろう。
白い彼らの中にいると、療養所の清潔なシーツや病衣を思い出した。
甘い声は糖度の高いシロップ薬だ。
毎朝飲むシロップ薬は、成長するにしたがって薬の糖度を下げていく。
こんなに甘いシロップ薬はずっと小さい頃に飲んだきりだ。
昔から僕はすぐ熱を出した。
こんな風に火照ってさ。寝込むことが多かった。
懐かしさを覚えたのは、ここの空気が療養所の雰囲気に似ているせいかもしれなかった。
これは夢なのかなあ。
目が覚めたら、みんな消えていなくなってしまうんだろうか。
彼らと一緒に本物のラルフまでもが消えてしまう気がした。
そんなことありえないと笑ってしまうけれど、胸には不安が広がっていく。
そして、一番の不安を思い出した。
キフィはどこにいるんだろう。どこにもキフィが、いない。
「……キフィに会うために、ここまで来たっていうのに」
今朝の、キスをして出掛けていったキフィの姿が脳裏に蘇った。
僕に安らぎともどかしさを呼び起こす、そんな気持ちも。
いつも、あのまま戻って来ないのではないかと思う。
この感覚をずっと前にも感じたことがある。
あの時、クリーム色の繊細な花が散る中にキフィがいた。
花? 僕は何を言っているんだろう。
そんな花が咲く場所なんて知らなかった。
本当に、これは夢なんだろうか。
頭がこんがらがって上手く考えられなかった。
むずむずして、抑えていたものが飛び出したいとあがいているようだ。
ううん、頭の中じゃないみたいだ。両耳の、まだ上の方。
痛いような、痒いような、もどかしい気持ちだ。
うずいて、うずいて、仕方がないよ。
僕は衝動的に頭をかきむしった。
1.1.7
「いけませんよ。そんなにしたら傷がついてしまいます。そう、手を止めて。
こちらへ戻ってくるのです」
その言葉ではっとした。目を開けていたつもりだった。
飛び込んできたのは、眩いばかりのシャンデリアだった。
瞬きを忘れて、まともにその輝きを受け止めてしまった。
「眩しい……」
そう言うと、正面から伸ばされた手が僕の目の上で庇を作った。
「あ……」
「意識が戻ったようですね。一体、どこから迷い込んだのです?
今日のような日は迷い羊が出やすいといいますが。
いえ、気の昂った狼が牡羊を迷わすと言った方が適切でしょうね」
驚きのせいで、はっきりと耳に届く男の言葉が遠くに聞こえる。
目が慣れてくると、屋内の一角にいることがわかった。
白い彼らはすっかり消えていた。やっぱり夢だったのかあ。
こちらを気遣った男は、僕よりずっと体が大きく、どう見たって年上だった。
長く伸ばした黒髪は艶やかで、通信局員に似た制服を着ている。その制服も黒い。
「……ヒューは?」
どうにか言葉を搾り出す。
アンティークショップでヒューとはぐれたことを思い出した。
目の前のシャンデリアが明るすぎてすぐに気づかなかったが、ここがそのアンティークショップだった。
「ああ、ヒュー君が狼でしたか。この状況ならヒュー君はもうここにはいませんね」
「狼? キフィも、キフィがいるからって……」
「なるほど、君はキフィ君のメリノなのですね。道理で」
どうやらキフィもヒューのことも知っているようだ。ひとり納得している。
メリノというのは〈弟〉の別の呼び名だ。〈兄〉にもサフォークという呼び名がある。
「まったく、説明もなしに綿雪羊の群れへ誘い込んだのですね。
まあ、君を使っておびき出したといったところでしょうか。周到にもこんなものを用意して」
こんなもの、と遣った視線の先には僕の両手に持った紙袋があった。
紙袋は乱雑に破れ、中身のパンや穂付きの小麦、ローズマリーにトウモロコシの残骸が零れ落ちていた。
「綿雪羊の好物ですよ。私が呼び掛けなければ、どうなっていたことか」
男は呆れながらも微笑んでみせる。
わけもわからないが、嵌められたんだと漠然と思った。
でも、その前に今、何かが引っ掛かった。
綿雪羊の群れ……? それに、この声。
「でも、もう大丈夫です。ちゃんとキフィ君の元へ帰してあげますよ。お約束します。ただ、」
何を思ってか、イエロー・アンバーの目が僕を試すように見つめる。
「ただ、このまま帰すと少々困ったことになるでしょう。
帰すのは、君の角をどうにかしてからです」
「……角?」
「そう、角です」
落ち着いて聞いてください、といやにゆっくり口にする。
そばに鏡があった。壁掛けのアンティークミラーだ。
男は指でそちらを見るよう促した。
「綿雪羊の群れに気に入られた者は、歓迎の証として羊の角を持つようになるのです」
僕は促されるままに鏡を見た。
「仲間の印。もしくはマーキングともいいます。今、君の頭にあるものはそういうものです」
そこには確かに羊の角があった。
ひと巻き分の螺旋。太い根元から先へ行くほど細く鋭くなる白い角。
それは、夢の中で最初に目にした白い羊とそっくりの角だった。
1.1.8
僕は言葉が出なかった。
「群れに迷い込み、羊角を生やす者は時折現れるのです」
鏡から目が離せず、そろそろと耳の上の辺りへと手を伸ばす。
「ここには神経が通っているわけではありませんので、
角が生えたとしても切り落とすことはできます」
伸ばした先で、当然のことだが硬質なものに突き当たった。
鏡に映し出された自分と等しく。
「ただし、時間が経てば経つほど同化が進み、切除の際に接合部が痛むのです。
削るにしても体に響く。角を残せば、生来のものでない組織はやがて歪みをもたらします。
ですので、角は早い内に落とすのが常套です。
刃物を使いませんので、出血もなく痛みも生じません」
キフィがこれを見たらなんて言うだろう。
僕らは羊の皮を持つけれど、だからって誰も本物の角を持ってはいない。
「それなら、早く」
「ひとつ、これは体の芯を熱くして、生えたばかりの角を高熱によって落とす方法です」
早いのが一番と言うくせに、男の口調はまどろっこしい。
どうしてこんな風に続けるのだろう。
その謎は次の言葉で解けてしまった。
「熱くするとは『〈星〉を突く』と同義です。ここを刺激して快感の熱を得るのです。
いいのですか?」
そう言って、僕の下腹部を軽く押した。
服の上からであるのに、腹の奥を突かれた気がした。
思わず、変な息が漏れた。
男は合意を求めているのだ。だって、僕には〈兄〉がいるから。
「私は猫ですので兄弟の試みの雲外にあります。その点は安心してください」
慎重を期す理由がわかって顔が火照るのを止められなかった。
「……あ、はい……じゃあ、その、熱く……して、ください……」
「いいのですね。熱くしてくださいとは、君は可愛らしいだけではないのですね」
しっとりした声で言う。
「では、綿雪羊らの悪戯を解いてあげましょう。楽にして、よくしてあげますから」
男は近くのソファに僕を寝かせると、黒い革手袋を口で外し、ポケットへ仕舞った。
自分の指を舐めて濡らし、その指を僕の体へと。
群れの中でくすぐられていた体は十分すぎるほど出来上がっていた。
唇にやわらかなものが重なる。
キフィとは感触が異なり、触れ方は全然違った。
自らを猫と言った男は、指だけでなく、しなやかな体を使って深いところまで突いてくる。
「キフィ君が君を求めるのも頷けます。天然でいて具合よく、感受性の高いメリノです」
星を的確に突かれている。我慢できないくらい、たくさん。
口を押えるけれど、声を堪えきれない。
たちまち快感の波が押し寄せ、頭も体もふわふわした。
微かにジャスミンが香る。
そして、一際大きな熱が生まれると風船が弾けた。
羊角は容易く落ち、渦巻き状の角は温かみのある白色に輝いた。
心地よい余韻の中で、ざらっとした熱源が濡れた部分を甘く刺激する。
「……ああ、これ以上はいけませんね。羊泥棒にならないよう思い留めなくては。
申し遅れましたが、私の名前はバロ。羊角は片方だけいただきます。
この角は良質なインクになりますから、完成したらお見せしますよ。
もう片方は取っておくと何かしら役に立つでしょう」
「あなたが、バロ……今朝の、観測局の」
僕は呼吸を乱して言った。
この男が例の観測局の発信者だったのだ。
「おや、おしゃべりが過ぎたようです。注意報を聞いていたのですね。
もう綿雪羊の群れに迷い込んではいけませんよ。
では、約束ですからキフィ君の元へ送り届けてあげましょう」
言って、僕の頭をやさしく撫でた。
撫でる手も心地よい声も魅力的だったけれど、羊角なんてもうこりごりだ。
今すぐキフィに会いたい。
意識がなくなる前にそう思った。
1.1.9
――――ヴァンタブラック観測局より昨夜の外天情報をお報せします。
綿雪羊の群れは無事通過し、牡羊1名に羊角が発生したものの大事には至りませんでした。
副産物として回収された羊角は、インクの材料に使われる見込みです。
本件は、やわらかな白色の輝きを有し、やさしげな印象から優良個体の産物といえます。
これを微粉末状に砕き、真珠母雲と混合すると、程よい透明感と彩りが生まれます。
さらに、綿実油と牡羊が怯える暗闇を一片加えれば、"White Noise-Ink" の出来上がりです。
インクのラベルにはつむじ風が描かれる模様です。
羊角はつむじ風の別名であり、羊の角のように渦巻く風をいいます。
つむじ風は穏やかな時に突然発生しますので、遭遇を免れた皆様もご用心ください。
なお、本報告は観測局員・バロのレポートより一部を抜粋してお伝えしています――――
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